オハイオにある国立空軍博物館の展示より、
B-十七爆撃機メンフィス・ベルにまつわることをご紹介するシリーズ、
メンフィス・ベルに関わった人々を紹介してきましたが、いきなり興味深い単語を見つけたので余談に突入します。
■余談・トーキョータンク
上部砲塔砲手は技術軍曹が兼ねる、と言う話をしたことがありますが、
飛行中の燃料のマネージメントも技術軍曹が責任者となります。
これはB-17の燃料タンクの配置図となります。
翼の片側にエンジンが2基ある訳ですが、それぞれがタンクを持ちます。
(212と213のグレーとブルーのタンク)
そのタンクに充填するには翼端のトーキョータンクからフィーダータンクへ、
そしてエンジンタンクに送られるのですが、まあそういう操作をするのも
技術軍曹の責任という訳です。
この「トーキョータンク」が日本人としては気になってしまうでしょ?
というわけで、余談としてこれを説明します。
Tokyo Tanks、それは、ボーイングB-17スーパーフォートレスと、
コンソリデーテッドB-24リベレーター爆撃機が搭載していた
自己密閉式の燃料タンクの名称です。
なぜ東京なのかですが、要はB-17の航続距離(戦闘錘で約40%増)が
東京まで飛べるほど長い、ということをいいたかったのだと思われます。
実際は第二次世界大戦中、日本を爆撃できる航続距離を持つB-17は
(少なくとも米軍の基地からは)存在しなかったという点では誇張でした。
トーキョータンクは、セルと呼ばれるゴム状の化合物でできた
18個の取り外し可能な容器で構成されており、
飛行機の翼の内側に片側9個ずつ設置されていました。
(図のオレンジ5と黄色4のセル)
タンクは、2つの翼の接合部(荷重を支える部分)の両側に設置されており、
合計容量270USガロン(1,000L)の5つのセルは、翼に並んで置かれ、
エンジンに燃料を供給するメインタンクと燃料ラインでつながっています。
トーキョータンクは、すでに6つの通常翼タンクに搭載された
1,700米ガロン(6,400 L)と、爆弾倉に搭載可能な補助タンクに搭載可能な
820米ガロン(3,100 L)に加え、1,080米ガロン(4,100 L)の燃料を追加し、
合計で3,600米ガロン(14,000 L)の搭載を可能にしました。
タンクは取り外し可能でしたが、主翼パネルを取り外さなければならないので
日頃は取り外したり点検することはありませんでした。
燃料をセルからエンジンタンクに移すには、爆弾倉内の制御弁を開き、
燃料が重力で排出されるようにしますが、これが技術軍曹の仕事です。
タンクの欠点は、セル内の燃料残量を測定する手段がなかったことです。
「だいたいどれくらい残っているか」を把握するのも、
おそらくは技術軍曹のカンに頼っていたかもしれません。
さて、というわけで、皆が専門性のある配置で課せられた任務に邁進する中、
技術軍曹はその全てを把握して全体の調整ができる能力が問われます。
オールラウンドな調整役、トラブルシューターといったところでしょうか。
以前、上部銃手兼フライトエンジニアとして乗り組んだ二人に触れました。
実は上部銃手として一定期間乗り込んだのは3人いて、
前回の二人は「すぐに(怪我で)リタイアした人」と、
帰国後の国債ツァーに参加した人、ということになります。
もう一人の上部銃手は、メンフィス・ベルの最初のメンバーです。
■ 最初の上部銃手、レヴィ・ディロン
例によって少し老け気味の写真しかこの人には残っていません。
レヴィティカス・ディロンLeviticus 'Levi' Dillon は1919年7月15日、
ヴァージニア州フランクリン郡ギルズ・クリークで生まれました。
「レヴィクティカス」という本名は通名「レヴィ」となり、
これからお気づきのようにディロン家はユダヤ系だったことがわかります。
日本語では「レビ記」といったりするヘブライ聖書の言語が
まさにこの「レヴィティカス」なのです。
彼の両親、ギリアムとジュディには、レヴィの他に
アヴィ、アイダ、ジョン、ルビーの兄妹がいました。
高校を卒業後、陸軍航空隊に入隊したディロンは、
一等兵としてマクディルの第91爆撃グループでB-17の訓練を受け、
1942年航空機関士兼航空砲手として戦闘任務に就くことを許可され、
同時に二等軍曹に昇進し、メンフィス・ベルに乗り組みました。
つまり彼はベルの最初の上部砲手として、
最初の5回の戦闘任務のうち4回を飛行したということになります。
一回抜けているのは、彼がサン・ナゼールを爆撃する
3回目のミッションで負傷したからで、
それは公式記録には残りませんでしたが、
彼はこのことでメンフィス・ベルで最初に負傷した乗組員となります。
■ベル初の負傷者
それではその怪我について、ご本人に語っていただきましょう。
「敵機の機関銃の弾丸が私のいた砲塔上部を貫通し、右大腿部に命中した。
熱い火かき棒のような感触で、私の飛行服に火がついた。
ヴェリニス大尉(副機長)がやってきて、火を消してくれた。
それから救急箱を持ってきて、私のスーツを切り開き、
傷口に包帯を巻いて止血してくれた。
深い傷ではないように見えたし、ちょっとした怪我だと思っていた。
基地に着陸したとき、病院に行って手当てをするように言われたけど、
リバティバス(乗員のシャトルバス)に乗り込んでいるのが見えたから、
リバティに乗り遅れたくなくて何も考えずに飛び乗ったんだ。」
上部砲塔はエポキシガラスなので、狙われた場合、
最も簡単に銃弾を通してしまいます。
弾丸が命中して火がついたのがわかっていて、病院に行かないっていうのは
ちょっと感覚が麻痺しすぎていないかと思うのですが・・。
続きです。
「その日の夜、バーでビールを飲んでいたら」
弾が当たったのにビール飲むな。
「誰かが私の足を見て『おい、血が出てるぞ!』と言った。
見ると、案の定、血が足を伝っていた」
さすがの彼もケンブリッジにある赤十字の救護所に行きました。
そこで彼は忘れられない体験をします。
救護所で彼の傷の手当てをしてくれたのは、フレッド・アステア
(ハリウッドの映画スター)の姉のアデル・アステアだったのです。
■ アデル・アステア
アデル・アステア
フレッド・アステアについては説明するまでもないでしょう。(ないよね?)
人類史上で最も燕尾服の似合うラッキョウ系ダンサー&俳優&歌手です。
彼女は9歳でダンサー、ボードビル芸人としてデビューし、
3歳下の弟のフレッド・アステアとともに舞台で成功を収めていました。
ブロードウェイ時代、弟とのペア、アデル21歳、フレッド18歳
ブロードウェイや映画で27年活動をした後、彼女は
芸能活動を通して知り合ったイギリスの貴族、
チャールズ・アーサー・フランシス・キャベンディッシュ卿と結婚し、
芸能活動から惜しまれながらもあっさりと引退してしまいました。
キャベンディッシュ卿がニューヨークのJ.P.モルガン社に就職した時
再会したのが縁だったそうです。
外交的で美しく、機知に富みエレガントな立ち居振る舞いの彼女は、
イギリス紳士に大人気で、プリンス・オブ・ウェールズや
ウィンストン・チャーチルとも交友を持っていました。
結婚後はチャールズがアルコール依存症となり、
アデルはその介護のため自分も鬱を発症したりしています。
1942年、戦争が始まって、アデルがノブレスオブリージュとして
国に貢献する方法を探していたとき、ロンドンに駐在していた
アメリカ空軍情報部長のキングマン・ダグラス大佐に出会いました。
ダグラス大佐(ちなイエール大学卒)
ダグラス大佐は、はアデルに、ピカデリー・サーカス近くにある
アメリカ赤十字の「レインボー・コーナー」食堂で働くことを提案します。
彼女はそこで兵士のために、1週間に130通もの手紙の代筆をしてやったり、
兵士たちのコンシェルジュのような係を務めたり、時には彼らとダンスを踊り、
ロンドン滞在中は兵士たちの必需品の買い物を手伝ったりしました。
ブリッツ(ロンドン電撃戦)が始まると、彼女は勤務時間を増やし、
週7日レインボー・コーナーで奉仕をしました。
レヴィ・ディロンの傷の手当てを行ったのも、この頃のことだと思われます。
救護所にいたというのはディロンの勘違いで、
医師免許がなくてもできる程度の傷の手当ては
レインボー・コーナーでも行われていたのではないでしょうか。
彼女は多くの兵士たちから感謝されましたが、そのことは
彼女自身に新たな目的と充実感を与えるものとなり、
個人的な困難に対処する助けとなったのは間違いありません。
1944年3月、チャールズは長期にわたるアルコール中毒の結果、
わずか38歳で亡くなり、アデルは3年後、ダグラスと再婚します。
ダグラスは最終的には少佐で退役しますが、
陸軍の情報将校だったことから戦後の新しいCIA創設に尽力しました。
1950年からはCIA次長を務めたほどの「大物」です。
■濡れ衣で降格処分
ベル5回目、ディロンにとって4回目のミッションの後、
彼の名前はクルーリストから消えることになります。
何が起こったのでしょうか。
「大勢が自由行動に出ていて、基地に戻る途中のこと、
ゲートでちょっとした騒ぎがありました。
一人の中尉が下士官の腕を掴んで、こいつに上着を破かれたと言いましてね。
彼らが我々のうち何人かを身元確認のため呼び戻した時、
中尉はなんでか僕を指差して、
「こいつがやった」
と言ったので驚きました。
そもそも僕は彼とは知り合いでもなんでもなかったし。後から犯人は判明したのですが、僕は黙っていました。」
ディロンは降格させられ、第306爆撃グループに移動しました。
その後の彼の軍歴などはわかりません。
■ 最初の上部砲塔砲手 ユージーン・アドキンス
老けてないか?と思ったけど実は少佐の時
ユージーン・アドキンスは基礎訓練の後マクディルに配属され、
学生士官候補生の訓練プログラムに参加して、その後幹部候補生になりました。
そこではベルの機長ボブ・モーガンと何度も一緒に飛行しています。
その後彼はドナルド・W・ガラット中尉の操縦する
「パンドラの箱 Pandra's Box」に配属されてイギリスに渡りますが、
たまたま彼が搭乗しなかった日、パンドラは撃墜されます。
その日B-17にはハロルド・スメルザー少佐が機長として乗っていましたが、
墜落しながら少佐は他の機に手を振っていたそうです。
パンドラの箱の10名の搭乗員は全員が戦死しました。
その後配属が決まらず「浮遊搭乗員」状態だったアドキンスですが、
メンフィス・ベルに乗り組むことが決まります。
しかし、彼の任務は長く続きませんでした。
2月4日のミッションで、銃からカバーを外すために、2分、
たった2分、手袋を外して窓の外に出しただけで、
彼は凍傷にかかってしまったのです。
apple TVの「マスター・オブ・ザ・エアー」でも、最初の方に
機内で手袋を外してあっというまに凍傷になったというシーンがあります。
ましてや機外。
彼は機外が零下50度であることを知りませんでした。
知っていたら、離陸前にカバーを外していたことでしょう。
これまでの任務ではそこまで高高度ではなかったのでしょうか。
しかもそれはこれから敵と戦わなくてはならなくなってからのことだったので、
彼は持ち場を動くことができず、凍傷にかかった手で7時間そこに立って
次々とやってくるドイツ軍機相手に弾丸を撃ち続けました。
攻撃の切れ間には、少しでも暖かい(と思われた)無線室に潜り込んで
ジンジンと痛む手を温めようと、両足の間に手を挟んでいました。
それでも、彼は自分がどれだけ酷い状態かわかっていませんでした。着陸するなりすぐさま彼はオックスフォードの病院に運ばれましたが、
入院を要する重症で、切断するかどうかという瀬戸際だったそうです。
しかし医師たちの懸命な治療により、なんとか手を失わずにすみました。
メンフィス・ベルにはそれ以来、次の搭乗員が乗ることになります。
アドキンスはその後B-29、B-50、B-36、B-52に搭乗し、
最終的には1961年に少佐の階級で退役しました。
ところで上部砲塔砲手の任務は、士官と下士官どちらでもOKだったんですね。
続く。