MKがコロナ禍の際アメリカでお世話になった友人への恩返しツァー、
二日間京都を堪能したあとは、奈良に移動しました。
この写真、お寺ではなく、今回泊まったホテルのエントランスです。
最初は車の入り口だと思わず、通り過ぎてしまいました。
外側はお寺のようですが、中は昔の公邸風です。
それもそのはず、ここは1922年に完成した木造平屋建ての知事公舎で、
つい最近まで実際に使われていました。
かつては正面玄関に横付けされていた車の専用道の名残が見えます。
知事公舎として使われていたのは2017年までだそうで、
4期務めた前知事の荒井正吾氏は、公舎最後の居住者となりました。
1920年代というからおそらく落成直後の写真
ところで奈良県庁舎はこの真横に位置しており、
計ってみたら公舎から県庁まで歩いて4分、距離にして550mでした。
(裏から入ればおそらくもっと早く到着すると思われます)
こんな距離でも知事は庁舎まで車で往復していたんだろうか。
世の中には20m歩かされて激怒する知事がいると知り、ふと思いました。
エントランスを入ると、そこには神々しくらい立派な松の盆栽が。
正面玄関内側からエントランスを臨んだところ。
画面左手は利用者の駐車場で、宿泊客も別料金が必要です。
チェックインする客は、まずこのロビー奥にあるラウンジ、
「寧楽(なら)」に通され、ここで甘茶をいただきながら手続きします。
壁などはリノベーションしてありますが、おそらく床はそのまま。
そして、窓の桟も、この鍵の形状から見て当時のままでしょう。
■ 御認証の間と昭和天皇御行幸の写真
「寧楽」に入る前にホテルの人に案内されるのがこの「御認証の間」です。
正確には「批准書御認証の間」といい、昭和26年、
サンフランシスコ講和条約締結の文書にここで昭和天皇が署名されました。
今は白いカバーが被せられて見えませんが、一番奥の椅子は
天皇がお座りになったもので、それだけが赤い天鵞絨に金色の枠です。
説明に書かれた文をそのまま掲載しておきます。
1951年(昭和26年)、参議院本会議では、衆議院に続いて2条約が承認され、
当時首相であった吉田茂は会議後に批准書
(条約に対する国家の確認・同意を示す文書)に署名を行いました。
憲法の規定で天皇の署名も条約締結には必要なため、
当時の官房副長官 劔木俊宏(けんのきとしひろ)が、
奈良御行幸中であった昭和天皇の元に赴きました。
翌19日、昭和天皇が御滞在中であった奈良県知事公舎にてご帰還を待ち、
昭和天皇がお戻りになった夕刻時に、
天皇は侍従長だけを伴って部屋に入り「裕仁」と署名をしました。(ママ)
この「御認証の間」は、歴史を追体験できる場所として、
当時のまま保存されております。
昭和天皇が批准書に署名の際にご使用になった硯箱。
現物は寧楽美術館が所蔵しています。
できるだけ現物のまま残そうとする試みのせいでしょうか。
「御承認の間」は、その外壁にも全く改装が加えられていません。
当時使われていた窓ガラスも全くそのまま残されています。
昔は、ガラスの固定のために、このようなパテが使われていたんですね。
この御行幸の際の写真が御認証の間に続く廊下に掲示してありました。
まさにこの知事公舎外門の様子。
おそらく陛下のお迎えをする人たちが集まってきているところかと。
これが知事公舎に陛下をお迎えをした時ではないかと思います。
右は侍従、左は知事夫人でしょうか。
黒紋付きの正装でお迎えする婦人たちの前を通り過ぎる陛下。
昭和天皇は戦後すぐの昭和21年から8年間半をかけて、
沖縄を除く全国46都道府県を御行幸されました。
昭和26年5月17日に皇太后が崩御された喪中であったにも関わらず、
除喪されてまで、近畿への御行幸は行われたそうです。
奈良に御行幸されたのは同年11月18日、19日の二日でした。
提灯行列でのお迎えにお顔が綻ぶ陛下
「土師」と呼ばれる(社会で習いましたね)陶工が、
祭器や埴輪を作っていた万葉の昔から続く「赤膚焼」の窯元だと思います。
■部屋にチェックイン
手続きが済んだら、客室に案内されますが、今までの棟から出てまずこの道を横切り、左の門内に入って行きます。
道の突き当たり向こうは奈良公園です。
この道は自動車も、一般の人も立ち入り禁止となっているので、
物見高い観光客が入り込むこともありません。
宿泊棟は同じ敷地に二つあります。部屋はスタンダードからスイートまでで43室しかないそうです。
鹿(しし)おどし「風」噴水。
(奈良では鹿を脅かしてはいけないから?)
いつものようにエキストラベッドを一つ入れました。
部屋の仕切りにいかにも「万葉」なカーブがデザインされています。
我々は一階の庭に面した部屋。GBくんとSAさんの部屋は2階です。
同ホテルのスイートルームには、部屋に温泉がついているそうです。
今回の部屋ですが、今まで使ったことのないカード会社などの特典で、
GBくんたちの部屋はサービス扱い(つまり無料)で取ることができ、
京都ではふるさと納税を大いに利用して節約を心がけました。
食事の前に、宿泊者なら誰でも参加できるシャンパンサービス、
「ガーデンディライト」の案内があったので、
再び先ほどの道を横切って向かいのカフェに向かいます。
「茶寮」「カフェ」と言う言葉のイメージとは全く違う建物。
カフェ「世世」ぜぜでは、このシャンパンサービスや朝食を提供しています。
どうみてもお寺だが、と思ったらやっぱりそうでした。
ここは昔、興福寺の子院(本寺に所属する寺)世尊院でした。
建物に入ると、改装後とはいえ、まだ微かに線香の匂いが感じられます。
ここで無料のシャンパンと軽食を楽しみ、それから夕食、という趣向です。
この日はGBくんの「日本で食べたいものリスト」から寿司を選びました。
MKの恩人に日本でもとびきり美味しい特別な寿司を体験してほしい、
とTOが満を持して選んだのが、この鮨&バー、その名も「正倉」。
知事公舎時代、蔵であった建物の中に作られました。(それで正倉)
最初に、一人1匹ずつ、笹の葉でできたバッタがお迎えしてくれました。
目を楽しませるためだけの演出で、気がついたらいなくなっていました。
最初の小鉢、「AWA」。
自芋茎と無花果を泡で和えたもの。
ハモと松茸のお吸いもの。
金目鯛の昆布締めでございます。
赤身。とろけるようなトロでした。
シャキーン!と道具が出てきて、炙り鮨。これらのお寿司を味わったGBくん、身体をのけぞらせて、
「(今までで世界で一番美味しいと思った)
ニューヨークの何とかいうレストランより美味しい」
とMKにそっと囁いたそうです。(何とかは忘れた)
ちなみに彼の父はいわゆるセレブリティなので、
アメリカの超一流のレストランも体験済みですが、
その彼が言うのですから、よほど感動してくれたのでしょう。
「昨日空けたお酒ですがいかがですか」
と、板前さんにおすすめされた黒龍の「火いら寿(ひいらず)」。
名前の通り生酒で、限定品ということです。
MKのグラスからふた口だけもらってみましたが、
丸みのある甘さと馥郁とした香りがただものではない印象でした。
最後に和牛の炙り。
デザートは奈良らしく、葛を焼いた羊羹風お菓子、そして
お土産として革の袋(鹿の皮かな)に入った金平糖をいただいて終了。
■ 奈良公園の鹿模様
次の日の朝、早く起きたわたしは隣の奈良公園に散歩に行きました。
奈良県立美術館には、学校の遠足や見学で何度も来ていますが、
最後に来たのは家族と展覧会を見に行った20年以上前です。
最初に遭遇した鹿さんたち。
立派な角をお持ちの雄です。
奈良の鹿が「神様の使い」とされていることは誰でも知っていますが、
彼らが、元々茨城にある鹿島神宮の神である武甕槌命を背中に乗せて、
春日山までやってきた白い鹿の子孫であることはあまり知られていません。
それにしても茨城から奈良まで大人の男を乗せて歩き切った鹿グッジョブ。
自動販売機の横にもいる・・。
奈良の老舗である奈良ホテルに宿泊し、朝起きて庭を見たら
そこに鹿が佇んでいたと言う話を聞いたことがありますが、今回泊まったホテルでは、もし庭に鹿がお入りになった際は、
「丁重にお願いして出て行っていただく」とのことでした。
神様の使いは多少のことは大目に見られるので、実にフリーダムです。
公園の反対側の緑地帯にも生えていました。
角切られたばかり?
今はもう終わっていますが、このときは角切りの行事間近でした。
看板を見ていると、もうすぐ切られる予定かもしれない角を持った鹿が、
水たまりにやってきておもむろに泥浴びを始めました。
人間がお風呂に入っているような爽快さがあるのでしょう。
ひとしきり泥を浴びると、角を使って痒いところを掻くの図。
角切られちゃったらお尻掻けなくなるね。
「小心牡鹿」は中国語で「牡鹿に注意」という意味です。
現在雄ジカは発情期に入ったということなので、
主に外国人に向けて、英語、韓国語、中国語で注意がありましたが、
鹿が暴力を振るうというより、殴ったり蹴ったりして鹿を怒らせ、
その結果襲われる中国人の事件が頻発していることを受けてでしょう。
こっちが何もしない限り鹿は絶対に向かってこないんだよ!(怒)
看板を見ていたら、一頭の雌鹿が横断歩道を渡ってきました。
(奈良では鹿もちゃんと交通法規を守る)
すると、ねえねえ、という感じで雄の鹿が彼女に近づいて行きます。
もうこの段階から、雌鹿ちゃんは警戒して身を固くしているのがわかります。
雄鹿がずいっと一歩踏み出したところ、雌鹿ちゃんってば、
「あ、あたし用事思い出しちゃった」
という感じで雄の脇をすーっとすり抜けていくではありませんか。
全く脈なしです。もはや生理的に嫌われているレベル。
雌鹿ちゃんの雄のかわし方は、あくまでさり気なく、
ずっと地面に落ちている何かを探している風を装っているようなのが、
まるで上司のセクハラを気付かぬふりでかわす部下女子を見るようでした。
雄鹿は彼女の去っていくのをその姿勢のまま見送っていましたが、
あたかも最初からこの場所に用事があったように柵を見つめています。
鹿にも「気まずい」とかいう感情ってあるんですかね。
最初は(相手を刺激しないように?)ゆっくりでしたが、
もうここまで来たらスタスタと早足で逃げていく雌鹿ちゃん。
振られた雄は途中まで後を追って彼女の後ろ姿を見ていましたが、
わたしに気づくと「何見てんだよ」と言いたげに睨んできました。(ように思えました)
この後、県庁横のスターバックスに行ったのですが、
可愛らしい木彫りの鹿が店頭に飾ってありました。
背中にコーヒーカップを乗せているのは、おそらくこれがなければ
子供を乗せて写真を撮る中国人(断言)がいるからだと思われます。
鹿の横の看板には4カ国語で乗らないように注意書きが書いてありました。
県庁の施設の一環だと思われる広報コーナーでは、
休憩したり検索したりできる施設が充実しています。
手前はやっぱりというか、中国人限定の鹿関係の注意喚起ポスター。
■ 朝食、昼食、チェックアウト
朝ごはんは、知事公舎の客間を修復・再生したレストラン、
「翠葉」でいただくことになっています。
茶粥か白米が選べる朝ごはんのお膳。
もちろん美味しかったですが、この頃になると私たちはあまり会話もなく、
全員が静かに黙々と出されたものを食べるといった感じでした。
日本人の我々にとってもこの辺りになると和食ばかりは辛かったので、
アメリカ人二人にはそろそろ限界だったかもしれません。
朝食の後、帽子屋さんに行きました。
昨日の京都行軍で、帽子なしで炎天下歩いたGBくんは、
白人肌のため、すぐに火傷状態になってしまったので、とにかく
何か陽を防ぐかぶりものを買いに行く必要があったのです。
そこで思いついて、「中川政七商店」本店に行ってみたのですが、
季節の変わり目ということで日除けのための帽子は売っていませんでした。
お店の人は申し訳なさそうに「帽子屋でしたら裏の商店街にあります」
と教えてくれたので、みんなでここに行ってみたと言うわけです。
こんな商店街の個人店(失礼)だから安いかと思ったら、
GBくんが最終的に選んだごく普通のつばのある帽子が、
(モンベルだと3〜4000円?)8000円と高額だったのが驚きでした。
その後、全員でフラッと入った同じ商店街のビンテージ古着店では、
主にアメリカから仕入れてきたらしい古着、軍の制服(名札付き)とか、
この「マイク・ハーレイの思い出のために」と書かれた帽子とかを見て
ゲラゲラ笑い、全員でやたらハイになって盛り上がってしまいました。
ところでこれ、マイク・ハーレイなる人物が亡くなって、彼を知る人が、
決して彼を忘れないようにと、こんな帽子を作ったということなんですが、なぜそれが日本の、しかも奈良にある?
帽子の持ち主がグッドウィルとかに寄付しちゃったってことだよね。
マイク・ハーレイの悲しい思い出はもうどうでもいいのか。
それと帽子の鹿のマークが気になります。
なぜ鹿?奈良と関係ある?
ホテルに帰って、チェックアウトしてから車と新幹線二組に分かれました。
全員の荷物を積んだ車にわたしとMKが乗り、GBくんとSAさんは、
TOと一緒に新幹線に乗って横浜のホテルにチェックイン。
わたしたちは彼らのホテルまで荷物を届けるという作戦です。
写真は、ホテルの駐車場でアップルカープレイがなかなか作動せず、
いつまでも発車できずに二人でごちゃごちゃやっていたところ、
敷地内で作業を始めた植木屋さんです。(深い意味はありません)
同時刻、奈良公園で3人は鹿にせんべいをやっていました。
TOがあげたせんべいを食べている鹿の後ろから、怪しげな雄(目隠ししておいた)が体を擦り寄せていますが、TOによると、
この雄鹿はこの後、雌に結構な狼藉を働いて、辺りが騒然としたそうです。
嗚呼、煩悩の季節。
この後、わたしとMKを乗せた車は渋滞に全く引っかかることもなく、
順調に帰ってきたわけですが、富士山付近で見た雲が変でした。
この写真ではわかりにくいですが、富士山にも薄く雲が被っています。
これは富士山付近では珍しい現象ではなく、度々見られる竜のような巻雲で、
日本海側に発達した低気圧があるときなど、
湿った風が富士山にぶつかることでこういう形を形成するのだそうです。
この後、横浜のホテルに到着し、部屋にいた彼らに(寝ていた様子だった)
トランクを渡したのは、夜の7時半くらいのことでした。
彼らはこの日からしばらく横浜に滞在して観光を行い、
その後、最後の恩返しツァーにわたしたちと一緒に出発することになります。
続く。