「成層圏への高みを目指した」ピカール夫妻のゴンドラについては
当ブログのスミソニアンシリーズでご紹介済みですが、
ここにそのゴンドラ実物が展示されていたのでもう一度取り上げます。
■ ピカールのゴンドラ
1933年にシカゴで開催された博覧会「進歩の世紀」で、
ジャン・ピカールと彼のチームが世界高度記録の更新に挑みました。
そしてゴンドラは「人類最大のドラマ」の中心的存在でした。
この歴史的な試みを見ようと5万人の観客が集まりましたが、
バルブの漏れが原因で1度目の飛行は失敗に終わります。
しかし1933年、2度目の飛行で、18.665キロの世界高度記録を更新し、
アメリカ人初の成層圏への突入を果たしました。
そして、ピカールの妻ジャネットは、
女性初の成層圏到達記録を樹立することになります。
ジャンとジャネット
MSIのピカールゴンドラ説明パネルの「決め台詞」は、
”The stratosphere is the superhighway
of future intercontinental transport."「成層圏は将来の大陸間輸送における
スーパーハイウェイです」
このジャン・ピカールの予想は正確ではないもののある意味当たっています。
大陸間の輸送を海運に頼っていたこの頃、
もし高高度まで荷物を運ぶ技術さえ生まれれば、
それまでにはなかった超高速での輸送が可能になるからです。
今は、垂直に高みを目指さなくとも、飛行機、ジェット機による輸送が
スーパーハイウェイとして機能しているのを見れば、
彼の予言が正しかったことがお分かりでしょう。
ピカール家は探検家一家でした。
双子の兄弟、オーギュストとジャン・ピカールは、
1884年にスイスで生まれ、
科学、工学、発明に興味を持ちながら成長しました。
オーギュストは、大気圏上層部の宇宙線に興味を持ち、
宇宙線を測定するために高高度まで上昇できる
球形の加圧式アルミニウム製ゴンドラを設計しました。
1931年、オーギュストと助手のポール・キプファーは
試作したゴンドラでドイツのアウグスブルクを飛び立ち、
高度51,775フィートを記録し、人類初の成層圏突入者となります。
それは17時間かけた世界史の転換点でした。
【航空機による成層圏への挑戦】
以前にも書いたように、成層圏を目指したのは
ピカール兄弟だけではありません。
1930年代初頭になるまで、世界中のパイロットが
高高度での人間や飛行機の耐久性の限界に挑戦していました。
1930年6月4日にアポロ・スーチェク海軍少将(最終)が
水上機で達成した43,166フィート(13,157m)、
1932年9月16日にイギリスのシリル・ユーインズ(Cyril F. Uwins)
が出した43,976フィート(13.404m)、
1934年4月12日にレッジア・アウロナウティカ(イタリア空軍)の
レナート・ドナーティ中佐(当時40歳)が
アルファロメオのエンジンを積んだカプロニで47,572フィート(14.500)
と記録を出していきました。
ちなみに、レナート中佐の記録達成の翌年、
イタリアの女流飛行家カリーナ・ネグローネ侯爵夫人が
同じカプローニCa.113で女性の新記録12.403mを樹立しています。
Aeronautica Militare - Carina Negrone, un record al femminile - 1935
侯爵夫人でありながら空軍で航空の訓練を受けた
最初のイタリア人女性として有名なのだそうです。
ネグローネ侯爵夫人が搭乗するシーンを見てもわかるように、
酸素のない高高度にオープンコクピットで飛んだ当時、
生命維持装置を開発しなければ成層圏への達成はあり得ないとして、生命維持のための与圧キャビンや可変ピッチプロペラ、
薄い空気の中で飛行するための新設計のエンジン
(ターボコンプレッサーやスーパーチャージャー)など、
さまざまな革新が必要であることを、関係者は重々理解していました。
それが理解されるまでの期間、何人かが同時に成層圏にチャレンジし、
その結果何人もが事故で命を失っていきました。
【ピカール気球の時代】
ご存知のように、当初は、飛行機よりも高高度に達するための
「ストラトスタット」(成層圏気球)を打ち上げる記録で、
いうたら平和的な競争が展開されていました。
この成層圏レースを最初に始めたのが、オーギュスト・ピカールでした。
スイス人で、ブリュッセル大学の物理学教授であり、
ガンマ線の研究専門家でもありました。
彼が助手と記録を打ち立てた最初の気球飛行ミッションの科学的目的は、
宇宙線の観測と測定(性質、強度、動き)、
空気の化学分析と気温の記録というありふれたものでした。
しかし、この飛行は、SF小説のようなドラマと危険に満ちていました。
(何しろ世界初ですから)
ゴンドラを格納庫から発射場まで小さな線路で慎重に運ぶ様子、
夜遅くまで射場を照らす巨大な投光器、
射場に詰めかけた大勢の作業員と観客、英雄として帰還するパイロットたち、
カプセルにイニシャルを入れるファンたちなど・・・。
残されている映像は、まるでそのものが映画のようです。
球体ゴンドラはピカールのユニークな発明でありましたが、
これは後の成層圏ゴンドラの原型となり、
さらには数年後のスプートニク宇宙船を先取りしていました。
機体はアルミニウムと錫を溶接した直径3.5mの気密性の高いボールで、
ビールの貯蔵に使われる密閉桶の技術を応用しています。
ピカールは、このボールに純酸素ディスペンサーと
二酸化炭素を浄化するための再循環システムを備えました。
可燃性の高い水素ガスを50万立方フィート注入した気球は、
内部のガスが太陽の光で温められ、完全に膨張すると、
時速20マイルのスピードで上昇します。
発射すぐは気球の形状は洋ナシ型で、上空に行くと丸くなりましたが、
これはピカールの言葉を借りれば「完全な球体」であり、
日没後に見える朝の星、金星そっくりで、
現に何人かの観測者はこれをピカールの機体と混同していました。
最初の飛行は何度も失敗の危機に瀕しました。
音響測定器も入らない1インチほどの穴から酸素が漏れ、
なんとか苦心して塞いだものの、上昇するときになって貴重な空気が
「ヒューヒュー」と出ていくのをただ見ているしかありません。
また、モーターが故障して、ゴンドラは太陽の熱を避けることができず、
内部の温度は40℃にまで上がったため、
その熱でゴムのジョイントが曲がり、さらに空気が抜けていきます。
気球を安全に降下させるためには、夕日が沈むまで待って
気温が下がってから注意深く行うしかありませんでした。
気球を操縦中のピカール(スーツ着用)
しかしピカールは、このときのことを日誌にこう記しています。
”午後12時12分、人類の記録が更新された。
. . 私たちは激しく苦しんでいる。
さらに水素を放出する。"
メディアは「人類が到達した地球からの最長距離」
を打ち立てたピカールの偉業を誇らしげに報じました。
成層圏に到達し、生還した最初の人類がここにいる、と。
このとき、ピカールは文字通り "世界の屋根を上げた "といえます。
彼はこの旅の日記にこう書いています。
"青い空の上をに上昇すると、その向こうに世界が見え、
妖精のように青く美しい霞がかかったようだった"。
アメリカ、ヨーロッパ、ロシアのメディアは、
「ピカールの成層圏気球は地球の曲率を超えて劇的に上昇し、
古くからある宇宙からの流星に匹敵する、人間の手による初めての上昇」
だと報じ、アメリカ人はピカールの偉業から
「成層圏を意識する」ことを知らされました。
彼はある意味この時代の地球人にとって新大陸を発見したようなものです。
このため、彼のキャッチフレーズは、
「気球のサンタ・マリア号(コロンブスの船)に乗った成層圏のコロンブス」
とされました。
彼の発見した新大陸は、人類が到達しうると証明された
「宇宙の空白」、「神秘の冷たい王国」に他ならず、そこから地球を測量し、
宇宙線を探索し、人間の耐久力の限界を試すことができるようになるのです。
それは、来るべき成層圏ロケットや宇宙ロケットが
無限の高さにまで上昇することへの序曲でした。
ところで、成層圏への挑戦では、何年か前にロシアの「宇宙の父」と言われる
コンスタンチン・ツィオルコフスキーが時代の先を読んでいましたが、
この時点では、ロシアはそこから大きく遅れをとっていました。
ここから後に、ソビエト・ロシアが宇宙を目指すため
国家の総力を上げたのは、西側諸国と肩を並べるために
成層圏の極限の高みに到達する必要があったからで、
その根源にはツィオルコフスキーがいたからだとする説も存在します。
1932年から33年にかけての冬、
「成層圏ブーム」の最初の頂点にいたピカールは、
シカゴの「進歩の世紀」展に参加し、人類の進歩の頂点として、
アメリカの成層圏登頂がまだ続くと紹介されました。
彼は、高高度まで飛行したストラトスタットのキャビンを
「正確に再現」し、舷窓から頭をのぞかせる写真を持参し、また、
成層圏ロケットを発明したと主張して群衆に畏敬の念を抱かせました。
しかしながら、ピカールの偉業と自慢・・・というか自己満足は、
あっという間にロシアとアメリカの成層圏ロケットに追い越されました。
【米ソ宇宙戦争の先駆けとしての気球戦争】
すでに米ソは呑気な気球などの時代から、
後の「宇宙戦争」を予感させる国際的な
「成層圏への競争」を熾烈に繰り広げつつあったのです。
両国の広報担当者は、
「ソ連の辞書には『不可能』という言葉はない!」
「アメリカの成層圏は、『成層圏の謎を解こうとする人間の試みの中で
最も素晴らしいものを象徴する、300フィートの高さの感嘆符』だ!」
などと相手を牽制し自慢し合いながら、この競争を切磋琢磨していました。
両国とも、宣伝や広報のために気球を公然と利用しましたが、
当初はお互いよりもピカールを視野においた競争でした。
1933年9月30日、ソ連空軍は、ストラトスタットSSSRを打ち上げました。
ピカールの改良版ゴンドラでピカールの記録を抜いたのです。
その後も成層圏を目指す挑戦は続き、ソ連からは
何人もの挑戦者が「空の勝利者」となりました。
ソ連の広報は成層圏飛行士を未来の宇宙飛行士として称え、
「彼らはさらに高く、"世界の屋根 "を築いた。
彼らは新しい「垂直のリンドバーグ」である。
彼らは、ツィオルコフスキーの「惑星的」な夢を実現したのである。
「地球の6分の1の耕作から全宇宙の耕作へ、
これがわがボリシェヴィキの未来の創造の道である」
と高らかに謳いました。
方やアメリカも負けずに、1933年11月20日、
アメリカ海軍のT・G・W・セトル中佐と海兵隊のフォードニー少佐が
オハイオ州アクロンにおける挑戦で61,237フィートに達し、
ロシアに約542フィートの差をつけて世界記録を作ります。
セトル中佐とフォードニー少佐の気球
そしてさらにその1年後、ここに展示されている
「センチュリー・オブ・プログレス」を操縦して、
オーギュスト・ピカールの双子の弟ジャンと、
成層圏に到達した最初の女性である彼の妻ジャネットが、
興奮したヘンリー・フォードに手を振って祝福されて
フォード飛行基地を出発しました。
気球は、エリー湖、サンダスキー、クリーブランド、アクロン上空を飛行し、高度10.9マイルに達して無事着陸しました。
ところで、ソ連にとって、西側との競争は自分たちとの競争でもありました。
国内では国策プロジェクトである
ストラトスタットSSSR、
レニングラードのセルゲイ・キーロフの支援による「民間」プロジェクト、
そしてオソアビアヒム1(ソ連の防衛と航空化学産業を支援する会)
が三つ巴となって鎬を削っていたのです。
1934年1月30日、夜空で最も明るい星を意味する
「シリウス」というコールサインで、飛び立ったばかりの
オソアヴィアヒム1号の機体は、高度21キロに達しましたが、
翌日墜落事故を起こし、乗組員は全員死亡しました。
墜落の原因について、高すぎる上昇と急激な下降の後、
設計や構造の不備によりゴンドラが気球から外れ、
地上に墜落したと結論づけられました。
メディアと国内は飛行士たちを称賛し、ある詩人は
彼らは「神秘的な距離」と「素晴らしい高さ」に、
"誰も行ったことのない距離 "に到達した
として、3人を「宇宙の底知れぬ深み」を目指し、
文字通り「アメリカ大陸よりも新しい世界」を発見した、
一種の惑星間旅行者として描くことで賛辞をささげました。
【ピカール夫妻と気球】
一方、ジャンは1931年にシカゴ大学で教えるために渡米し、
当時有機化学の修士課程にいた
ジャネット・リドロンと出会って結婚しました。
ここでもお話ししたことのある海軍のセトル少佐が
成層圏に挑戦し、高度記録を達成した後、
ピカール夫妻はこの気球で成層圏に挑戦しました。
1)密閉された球形のキャビン
その表面全体に機械的応力を均等に分散させました。
2)酸素供給システム
乗員が高高度で普通に呼吸することを可能にしました。
3)気球エンベロープ
成層圏への上昇中に完全に膨張することができるように
典型的な熱気球より大きくなっています。
ピカール・ゴンドラの3回目、そして最後の飛行が行われたのは1934年。
10月23日の朝、ジャンとジャネット、そしてペットの亀、
フルール・ド・リは、ミシガン州のフォード空港を離陸し、
成層圏へ向けて飛び立ちました。
歴史的な挑戦の日のピカール夫妻
この飛行で、ジャネットは人類史上初めて成層圏に達し、
最も高高度に達したという記録を保持することになります。
ワレンチナ・テレシコワ少佐が宇宙に達するまでその記録は破られませんでした。
その後ピカール・ゴンドラは1935年に科学産業博物館に引き取られ、
現在も交通ギャラリーに展示されています。
と、ここには書いてあるわけですが、
あれ?
それじゃスミソニアンにあった”あれ”は、
本物じゃなかったってこと?
続く。