潜水艦「レクィン」の見学途中ですが、ここであらためて
「レクィン」の艦歴についてみてみましょう。
■ 就役〜終戦〜”退屈な任務”
1945年4月28日就役した潜水艦「レクィン」(SS 481)の海軍キャリアは、
スレイド・D・カッター大尉が指揮官に就任し、
米海軍が潜水艦を正式に受け入れたその日の朝1130に始まりました。
80隻の「テンチ」級潜水艦は80隻受注されましたが、
そのうち建造されたのは25隻だけでした。
「レクィン」はそのうちの1隻であり、さらに同級で現存しているのは
「レクィン」と「トースク」 (USS Torsk, SS-423)2隻だけです。
USS「トースク」
「トースク」は就役が1944年12月だったので、戦線に赴き、
2回の哨戒で日本の艦船を4隻撃沈しています。
「トースク」は8月14日に2隻海防艦を撃沈していますが、それらは
第二次世界大戦において魚雷によって沈められた最後の軍艦となりました。
「トースク」が展示されているのはメリーランド州ボルチモアの博物館です。
就役後、「レクィン」はパナマ運河地帯で習熟訓練を行い、
いよいよ実戦に向かうために1945年7月末にハワイに到着します。
そのときの「レクィン」が搭載していた武装は、
5インチ/ 25口径湿式マウント砲 2基
40ミリメートル速射砲を前部と後部に1基ずつ
魚雷発射管 10基
5インチロケットランチャー 2基
1945年8月15日。
戦争が終結したとき、彼女は最初の哨戒にまさに出撃するところでした。
知らせは「レクィン」総員を騒然とさせます。
戦闘ピンをもらえなかったことに動揺する乗組員。
生きて終戦を迎えたことを喜ぶべきだという士官。
さまざまな思いを乗せて「レクィン」は数週間後祖国に戻り、
到着後、大西洋艦隊に編入されました。
その後の数ヶ月間は、ソナー学校の艦船に標的を提供することが主な任務で、
艦長のスレード・カッター曰く「退屈で退屈な任務」でした。
哨戒に出て攻を上げたい血気盛んな乗組員たちにとっては特にそうでしょう。
1946年夏、1年間この任務をこなした「レクィン」は、
新しい指揮官と新しい任務を与えられることになります。
■レーダー・ピケットとしての「レクィン」
「レーダーピケット艦」という戦術思想が、
どうやって生まれたかご存知でしょうか。
それは、ほかでもない第二次世界大戦の後期、日本が選択した
特攻という前代未聞の戦術への対抗策としてでした。
レーダーピケット艦は多くの場合駆逐艦が務め、レーダーによる索敵を主目的に、主力と離れて概ね単独で行動します。
しかし、特攻が激化してレーダーピケット艦が攻撃を受けるようになると、
米海軍は潜水艦を使用するアイデアを熟考し始めました。
つまり、十分なレーダーを搭載し、迎撃戦闘機を制御し、出撃機を誘導し、
艦隊に警告を与えることができるようにするという役目を、
航空攻撃を受けにくい潜水艦に担わせるということです。
そして、1945年の夏、他ならぬ「レクィン」が太平洋艦隊の一員として
日本沖に配備され、そこで行うはずの任務が、
史上初の潜水艦によるレーダーピケットでした。
レーダー・ピケット潜水艦としての「レクィン」が配備される前に
戦争は終結しましたが、その必要性は戦後も海軍に認識されました。
そして世界は冷戦に突入します。
アメリカは、敵となったソ連の航空戦力による対艦攻撃への備えとして、
1950年代初頭よりレーダーピケット任務の増大を始めました。
それを受けて整備されたのが、
レーダー駆逐艦(DDR)
レーダー哨戒駆逐艦(DER)
レーダー哨戒潜水艦(SSR)
「レクィン」はその役目を担う最初の潜水艦として指名されました。
この改造の対象となった最初の2隻の潜水艦は、「レクィン」、
そしてちょうど建造中だった、
USS「スピナックス」Spinax(SS489)
でした。
しかしながら、この改造にはかなりの問題がありました。
使用された装備は、水上艦部隊から急遽転用されたため、問題噴出。
中でも水上艦用だったレーダー機器を狭い潜水艦に詰め込んだことで、
ただでさえ狭い後部のスペースが、さらに狭くなったりしました。
また、潜水することで水上艦用アンテナのシステムがショートするという、
どうして前もってわからなかったの的なトラブルが発生していました。
■ 「ミグレーン(頭痛)」プログラム
さあみなさん、こういう事態になるとアメリカ海軍は何をしますか?
そう、「なんちゃら作戦」発動です。
1948年、アメリカ海軍はその名も
Migraine(頭痛)Program
作戦を発動し、「レクィン」と「スピナックス」に搭載された
初期のレーダー装備の改善プロセスを開始します。
ミグレーン作戦によって最初に改造された潜水艦は、
「ティグローン」(SS 419)TIGRONE
でした。
この名前が「ミグレーン」と韻を踏んでいるのは偶然ではないでしょう。
そのせいなのかどうかはわかりませんが、「ティグローン」はその後
「バーフィッシュ」(BURRFISH)と名前を変えています。
「ティグローン」の改造は、乗組員の食堂が航空管制センターに改造され、
接舷がステムルーム(チューブが取り外された)に移動し、
砲台はより小型で強力なものに交換され、
2つの前部魚雷発射管は取り外されました。
シュノーケルを装備し、
航空捜索レーダーアンテナは後部喫煙デッキの台座に、
水上捜索レーダー・アンテナは司令塔とステムのほぼ中間の台座に、
戦闘機管制レーダーは潜水艦の艦尾付近に設置されることになります。
■ミグレーンIIで改造された「レクィン」
「レクィン」と「スピナックス」はミグレーンIIプログラムで
さらに広範囲の改造を受けることになります。
艦尾チューブが完全に撤去された
ステムルームの前部は航空管制センターに改造
寝台スペースは後部に移動
ミグレーンII改装後の「レクィン」上部構造
さらに、前部魚雷室の下部2基の魚雷発射管は不活性化・密閉されて
収納スペースに改造され(もう必要ないということですね)
蓄電池も容量の大きい改良型サルゴ・バッテリーに交換されます。
レーダーアンテナの配置もミグレインIとIIでは異なり、
SR-2航空捜索レーダー・アンテナは後部喫煙デッキの台座に置かれ、
水上捜索レーダー甲板上、航空管制センターの上に置かれました。
戦闘機コントローラビーコン(YE-3)も甲板エンジンルームの後に移動です。
これらの改造に伴い、「レクィン」は1948年、
レーダーピケットを意味する新しい呼称、SSRを受けたのでした。
■ クルーズ・ベーシング(乗組員寝室)
SSRとしての「レクィン」については後で触れるとして、
今日は艦内ツァー、前回のクルーズメスの続きを見ていきます。
この番号の3番、Berthingです。
ここには36台のバンク(乗組員寝台)があります。
寝台の間にミルクなどの缶詰が積まれていますが、
もちろんこんなふうに缶詰を貯蔵していたわけではありません。
おそらくここにはもともと四人分のバンクがあったはずです。
バンクのマットレスの下は持ち物の収納場所になっています。
近くに立ち寄ることは物理的にも時間的にも不可能でした。
セーラー服とポール・Lの名前入りアルバム?
左の『RAT』はなんだかわかりません。意味はわかりますが。
あだ名かな?
右側の本の題名は「ホーム・イズ・ザ・セイラー」。
上半身裸の水兵さんがセクシーなお姉さんを抱き寄せている扉絵です。
冬用セーラー服、写真にグリーティングカード、
タスクグループ・アルファのペナント。
冒頭のこの写真は1959年USS「フォージ」を旗艦とするTGアルファです。
「アルファ」の潜水艦は2隻、そのうち1隻が「レクィン」でした。
野球のグローブが見えます。
グローブの隣は水兵さんが荷物を一切合切入れて運ぶ布袋で、
「シーマンだれそれ」と名前を書くようになっています。
いきなり現れる壁とドア。
建造時の「レクィン」にはなかったのですが、終戦後、彼女が
訓練潜水艦となった1958年に増設されたそうです。
壁ができる前はここは広々と(当社比)した空間で、寝台がありました。
現在はカーネギーサイエンスセンターの職員オフィスとなっています。
バンクの隣は洗面所です。
洗面ボウルは4台、左はシャワー室。
中は見えませんでしたが、二つしかなかったのではないでしょうか。
洗面台の奥に詰め込まれているのはジャガイモの袋。
天井にはレバーで操作する機構があります。
トイレは・・・ひとつだけ。
これは厳しい。色々と。
ちなみに、艦内図を見ていただくとお分かりのように、
乗組員居住区の下は、後部バッテリーとなっています。
ここには総計126個の鉛蓄電池が設置されていました。
前部バッテリーは士官居住区、後部は乗組員居住区の下というわけです。
右が洗面所、その先が次の区画です。
■ 前後部エンジンルーム
次のコンパートメントはエンジンルームです。
まずは前部エンジンルームから。
ここにあるのは「エンジン1」。
フェアバンクス=モースの38D 8 1/8ディーゼルエンジンは
4基搭載されています。
前後二つのエンジンルームハウスは、4基の1,600馬力ディーゼルエンジンと
4 台の1,100キロワット発電機があります。
こちらは前部エンジンルームの2基目、「エンジン2」です。
エンジンは発電機を作動させ、艦に電力を供給する直流電力を生成します。
そこで次のコンパートメント、後部エンジンルームです。
前の人からこんなにも遠く離れてしまいました。
続く。