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「血の日曜日」プロイェシュチ油田爆破作戦〜国立アメリカ空軍博物館

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前回、1943年にドイツの生産工場に対して行われた
アメリカ軍のB-17による2回、3箇所への爆撃作戦についてお話ししました。
その犠牲の多さと費用対効果の悪さから、
「暗黒の木曜日」とまで言われてしまった作戦ですね。

今日は、同じ年に東ヨーロッパの油田を破壊することを目的にした
爆撃作戦「オペレーション・タイダルウェーブ」について取り上げます。
当作戦はB-24ミッチェル爆撃機の部隊によって実行されました。

結論から言うと、アメリカ軍はこの作戦においても
「暗黒の木曜日」の失敗を活かすことができませんでした。

現在進行形のスピルバーグのドラマ、
「マスターズ・オブ・ザ・エアー」の中では、
捕虜になった爆撃機搭乗員に向かって、ドイツ軍の情報将校が、

「レーゲンスブルグもプロイェシュチもダメだったねえ」(笑)

みたいにいうシーンがあります。

■ オペレーション・タイダルウェーブ:
@プロイェシュチ



1943年8月1日。
アメリカ陸軍航空隊は、枢軸国の重要な燃料源である、
ルーマニアのプロイェシュチ油田に対し、
低空B-24の奇襲作戦「タイダルウェーブ作戦」を展開しました。

上の写真を見てお分かりの通り、B-24はほとんど木の高さレベルの
低空を飛んで爆撃を行っています。

178機のB-24リベレーターからなるアメリカ陸軍航空艦隊は、
アフリカ-リビアのベンガジから1200マイルの旅を経て、
正午過ぎには目的地に到達していました。


今ならジェット機で9時間25分(航空運賃¥123.309より)。
だけどちょっと待って?爆撃機だときっともっと時間かかるよね?
正午過ぎに着くには一体何時に出発したんだろう。

ちょっと計算がめんどいのでやりませんが、それにしても
こんな遠方から任務を果たして帰るだけの余裕がB-17にあったんですね。


というわけで爆撃隊はコルフ島とピンドゥス山脈を経由するルートを、
厳密に無線を維持しながら進んでいきました。

目標は、プロイェシュチにある巨大な石油精製施設です。 
当時のルーマニアの指導者、イオン・アントネスク元帥は、
ナチスドイツへの経済支援として、最終的に
プロスティ油田から第三帝国の原油の約60%を供給しました。


アントネスク

戦後、アントネスクと政府要人は戦犯裁判にかけられ、
ルーマニア軍が占領したウクライナなどの地域における
28万〜38万人のユダヤ人絶滅等の責任を問われて銃殺刑に処されました。

処刑の瞬間は今日でもyoutubeで見ることができます。


石油貯蔵所爆撃作戦のコードネーム、タイダルウェーブでは、
第8空軍と第9空軍の5つの爆弾群が合わせて参加しました。


General Jacob E. Smart USAF(最終)
ジェイコブ・スマート陸軍大佐によって考案された本作戦は、
既成の米陸軍航空隊の方針を完全に打ち破るものでした。

陸軍航空隊伝統の高高度精密爆撃という手法ではなく、
B-24に200〜800フィートという低空から爆弾を投下させるのです。

低空からの爆撃機侵入は、奇襲の要素も兼ね備え、
油田に大火災を引き起こすことができるはず、とスマートは考えました。

■ 予測されていた作戦
しかし、ドイツ軍は彼らが来ることを十分に予想していました。

アメリカ軍の暗号を解読したドイツ空軍司令官、
アルフレッド・ゲルシュテンベルク大佐は、罠を仕掛けました。
Gen. Alfred Gerstenberg(最終)

ゲルシュテンベルグ大佐は、戦闘機パイロット出身。
第一次世界大戦ではリヒトホーフェン飛行隊のメンバーでしたが、
戦闘中撃墜され重傷を負って飛行機を降り、陸上勤務をしていました。

その後退役していたところを第二次世界大戦開戦と共に復帰し、
1942年からルーマニアのドイツ軍総司令官となっていました。
ナチス・ドイツ最大の単一石油供給源であった
プロイエシュティの石油精製所周辺に防衛圏を設定することは、
ゲルシュテンベルグに与えられた最も重要な責務だったのです。

防衛圏の構築段階で、ゲルシュテンベルグ司令は、すでに対空砲
(8.8cmFlaK高射砲)を街の周囲に張り巡らせており、さらに、
発煙装置と、最も重要な施設の近くに弾幕気球を設置していました。

「罠」というのは主にこの阻塞気球とも呼ばれる気球のことです。

かわいい
阻塞気球(barrage balloon)

は、金属のケーブルで係留された気球で、シンプルな装置ながら、
低空から進入してきた飛行機をケーブルに衝突させ、
あるいは攻撃を甚だしく困難にするすぐれものです。
B-24リベレーターの軽いアルミニウムの翼は、
気球の鋼鉄のケーブルによって易々と引きちぎられてしまいます。

そして、ドイツはもちろん、ルーマニア、ブルガリア軍の戦闘機が
大佐の迎撃命令一下、いつでも出撃する態勢を整えていました。

このときゲレシュテンベルグの配下には、プロイェシュチだけで
約25,000人の兵士が控え、その命令を待っていたと言われます。


■ アメリカ爆撃隊のミス

リベレーター爆撃隊の不運は、根拠地から目標が遠方だったことです。

アフリカのリビアからの1,000マイルの無警戒飛行中、
雲によって編隊は2つのグループに分断され、
間違った方向転換が、さらに混乱を引き起こしました。

さらにいくつかの編隊が航法ミスを犯し、無秩序のまま、
厳重に防衛された目標地域に到着してしまいました。

しかも、無線の傍受によって、襲来は前もって読まれていました。
これでは企画段階で期待された奇襲にはなりません。



戦闘の混乱の中、一部のB-24は、煙幕装置の激しい煙の中を爆撃し、
前の波から遅れてきた爆弾の炸裂に巻き込まれることになります。

爆弾を落としたところに次の一波が到達してきている
■ 生存者の語る「暗黒の日曜日」
次回に詳しく紹介しようと思いますが、この攻撃の時、
B-24リベレーターの砲手に、のちに「二世ヒーロー」と呼ばれた
日系アメリカ人2世のベン・黒木がいました。


ベン・黒木(Ben Kuroki)

彼は陸軍での現役中58回の任務を遂行していますが、
「タイダルウェーブ」作戦はその24回目となるものでした。

歴史家トム・ギブスのインタビューの中で、プロイェシュチへの攻撃が
いかに「恐ろしい」ものであったかを、彼はこのように回想しています。

「眼下で貯蔵タンクが爆発したとき、
我々の飛行機の高度よりも50フィートも高く炎が上空に舞い上がりました。
私はその時、自分のこの後の運命をはっきりと悟った気がしました。

そのときわれわれの機は低空で目標上空を飛行していましたが、
爆破に巻き込まれなかったのは奇跡だったと思っています」


マック・フィッツジェラルド(前列サングラスの人物)

プロイェシュチ爆撃に参加したリベレーター「ホンキートンク」で
やはり上部砲塔が持ち場だったマック・フィッツジェラルドは、
僚機が3階建てのレンガ造りのビルに激突するのをなすすべもなく見ながら、
「これで今、10人が死んだ」と自分に言い聞かせていました。

次は自分の番だと確信した彼は、心の中で両親に別れを告げていたので、
結果的に自分が死ななかったことには「誰よりも驚いた」と語っています。
二人が語ったコンビナートへの攻撃はわずか30分ほどでしたが、
この間の人命と物資の犠牲は凄まじいものでした。

アメリカ軍の爆撃機は合計で52機が撃墜されました。

マック・フィッツジェラルドはそのうちの1機に搭乗していました。
ベン・クロキが語ったところの炎の高い柱を避けた後、
彼の機は被弾し、墜落して彼と数人の仲間は捕虜になりました。

歴史家のドナルド・L・ミラーは前述の
『マスターズ・オブ・ザ・エアー』原作の中で、
この空襲で310人のアメリカ軍飛行士が死亡、
130人が負傷し、100人以上が捕虜になったと主張しています。
また別の報告では、178機の爆撃機と1,726人の兵士のうち、
54機と500人近くが未帰還、捕虜は186名に上るとされています。

ミラーはまた、プロイェシュチ空襲は「民間人よりも多くの空軍兵士が死亡した、この戦争で唯一の空爆の一つ」
であったとも指摘しています。

ちなみに、現地ルーマニアの民間人と軍人で死亡したのは116名でした。

この戦闘におけるアメリカ人兵士の死亡者は
ルーマニアの民間人と政府関係者によって
ボロバン墓地の英雄区画にある集団墓地に埋葬されました。

Remains of WWII veteran killed in Romania identified, laid to rest
2023年になって、MIAの活動により身元が判明し、
故郷のオハイオに戻ってきたアメリカ陸軍中尉の遺骨埋葬式の様子です。

このロイター中尉はプロイェシュチ攻撃の際戦死し、その遺体は
ルーマニア市民によってプロイエシのボロバン墓地に埋葬されていました。

米国墓地登録司令部は、多くの身元不明遺骨を掘り起こし、
このたびロイター中尉が特定される運びとなりましたが、
同団体は最終的に、特定できなかった遺骨を再び埋葬しなおしています。

たとえ特定できなくても、アメリカ人であることがわかっているなら、
とりあえず?持って帰ることはできなかったのでしょうか。



■タイダルウェーブ作戦の影響

プロイェシュチ方面司令のゲルシュテンベルク将軍(最終)の紹介に、

彼の指揮した防衛作戦の結果、1943年8月1日に行われた
最初の空襲、タイダルウェーブ作戦で、
米軍は油田を破壊することができず、大きな損害を被った。

とあります。

この空襲で石油貯蔵施設は確かに爆撃による損害を受けたものの、
ドイツ軍はすぐに数千人の強制労働者を動員し、
コンビナートの甚大な被害を修復してすぐさま生産を再開しました。

数週間のうちに、施設の石油生産量は襲撃前よりも増えたほどです。


それ以来、「血の日曜日」として記憶されている当作戦の損失を鑑み、
アメリカの指導部は、ルーマニアの石油産業に対して、8ヶ月間、大規模な攻撃を試みることはありませんでした。


続く。



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