シカゴの科学産業博物館に展示されているU-505に焦点を当てています。
就役式でエルンスト・ウォルフ少将Vizeadmiral Ernst Wolf の演説に続き、
初めて海軍旗が掲揚されたときのU-505。
この時に掲揚された実物が博物館に展示されています。
■大西洋での戦争
U-505 は、おそらくアドルフ・ヒトラーの潜水艦サービス
(こう言う言い方をアメリカ人は好む)で、
最も不運な U ボートの 1 つでした。
最初の 1、2 回の哨戒でこそそのような兆候は見られませんでしたが、
その後の数か月に渡り、彼女は不運に見舞われ続けます。
初代艦長 アクセル・オラフ・ロエヴェ
まず、最初の艦長は、虫垂炎のために哨戒を中断しなければなりませんでした。
二代め艦長の指揮下では、ボートは連合軍の空襲により大きな損傷を受け、
何ヶ月にもわたる造船所の修理が必要になりました。
不可解な機器の誤動作 (明らかに破壊工作の結果であると思われるものもある)
により、その後の哨戒が大幅に短縮されたため、
U-505と二代目艦長は海軍内で軽蔑の対象になりました。
二代目艦長 ペーター・ツェッヒ中尉
そのせいで二代目艦長のメンタルは打ち砕かれ、
結局、敵の爆雷攻撃中に司令塔で自殺してしまいます。
しかも、これらのできごとはすべて、アメリカ海軍の任務群が
西アフリカ沖でU-505を捕獲するという最悪の出来事より
ずっと前に起こっていたのです。
1944年、インド洋を哨戒中のU-181 (タイプ IXD2)
日本の制海域で運用されたすべてのドイツの U ボートと同様、
ボートは司令塔の両側に卍を記しています。
これは、艦橋前面の白いペンキと前甲板の白い横縞とともに、
同盟国の U ボートであることを日本の飛行士に示すためのものでした。
Uボートの艦長がグリッド参照に使用する英国水域の二乗チャート
チャートに示されているように、U-505 はバルト海のキールから、カイザー・ヴィルヘルム海峡を通って北海に出て、イングランドを回り、
占領下のフランスのビスケー湾にあるロリアンに向かいました。
■ U-505最後の哨戒
1943年11 月18 日、U-505 の新しい指揮官として、
ハラルド・ランゲ中尉が着任しました。
ランゲは経験豊富な海の男でした。
本業は商船士官で、第二次世界大戦の初めに掃海艇や哨戒艇に乗務した後、
1941 年、U ボート任務に転向しました。
潜水艦の訓練と指揮官のプログラムを修了した彼は、U-505艦長着任前に、
U-180の当直士官、ついで指揮官代理を務めました。
41歳にしてそのリーダーシップと人的手腕を買われた彼は、
一連の、士気を打ち砕く出来事によってトラウマを負ったボートと、
その乗組員を引き継ぐために、特別に指揮官に選ばれたのでした。
U-505の士官たちと。
乗組員が彼の穏やかで安定した統率に反応するのにそう時間はかからず、
新艦長はすぐに彼らの尊敬と忠誠心を獲得しました。
ところでこの冒頭に挙げた絵ですが、捕獲から数日後に描かれました。
つまり、ランゲが艦長になってからのU-505です。
ロエヴェ艦長時代には、司令塔前方に甲板砲を装備していましたが、
この時砲は司令塔後方に移動しています。
U-505がその後アメリカ海軍のハンターキラー任務群22.3に捕捉され、
経験豊富なランゲは、敵に囲まれているらしいことを察知して
舵を東にとり、アフリカ大陸に近づこうとした、
というところまで前回お話ししたわけですが、
ここでU-505のある乗組員が付けていた日記を紹介します。
全部紹介するのは冗長かと思ったのですが、これは
私が現地で買い付けた「U-505」という本の中にあったもので、
おそらく日本人が今後どんな媒体でも目にする機会はないだろうと判断し、
全てを省略せずに翻訳しておくことにしました。
14日目
基地を出発して今日で14日。
この期間、僕たちは空も太陽も見ていない。
ゆっくりと日々が過ぎていく。
敵機の脅威が最大の危険なエリア、ビスケー湾をついに通過する。
新鮮な空気を吸ってバッテリーを充電する時間はほとんどなく、潜航ばかり。
この3日間は、荒れた海(レベル3-6)高いうねりと強い風。
食器が艦内を飛び交い、脱出用呼吸装置が頭に当たりそうになったので、
このような状態なら潜航している方がずっと安心だ。
僕はプリンやりんごのコンポートなどのスイーツを食べていたが、
奇跡的に体内に残っていた(戻さなかったという意味)。
要するに僕達の祖先はみな船乗りだったってことか。
4月1日
今夜、水面を走っている間、海は非常に荒れていた。(レベル6-7)
ボートは、水深7〜20mでも揺れたりがぶったりする。
無線室に座って(というか立って)機器を監視し、
敵がこちらを探知しているかどうかの心配をするのは
はっきり言ってとても面倒な作業だ。
現在、120度南西に舵をとっている。
温暖な気候の気配がすでに感じられてきたが、
数日後に赤道を越えるとどうなるのだろう。
4月3日
今日はお母さんの誕生日。
今12時半、ちょうどカツレツを頬張ったところだが、
もし海上を航走していたらうまく食べられなかっただろう。
お母さんは今日何を食べましたか?
ちゃんとした誕生日ディナーを食べられていますように。
グリューネ・クロッセ(ドイツの特別料理、じゃがいもの団子)とか。
Grune Klosse
今日は焼きたてのロールパンが一人3個配られたので
僕はお母さんの誕生日を祝ってそれを頂きました。
僕が注文しておいたお花は配達されましたか?
この二晩というもの、ずっと海面を走っていたが、
波が荒くて本当に何も食べられなかった。
昼と夜が逆転してしまったので昼食抜きになってしまうし。
正午になるとボートは潜航し、自動的に「夜中」になる。
目の前に迫る荒れた海のせいで、我々の任務は遅々として進まない。
毎日12時間は航走しているが、活動地域にも到達していない。アメリカに向かうのかアフリカに向かうのかもわからない。
この謎は二、三日以内に無線で指示を受け取れば解けるはず。
復活祭の日曜日 2100
コーヒーブレイクを終えたところだ。
プラムのケーキが復活祭を祝うために配られた。
日曜日とはいえ、少し緊張感が漂う雰囲気だ。
将校と上級下士官は、ペストリーと一緒にバタークリームを食べていた。
他の戦闘哨戒中のUボートも似たようなものだろうと思う。
3日前、U-123と合流した。
哨戒を終えて帰るところだったので、家族への手紙をことづかってくれた。
この二日というもの、我々の警報受信機が壊れていて対応に追われている。
1日が終わる頃には修理に4時間近く費やしたせいで汗だらけだ。
ここ数日は180度の針路を進んでいて、海が落ち着いたのはいいが
その分暑さがひどくなってきた。
4月14日
基地を離れて今日で4週間。
ありがたいことに後3ヶ月残っている。
今日、我々はワイヤレスで活動エリアを割り当てられた。
西アフリカのゴールドコーストだ。
カーボベルデ 諸島がちょうど横にある状態で、針路210度をとる。
残念ながら、これ以上赤道に近づく予定はなさそうだ。
ネプチューンが我々にに慈悲を示さなかったことは確かだが、
僕個人としては、赤道超えの儀式を体験してみたかったな。
幸いなことに、警報受信機を4晩かかって修理することができた。
ここのところ配給が大幅に節約されて、ソーセージなしで3晩とか(怒)
管理係は、支給期間はトータル17週分だというが、
我々はたった14週分しかもらっていないと文句を言う。
こんなだから「哀れなUボートシュバイン(豚)」なんて呼ばれるんだな。
昨日この哨戒中に海上航走200時間を記録した。
4月15日
全く静か。コース240度。
無線で軍の状況報告の一部をキャッチし、ドイツ中部への空襲について聞く。
うちが無事ですように。
我々の位置は北14、作戦地域に到達するまであと10日だ。
海の状態: 3-3
4月25日
活動地域到着、ここまで来るのに5週間かかった。
ボートの劣化がまたしても問題になってきた。
魚雷発射管のハッチが一つちゃんと閉まらない。
しかし、問題は今のうち起こっておいてくれないと困る。
昨日は、エコーサウンダーが故障した。これも運命か。
それを修理し、新しいネオンライトニングチューブを取り付けた。
ここ数日、今や我々は熱帯の暑さを「楽しんで」いる。
誰もが自由にスポーツを楽しむバンクでは、
すべてがかいた汗でずぶ濡れになるまで数分もあれば十分だ。
水温は29℃で艦内の温度は35℃から40℃くらい、
でもまだまだこんなものじゃないだろう。
熱すぎて脱皮したいくらいだ!
4月30日
暑さに耐えられなくて何も書く気が起きない。
ボート内ではできるだけ無駄に動かないようにしている。
したがって、ほとんどの時間をびしょ濡れの寝台で過ごす。
一昨日、最初の汽船を目撃した。
非常に迅速に迎撃作戦が実行された後、
(船はクリスマスツリーのように燃え盛った)
それが中立のポルトガル船だったことが判明した。
5月3日
一昨日、基地を出てから二度目の日光を潜望鏡を通して垣間見た。
それは素晴らしい日だった。
慣れない明るさに目が痛い。
北緯3度に達し、赤道までわずか200海里だが、そこには行かない。
代わりに、通過する汽船を捕食するために海岸近くをうろうろする。
残念ながら、あのポルトガル船を除いて獲物はなし。
ちょうど今、調査するために潜望鏡深度まで上がってきたが、艦長が
『二匹小さなサメがいるから、
見たい人はブリッジに来るように』
と艦内放送をした。
僕も覗いてみたが、なぜか2センチ砲に二匹の可愛いサメくんが
ふらふらとただ乗りを楽しんでいるのが見えた。
なんて素敵な気晴らしだったことか!
5月7日~哨戒中盤!
数分前、COが哨戒の半分が完了したと放送した。
彼は、この海域を海岸沿いに哨戒して敵の船が現れるのを待つのは
決して簡単ではないと強調していた。
一昨日、激しい雷雨に遭遇。
艦橋はすべての通信機器のスイッチを切るように命じ、ほぼ即座にCOは、
ワッチの主任通信士に、ズボンを脱いで司令塔に上がるよう命じた。
夜22 時から30分間、このパトロールで初めて司令塔の外に立った。
アフリカの新鮮で湿った空気を吸い込み、雨で体を洗い流した。
なんという饗宴!
パトロールは現在終了。
14 日後、我々は活動地域を離れ、家路に就く。
5月12日
再び海岸近くに行く。
月明かりに照らされた夜の間に、我々はさらに冒険した。
一昨日、潜望鏡深度で走っているときに汽船を見つける。
側面速度で攻撃しようと夜が明けてから水面に出て魚雷を撃ったが、
残念ながら駆逐艦かそれ以上の何かによって水中に押し込まれた。
僕はというと、親指の炎症が腫れてしまっているので、
多分これは針で穴を開けないとダメだと思う。
5月15日
今朝 0100 に状況報告を無線で送信。
信号は良好な強度で受信された。
アフリカ西海岸とドイツの間の距離を考えれば、悪くない。
Uボートの送信機がいかに小さいかを考えると。
クラッシュダイブ中に金属製の人工呼吸器で頭皮を裂いてしまった。
まあ、こういうこともあるさ。
帰国まであと6日。
ということは、6月末または7月初旬に到着するかな。
5月19日
艦内の暑さはもうたまらない。
書いているうちに体から汗が噴き出している。
無線室では、38℃を下回ることはない。
濁って悪臭を放つ空気は、すべてをさらに悪化させていく。
慰めは1つだけ。あと5〜6日すれば気温が下がること。
明後日、我々は帰路に着く。
5月23日
今日、やっと家路につくことができた。
しかし0400頃に警報器が鳴り潜航。
1時間半後に再び浮上したがまたすぐにレーダーを拾い再び潜航。
その後: 2 つの音響コンタクト。
おそらく駆逐艦と哨戒艇で構成されたハンターキラーグループだろう。
潜望鏡深度。
スクリュー音は1時間後に消えた。
トランジットを継続する。
5月30日
ウィットンタイドの休暇をともかくも幸せに過ごした。
乗組員の1 人がパン職人としての才能を証明し、
僕たち一人一人に小さなケーキを作ってくれたのだった。
彼は空のブリキ缶を焼き型として利用していた。
休日といっても海での毎日とほとんど変わらない。
ラジオも、レコードプレーヤーの音楽も、照明も、
ついでに空気もほとんどなく、今日は特に憂鬱な日だった。
夕方の時間帯に浮上してから数分以内に、レーダー感知。
再び潜るしかなく、そのルーチンを4回繰り返す。
最終的に水面に残り、対空砲を配置した。
しばらくすると、2 回目のレーダー感知があり再び水没。
おそらく、航空機と連携して活動している水上対潜グループだ。
今、我々は一般的には行われていないと思われることを試してみた。
どういうことかというと、海岸から約100海里の距離で、
真昼間に浮上し、30分間、堂々と東に航行したのだ。
しかし発見されなかった。
敵はまさかこんなことをすると思っていなかったのだろう。
COは明日一日潜航を継続し、明後日短時間再び浮上するつもりらしい。
そのために空気と電気を節約中だ。
非番の乗組員は全員寝台に閉じ込められている。
それでも、最後の数時間は息が切れるだろう。
4~5週間で帰国できるということだけが心の支えだ。
長い間ご無沙汰の緑の森や庭園の光景を再び見る日が待ちきれない。
6月4日日曜日
午前11時。潜航。
我々が最悪の事態を乗り越えることを願うしかない。
今日は水面で 4 時間過ごしたが、明日は一晩中浮上を目指す。
ここ数日は空気を節約しなければならなかった。
なぜなら浮上してもたった数分でまた潜らねばならなかったから。
四日で10回のコンタクトは多すぎないか。
我々の現在位置は北緯22°。
これまで綴ってきた物語は6月4 日の午前 11 時に終了する。
同日の正午、ハイドロフォンのオペレーターがかすかな水中音を拾い、
ランゲ艦長はボートを潜望鏡の深さまで運んだ。
司令塔の潜望鏡をゆっくりと上げていくと、遠くに駆逐艦と空母が見えた。
彼はスコープを叩きつけ、「デストロイヤー!」と叫んだ。
そしてすぐさま急速潜航を命じた。
潜航すると同時に、 T5 音響魚雷を艦尾管から遠くの空母に向けて発射した。
その後ランゲ艦長はデコイを放ったが、
爆雷がボートの周りですでに爆発し始めていて、手遅れだった。
全ては秒の間に起こった。
後部魚雷室が浸水してコントロールを失い、
ボートはすぐに海水で満たされて最大深度を超えていった。
U-505はもはや闇の深海に沈む運命にあるように見えた。
ランゲ艦長は、彼の乗組員を救うたった一つの方法を知っていた。
それはボートを浮上させることだった。
彼が命令をくだすと、U-505 はゆっくりと浮上し始めた。
ボートが水面を破るやいなや、
米国の空母と護衛駆逐艦からの砲撃の雹に遭遇することになった。
日記はここまでとなっています。
6月4日の攻撃でU-505は捕獲されたのですが、
最後の部分がいつ書かれたかはわかっていません。
米軍の攻撃のところで記述がストップしていることから考えて、
彼はこれを書き終えると艦長の総員退艦命令に従い、
ノートを置いてボートを後にしたのでしょう。
彼はそのとき、これまで書きつけてきたさまざまな出来事が
Uボートの自沈と共に海の底に消えていくと考えたかもしれませんが、
ところがどっこい、アメリカ軍はそれを許しませんでした。
沈みゆくUボートに飛び乗り、爆破装置を食い止めて、
艦体と内部に、乗組員が置いていったものを全て確保したのです。
彼の日記もその中にありました。
続く。