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U-505 大西洋の脅威となったUボート〜シカゴ科学産業博物館

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さて、今日から新しく、シカゴ科学産業博物館の展示である
ドイツ潜水艦のU-505シリーズを始めたいと思います。


去年の夏の渡米で、ピッツバーグへ直行便が取れなかったのを幸い、
シカゴのオヘア空港で降りて車で五大湖沿いの海事博物館巡りをしました。

先日終了した「シルバーサイズ」もその一環でしたが、
元々はミシガン湖沿いにあるというU-505がこのドライブの第一目的でした。

空港近くのホテルで一泊を過ごし次の朝に早速出発です。

オヘア空港からまっすぐ90号線を南下し、
55号線をミシガン湖方面に向かいます。



Museum of Science and Industry(以下MSI=科学産業博物館)は西半球で最大の科学館です。

「1893年の万国博覧会で唯一残った建物の中にあるMSIは、
シカゴの必見スポットです。

14エーカーの体験型展示を体験し、40フィートの竜巻の前に立ち、
第二次世界大戦のドイツの潜水艦に乗り込み、
人間サイズのハムスターの車輪で走り、イリノイの炭鉱に降り立ち、
エコフレンドリー住宅を見学し、天井からぶら下がっている727に乗り、
13フィートの3D心臓に自分の脈を伝え、さらに多くのことを体験できます。
MCIは静かに歩いて見学するところではありません。
そうではありません。
楽しみながら学ぶことができるのです」
巨大なだけでなく、そこにはありとあらゆる科学博物館の
最先端の体験型展示が一堂に集まっているのです。


MSIのトレードマークは、立方体にデザインされたMSIの文字。

先程のチケット売り場からもおわかりのように、
まだこの頃はCOVID-19の規制があり、平常よりは訪問者も少なめでした。


ここには、U-505の実物がドームの中に収められ、
完全な姿でその全てを観覧することができるのです。

1944年6月4日、一隻のドイツの潜水艦が、
西アフリカ沿岸の海域で、アメリカや連合国の艦船を狙って徘徊していた。
大西洋を恐怖に陥れたUボート艦隊の一員であるこの潜水艦は、
U-505として知られていた。
ホームページはこんな言葉から始まります。

そのU-505を、米海軍の機動部隊が何週間にもわたって追跡していた。
優秀なチームと最新技術にもかかわらず、
機動部隊は捕らえどころのない獲物を突き止めることができなかった。

燃料が少なくなり、苛立った司令官が捜索を中止しようとしたその時、
ソナーに何かが映し出されたもの。

それがドイツ海軍のU-505だったのである。

そして、その艦体は米軍に捕獲され、ここにあるわけですが、
その詳細について語る前に、オープニングの展示を見ていきます。
ちょっと寄り道になりますがお付き合いください。



まず、年代別にドイツとの戦争に関連する新聞記事と
象徴的な写真を見ながら進んでいきます。

●1939年

そこには「開戦」というボストン・グローブのヘッドライン、
その下には、

「ポーランド侵攻」

という文字が見えます。
”戦争への序曲”

第一次世界大戦の終結からわずか20年後、
世界では再び緊張が高まっていました。

ドイツでは、独裁者アドルフ・ヒトラーが権力を握り、
第一次世界大戦敗戦後の制裁を無視して、
オーストリアやチェコスロバキアの一部を大胆に占領していました。

一方、イタリアでは、同じくファシストのムッソリーニが権力を握り、
極東では、日本が中国に攻勢をかけていました。

「ドイツ航空艦隊がポーランドに爆弾を投下:
シレジアで大砲が使用される」

”ポーランドへの攻撃”

1939年9月1日、ドイツはポーランドに壊滅的な奇襲攻撃を開始。
シュトゥーカ(急降下爆撃機)部隊が空から、
パンツァー(戦車)部隊が地上からワルシャワなどに侵攻しました。

フランスとイギリスは、ポーランドを守るため、2日後にドイツに宣戦布告。しかし、ドイツの進撃を止めることはできず、
ポーランドは攻撃開始からわずか2週間余りで陥落しました。

「英国 戦争を宣言」

●1940年

「ナチス陸軍デンマークとノルウェイに侵攻」

”粉々になったヨーロッパ”

1940年、ドイツはブリッツクリーク(電撃戦)と呼ばれる
衝撃的かつ新しい戦術を使ってヨーロッパを引き裂きました。

ドイツ軍の行った「電撃戦」とは、大規模な航空戦力と、
高速移動する地上部隊を組み合わせ、壊滅的な効果を持つ奇襲攻撃です。

戦術は功を奏し、真夏までにデンマーク、ノルウェー、
フランス、ベルギー、ルクセンブルグ、オランダが降伏しました。

”バトル・オブ・ブリテン”

1940年7月、ドイツは英国に「怒りの矛先」を向けました。
最初にドイツのルフトバッフェ(空軍)が英国王立空軍の飛行基地を攻撃。

翌月、ヒットラーは、物資が英国に行き渡らぬよう、
完全なる封鎖作戦を宣言しました。
そしてその後、ロンドンに対する全面爆撃作戦を命じたのです。

1940年9月27日、ドイツ、イタリア、日本が三国同盟を結び、
枢軸国と名を変えた時、ヨーロッパの未来は暗黒と化したのです。

そして、Uボート。

「Uボートが1400名の乗員を乗せた英国船を撃沈!」


「ヒットラーまたしても攻撃す」

「フランスの運命はヒットラーの手中に」

「ナチス、イタリア、日本が新しい戦争協定に参加!」

「ナチス、英国の完全な封鎖を宣言:中立の警告受ける」

「ナチス、ギリシャにブリッツ 市街地に爆撃」

「最寄りの非常口まで歩いてください。決して走ってはいけません」

劇場の中に舞台から煙が立ち込めつつある、つまり戦争が迫っています。
左上の「ウォー・スタンピーダー」という人が、

「急いで!急いで!急いで! 皆早く出て!出て!」

とさけんで「アメリカの安全」と書かれた出口に人を押しやっていますが、
そこには非常口なのに爆弾が見えています。

「スタンピード」とは、「群集心理でドッと逃げ出す」という意味なので、
人々が煽られて逃げ出した先には新たな爆弾がある、つまり
戦争を避けると見せかけて、実はアメリカは戦争に向かわされているのでは?
という当時のジャーナリズムは予想していたわけですね。


「パイロットを引き受ける」

これもアメリカの参戦に向かう姿を皮肉っているのでしょうか。

イギリスの旗をつけた船が沈みそうなので、
指揮官がアメリカの船に移乗し、上から船長が手を差し伸べていますが、
イギリスの見えないところで、船上には煙が上がっています。

「ヒットラー、 バルカン半島を攻撃!
ギリシャとセルビアに侵攻」
「ヒットラーがロシアに宣戦布告」

「三国同盟はアメリカを戦争に近づける
数十億の武器の無駄遣い」
これらのアメリカ国内のジャーナリズムの論調から推察するに、
アメリカ人のほとんどは、アメリカの参戦に不寛容だったことがわかります。

第一次世界大戦で、遠いヨーロッパの戦線に参加して
被害を出したという記憶がまだ生々しく新しいときだったからでしょう。

現に、有名な話ですが、ルーズベルトは、
「皆さんの息子を戦地に送らない」
と選挙で公約して当選したに等しかったのです。
そして、巷間伝わるように、実は戦争を望んでいたルーズベルトが
自縄自縛に陥っていたこの公約を、堂々と破ってもいい
「お題目」「錦の御旗」「大義名分」となったのが、
そう、真珠湾攻撃でした。


●1941年



「戦争!オアフ日本軍機に爆撃さる」

「日本 真珠湾を攻撃 アメリカに宣戦布告
日本の米国に対する返答はホノルル爆撃の12分前に送られた
アンクル・サム(USの擬人化)の舞台は陸海空で戦い、
日本人による基地への侵略を阻止している」

「米国は現在ドイツ・イタリアと戦争中;
日本は全ての地域で戦闘が確認される;
3隻の艦船が沈没、2D戦艦に命中」

「アメリカ 日本に宣戦布告」
「ドイツ、イタリアもアメリカに宣戦布告」


すべては真珠湾をきっかけに、あたかも堰を切ったように始まりました。

それまではあちこちで戦火が上がった状況にもかかわらず、
アメリカは最初の1年半は中立の立場に留まっていました。
しかし、ジャーナリズムが懸念していたように、それは
いつ実戦に移行しても不思議ではない動きを孕んでいたのも事実です。
”レンドリース法とアメリカの中立”

1941年、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトが
レンドリース法(武器貸与法)にサインし、イギリス、ソ連、
中華民国(中国)、フランスやその他の連合国に対して、
基地提供などと引き換えに軍需物資を供給することにしました。
しかし、ヒットラーにとってアメリカの参戦は好ましい事態ではないので、
アメリカ船への攻撃を明確に禁止して暴発を防いでいたのです。

それなのに日本が暴発してアメリカに参戦理由を与えてしまったと。


”真珠湾攻撃に次ぐ開戦”
というわけで、この年の12月7日、日本の航空機と潜水艦が
ハワイの真珠湾にある米海軍基地に壊滅的な奇襲攻撃を行い、
アメリカは翌日、日本に宣戦布告することになります。

そうして、大西洋はもはやアメリカの艦船にとって
安全な場所ではなくなっていくのです。


そして次の展示はその「安全でなくなった大西洋」です。



「大西洋の戦い」として、乗っていた船が沈没し、
波間にただようアメリカ人水夫が現れるのでした。

彼らをこんな目に合わせたのは・・・
そう、Uボートです。

ここからはUボートによる被害が語られます。


というわけで1939年から1942年までの間に、Uボートによって沈没した
アメリカの商船の数が赤い船で表されているコーナーです。

1939年 114隻
1940年 471隻
1941年 432隻
1942年 1,150隻

日本と開戦して以降、ドイツにはアメリカに配慮する必要はなくなったので、
一気に撃沈数が3倍弱にまで増えてしまいまいました。



ヒットラーは英国が切実に欲していた補給船を沈めることで
補給線を断ち飢えさせるという作戦を好み、
これを行うための完璧な武器である、
Unterseeboot(ウンターゼーブート)
通称Uボートを所持していました。

Uボートは海中深くに滑り込み、何の疑いも持っていない商船に忍び寄り、
爆発性の魚雷で彼女らを破壊することができました。

第一次世界大戦においてドイツをほとんど勝利に導く原動力だったものの、
国としては結局勝てなかったその雪辱を、Uボートは
第二次世界大戦序盤で晴らしたと言っても過言ではありません。

”アメリカ艦船がターゲットに”


アメリカに宣戦布告した後、ヒットラーはすぐにUボートに
ターゲットをアメリカの船に変えることを命令しました。

1942年1月、

「パウケンシュラーク作戦」(”ドラムビート作戦”)
を開始したのです。

これは、アメリカ東海岸から100マイル以内まで入り込んだUボートが
民間船に奇襲攻撃をおこなうもので、最初の二週間で25隻、合計20トンの船が海底に沈みました。

さらに、1942年1月から7月の間に、200万トンを超える連合軍の輸送船が
セントローレンス海路からメキシコ湾に展開された
ドイツのUボートの攻撃を受けて沈没しています。


1942年6月19日、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル将軍は
次のように書いています。

1942年の夏の終わりまでに、ドイツのUボート攻撃は、
護衛された船団の数がより多くなり、
連合軍の対潜哨戒隊がより多く動員されると、
それに従って少しずつ衰退し始めた。

しかしながら、それでもUボートは、連合国の商船に
大きな脅威を与え続けていたのである。

イギリスのウィンストン・チャーチル首相は、
アメリカ海域でのUボートの成功が商船の深刻な不足につながり、
アメリカイギリス間の重要な供給ラインを遮断することを恐れていました。
チャーチルはのちに次のように記録しています。
「大西洋の戦いの結果は、戦争中ずっと支配的な要因だった。
陸、海、空の他の場所で起こっているすべてのことが、
最終的にはここでの戦いの結果に左右されるということを、
わたしたちは片時も忘れることができなかった。」

そしてそこで大きな脅威となったのが、Uボートだったのです。



続く。



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