Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2816

「コンバット・アメリカ」クラーク・ゲーブル陸軍少佐〜国立空軍博物館

$
0
0

以前、オハイオの国立空軍博物館の展示から、
ジェームズ・ステュアート准将についてお話ししましたが、
今日はその時に少し触れた、クラーク・ゲーブル少佐を取り上げます。

■ キング・オブ・ハリウッド

アメリカが第二次世界大戦に参戦した当時、
1901年生まれの俳優クラーク・ゲーブルは40歳。
徴兵年齢を大きく超えていましたが、彼は志願して、
1942年8月12日にロサンゼルスでAAFの二等兵として入隊しました。

俳優としてのゲーブルについて、今更説明するのもなんですが、
彼が大スターになるきっかけとなった「在る夜の出来事」で
アカデミー主演男優賞を獲得したのは1934年、そして、
「風と共に去りぬ」でレット・バトラーを演じたのは1939年のことです。

「戦艦バウンティ号の叛乱」も入れると、アカデミー賞作品に3度出演し、
この頃のゲーブルは押しも押されもせぬ大スターの名を獲得しており、
人々は彼を「キング・オブ・ハリウッド」と呼びました。

その彼が、なぜ入隊したのか。
それは、彼の妻の死がきっかけであったといわれます。

その生涯で5回結婚し、その他にも多くの女性と恋愛関係にあった彼ですが、
最初の3回の結婚は、言うたら彼が成り上がるための
「ラベンダー・マリッジ」(便宜結婚)という色合いが強いものでした。

ちなみに最初の妻は先輩女優で、2番目の妻の紹介者。
2番目の妻は17歳歳上のパトロネス兼マネージャー兼演技コーチ。3番目のはテキサスの社交界の名士で大金持ちというラインナップです。

4番目の妻、キャロル・ロンバードと結婚した時には、
ゲーブルはすでにスターとして成功していました。

ある意味、ロンバードはゲーブルにとって、初めての
利益関係なしの純粋な恋愛相手だったのかもしれません。


『風と共に去りぬ』の出演料を前妻との和解離婚のために費やし、
既婚者同士のダブル不倫から結ばれた二人でしたが、その結婚は彼の私生活で「最も幸せな時期」だったと言われます。
しかしそんな二人が新婚生活を送っているとき、真珠湾攻撃が起こりました。
■ 愛妻の死

ジェームズ・ステュアートなど、一部の俳優たちは現役に志願し、
彼の愛妻キャロル・ロンバードも、「戦争努力の一環として」
ゲーブルに入隊を提案したのですが、彼自身はそれには消極的で、
自身は国策映画に出演したり債権の宣伝をするつもりでした。
自分が軍隊に向いていない、と考えたようです。

一方、ロンバードは年明け早々国債販売のための宣伝活動に参加しました。


債権ツァーでのキャロル・ロンバード

1942年1月16日、彼女は母親とクラーク・ゲーブルの広報担当者、
オットー・ウィンクラーとともに故郷のインディアナ州に赴き、
戦時国債の集会に参加し、一晩で200万ドル以上を集めました。

イベントが終わり、1日も早くロスアンゼルスに戻りたかったロンバードは、
飛行機に乗るのが怖いという母親とウィンクラーの説得を押し切り、
当初の列車の予定を変更して、トランスコンチネンタル&ウエスタン航空の
ダグラスDST 機を手配し、乗り込みました。

その後、彼女らの乗った飛行機は、ラスベガス空港付近の山に墜落し、
彼女らと米陸軍兵士15人を含む乗客22人全員が死亡したのです。
The HORRIFYING Last Minutes of Carole Lombard
CAROL LOMBARD CRASH 1942
直接的な事故の原因は乗務員の操縦ミスでしたが、
間接的には戦争がその事故の遠因になったと言えるかもしれません。

なぜなら、真珠湾攻撃の直後だったこともあり、アメリカ当局は
特に太平洋沿岸から日本軍爆撃機が領空侵入してくる可能性を警戒して、
夜間飛行誘導用の安全ビーコンを切るよう通達していたからです。

そのため、TWA便のパイロットは、通常なら受信できたはずの
飛行経路での警告を受け取ることができず、それが事故につながりました。

このことから、キャロル・ロンバードは、第二次世界大戦の
最初の「アメリカ人戦争犠牲者」と宣告されています。

ゲーブルは、妻の死の後、スタジオや関係者の反対を押し切って、
以前は二の足踏んでいたアメリカ陸軍航空隊入隊を決行しました。

■ 陸軍航空隊への入隊

ゲーブルは、フロリダ州マイアミビーチの士官候補生学校に入学し、
その年の1942年10月28日に少尉任官して卒業します。
写真は彼の志願を受け付ける、

「Oath and Certificate Enlistment」
(宣誓と入隊証明書)

で、" I Declare to~"で始まる宣言文が手書きされています。
(すまんが彼の字はマジ読めない)
ところで、妻の死からたった9ヶ月で士官に?と驚かされますが、
実際、ゲーブルが入隊したのは8月12日、友人の撮影監督、
アンドリュー・マッキンタイアと共に入学したのは17日。
9ヶ月どころか、たった2ヶ月の訓練で士官任官してしたことになります。

しかし、これは映画俳優の彼が特別扱いされたからではなく、
入隊したのが陸軍航空隊USAAFのOCSクラス42-Eという、つまり、
パイロットとかではなく、爆撃「搭乗員」養成コースだったからです。
B -17の胴部銃手の資格を得たゲーブル

しかし、その後、アメリカ陸軍は彼を特別扱いしました。
当然と言えば当然です。

まず、約2,600名の卒業生のうち、成績が700番前後だったにもかかわらず、
彼が卒業生を代表してスピーチを任されました。
もっともこれは、学校側ではなく、同級生の総意だったそうですが。

そして、卒業生に任官状を手渡した、当時の航空隊司令、
ハップ・アーノルド将軍その人から、
「彼(とついでにマッキンタイア)にしかできない特別任務」
が下されました。

それは、第8空軍(戦略空軍)の航空銃手募集のために宣伝映画を作ること。
当時の新聞はこのことを次のように報じています。

”陸軍省外の情報筋によると、昨日、ミスター・ゲーブルが、
空軍司令官のH・H・アーノルド中将と協議したと分かった。
ゲーブルは、任命されれば、空軍のための映画を製作するとされている。
軍服を着たもう一人の俳優、ジミー・ステュアート中尉は、
すでに同じ任務に当たっている。”

ジェームズ・ステュアートとクラーク・ゲーブル
(ちなみに、女性関係の派手さに関して言えば、二人は対極にあった)
任官前のゲーブルが「ミスター」なのに対し、ひと足さきに陸軍入りした
ステュアートが「中尉」と呼ばれていることにご注意ください。
ゲーブルは爆撃機訓練学校に入隊して航空砲手になるつもりでしたが、
陸軍上層部が彼をそんな地味な?配置に置いておく筈もなく、
彼はマッキンタイアと共にフロリダの砲術学校で基礎知識を学んだ後、
ワシントンのフォート・ジョージライトで写真コースを受講させられます。

順調に陸軍の思惑どおりコース終了した彼は、終了後中尉に昇進しました。

ゲーブルが中尉に昇進した時の宣誓書です。

就任宣誓

私、クラーク・ゲーブル(自筆)は、
アメリカ合衆国憲法を守るために一時的に任命されましたので、
アメリカ合衆国憲法を支持し、忠誠を尽くすことを厳粛に誓います:神よ、我を助けたまえ。

クラーク・ゲーブル陸軍中尉
フロリダ、マイアミビーチにて1942年10月28日、
私の前で宣誓し、署名した

アール・ジョーダン中尉
航空隊簡易裁判所

■ 1943年、イギリス

1943年、ゲーブルは第351爆撃隊所属中、大尉に承認されました。これは6人からなる映画部隊指揮官という地位に相応しい階級です。

マッキンタイアに加え、脚本家のジョン・リー・メイヒン、
カメラマンのマリオ・トティ軍曹とロバート・ボールズ軍曹、
録音担当のハワード・ヴォス中尉という構成の部隊で、ゲーブルは
命じられたリクルート映画の制作のためにイギリスに駐留していました。
元MGM社撮影監督のマッキンタイア中尉は、ゲーブルの入隊に伴い、
訓練と任務に同行させられた、いわば「道連れ入隊」でしたが、
陸軍の意向によって本業の撮影に専念することになり、
この撮影のほとんどを担当し、また、メイヒンが脚本を担当しました。

主演とナレーションはもちろんゲーブルです。

第351爆撃隊に所属している間、ゲーブル大尉は
観測員&銃手として公式には5回の戦闘任務に就いたとされます。
【第1回目の任務】
最初の戦闘任務は 1943 年 5 月 4 日。
第 351 爆撃隊が作戦行動を開始する前の慣熟任務でした。
このとき彼の爆撃隊はRAFの部隊と共にアントワープにある
フォードとゼネラルモーターズの工場を「模擬攻撃」しています。
ゲーブルは無線室に設置された機関銃から数発発砲した際、極寒の中で革手袋をはめていたため、軽い凍傷を負うことになりました。
(もしかしたら見た目重視のオシャレ手袋だったのか?)
【第2回目の任務】

1943年7月10日、第351爆撃飛行隊第508爆撃飛行隊のB-17、
「アルゴノートIII 」でフランスのヴィラクブレーの飛行場を爆撃する任務、
つまり初めての実戦を体験したということになります。

この任務は雲のせいで目標に爆弾を投下せずに帰還せざるを得ず、
しかもドイツ軍の戦闘機に攻撃されるという苦い結果になりました。
【第3回目の任務】

第4回目の任務を終えてB-17の横でリラックスするゲーブル大尉
彼の左のロバート・W・バーンズ中佐は1970年、陸軍少将として引退した

1943年7月24日、第351 飛行隊の先鋒機を務める「アルゴノート III」
(ロバート W. バーンズ中佐指揮)で、ノルウェーの
ノルスク・ハイドロ化学工場を爆撃する任務に就きました。
【第4回目の任務】

1943年8月12日、ルール地方のゲルゼンキルヒェン合成油工場を爆撃。
悪天候の中、作戦に参加した330機のB-17のうち25機が撃墜されるなど、
この日は第8飛行隊にとってこれまでで最も危険な任務となりました。

第351飛行隊のフォートレスは撃墜こそされなかったものの、
11機が損傷、1機が帰還中不時着し、乗組員1名死亡、7名が負傷しました。

ゲーブルは、ドイツ軍戦闘機が編隊に5回接近してくるたび、トップターレット(上部砲塔)銃手の後ろに身を隠していましたが、
20mm 砲弾が編隊を組んでいた別のB -17の飛行甲板から飛んできて、
それはゲーブルのブーツのかかとを切り落としながら飛び込み、
頭から 1 フィート離れたところに突き抜けていきました。
(つまりフレンドリーファイア)

後からゲーブルが記者に語ったところによると、ゲーブルも乗組員も、
その時は無我夢中だったのが、高度 11,000 フィートまで降下し、
酸素を止めて周囲を見渡したとき、初めて砲塔の穴と裂けた靴の踵、
機体に全部で15個の穴が空いているのに気づいたということです。

【第5回目の任務】

ゲーブルの最後の戦闘任務は、1943年9月23日、
フランスのナントの港湾地域への早朝攻撃でした。

彼はバーンズ中佐らとともに、B-17「ダッチェス」に乗り組みました。
この時のミッションでは悪天候で半数が集合できず、
しかも残り半分は迎撃戦闘機によって大きな被害を受けましたが、
幸いにも爆撃機の損失はありませんでした。

この時ゲーブルは、撮影クルーを爆撃機のいつもの腰部に残して、
自分は機首の銃手の配置に就いています。
(記述はありませんが、機首銃手が手が離せなかったか、
あるいは負傷したのかもしれません)


公式の任務以外に、広報担当として、メディアのインタビューも受けました。
女優ビービー・ダニエルズのインタビューを受けるゲーブル。

相手の目をじっと見つめ、右手をさりげなく女性の椅子の背に置いています。
まるでいつでもその手を彼女の肩に乗せられるかのように・・。意識的か無意識かはわかりませんが、これは実に女心をくすぐるテクですね。

でも、これはゲーブルだから許されるのであって、
その辺のおっさんがやったらそれはただのセクハラ行為だ。

■「コンバット・アメリカ」

5回の戦闘任務を完遂したクラーク・ゲーブル大尉は、
航空勲章を受章し、後に殊勲飛行十字章を受章しました。

その最後の3回の任務は、特に危険な編隊指揮機に搭乗しており、
実際にも僚機が何機も撃墜されて指揮官クラスを失っていたことから、
彼はその任務を果たしたことに対し、忖度なしの賞賛を受けました。

しかも、公式任務数5回となっていますが、共に勤務した兵士たちは、
ゲーブルは実際には非公式に他の任務にも参加しており、
この5回は全体のほんの一部に過ぎないと証言しています。

ゲーブル大尉は、1943年11月5日に第351飛行隊を離れ、
5万フィートを超える16mmカラーフィルムを持って米国に帰国します。最終階級は陸軍少佐でした。

そして1944年、ゲーブルがナレーションを担当した映画
「コンバット・アメリカ」が劇場で上映されたのでした。
"Combat America" with Clark Gable
B-17の離陸シーンは43:00くらいから、
ミッション中のB-17内を撮影した映像は46分すぎから始まります。54分ごろ爆撃機の爆弾槽が開き、爆撃が開始されます。
そのあとはほとんど最後まで迎撃戦闘機との戦いが続き、
僚機が火を噴くシーンも収められています。

乗組員たちの冷静で淡々とした会話は驚くべきで、最後に誰かが「Goodnight Sweetheart」を歌い出すと、乗組員が唱和したりしています。

1931 HITS ARCHIVE: Goodnight Sweetheart - Ray Noble (Al Bowlly, vocal)

現役任務をとかれ、帰国した後もゲーブルはAAF予備役将校でしたが、
戦後、俳優として映画制作のスケジュールが殺到すると、
軍任務を果たすことが実質不可能になり、1947年9月26日に退役しました。

1960年11月16日に心臓発作により逝去。


ハリウッドの数多のスターの中で、「最も男らしい男」
「王のように歩き、王のように振る舞い、王のように生きた」
と評されたクラーク・ゲーブルは、
「男であること」について、次のように語っています。
「男が持つべきものは、“人生の賭け”に対する希望と自信だ。

戦いに対するプリンシプルを持ち、物事に対し不誠実になる前に、長々と言い訳を並べる前に、死に対する覚悟を決める。

それだけのことなのだ」

続く。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2816

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>