前回までで、アメリカ海軍に捕獲されたU-505について
文字通り概要の紹介を続けて参りました。
今日のコーナーは、U-505が拿捕されバミューダに運ばれてから、
いかにしてここシカゴまでやってきたかに関連する展示です。
ところでパネルの前で一人展示を見ていたご老人が
どうもベテランっぽいので、こっそり後ろ姿を撮らせていただいたのですが、
背中のパッチから、
The national Association of Destroyer Veterans
(国際駆逐艦退役軍人協会)
通称「ティン・カン・セイラーズ」の会員であることがわかりました。
Tin Can Sailorsは1976年に設立された駆逐艦乗りベテランの会で、
駆逐艦の貢献について、一般の人々の理解を深め、
その歴史の普及と保存を目的とし、今日の駆逐艦海軍を支援し、
多くのイベント、雑誌、図書館、ウェブサイト、ソーシャルメディアを通じて、会員相互の親睦を深め、かつてのセイラー同士の再会を促進することを目的に結成された、
非営利の非課税団体ということです。
また、団体としていくつかの歴史的な軍艦の保存に助成金を出しているので、
おそらくこの方はベテランであることもあって、
特別な入場料で(無料かも)入館していると思われます。
U-505がここ科学産業博物館に「戦争記憶」の常設展示として
献呈されたのは、1954年9月25日のことです。
現存する唯一のIX-CタイプのUボート、U-505は、
1989年に「ナショナル・ヒストリック・ランドマーク」に指定されました。
ドイツの戦艦でありながらアメリカの国定史跡になったのです。
そして、このさっくりとした地図を見てお分かりのように、
バミューダにいたU-505は、その後ポーツマスに運ばれ、
そこから五大湖を縫うように曳航されて、ミシガン湖まで辿り着きました。
しかし、ポーツマスからシカゴまでの行程は、距離はもちろんですが、
時間もかなり隔たっていたということを説明せねばなりません。
■ 戦争国債ツァー
ドイツが降伏した直後の1945 年5 月16日、
米軍がU-505を捕獲していたことがアメリカ国民に明らかにされました。
なぜこの時期に早々に発表を行ったかというと、
戦時中は極秘だったため、隠しておくしかなかったU-505を、
大西洋湾岸の7つの港湾都市を米軍の手で航行させて周り、
まだ継続している戦争のためウォーボンド(戦債)を集める
サブスクリプションツァー(引き回しツァーともいう)をするためでした。
戦争公債の販売は、戦争への取り組みを支援し、
財政的投資を行うための取り組みです。
債券は額面の 75% で売却されました。
債券が満期になると、購入者は元の投資の 25% を獲得しました。
購入すればU-505を見学することができたチケットとしての戦時国債です。
赤い字で、
「捕獲されたドイツのUボート#505を訪問するために購入」
と但し書きがされており、日付けは1945年5月で、発行すぐです。
購入者はフィラデルフィアのドロシー・グルーディ夫人。
(おそらく潜水艦乗組員の軍曹の夫人だと思われる)
値段は50ドルとなっています。
当時の50ドルですから結構な金額だったのではないでしょうか。
というわけで、博物館に展示されていた国債関係グッズです。
左:国債財布
複数の債券を整理して持っておくための専用の財布です。
投資をチェックするのに役立ちました。
右上:第7回戦争公債 ツアー チケット - ニューヨーク
U-505 は、東海岸の主要都市を巡る第 7 次戦争公債ツアー中に
ニューヨークに立ち寄っています。
そこでの 1 週間の滞在で1,200 万ドル以上を稼ぎました。
ボートの展示は、特にニューヨークで大成功を収めたため、
ツアーの後半にビッグ・アップルへの 2 回目の訪問が手配されました。
そして2回目も両岸の都市からU-505を一眼見たいと殺到したそうです。
ニューヨークにやってきたU505。
右下:第6回国債ツァーチケット-サウスジャクソンビル
フロリダ州サウスジャクソンビルでも展示される予定でしたが、
結局辿り着くことができず、中止になりました。
国債が払い戻しできるという話は聞いたことがないですが、
この場合はどうなったのでしょうか。
ツァーのために真っ黒にペイントされたU-505。
ボンドツァーでマイアミに帰港。
甲板に整列するのはもちろんアメリカ海軍のクルーです。
マイアミには無事に行けたようなので、
行けなかったのはジャクソンビルだけだったようです。
もしかしたらチケットは振替されたかもしれません。
潜水艦は訪れた各港に約一週間滞在し、好奇心旺盛なアメリカ人が
捕獲されたボートを見学するために何時間も列を作って待ちました。
もちろん入場のために、国債を購入して。
内部の見学のために、ほとんどのアイテムはボートから運び出され、
残ったものは盗られないようにボルトでガチガチに留めてあったそうです。
1945年10月、アナポリスの海軍兵学校にもツァーを行いました。
ちょうどこの期間、兵学校は創立100周年を迎えており、
その記念イベントとして展示されたということです。
このときには日本の降伏で戦争はすでに終わっていました。
すでに「戦争国債」は買わなくてもよくなっていたので、
収益にならない?兵学校での公開ということになったのでしょう。
■ 忘れられたU-505
戦争が終わり、国債稼ぎの「どさ回り」の必要も無くなって、
U-505に関心を向けるアメリカ国民はいなくなりました。
ニューハンプシャー州のポーツマス海軍工廠までやってきて、
ここで係留されたU-505は、何年にもわたって雨晒しに放置されて
日々朽ちていきながら、最終処分を待つ身となりました。
一方、終戦後、戦勝国(といっても英米仏露四カ国)の間で、
無傷で運用中だったUボートに限り分割して分けるという話になります。
その後、技術的なデータ収集が済んだら、艦体については
2年以内にスクラップにするか海に沈めると決められました。
かつてタスクグループ22,3の指揮を執り、U-505捕獲の立役者となったダン・ギャラリーはこのときに少将に昇進していたのですが、
彼はこの規定でU-505がそのうちの1隻となっていることを知ります。
彼は、戦勝国が四カ国で分割する戦勝品としてのUボートに、
戦争中に公海での戦闘で拿捕したU-505はそもそも含まれない、
と、それはもう激しく、この取り決めに異論を唱えました。
彼の主張とはこうです。
「破棄する期限が決められたUボートとは違い、こちらは
戦時中からアメリカ合衆国の所有物になっていたものであり、
従ってアメリカはこれを無期限に所有できるはずである」
まあ、あれだけタスクグループ一丸となって成功した作戦の戦果を、
今更他の戦利品と一緒に沈めるなんて、当事者としては耐え難いですよね。
ギャラリー自身が後に自著、
「海底二千万トン」’Twenty Million Tons under the Sea’
で述べているところによると、
「部下が西アフリカ沖で英雄的な戦いの末得た潜水艦が、
そのような不名誉な終わり方をすることだけは許されない」
と強く思ったのだそうです。
困ったのは海軍省です。
なにしろ今回のようなことの事例がないですからね。
政府官僚は彼の主張に反論する論拠を持たず、また
ギャラリー少将があまりにこの件で大騒ぎしたので(笑)
国としてはU-505の戦利品扱いに同意しないということになりました。
かくしてU-505はしばし延命のチャンスを得たのです。
■ U-505をシカゴで保存?
ダン・ギャラリー少将には、第二次世界大戦中、
第7哨戒航空団とともに大西洋に従軍牧師として出征した、
ジョン・アイルランド・ギャラリー神父という兄弟がいました。
とりあえず廃棄の運命から弟が救ったU-505が
海軍の記念碑として保存されるべきだと考えたジョン神父は、
自分の教区にあるシカゴの科学産業博物館、MSIを訪れ、
このアイデアを博物館のディレクターだった海軍少佐に話したのです。
この話はこのレノックス・ローア少佐にとっては渡りに船でした。
なぜなら・・・これは本当に偶然としか言いようがないのですが、
24年も前から、MSIは、何でもいいから潜水艦を展示したいと考えており、
退役した潜水艦を展示用に回してくれるよう海軍省に依頼していたからです。
もともとこのシカゴ科学産業博物館は、1926年、ユリウス・ローゼンヴァルトというドイツ系の人物の寄付でできたものです。
今も残る最初の建築は、ローゼンヴァルトの故郷である、
ミュンヘンのドイツ博物館を模しています。
そして、最初に展示の目玉として、実物大の炭鉱と、
実際の潜水艦を並べて芝生に展示しようとしていました。
しかし、炭鉱はともかく(それは今も展示されている)、
潜水艦は24年間ついに手に入らないままでした。
そこに持ち込まれたジョン神父の潜水艦持ち込みの話。
アメリカ海軍の潜水艦ではないけれど、アメリカ海軍の健闘の記念であり、
そしてUボートというドイツの技術を展示することは
最初の出資者であるローゼンヴァルトの遺志にも適うのではないか。
さっそくU-505獲得の意思は固まりました。
■ シカゴ到着
博物館はU-505の所有権を取得しました。
MSIの所長、ローアは海軍次官チャールズ・S・トーマスに交渉し、
あっさりとその許可を得ることに成功したのですが、ただし
海軍は移動費用の負担を拒否してきました。
そこで費用の捻出のために博物館が中心となり、
シカゴ市、民間グループが団結して、必要な25万ドルを集めました。
まず、U-505は、曳航の準備として造船会社の乾ドックに入れられ、
そこでタンクに残っている 3 万ガロンの燃料潤滑油、
80トンのバラストがキールから取り外され、
曳航しやすくするために重量は670トンに減らされました。
そしてとりあえず曳航できる程度に耐航性を確保してから、
1954年5月15日についに潜水艦が移動のため動き出し、
ポーツマスからセントローレンス川に進入。
セントローレンス川では28の水門を通過しました。
そしてオンタリオ湖、エリー湖、ヒューロン湖、そしてミシガン湖と、
ミシガン湖沿いのMSIに到着するまで5分の4大湖を走破しました。
その移動総距離は3,000マイル。
そしてミシガン湖沿いにその姿を見せたU-505。
おりしも湖水浴シーズンで賑わう水着の市民の姿と
黒々としたUボートの取り合わせがシュールな写真です。
このビーチは、博物館に隣接する最も近い地点となります。
その後、ボートは浮き乾ドックに置かれ、そこから
コロとレールが敷かれて、特別に作られた鋼製のワゴンに乗せられました。
博物館に隣接する海岸線から湖に突き出した桟橋が建設され、
乾ドックのために 325 フィートの水路が浚渫されました。
浮き乾ドックと潜水艦を見るために人々が集まっています。
子供や赤ちゃんを抱いた母親が見えることから、
手前の一団はおそらく野次馬だろうと思われます。
この作業は縁起が悪いとされる13日の金曜日に行われましたが、
見に訪れた人々は1万5000人に上ったといわれます。
建物を移設する専門家が、U-505をコロで移動することを提案しましたが、
U-505は重量900トンで高さは三階建ての家くらいです。
わずかの距離を移動させるのも、大事業となります。
水路をここまでやってきたU-505ですが、それよりもっと
ここからのわずか800フィート(243m)が困難でした。
とりあえず、博物館の横にある道路、
レイクショアドライブの手前までやってきたU-505。
まだ昼間なので幹線道路はガンガン車が通っています。レイク ショア ドライブ は市内で最も交通量の多い大通りの 1 つでした。
公的事業ではないため、この移動のために舗装を破壊したり、
あるいは何日も交通を遮断するなどということは許されません。
もっとも難関となるこの道路を横切る作業は、
綿密に計画され、深夜から朝までの時間でやりきる必要がありました。
ついにU-505がレイクショア・ドライブを横切る日の夕方、
ギャラリー提督は息子のダニエルギャラリー3世(提督の後ろ)、
プロジェクトエンジニアのセス・グッダー(左端)と記念写真。
「注意して走行してください
潜水艦が横切ります」
この看板はもちろん我らがギャラリー少将の仕業でした。
午後7時には交通をストップさせるので、実質必要なかったと思いますが、
そこをあえてこんなふうに宣伝してしまうのが、
このダン・ギャラリーという人の人間性の楽しいところです。
潜水艦設置についてはいろんなポスターで啓蒙と宣伝が行われた模様。
そして巨大な怪物は横断を開始。
真夜中には車道を半分横切り、翌朝4時15分に車道を乗り越えました。
エンジニアはこの248mの移動のためだけに
精巧なレールとローラーシステムを設計しています。
そして一晩かけて道路を横切り、
博物館の横の芝生までたどり着いたU-505。
博物館の屋根にある「ドイツ風」の悪魔のモニュメントがお迎えです。
実際にこの潜水艦は、パワーウィンチで1フィートずつ移動させました。
そして、ついにMSIの西側の芝生に設られた
コンクリートのクレイドルに設置されたU-505。
レイク・ショア・ドライブは一晩で通過させましたが、
ここからは博物館の敷地であるので、
この状態に持っていくのにはさらに一週間を必要としました。
しかし、彼らのプロジェクトはここからが本番でした。
ボートを本格的で見栄えのする観光名所にするためには、
多くの修復作業が必要となってきます。
多くの軍艦展示がそうであるように、雨晒しにして
朽ちるにまかせるというようなことだけは、
ここまで苦労して潜水艦を運んできたチームにはありえないことでした。
展示する場所の基礎を築く必要があり、付随するすべての展示に説明、
写真、場合によっては動画のフィルムも準備する必要があります。
しかしながら、MSIも、資金がないということにかけては
その他の多くの博物館と同じ事情だったのでした。
続く。