第二次世界大戦中、ヨーロッパで爆撃任務を行ったB-17で
戦後最も有名になったメンフィス・ベルのコーナーから、
戦債ツァーに参加したメンバーを順番に紹介してきました。
今日は戦闘配置の一番最後の後部砲塔砲手についてです。
まず後部銃手の戦闘態勢。
後部銃手シート。
ニーパッドに膝を乗せ、前部に防護板のついたシートに座ります。
座ったところ。
あまり大きな人は配置に就けないかもしれません。
What was it like being a Tail Gunner on B17 Flying Fortress?
■ テール・ガンナー、 ジョン・クィンラン
(幸運の)蹄鉄を持って撃墜した敵機マークを指差すクィンラン
メンフィス・ベルの機長ボブ・モーガン大尉は、ジョン・クインランに
"Our Lucky Horseshoe"(俺らのラッキー蹄鉄)
とあだ名をつけ、他のクルーは 彼を"The Chief "と呼んでいました。
ちなみに爆撃機では乗組員は機長のことを「チーフ」と呼びますが、
彼の場合はそれにTheがついているというわけです。
世には、その人物がいると悪いことが起こらなさそうな、
運の強そうな人物というのがいるものですが、彼の場合それに加えて
いかにもチーフ然とした貫禄があったのかもしれません。
ジョン・クインランは1919年、ニューヨーク州ヨンカーズ生まれ。
父親は衛生局に勤め、母親は養鶏場を営んでいましたが、
彼が子供の頃に父親が他界してしまいます。
公立高校を卒業し、軍隊に入隊を決めた彼が
バッファローのリクルート事務所に並んだのは、真珠湾攻撃の次の日でした。
「どんなことでも参加したかったんだ」
いくつかのテストを受けて、航空隊に入ることになった彼は、
基礎訓練のためにセントルイスに送られましたが、
次から次へとやってくる若い男たちの数に圧倒され、
自分が入隊するまでに戦争は終わってしまうのではないかと心配したそうです。
戦争は終わりませんでしたが、セントルイスのキャンプで
恐ろしい髄膜炎が流行し、新兵たちは避難することになります。
マクディル・フィールド送られた彼は爆撃機乗組員を任命されご機嫌でした。
「地獄から抜け出して天国に行ったような気分だったよ。
太陽の光、白くて美しい砂浜。
セントルイスでの寒くて雨の多い冬、病気ばかりしていたのに、
フロリダにはおいしい食事もあった」。
その後航空整備士の資格を取り、砲術の研修を受けた彼は
最終訓練のためワシントン州ワラワラへ移動しました。
指導軍曹は、嫌がらせなのかなんなのか、
どんなに短くしてもクィンランの髪が短いと口うるさくいうので、
彼は髪を全部剃ってツルツルにしてしまったこともあります。
「それから彼のところに行き、敬礼して帽子を脱いだ。
僕の頭はピカピカで、彼の目が見えなくなるほどだった」。
彼が当時乗っていたのはウィリアム・ヒル中尉の爆撃機でした。
この名前を覚えているでしょうか。
訓練で彼の機が山の斜面に墜落し、中尉含む乗員全員が死亡したことを。
1942年7月15日、ヒルはクインランに言いました。
『この飛行では砲手は必要ない。
副操縦士、ナビゲーター、爆撃手、無線手だけだ。
今日は休んでいい』。
その日の夕方、事故のことを知らなかった彼が基地を歩いていると、
別の飛行機の仲間が彼の姿を見て目を見開いて言いました。
「なんてこった、おまえ死んだんじゃなかったのか」
乗機を失った彼は、ロバート・K・モーガンという
別の若いパイロットのクルーと飛行機に再指定され、尾翼砲手になります。
「尾翼からはなんでも見えるんです。
編隊から脱落した仲間が被弾する。
するとドイツ軍の戦闘機が狼の群れのように襲いかかるのを。
彼らはいつも、弱った飛行機に間違いなく群がるんだ。
爆撃機に乗っていた連中には知り合いも多かったから、
彼らを助けられないのは本当に悔しかった。
その後、彼らが襲ってくると撃ちたくなる。
仲間を殺されたから殺したくなる。
撃っても撃ってもくるのを止められないからイライラするんだ。
僕は打ち続けた。すべて正しいことをしていると信じて。
正しく誘導し、正しく銃を撃ったつもりだ。
でも、奴らは来るんだ。次から次へと来続けた。
頭を撃ち抜かれたと思ったこともあった。
銃を撃つには、前屈みになって照準器に顔を当てなければならないんだが、
ある瞬間、発砲を止め、背もたれにもたれかかった瞬間、
弾丸が僕の前の空間を通過したんだ。
次に顔に何か湿ったものが伝うのを感じた。
手を伸ばすと、血がついていた。
おかしなことなんだけど、頭の反対側に血がついてないか、
手を伸ばして触ってみた。
弾は私に当たっていなかった。
プレキシグラスの破片が当たって血がついたんだ。
かすり傷一つ負っていなかった。
もしあの瞬間まだ前傾姿勢で射撃していたら、
弾丸はまっすぐ頭を貫通していただろう』。
乗るはずだった飛行機の墜落を免れ、一瞬の動きで弾を避け、
これはかれがいかに強運だったかというエピソードです。
■ イギリスに(勝手に)宣戦布告した夜
クィンランという名前は、典型的なアイリッシュネームです。
イギリスとアイルランドは、併合以来独立をめぐって対立しており、
(我々日本人にはピンときませんが)問題はまだ解決していません。
わたしの知人の夫は、全くそっち問題とは関係ないカナダ出身なのに、
たまたまIRAの重要人物だかテロリストだかと同姓同名であるため、
(といっても、日本人名なら山田正男みたいなありがちな名前)
イギリスに入国する時には毎回えらい大変なことになるそうで、
現在進行形で大変なんだなーと思ったことがあります。
このときイギリスに駐屯していた航空部隊にもう一人アイルランド系がいて、
そのマクドナルドという男は、まさにその
アイルランド共和国軍(IRA)のシンパだったのですが、ある晩、
ロンドンで酔っ払い、路上で汚い四文字熟語を叫びまくって、
二人でイギリスと国王陛下に「宣戦布告」したのでした。
「出てきて戦え!」
気持ちよく「一人宣戦布告」していると?肩に手を置かれた気がしました。
「見上げたら、見たこともないような大きなボビー(英国警察官)だった。
たとえどんな大きな奴だったとしても、その時の僕は、
相手の出方次第では構わず殴りかかっていたと思う。
でも、その人はとても優しくて、まるで父親のようにこう言った。、
『お前たち・・・もう十分だろ?』。
ぼくたちはまるで子犬のように素直に彼について行った・・・・」。
B-17「メンフィス・ベル」の尾部砲手として、
クインラン軍曹は空中戦で2機の敵機を撃墜したと記録されており、
さらに宣戦布告した当の国王陛下の謁見も受けています。
25回のミッション終了後、英国王夫妻の謁見を受けるクィンラン
(映画「メンフィス・ベル:フライングフォートレスの物語」より9
■ B-29で日本本土攻撃
その後、彼は帰国後の戦争債券ツアーを完了し、
B-29スーパーフォートレスの尾部銃手として訓練を開始します。
B-29での空中戦でさらに彼は3機の敵機を破壊し、
第二次世界大戦中に合計5機の敵機撃破に貢献しました。
そして1944年12月7日、彼のB-29は満州上空で撃墜されました。
彼はベイルアウトして一旦捕虜になりそうになったあと、脱出し、
中国ゲリラと行動を共にして日本兵と直接戦闘することになりました。
空中戦ではなく、相手の見える地上での銃撃戦です。
「ライフルを支給されたので、何度か日本兵を撃ちました。
向こうでは、思い出したくないようなことをたくさん見ましたよ。
一つ言っておくと、ゲリラたちは皆’人殺し’でした。
中にはまだ15歳の子もいたが、彼らは命をなんとも思っていなかったな。
僕はガリガリに痩せ細り、犬を食べることもありました」
行軍の途中、中国人の村に連れて行かれ、
そこで愛国的なスピーチをさせられたこともありました。
「ただただ無意味なことを適当に、汚い言葉を並べ立てて喋る。
通訳が群衆に何かを伝えると、滑稽にもみんなが歓声を上げるんだ」
彼のスピーチ以上に、通訳もおそらくはデタラメであり、
村人たちはさらに何もわかっていなかったのでしょう。
ある日、B-25が着陸し、クインランを乗せてインドの米軍基地まで運び、
彼を基地に下ろすとまたすぐ飛び立って行きました。
彼を始めアメリカ軍兵士たちは中国人にもらったゲリラの制服を着て、
そこにぼーっと立っていたら、アメリカ人将校が近づいてきて、
「炭を買ってきてくれ」
と中国語で用事を言いつけるのです。彼が英語で自分はアメリカ軍パイロットだというと、
将校は驚いてその時初めて彼の顔をまともに見ました。
彼はその後アメリカまで送還されることになります。
■ 戦後
1945年に名誉除隊したクインランは、故郷に帰って、
彼のことをずっと待っていた同級生の女の子ジュリアと結婚しました。
戦後彼は建設業者として働き、6人の子供と甥を育て、
1980年に引退した彼は、生涯を通じてメンフィス・ベルのクルーの中で最も色彩豊かなメンバーと言われました。
映画「メンフィス・ベル」で後部銃手役を務めたハリー・コニックJr.は
この写真では後列でサングラスをして一人で立っています。
当時クィンランは生存していましたが、撮影現場には行かなかったようです。
ジョン・クインランは2000年12月18日に亡くなり、
3年後に後を追うように亡くなった妻と一緒の墓地で眠っています。
「敵機の撃った弾丸がわたしのいた小さな区画を通過した。
もしわたしがまだ前傾姿勢だったら弾丸は頭を貫通していただろう」
ジョン・クィンラン
テイル・ガンナー
続く。