シカゴ科学産業博物館、MSIのU-505関連展示で、
主にタスクフォースのメンバーやギャラリー少将自身、
変わったところではU-505のメンバー自身から寄贈された
グッズなどを前回ご紹介しました。
中には、U-505乗員の同窓会記念グッズなどもあって、
ちょっと驚かされたものですが、実際、MSIでは
何度もU-505関係の「リユニオン」が企画されています。
まず、1954年にU-505がMSIに展示された記念再会。
これは、U-505が捕獲されて10年目にも当たっていました。
その後の再会パーティを列記すると、
1964 年(20 周年記念夕食会)
1974 年(30 周年記念夕食会)
1979 年(再奉献式行事)
1982 年(タスクグループ/U-505クルーの再会)
1994年(50周年記念ディナー)
および2004年(60周年記念ディナー)
微笑ましいというか、なんだかいいなあと思ってしまうのは、
1982年の再会パーティでは、タスクグループとU-505乗組員、
あのとき大西洋で対峙した同士が一堂に会したことです。
しかし、それまでのリユニオンでも、MSIは企画して
ドイツ軍の関係者を招待していました。
1964年の20周年記念の同窓会で撮られた写真です。
甲板の上にスピーチ台が設けられ、
米独の関係者が並んでいて、甲板のこちら側に座っているのは
おそらく海軍の関係者ではないかと思われます。
この出席者の中に、U-505の艦長だったハラルド・ランゲ艦長もいました。
ランゲ艦長は当時 60歳。
彼はアドミラル・ダン・ギャラリーとそこで再会し、
U-505に一緒に乗り込むだけでなく数時間を二人で過ごしたそうです。
甲板にやってきたとき、ランゲは、司令塔に残る銃撃の痕を指摘しました。
かつてアメリカ軍の攻撃で空けられた弾痕が、修復されず、
はっきりと潜水艦に残されていたことに驚いたのかもしれません。
20周年記念パーティのハイライトは、
モーリス・L・ホーナーが率いる米国海軍騎士団シカゴ支部が主催した
MSIでのディナーに先立ち行われた、ランゲ艦長のスピーチでした。
彼は海での戦いについて、彼の思うところをこう語りました。
「レーダーはドイツとアメリカの戦いの流れを変えました。
潜水艦は奇襲攻撃に優れた武器ですが、
その所在が悟られてしまった潜水艦は脆弱な存在になります。
あなた方アメリカ海軍のレーダーは、それをしたのです」
左:タスクグループ司令官、ダン・ギャラリー少将
右:元U-505艦長、ハラルド・ランゲ氏
夜の祝祭が終わろうとするころ、ギャラリー提督は、
潜水艦を捕獲した時に艦内から回収して持っていた、
ランゲ大尉の双眼鏡(ツァイス8×60)を返却しました。
この日から13年後の1967年、ランゲ艦長が亡くなったとき、
彼の妻はドイツのEボート(モーター魚雷艇)アーカイブに
双眼鏡を寄贈したということです。
ですから、MSIのツァイス双眼鏡コレクションの中に、
ランゲ艦長のものだけが欠けています。
1979年、U-505の捕獲30周年の記念のときには、
U-505のランゲ艦長も、アドミラル・ギャラリーも他界していました。
当時の海軍次官補ジョージ A. ピープルズは、この席で、
新しい誘導ミサイル フリゲート艦の 1 隻を、故海軍少将、
ダニエルとフィリップにちなんで「ギャラリー」と命名すると発表しました。
ギャラリー家には彼、ダンを長兄として、
フィリップ、そしてウィリアムという3人の男児がおり、
全員が海軍軍人となって全員が少将になりました。
この式典の時には、存命だったウィリアム・ギャラリー、
そしてU-505をシカゴに展示するアイデアを出した、
彼らの叔父であるジョン・ギャラリー、そして、
フィリップ・ギャラリーの息子、フィリップ・ギャラリーJr.が
中佐となって出席していました。
その後、1983年にウィリアムが亡くなり、「ギャラリー」は
この三兄弟の名前を引き継いだということになりました。
この時の同窓会には、タスクグループの生存者が
15名参加しており、彼らの一部はU-505セレモニーを
全米各地で行うためにツァーを行なっています。
そして、1982年の同窓会では、初めての企画として、
タスクグループのメンバーと、U-505の乗組員が初めて顔を合わせます。
写真は潜水艦の前の参加者で、パッと見てもわかりますが、
左がアメリカ軍の45名で右側がUボートグループ11名となります。
ドイツ軍Uボートチームは、これまでもドイツ人同士で
3回の同窓会を開いていたそうです。
1982年、亡き夫の代わりに同窓会に出席する
フラウ・ランゲ=ランゲ夫人カーラさん。
海を思わせるブルーと紫のドレスに金髪がオシャレなおばあちゃまです。
Uボート組は、乗員が11人、同伴した家族がランゲ夫人を入れて12名で、
全員が妻を帯同していたようです。
それはそうと、彼女が一番先にナイフを入れようとしている
いかにもアメリカンなU-505のケーキの味が気になる。
このとき、Uボートの乗組員が攻撃されていたときのことを
このように語りました。
「ライトが消え、ステアリングを含むすべてが制御不能になりました。
私たちはさらに深く潜りました。
『Anblassen!』(ブローネガティブ)
司令官は叫びました。
ありがたいことに、エアパイプはまだ正常だったため浮上できたのですが、
飛行機が犬の群れのように襲ってきました。
結局2時間海上に浮いていましたが、駆逐艦に救助され、
新しい服、コーヒー、私にとって初めてのタバコを与えられました。
その後、非常にフェアな扱いをされたのですが、
これには非常に感謝しています」
USS「ガダルカナル」の元飛行甲板士官であるジェームズ・ビギンと
ジェームズ・G・サンダースは、Uボートの乗組員がシカゴに来ると聞き、
タスクグループのメンバーだったアメリカ側の退役軍人が参加して
一堂に会することを企画しました。
この同窓会で、博物館長ビクター・ダニロフは、
「戦時中の敵対しあった人々は、今、ここに
過去の記憶と未来への希望を持った平和な時代の友人として戻ってきた」
と歓迎の辞で述べました。
Uボート乗員のシカゴ訪問を企画したのは、
「鋼鉄の船、鉄の心」という本の著者でもある、
(前回紹介した)ハンス・ゲーベラー(マシニストメイト)でした。
「スリルに満ちたイベントでした」
彼は次のように語りました。
もちろんボートの上で再会した元乗組員たちにとっても、
それはノスタルジックな瞬間だったことでしょう。
「わたしたちにとってUボートでの生活は悪くなかった。
数週間の退屈な時間のあとに、人生最悪の恐怖を味わったけれども」
USS「ガダルカナル」のタスクグループ22.3協会は、
1954年以来、年に一度の同窓会を開催してきました。
タスクグループに加わっていた駆逐艦、「ポープ」「ジェンクス」
「フラハティ」「ピルズベリー」「シャトレイン」も、
それぞれ何年にもわたって会合を続けていました。
このとき、米独の元軍人たちは、シカゴ市内で行われた
追悼式に伴う献花式典にも一緒に参加しました。
■ ミシガン湖に没したUC-97
実はU-505はミシガン湖水域に到着した最初のUボートではありません。
1921年6月7日付けの砲艦 USS 「ウィルメット」Wilmette の日誌は、
最後に残った第一次世界大戦のドイツの U ボートを、
ベルサイユ条約の規定に従って、沈没処分にしたことを記録しています。
機雷敷設潜水艦である UC-97 は、1916年に発注され、1918年進水、
1918年9月3日にSM UC-97としてドイツ帝国海軍に就役しました。
完成した他のUC IIIボートと同様に、
UC-97は戦争哨戒を行わず、戦闘を行うこともなかったわけですが、
第一次世界大戦に負けたドイツから他のUボートとともに
アメリカに戦利品として渡ることになりました。
UC-97はSM U-111、117、140、164、SM UB-88とともに、
「元ドイツ潜水艦遠征隊」として大西洋を横断するため、
12人の米国海軍士官と120人の下士官兵が英国から操艦を行いました。
ところで、上に貼った写真なんですが、見覚えありませんか?
そう、このときUC-97の指揮を執ったのは、
のちに潜水艦隊の父と呼ばれることになる、チャールズ・A・ロックウッド。
ロックウッド少将について紹介した時にこの写真を掲載しています。
その後UC-97は、セントローレンス海峡を通り、五大湖に向かいました。
ロックウッド司令官は1919年の夏、オンタリオ湖、エリー湖、
ヒューロン湖、ミシガン湖の各都市に潜水艦を引き回しましたが、
アメリカ人の操艦が「合わなかった」のか、Uボートが拗ねたのか、
だんだん操作に反応しなくなったため、頭に来て
ちょうど建造中だったアメリカの潜水艦、USS R-25(SS-102)に乗り換え
ドイツの潜水艦の方はほっぽらかして乗り捨てました。
乗り捨てられる前のUC-97
UC-97はシカゴの湖畔のグラントパークで見せ物になっていましたが、
休戦条約の条項による、ドイツ軍戦闘艦の破壊義務期日が来てしまったので、
ミシガン湖に曳航されて標的処分にされることになりました。
曳航される前に全ての武装、推進機器、道具が取り外されてから
1921年6月7日、UC-97は、USS「ウィルメット」の
15分間、4インチ(10cm)砲からの18発の砲撃で沈みました。
UC-97の残骸は現在まだはっきりと特定されていないそうです。
■ U-505関連グッズ(続き)
前回に続き、パネル右半分のU-505グッズを紹介しましょう。
【Uボート スコアボード】
この「スコアボード」は、USS 「ガダルカナル」のブリッジに
かつてペイントされていた部分です。
第二次世界大戦中、「ガダルカナル」は、
J-544、U-515、U-68 を撃沈し、U-505 を拿捕しました。
2隻だった頃(右側のペイントは何処へ)
その後の U-170 の損傷は反映されていません。
【大統領府表彰ペナントとピン】
「ガダルカナル」を旗艦とするタスクグループ 22.3 は、
U-505 の劇的な捕獲に成功したことで、
大統領表彰状 (PUC) を授与されました。
タスクグループの6隻の艦には、それぞれ、
その栄誉を称えるためのペナントが与えられ、すべての乗組員は、
制服にペナントと同じ色のリボンを着用することも許可されていました。
旗の右上に見えている旗と同じカラーのピンは、
USS「ピルズベリー」の三等機関兵が付けていたPUCピンです。
USS「ガダルカナル」はこのPUC ペナントを掲げていましたが、
ダニエル V. ギャラリー提督が後に博物館に寄贈しました。
煙突の後ろにあって常に風で靡いていたため、
ひどく汚れていて、ほつれてしまっていますが、
他の旗と違って替えがなかったので仕方ありません。
【ダニエル・ギャラリーの卒業軍刀】
ダニエル・ギャラリー少将が、1921年6月3日、
海軍兵学校を卒業した際、授与された儀礼刀。
とそのようにされているのですが、別の資料によると、
ギャラリーは1920年のオリンピックにレスリングで出るために
19歳で1920年に卒業したという記録もあります。
卓越した統率と飛行士官としての実績で少将にまでなった人物なので
兵学校の成績も悪くなかったのかもしれませんが、
帝国海軍の兵学校のように、上位3人だけが剣を受け取れる、
というシステムはアメリカにはなかったと思われます。
■アメリカ士官学校でオンラインカンニング大発生
ところで余談ですが、アメリカの士官学校について調べていたら、
コロナになってオンラインで試験を受けるようになって、士官候補生の大規模なカンニングが発覚したそうです。
2021年の8月、米海軍兵学校(アナポリス)は、
不正が認められた18人を退学処分にしたと発表しました。
新型コロナウイルスの対策として一般物理学の試験を
オンライン方式で実施したのですが、
「士官候補生が外部資料にアクセスしながら試験を受けた」
との可能性が浮上したため、海軍は直ちに
士官候補生全員のウェブサイト閲覧履歴(試験期間中)を調査して
「105人の士官候補生が試験中に不正なリソースへのアクセスを行っていた」
(可能性が高い)として、18名が追放、82人が留年して
名誉回復プログラムを受けることで学校に残れることになったそうです。
まあでも、残れることになったとしても、
おそらく今後の海軍生活では昇進はほぼ絶望的だろうから、
やめて別の道を模索したほうがいいのかもしれないですねー。
しかもこれ、海軍だけにあらず。米陸軍士官学校でも昨年末の試験で
70人以上の士官候補生がカンニングを行ったことが発覚、
同年1月には
米空軍士官学校でも249人の士官候補生がカンニングの疑い、
つまり三軍すべてオンラインの闇落ちした学生続出と。
今後、従来の教官監視の下で行う紙の試験に戻すか、
監視ソフトを導入することを検討しているということですが、
アップルやGoogleなどもテック系ですら、
リモートワークの期間、皆働かなくなって業績が落ちたというし、
なんというか、人って・・・どうしても易きに流れる弱いものなんですね。
続く。