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「暗黒の木曜日」初期爆撃戦略の欠陥 〜国立アメリカ空軍博物館

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第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊の重爆撃機は、
フォーメーションを組んで飛行しました。

フォーメーションは戦闘機の攻撃から重爆撃機を守り、
爆弾パターンを目標に集中させるために設計されています。

これらのフォーメーションは、敵の戦術に対抗するため、
また重爆撃機の数の増加に対応するため、時代とともに進化していきました。
■ コンバット・ボックス Combat Box
アメリカ空軍のフォーメーションタクティクスには、
「コンバット・ボックス」(戦闘箱)なる言葉があります。

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊の重爆撃機(戦略爆撃機)が使用した
戦術編隊のことを「コンバット・ボックス」と称しました。
まずなぜこれが「ボックス」なのかというと、

このような図式にあてはめて編隊を組織したからです。
集中編隊を「ボックス」と呼ぶ習慣は、平面図、側面図、
正面仰角図で編隊を図式化し、個々の爆撃機を
目に見えない箱状の領域に配置したことから生まれました。
別名として、「時間をずらす」という意味の
「スタッガード・フォーメーション」とも呼ばれたこの思想の目的は、
まず、防御の点からいうと爆撃機の火砲の火力を集中させることであり、
攻撃的には目標に爆弾の放出を集中させることにありました。
■ ドイツ軍の防御システム

映画「メンフィス・ベル」では、爆撃目標に近づいた頃、
それまで護衛についていたアメリカ軍の戦闘機が、
翼を振って別れを告げ、帰っていくのを見て、乗組員が
ため息混じりにそれを皮肉るシーンがありました。
ギリギリまで掩護してドイツ機と交戦するまでいるのかと思ったら、
相手が出てくる前に帰ってくるのですから、皮肉も言いたくなるでしょう。


日中の精密爆撃にこだわったアメリカ空軍を迎え撃つドイツ軍は、
地上のレーダーで迎撃機を誘導する強力な統合防空システムを構築しました。

占領下のヨーロッパ上空に侵入した連合軍機を
ME-109、FW-190、ME-110、JU-88戦闘機が迎え撃ち、
さらに、通称「フルークfluk(高射砲)」と呼ばれる
「フルガブヴェールカノン(flugabwehrkanone)」
が地上から連合軍の爆撃機を標的にしました。

ボフォース40ミリ

双方の衝突が重なるにつれ、空戦は回復力を試す試練となり、
両陣営の乗組員たちは高高度の消耗戦に閉じ込められていきます。

この空中戦の熾烈さを象徴するのが、通称
「暗黒の木曜日」
として知られる1943年10月14日の爆撃ミッションでした。

この任務は、アメリカ陸軍第8空軍の第1航空師団と第3航空師団が
イースト・アングリアの基地から飛び立ち、
ドイツのボールベアリング工場を攻撃するものでした、

ドイツの戦闘機械の多くは低摩擦ボール ベアリングに依存していたため、
アメリカ軍は、ボール・ベアリングの生産を破壊すれば、
ナチスの戦争遂行能力に連鎖的な影響を与えると考えたのです。
■ 1943年8月17日の同時2箇所空襲




この作戦は実は二度目で、最初8月に行われた、第8空軍による
レーゲンスブルクのメッサーシュミット戦闘機工場と
シュバインフルトのボールベアリング工場への空襲がありました。



同時二箇所の攻撃は、敵の防衛力を分断させることが目的でしたが、
シュバインフルト攻撃隊の離陸が遅れてしまうという、
起こってはいけないアクシデントのせいで、ドイツ軍に、

第一波隊を余裕で迎撃してから着陸し、
再武装してタプーリ給油し、
ついでにコーヒーを飲んでから出撃しても(嘘)
まだシュバインフルト迎撃に間に合う

という余裕を与えてしまいます。
しかもアメリカ爆撃隊は前述の事情で終始全くの援護なしだったため、
単独で次から次へとドイツ戦闘機の波と戦うことになりました。

アメリカ軍が採用していた爆撃機編隊間の相互支援による防御射撃は、
ルフトバッフェの、「コンバットボックス」単位に攻撃をかけ、
編隊を撹乱するという作戦でまず無力化され、編隊を離れた落伍機は
ドイツ機の集中攻撃を受けて1機ずつ確実に仕留められていきました。



それでもこの時の空襲はそれでも両工場に甚大な被害をもたらしました。

最初から損失を計算して大編隊が組織されたこと、
そして爆撃手が優秀だったせいです。


左:爆撃中 右:爆撃後の偵察機による撮影(穴だらけ)
しかしながらこの時アメリカ軍は、攻撃兵力の20パーセントに相当する
60機の爆撃機を失い、600人以が死傷、行方不明、捕虜となりました。


攻撃後満身創痍で北アフリカに向かうレーゲンスブルク攻撃隊

そして、その後ドイツがボールベアリングの生産量を回復したため、
連合軍側は再び同じところを叩こうと考えたのです。


■ 1943年10月14日、暗黒の木曜日

さあ、もうおわかりですね。
「暗黒」とは誰にとってのものだったのか。

爆弾を落とされる工場の人々にとってもそうだったでしょうが、
それ以上に困難に直面したのは、実はアメリカ爆撃隊だったのです。


アメリカ軍の戦前の航空隊のドクトリンでは、

「航空編隊は、爆撃機を集団化することで、
戦闘機の護衛なしに昼間でも目標を攻撃し破壊することができる」
とされ、爆撃機自身が装備する防御機銃
「軽砲身」ブローニングAN/M2 .50口径(12.7mm)砲
の連動射撃さえあれば、
先頭機の護衛なしで爆撃機を敵領土に飛ばすことができる、
と信じていました。

「メンフィス・ベル」の1942年ごろはまさにその通りで、
護衛してきた戦闘機がある地点で翼を振って帰っていくと、
とたんにルフトバッフェの戦闘機が湧いて出てくるという状態でした。

当時の爆撃機は最大10門の機関銃を備えていたにもかかわらず、
損害は増大し始めていました。
「メンフィス・ベル」が25回のミッションを終えたとき、
アメリカは国をあげてこれを讃え宣伝しましたが、それは逆にいうと
ほとんどが25回の任務を生き延びることができなかったということです。

しかし戦闘機が途中で帰ってしまうのは、仕方ないことでした。
当時の戦闘機の航続距離では、海岸線を越えることもできなかったのです。

「暗黒の木曜日」のミッションで、291機のB-17爆撃機は
掩護を伴った「コンバットボックス」編隊を組んでアーヘンに接近すると、
作戦範囲の限界に達したUSAAFのP-47戦闘機は、
翼を振って爆撃隊に別れを告げ、離脱していきました。

結局全行程のうち護衛が付いていたのはアーヘンまでの300マイル、
残りの200マイルの間、爆撃機は戦闘機の掩護なしということになります。

掩護機が離脱すると、すぐにルフトバッフェの戦闘機がやってきましたが、このタイミングは決して偶然ではありませんでした。

ドイツ軍は、レーダー管制がP-47が編隊を離脱する瞬間を把握しており、
戦闘機をレーダー誘導して向かわせていました。

ルフトバッフェの単発戦闘機は、まず第一波攻撃として
3×4のフォーメーションを組み、アメリカ軍爆撃編隊に正面から接近し、
至近距離で20mm砲を発射してきました。

続いて双発戦闘機 JU-88 からなる第二波が続きます。
大型戦闘機は重口径砲に加え、翼の下から21cmロケット弾を撃ってきます。
ロケット弾はかなりの爆発力を備えているため、
たった 1 回の一斉射撃で爆撃機を簡単に破壊できました。

しかも彼らは 爆撃機の防御砲の有効射程、
1,000 ヤードから決してこちらに近づくことはありませんでした。


JU-88はまず先頭の爆撃機にロケット弾を撃ち込み、
各B-17が回避行動を始めると、撹乱して編隊をバラバラにしてしまいます。



迎撃機の攻撃をかわし、なんとか爆撃目標上空に到達できたとしましょう。
次に爆撃隊は激しい対空砲火に直面します。

爆撃機の砲手は追撃してくる戦闘機に撃ち返すことはできても、
高射砲に対しては何もすることができず、それを逃れるには
ただ弾幕を何事もなく通過することを祈ることしかできません。


さらに撃墜されずミッションを終えても、中央ヨーロッパを横断する帰路で
待ち受けている敵と戦わなければなりませんでした。
シュヴァインフルトに接近するまでに、爆撃隊はすでに28機を失いました。
「暗黒の木曜日」で出撃した全291機の爆撃機のうち、60機が撃墜され、
約600人の飛行士が敵地上空で命を落としました。

帰還した爆撃機のうち17機は英国で墜落または廃棄され、
121機が修理しなければもう飛べない状態で、
その多くが負傷したり、死んだ搭乗員を乗せていました。
10月14日爆撃の最初の一投が地上で炸裂する
打撃を受けながら爆撃隊が投下した爆弾は、
このときもボールベアリング複合体に正確に命中しました。

第40爆撃群の生き残った飛行機は、驚くべき正確さで
目標地点から1,000フィート以内に爆弾の53%を投下しています。

内訳は高性能榴弾1122発のうち、143発が工場地帯に着弾、
さらにそのうちの88発が直撃弾となりました。

煙の上がるシュバインフルトを離脱し帰投する爆撃機


この日、搭乗員は出撃前に最後になるかもしれない写真を撮りました。
笑ったりおどけた様子の者は一人もいません。

303爆撃群のこのクルーは、生還することに成功しています。


冒頭のボマージャケットと手袋は、第91爆撃グループの
「Chennaults Pappy」(シェンノートの子犬)の胴部銃撃手、

フィリップ・R・テイラー軍曹
SSgt Phillip R. Taylor
が「ブラック・サーズデー」任務で着用していたものです。


ケースの足元には、軍曹がフォッケウルフ190を撃墜した
50口径機関銃のファイアリング・ピン(撃針)と、
「ダルトンの悪魔たち」と刺繍された布のケースが展示されています。

■ブラック・サーズデイの教訓

アメリカ空軍の指導者たちは一連の爆撃作戦の戦果を賞賛し、
高い損失率にも関わらず勝利を主張していました。

第8空軍司令官アイラ・イーカー中将は
「我々は今やフン空軍(でたフン族笑)の首に牙をむいている!」

といいましたが、これは実情を知っているものには虚しいハッタリでした。

公的には成功を宣言したものの、非公式には(というか実際は)
第8空軍の士気の低下に伴う損失に深い懸念を覚えていたのです。

「暗黒の木曜日」を含む一連のミッションに対する現実的な評価は、
戦闘機の護衛なしでは費用対効果が悪すぎるということでした。

これ以降、第8空軍は攻撃をフランス、ヨーロッパの海岸線、
戦闘機の護衛が可能なルール渓谷に限定しています。

そしてこの後、航続距離が長く、優れた機動性と十分な武装を備えた
 P-51「マスタング」戦闘機が導入されるまで、
ドイツ深部への同様の襲撃を行うことはありませんでした。

米軍はこれ以降、昼間戦略爆撃の理論を再考することになります。
航空戦に勝つには新しいドクトリンと装備が必要であると知ったのです。

さらに、多大な犠牲を払って「成功させた」と上層部が自賛したところの
一連のミッションでしたが、爆撃隊の正確な爆撃にもかかわらず、その後の分析により、最終的にドイツのボールベアリングの生産は
わずか10パーセント減少しただけだったことが判明しています。


続く。


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