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「光と影」勲章受賞と最後の哨戒〜シカゴ科学産業博物艦 U-505展示

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シカゴ科学産業博物艦MSIに展示されているU-505にまつわる話、
今日はこの件に関わったアメリカとドイツ関係者たちについてです。

■ タスクグループメンバーの受勲



Uボートを捕獲したギャラリー司令率いるタスクグループは、USS「ガダルカナル」を旗艦とする任務群全体が、
大統領部隊表彰を受けた他、際立った働きをした個人は
その功績に対し、国から特別に戦功賞などを授けられました。
これは、U-505 の拿捕に参加したUSS「ガダルカナル」のパイロットたち。

殊勲飛行十字章が二人、ブロンズスターが一人、
彼らに勲章を授け、正体不明の士官と握手しているのは
アルバート C. リード少将 (USN、ノーフォークの艦隊航空司令官) 。

アドミラル ・リード自身は、1919 年 5 月に海軍の水上飛行機 NC-4 で
大西洋横断飛行を完了した最初のパイロットとして知られており、
当ブログでもその壮挙については紹介済みです。


右から2番目がリード



つまりリードが叙勲しているのは、U-505を航空攻撃したチームです。

右側のメダルは、全て一人の航空士官が受け取ったものです。
ワイルドキャットのパイロット、ジョン・ケイドル少尉は、
その日、上空からU-505を発見し、
潜水艦の位置を艦隊に知らせるために銃をまず発射。

U-505が浮上すると、1,600発分の弾薬を撃ち込み、
これでUボート乗組員は総員退艦を余儀なくされました。



左から:

名誉勲章
海軍十字賞
シルバースター賞
レジオン・オブ・メリット勲章
航空十字賞
いずれもこのときタスクグループのメンバーが授与され、
その後、家族(ほとんは遺族)によってMSIに寄贈されたものばかりです。



個人で最も価値のある賞を与えられたのは、
潜水艦に乗り込む部隊を率いたアルバート・L・デビッド中尉でしょう。



デビッド中尉は、U-505に実際に乗り込んだ最初の士官です。
沈没を食い止め、その多大なる功績に対し、名誉勲章を授与されました。


作戦総司令官のダニエル V. ギャラリー大尉は功労勲章を授与され、
アール・トロシーノ中佐はレジオン・オブ・ メリットを授与されました。



ところで、確か、暴れるUボートに飛び乗ったのって、
士官じゃなくて下士官か兵でしたよね?

確か「ピルズベリー」の乗組隊の誰かだったはず。
もちろん彼らは彼らで何かしら賞をもらっているのですが、
士官とは勲章の種類が違うようです。
そして「ピルズベリー」乗組員で組織された潜水艦乗り込み隊のメンバーは、
特に働きのあった者にネイビークロス(海軍十字賞)が与えられました。



U-505のハッチを隊長に続いて2番目に降りていった、
スタンレー・ウドウィアク2等兵の海軍十字賞。

彼は通信士だったので、司令部との連絡を取るため
最初に乗り組んでいったということで、リボンの色も特別となります。


乗り込み隊メンバーは全員が海軍十字賞を授与しました。

右側のゼノン・ルコシウス(ギリシャ系?)1等機関兵は、
U-505の沈没装置を素早く止めて浸水を防いだ功労者です。


フィリップ・ノーマン・トゥルシェイム操舵手は、
ホエールボート(人員輸送ボート)の操舵を行い、
Uボートに横付けして、乗り込み隊が移乗する支援を行いました。

舵が壊れて右回転し続けるUボートに、
ホエールボートから縄をかけて飛び乗るというような危険なことも、
この時の操舵が卓越していたからこそ成功したということです。



乗り込み隊メンバー、リヤンドー2等電気技術兵。



同じく、1等砲兵チェスター・モカースキー。

■ ダニエル・ヴィンセント・ギャラリー海軍少将



USS「ガダルカナル」(CVE60)艦長
ハンターキラータスクグループ22.3司令官

1901 年7月10日、イリノイ州シカゴ生まれ。

海軍兵学校での士官候補生時代は、レスリングチームの一員であり、
卒業後は、1920年のオリンピックベルギーのアントワープ大会に
米国代表として出場しています。(そのために早く卒業したという噂も)


1927 年に海軍航空隊に志願してウィングマークを獲得し、
第二次世界大戦が始まると、アイスランドの哨戒機分遣隊の指揮官になり、
北大西洋の護送船団の護衛任務を行います。


アイスランドのレイキャビク基地にて、イギリス軍将校と共に
彼がUボートの生捕りを考え始めたのはこの頃だったとか


そしてその次に就いた任務が、「ベビー・フラットトップ」
=軽空母、USS 「ガダルカナル」 (CVE-60) の艦長職でした。


この人事によって、彼はアメリカ海軍史で1815 年以来、初めて、
敵の海軍艦艇に海上での乗り込みに続き捕獲した指揮官となりました。

1945年にはUSS「ハンコック」(CV-19)の艦長として
東京湾での日本の降伏調印典に出席しています。

1951年からは第6航空母艦師団の司令官として
USS「コーラル・シー」((CVB-43、後に CVA-43) に旗を掲げ、
1952年3月21 日にハンターキラー フォースの司令官になりました。

その後彼は海軍航空予備訓練司令部、五大湖の第9海軍管区、
第10海軍管区の司令官などを務め、私生活では
ラテンアメリカのリトルリーグベースボールのコミッショナーを務め、
(趣味は野球と執筆)
ドラム缶で作られた楽器を演奏するバンド、

第10海軍地区スティールバンド
「アドミラル・ダンのパンデマニアックス」

の主催者でもありました。

スティールバンドは、ギャラリー提督がプエルトリコに駐在していた機関、
亜熱帯の土地での余暇の産物としてうまれました。

飛行士官だったギャラリー少将は、単座ジェット機を含む
あらゆる種類の海軍航空機で 6,000 時間以上の飛行時間を記録し、
海軍が特別資格のある計器パイロットに発行した
「グリーンカード」の保持者でした。

執筆が趣味で何冊もの自伝など海軍ものを著す一方、
ユーモア短編なども書いていたということです。

そして、1977年1月16日に逝去しました。


■ U-505最後の哨戒



「ギャラリー/ランゲ劇場」
と書かれ、二人の指揮官の顔写真が掲げられたパネルの裏では
文字通り二人の艦長に焦点を当てたビデオが上映されています。


前回、1964年、初めて米独関係者が一堂に会する機会が持たれ、
そこでランゲ艦長がスピーチを行ったという話を取り上げましたが、
まさにそのときのスピーチ映像なども上映されているのです。



さて、ここでU-505の航跡について話しておきましょう。

1943年12月21日、U-505はロリアンを出港しましたが、
複数の水中聴音器のケーブル引き込み口に漏れがあったため、
すぐに港に戻ることを余儀なくされました。

修理が行われ、U-505 はクリスマスの日に再び出航しました。

ボートがビスケー湾を通過し、大雨と荒れ狂う海に遭遇したとき、
ハイドロフォンのオペレーターは遠くの爆発音を拾いました。
イギリス軍とドイツ軍の間で水上戦闘が行われていたのです。

英海軍の巡洋艦 HMS 「グラスゴー」と HMS「エンタープライズ」が
ドイツの魚雷艇を攻撃しており、駆逐艦は
「アルスターファー」 (封鎖ランナー) を護衛していました。
このときドイツ海軍は駆逐艦227と魚雷艇T25および T26を失っています。

これに対しランゲ艦長は、司令部から生存者の救出を命じられました。

12月29日、U-505は現場に到着し、生存者を引き取りましたが、
多くは、ディーゼル燃料と海水を飲み込んでおり、
大西洋の冷たい海で漂流したため、半数に減っていました。
救助した人員を乗せたことで、ボートの乗員はそれまでの2倍になり、
しかもその多くが船酔いで嘔吐したりして、
もうU-505の艦内は阿鼻叫喚の巷と化したのですが、
救助活動が成功したことで、U-505乗員の士気は決して下がりませんでした。

U-505 は第5水雷戦隊の本拠地であるブレストに向かいました。

救助作戦に成功したということで、基地には
高官とブラスバンドが彼らを出迎えるために待っていました。

映画「Uボート」のラストシーンを思い出しますね。

そして、あの映画ではブラスバンド演奏中、
敵機編隊がやってきて、ラストにとんでもないことになるわけですが、
U-505にとっても、あっと驚くどんでん返しが起こります。


救助して収容していた魚雷艇の乗員が、潜水艦を出るため
登っていた梯子を踏み外して落ちたのです。

それだけならまだしも、下にいた操舵中の操舵手に体が当たり、
ボートはそのせいで迎えの人々の眼前でコンクリート壁に衝突。

ボートはシャフトが破損する事故になってしまったのです。

新しいシャフトはボルドーから取り寄せなくてはならず、
U-505はまたもや修理に2ヶ月かかってしまいます。

「呪われたボート」「不運なボート」

U-505がそう呼ばれたのは、前艦長の自殺に続いて、偶然に
このような不可抗力の事故が相次いだからでもあります。


結局U-505がブレストを出向したのは、3ヶ月後の1944年3月16日でした。

作戦範囲は、アフリカ西海岸のフリータウンへの海上進入路でした。
これがU-505の最後の哨戒となります。

ボートは1 か月強でフリータウン沖に到達し、そこで沿岸地域を哨戒し、
標的を求めて港に入ったりしましたが、1 隻の船も見当たらず、
5 月下旬にブレストに戻ることを決めました。

しかしそのとき、ランゲ艦長はある予感を持っていました。

北上を始めると、連合軍の航空機が継続的に現れるため、
多くの時間を潜水に費やさなければなりませんでした。

浮上ができないとバッテリーを充電することはできず、
水面にいる時間が長ければ長いほど危険が増していきます。

常に敵が空域をカバーしていることから見て、
ランゲはボートがハンターキラー集団に囲まれていると感じました。

ランゲはアフリカ大陸に向けて東に向かうことで
連合軍から離れようと考えました。
そして日中、充電するためにできるだけ水面を航走しました。

航走中、外気を楽しむU-505乗員(見張り一人)

ランゲ艦長は、敵が、まさかUボートが発見される危険を冒すほど
愚かであるとは思うまい、と裏をかいたつもりだったと思われます。

彼の考えはある意味正しかったのですが、結果として選択したコースは
アメリカのタスクフォース22.3と接触することになりました。

敵の目を避けてU-505はひたすら潜航と隙を見ての航走を繰り返しました。

出発して二週間つづく緊張と不快に耐え続ける日々に、
このときの乗組員のほぼ全員が頭痛、発熱、風邪を発症していました。



続く。



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