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空軍WAC/翼を持った天使~国立アメリカ空軍博物館

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第二次世界大戦時、ヨーロッパ戦線に空軍として派遣された
陸軍航空隊のWACについて今日は取り上げます。

冒頭写真は、1943年7月にヨーロッパに到着し、
イギリスを行進する第8空軍所属の最初のWAC。

映画「陸軍の美人トリオ」では、フォート・デモインでの訓練を経て
最終的に任官を果たした美人三人娘が、ヘルメットに戦闘服、
という写真のWACと同じ服装で戦地に向かうところで終わります。

彼女らは士官ですが後列の皆さんと同じ装備をしていました。
この写真では、先頭の士官がおそらく隊長で、
この部隊はWACの陸軍看護師部隊(Army Nurse Corps)と思われます。


航空管制はWACに割り当てられた任務の一つでした。

写真のWACは、管制装置を搭載した移動式(トラック)管制室から
航路を外れて迷った爆撃機を基地に誘導しています。

という設定ですが、全員がニコニコしているので、おそらく
撮影用にポーズをとったのだと思われます。

後ろの若い男性軍人の目が心なしか死んでいますが、
彼はおそらくこの中の誰より階級は上です。
真ん中のおばちゃん(マニキュアが赤)は貫禄はありますが、
階級はプライベート、つまり一等兵となります。

右上にあるのは彼女らを称賛するカール・スパーツ将軍のお言葉。
「WACの価値ははかりしれないものだった。
メンバーは誰もが献身的に働き、しばしば、
並外れたパフォーマンスを要求される困難な任務をこなした」



ジミー・ドーリトル中将と握手するオヴィータ・カルプ・ホビー大佐
Col. Oveta Culp Hobby

ホビー大佐については以前もWACについて扱った時にお話ししています。

空で、海で、陸で〜ミリタリー・ウィメン

女性初となる陸軍の女性隊 WACの初代司令。
テキサス州知事夫人という身分から軍人として大佐にまで昇進、
女性初の戦中功労賞を授与された人物。

戦後にはアイゼンハワー大統領のもとで
保健福祉省の最初の事務官とな理、キャッチフレーズは

Trendsetting Texan(テキサスの流行仕掛け人)
写真は当時第8空軍司令官だったドーリトル中将と会談した時のもの。
陸軍では女性部隊の発足を全軍で最も早く実行に移した時、
彼女が「顔」として選ばれ、その後司令にも任じられたというわけです。
当時は補助部隊を意味するAuxiliaryが付随したWAACでしたが、
翌年にはもう「補助」は外されてWACとなりました。

発足時のWAACからWACになるまでの3年間同隊を率いたのが彼女です。
それにしても後ろのWAC、こういう状況でポケットハンドってどうなの。


第8空軍の「スウィッチボード・オペレーター」(交換手)。
陸軍のWACの約40%は航空隊で勤務し、
彼女らは「エアWACs」と呼ばれていました。
■「プリティ・リーグ」女子プロ野球リーグ



このエアWACの軍服は、

テレサ・コブシェウスキー軍曹
SSgt Theresa Kobuszewski

が着用していた実物です。この人の名前で検索すると、野球人としてカテゴライズされて出てきます。



彼女は1944年5月から1945年11月まで、
第8空軍のWACとしてイギリスで従軍していました。

写真は戦時中から戦後(1954年)まで存在した
女子プロ野球リーグ、「フォート・ウェイン・デイジーズ」
でプレイしていた頃のコブシェウスキー。

女子プロ野球というと、映画「プリティ・リーグ」
『A League of Their Own』が有名ですが、
正確には「オールアメリカンガールズプロフェッショナルベースボールリーグ」
(全米女子プロ野球リーグ)
と称します。


移動の関係でチームはほとんどがシカゴのミシガン湖沿いにありました。
(『マスキーゴン・ベルズ』というのもあった模様)

あの映画では、姉の所属する「ロックフォード・ピーチズ」と
妹の「ラシーン・ベルズ」がリーグ優勝を競う設定でしたが、
このチームはどちらも実在します。

ドラマ「デスパレートな妻たち」で、猫を心の支えに生きていた
孤独な老女が街を襲った竜巻で亡くなった後、
遺品の中からピーチズのと思われるユニフォームが出てきて、
主人公は、彼女がかつて女子リーグの凄腕ピッチャーだったことを知り、
遺灰をこっそり掃除機のゴミと取り替えて遺族に渡し、本物を
無人の野球場のマウンドに撒いて捕まる、というエピソードがありました。

映画でも描かれていましたが、彼女たちは「商品」だったので、
女性として好ましい振る舞いと装いを求められました。

ヘレナ・ルビンスタインのチャーム・スクールのクラスに通い、
適切なエチケット、個人の衛生、マナー、ドレスコードなどが決められ、
各選手には美容セットとその使い方の説明書が配られるといったように。

禁止事項も多く、まず短髪にすることは許されず、
公共の場での喫煙や飲酒は禁止され、ズボンも禁止、
常に口紅を塗ることが義務づけられ、反則した場合は罰金、
3回目で出場停止という厳しいものでした。

1944年には、ジョセフィーヌ・"ジョジョ"・ダンジェロが
髪を短く切ったことで解雇されたほどです。


真ん中の男性はコーチで、大抵は大リーグの元選手が務めました。
戦後になるとリーグ出身の女子監督も現れます。

テレサ・コブシェウスキーのデータは以下の通り。

プロ活動期間:1946年から1947年まで

アンダースロー投手としてソフトボールチームでプレー

1942年にWAC入隊
陸軍対海軍チームの優勝決定戦で勝利投手となる

女子リーグにアンダーハンド投手として入隊、
1946年から「ケノーシャ・コメッツ」で1年半プレーした後、
1947年「フォートウェイン・デイジーズ」に移籍

ルーキーイヤー:21試合123イニング 3勝9敗、防御率2.71
1947年:11勝15敗、防御率2.42
208イニングで47奪三振

投手通算成績:51試合登板、14勝24敗
打者通算成績:52試合打率.242(30打数124安打)打点6、得点15

1948年にリーグが厳格なオーバーハンド・ピッチングに切り替えられ、
アンダーハンドの彼女はこれに適応できず、引退

1988年野球殿堂入り

ミシガン州トレントンで84歳で死去

■ウィングド・エンジェル
 USAAFフライトナース


第二次世界大戦まで、米軍は負傷者を後方に避難させるための方法について
あまり考えが及んでいないといった状況でしたが、戦争の規模が拡大すると、
米陸軍航空部隊は、航空避難(後に航空医療避難として知られる)、
そして航空看護師を現場に投入して行くことになります。


米空軍の航空輸送ルートが世界中に急速に拡大したことは、
前線から遠く離れた設備の整った病院に、
傷病兵士たちを迅速に運ぶことが可能になりました。

この「革命」によって多くの負傷兵の命が救われ、
フライトナースの導入がそれを可能にしました。

1942年初頭、アラスカ、ビルマ、ニューギニアの空輸部隊は、
前線に人員と物資を運んだのと同じ輸送機で患者を後送しました。

ヨーロッパでは、差し迫った必要性から、米空軍は医療空輸飛行隊を創設し、
飛行外科医、下士官医療技術者、フライトナースを対象とした
「急行訓練プログラム」を開始します。

危急の必要性から、アメリカ空軍は1942年のクリスマスに、
まだ訓練を終えていない女性たちを北アフリカに送りました。

1943年2月18日、最初にウィングマークを受け取ったのは、
名誉卒業生であるジェラルディン・ディッシュルーン中尉をはじめとする
米陸軍看護隊のフライトナース第一期生たちでした。

ディシュルーン中尉は、Dデイ侵攻後、オマハ・ビーチに上陸した
最初の航空避難チームに参加しています。

しかし、危険は付きまといました。

負傷者搬送に使われた航空機は軍需物資も輸送していたため、
赤十字を表示することはできず、敵の攻撃を受けることになります。
このため、フライトナースと医療技術者は志願制となりました。

あらゆる緊急事態に備えるため、フライトナースは墜落手順を学び、
サバイバル訓練を受け、高高度が患者に及ぼす影響を熟知しなければならず、
さらに、彼女ら自身がこのような過酷な飛行中に患者のケアをするために、
最高の体調でなければならなかったのは言うまでもありません。

最終的に、約500人の陸軍航空看護師が、
全世界に所属する31の医療航空避難輸送飛行隊に所属しました。

戦争中、空輸された1,176,048人の患者のうち、
途中で死亡したのはわずか46人であったことは、
彼らの技術の高さを証明する数字と言えるでしょう。

そして戦争中に命を落としたフライトナースは17名でした。

フライトナースたち @イギリス

上空で患者をチェックする第803航空避難輸送中隊のC-47航空避難チーム、
ポーリン・カリー中尉とルイス・メーカー軍曹


通常、フライトナース1名と医療技術者1名で、
10分以内に避難機を出発させることができるとされました。

飛行外科医が離陸前に各患者の状態について看護師に説明し、
飛行中看護師は患者の安全と快適さを受け持ちました。

1943年7月、シチリア島からアフリカに避難する患者をチェックする
ケイト・スウォープ中尉。

こういう任務に5cmヒールの白いパンプスを履いているのが
さすがは当時の女性という感じです。



C-54の機内で患者の手当てをする医療技術者(奥)
とフライトナース(右下)。
C-54は、より多くの国民を空輸することを可能にしました。

エルシー・S・オット中尉

初の大陸間航空避難飛行のフライトナース。
1943年1月、飛行機に乗ったことも、訓練も受けていなかった彼女は
インドからワシントンD.C.までの5人の重病患者の輸送に成功。

彼女は女性に贈られた初の航空勲章を受章し、
その後正式なフライトナースの訓練も受けました。
スエラ・バーナード大尉

1945年3月22日、ドイツ・レマゲンの橋頭堡近くの空き地で
重傷の米独戦死者25名を2機のグライダーに収容した際、
C-47が曳航したグライダー内で看護にあたったバーナード大尉は、
大戦中にグライダーによる戦闘任務に参加した唯一の看護師となりました。

C-47に曳航されようとするCG-4Aグライダー。
コックピット右手席に座っているのスエラ・バーナード中尉。


アレダ・E・ルッツ中尉
第二次世界大戦中196のミッションに参加し、
3,500人以上の負傷者を救出したことで最も有名な航空看護師。

1944年11月、フランスのリヨン近郊の前線からの避難飛行中、
彼女の搭乗したC-47は墜落し、乗員全員が死亡しました。

負傷者の横で屈んでいるアレダ・E・ルッツ大尉。

彼女はオークリーフ・クラスター4個付きの航空勲章、
そして死後に殊勲十字章を受章しました。

陸軍の病院船と退役軍人局の医療センターに彼女の名が冠されています。

ルース・M・ガーディナー中尉

1943年7月、アラスカで患者を避難させる途中、
航空機の墜落事故で死亡。
彼女は米空軍で初めて戦闘地域で死亡したフライトナースとなりました。

続く。



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