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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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USS「ハロルド・J・エリソン」〜ミッドウェイの英雄のための

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バッファローはエリー湖の辺りに位置するネイバルパーク。
ここに展示されている艦艇の内部をご紹介しています。
今、タロス巡洋艦「リトルロック」の甲板階(セカンドデッキ)を
艦尾から順番にメスデッキ、CPOデッキなどの見学をしてきました。

■ファーストクラス・メス



このコンパートメントは、艦内地図によると、
「ファーストクラスメス」つまり上級下士官用ダイニングだったところです。

ペティオフィサーファーストクラスとはE6、
二等兵曹の上、チーフペティオフィサーの下となります。

下士官クラスの二番手ですが、ちゃんと彼らのために
特別のダイニングルームが用意されています。

それぞれの階級とその任務に強い矜持を持つ米海軍下士官ですが、
レディットという英語のチャットを漁ったところ、
「ファーストクラスメス」というスレでこんなことを言っている人がいました。

「ファーストクラスメスってなんの冗談だ。
チーフになれないけど特別扱いはされたいE6の群れだろ」

また、E6として着任した経験のある人は、

「私と何人かの同僚は、着替えを済ませた後、すぐにFCPOA(ペティオフィサーファーストクラス)のミーティングに参加させられ、
そして"メスへようこそ!!! "という扱いを受けた。
そして私たちは『E6とはこういうものなのか』と実感した。

覚えておいてほしいのは、新入りのE6は、
LPO(Leading Petty Officer、伍長?)の役割に落ち着くまでは、
給与を上げることを(上が)余儀なくされない限り実質E5だということだ。

なのにその、まるで高級カントリークラブのような雰囲気は、
奇妙で、私たちを混乱させるに十分だったし、
一緒に働いていたE6もそれに加わっていたので、さらに居心地が悪かった。

私はそういうのが全く好きではなかった。

しかし、当時のFCPOAのリーダーたちが、実際に司令部を動かし、
会費を使って積極的にイベントを立ち上げていたことは知っている。

人々が正しい考え方を持っていれば、悪いことばかりではない。
それが船の士気を高めるために使われるのであれば、純粋に役にたつ。

ただ、艦内を歩いていて、ファーストクラスとそれ以外を分ける
メスデッキを見るたびに、私はゾッとしたものだ。

ファーストとそれ以外の乗組員との待遇の違いも忘れられない。

その一方で、私はファーストの一人として、まるでMLM
(マルチ商法)の勧誘みたいに、そこらへんのファーストから『バディ』『バディ』とバディ扱いされていた(笑)」

うーん・・・ファーストクラス・メスは、というか、
このファーストクラスE6という地位に対する評判悪し。
あるいは「特別扱いを求めるE6」の評判、かな。

アメリカ海軍の中もいろいろあるんですねー(棒)

■ USS 「タイコンデロガ」

一体アメリカにはいくつ「タイコンデロガ」がいるんだよ、
とわたしならずとも誰しもが思うかもしれません。

半分写ってなくてすまん
材質から見てかなり古い時代のプラークだと思います。
何故ここにあるのかは、おそらく盾の黒いプレートに書いてあるのですが、文字を読み取れなかったのでわかりません。


わたしも、このファーストクラスメスの入り口に、何故かこの
「タイコンデロガ」のプレートがかかっていることから、気になりました。

そもそもタイコンデロガが独立戦争の戦地となった地名なので、
アメリカ海軍には1814年のスクーナーからイージス艦まで、
歴代5隻ものUSS「タイコンデロガ」が存在します。


イージスシステム搭載ミサイル巡洋艦「タイコンデロガ」CG-47は、
ナンシー・レーガン大統領夫人によって命名された巡洋艦です。


第二次世界大戦中、第4代「タイコンデロガ」(空母)に特攻が命中し、
多大な損害を受けて一度退役することになった日から35年後の
1981年1月21日を選んで起工が行われました。

「タイコンデロガ」は発注時はミサイル駆逐艦になる予定でしたが、
その後巡洋艦に変更になり、史上初のイージスシステム搭載艦となります。

2004年に退役した後、歴史協会はなんとか「タイコンデロガ」を
どこかに展示館として保存できないかと模索したのですが、
結局引取り手がなく、2020年解体されることになりました。


■駆逐艦「ハロルド・J・エリソン」DD-864

で、いろいろと回り道しましたが、ここかつての「ファーストクラスメス」は
現在駆逐艦「ハロルド・J・エリソン」ルームとなっています。



なぜ一室丸々が「エリソンルーム」になっているかというと、
ネームシェイクとなったハロルド・J・エリソン少尉が
他でもない、ここニューヨーク州バッファローの出身だからです。

部屋の全てが「エリソン」一色。
ガラス戸棚の中はエリソン少尉の年表が。

新車と一緒に。嬉しそうですね。
アメリカ海軍少尉 ハロルド・J・エリソン少尉は、
1917年1月17日、ニューヨーク州バッファローに生まれ、
ニューヨーク州ブルックリンのプラット美術応用芸術大学に入学しました。

プラットインスティチュートは日本では知る人もあまりいませんが、
1800年代からある芸術系大学で、各界に著名人を輩出しています。

「トムとジェリー」のアニメーターであるジョセフ・バーベラ、
俳優ではテレンス・ハワード(レッドテイルズ、アイアンマンのローズなど)
ジェフ・モロー、ロバート・レッドフォードもここの卒業生です。



1941年ブルックリンで米海軍予備役に入隊。
学校を卒業してしばらくデザイナーとして働いていた頃でしょうか。


エリソンの飛行訓練記録

その後すぐに、航空母艦USS 「ホーネット」に乗艦し、
第8魚雷戦隊に配属されました。



何故彼の名前が駆逐艦に遺されたかというと、それはご想像の通り、
彼がこの作戦で名誉の戦死を遂げたからです。

1942年6月4日のミッドウェー海戦で、エリソンは、ダグラス TBD デバステイター雷撃機によって戦闘機の援護なしに日本海軍の空母への攻撃を強行しました。
ミッドウェイ作戦において、デバステーター隊15機は零戦隊に撃墜され、
パイロットと通信兼後部射手の30名のうち、
ジョージ・ゲイ少尉を除く29名が戦死しましたが、
このときデバステーターのパイロットの一人だったのがエリソンです。
このときのTBDのパイロットは全員、ミッドウェイのヒーローとして
戦後(他の部隊から不満が出るほど)その偉業?を讃えられました。
もちろん、後席のナビ兼銃撃手の15名はこの対象とはなりませんでした。

要は手違いで掩護なしの出撃をしてしまったこと、そして
当時の零戦隊にはまだベテラン勢が残っていたこともあって、
戦果を残すことなくただ撃墜されてしまった、というのが現実ですが、
アメリカ軍的には、
「この攻撃で日本軍の編隊が乱れ、第2次攻撃の準備を遅らせた。
その後の第6水雷戦隊と第3水雷戦隊による攻撃でもこの混乱は続き、
日本軍の戦闘空中哨戒隊を占拠する一方で、
米海軍の急降下爆撃機がほとんど気付かれずに潜入した。
その後、急降下爆撃機は日本軍の航空母艦を大成功を収め、
第8水雷の犠牲からわずか1時間後には、日本軍の航空母艦3隻が炎上した」
という具合に、この後の戦況は全てTBD隊あっての成功、
という語り口で戦死した全員を英雄として扱うことになっています。

エリソン少尉もまた1942年6月5日に「死亡推定」と分類され、
ミッドウェーでの「勇敢な行動により」死後 海軍十字章を授与されました。


海軍十字賞の献辞は以下の通り。
「1942年6月4日、敵日本軍とのミッドウェー海戦において、
魚雷中隊EIGHTのパイロットとして、職務を超えた英雄的功績により。

エリソン少尉は、戦闘機の防護なしに飛行することの危険性を痛感し、
空母に戻るには燃料が不十分であったにもかかわらず、
自分の身の危険を顧みることなく、
そして激しい攻撃や敵の日本軍機の砲火をものともせず、
効果的な魚雷攻撃を行った。

エリソン少尉の勇気ある行動は、自己犠牲の勇気ある精神と
任務遂行への良心的な献身によって遂行され、
敵軍撃破の決定的な要因となり、
米国海軍の最高の伝統に沿ったものであった。」

■ 駆逐艦「ハロルド・J・エリソン」建造

ミッドウェイ海戦におけるデバステーター隊の戦死者で、
駆逐艦に名前を遺した人を調べてみましたが、14名全員ではありません。

ジョン・C・ウォルドロン(隊長:中佐)
USS「ウォルドロン」DD-699

ユージーン・E・リンゼイ少佐
USS「リンゼイ」DD-771/DM-32/MMD-32
ジェフ・デイビス・ウッドソン大尉USS「ウッドソン」DE-359
ジェイムズ・C・オーウェンス大尉
USS「ジェイムズ・C・オーウェンス」DD-776

ウルバート・M・ムーア少尉
USS「ウルバート・M・ムーア」D E-442

ヘンリー・R・ケニョン少尉
USS「ヘンリー・R・ケニョン」D E-683
ウィリアム・ウィルソン・クリーマー少尉
USS「クリーマー」DE-308
そしてこのエリソン少尉の8名となります。
(他にいたらごめんなさい)
同じ条件?で戦死した同じ部隊のパイロットでありながら、
駆逐艦に名前が遺った人とそうでない人の違いはなんでしょうか。

隊長と副隊長以外は、大尉一人、残りは全員
ほとんどが予備士官である少尉ばかりです。

もしかしたら彼らが在籍していた大学と何か関係あるでしょうか。

ただし、最初に計画された「ハロルド・J・エリソン」DE-545
1944年に建造中にもかかわらず中止になりました。

理由はわかりませんが、その後すぐ「ギアリング」級駆逐艦に
改めて彼の名を冠したDD-864が就役することになります。

スポンサーになったのは、彼が死の直前結婚した妻オードリーでした。

■ 6ヶ月だけの結婚生活


海軍士官の娘であるオードリー・フェイとハロルド・エリソンは、
彼女がペンサコーラで働いていたとき知り合いました。
彼らはハロルドが「ホーネット」に転勤してすぐ、
1941年12月30日に結婚しました。彼がミッドウェイで戦死する6ヶ月前のことです。

わずか半年の結婚期間だったにもかかわらず、
オードリーは2006年に89歳で亡くなるまで教師を務めながら独身で過ごし、
その一生を退役軍人を顕彰するボランティア活動に費やしました。
彼女の遺灰は、かつて彼女の夫がウィングマークを獲得した
ペンサコーラのすぐ近くに葬られたということです。

続く。



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