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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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「戦艦のように戦った駆逐艦」サミュエル・B・ロバーツ〜「リトルロック」展示

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「リトルロック」艦内の展示、駆逐艦水兵協会シリーズより、
今日はまずサマール沖で日本海軍と戦った、ある駆逐艦についてのお話です。

■ In Footsteps of Brave Men
勇者たちの足跡
1986年4月、「オリバー・ハザード・ペリー」級ミサイルフリゲート艦、

「サミュエル・B・ロバーツ」USS Samuel B. Roberts (FFG-58)
が就役しました。


上の記事に添えられた写真の左端が就役時の「サミーB」です。
このフリゲート艦は、第二次世界大戦中、ガダルカナル島で孤立した海兵隊員を救助した功績により、死後海軍十字章を受章した海軍水兵、
サミュエル・ブッカー・ロバーツ・ジュニア
Samuel B. Roberts jr.(1921-1942)
にちなんで命名された3隻目の艦です。
ちなみに一代目は、
USS Samuel B. Roberts (DE-413)
二代目は、「ギアリング」型駆逐艦、


USS Samuel B. Roberts (DD-823)
それでは、その横の2隻との関係は何でしょうか。

■サマール沖海戦

まず、真ん中の艦番号52は、同級の

USS「カー」Carr (FFG-52) 
1944年10月25日のサマール島沖海戦に参加した
USS 「サミュエル・B・ロバーツ」で後部砲の配置だった三等砲手、ポール・ヘンリー・カーの戦功を称えて建造されたフリゲート艦です。

そして、325の艦は、やはり同級の17番艦、

USS 「コープランド」Copeland (FFG-25)
この名前は、やはり「サミュエル・B・ロバーツ」艦長だった、
ロバート・W・コープランド中将(最終)にちなみます。
コープランド

このときカー水兵は戦死し、コープランド艦長は救出されています。それでは「サミーB」は帝国海軍とどのような戦いをしたのでしょうか。

「ジョン・C・バトラー」級駆逐艦護衛艦であるSS「サミュエル・B・ロバーツ」(DE-413)は、
サマール沖海戦で日本海軍によって撃沈されました。
サマール沖開戦は、1944年10月のレイテ沖海戦の一部で
同艦はタスクユニット77.4.3(「タフィ3」)の一員として
少数の駆逐艦、護衛駆逐艦とともに護衛空母を守っていました。

そして、サマール島沖で重武装した日本の戦艦、巡洋艦、
駆逐艦からなる栗田艦隊と対峙することになります。

10月25日の夜明け直後。
陸軍の攻撃を航空支援していたタフィ3がサマール島東岸沖を航行中、
栗田健男中将の指揮下にある23隻の日本海軍の機動部隊
(センターフォース)が水平線上に現れ、攻撃を加えてきました。
状況を見たコープランド艦長は、乗組員に向かってこう艦内放送します。

「この圧倒的不利な戦いにおいて、おそらく生き残ることは不可能だ。
我々は、やれる限りやって損害を相手に与える」
駆逐艦の煙幕に隠れて、発見されず突進した「サミーB」が
2.5海里(4.6km)まで艦隊に迫ったとき、砲弾がマストに命中し、
それが魚雷発射装置を詰まらせましたが、すぐさま修復。

「鳥海」に2.0海里の距離まで潜り込み(射程放線より低い)魚雷発射。
この時見張りは少なくとも1本の魚雷が命中したと報告していましたが、実際には「鳥海」に魚雷は命中していません。
(但し同じ英語のWikiでも、『カー』の項では艦尾に命中とされている)

そのとき重巡洋艦「筑摩」が現れ、米空母に向かって幅射撃を行ったため、
コープランド艦長はそちらに進路を変更し、砲撃を命令しました。
このとき艦長は、

「魚雷を発射する。
効果があるかは疑問だが、我々は任務を遂行する」
と放送しました。

このとき「筑摩」は空母と「サミーB」の間に位置していました。
「サミーB」は小型で高速の相手に対して難しい攻撃を強いられます。

この後35分間、「サミーB」の艦砲は5インチ弾全弾、600発以上を発射し、
「筑摩」と交戦を行いますが、すぐに「筑摩」だけでなく、
「大和」「長門」「榛名」からの砲撃をも受けることになります。

8時51分、巡洋艦の砲弾が「命中し、ボイラーの1つが損傷。
「金剛」が0900に「サミーB」の機関に決定的な打撃を与えました。そしてついに0935、総員退艦の命令が下されます。

「サミーB」はその30分後に沈没し、乗組員90名が死亡。
コープランド艦長含む乗組員120名の生存者は、救助されるまでの50時間、
3つの救命いかだにしがみついていました。

ポール・カー3等砲手

このとき「サミーB」で砲架52、後部5インチ砲を担当していたのは
ポール・H・カー3等砲手(21歳)でした。

砲架52は、攻撃を受けて爆発するまでの35分間で、
貯蔵されていた325発の弾丸をほぼすべて発射していました。

52を担当していたカーは爆発を受けて倒れ、
腸に重傷を負って瀕死の状態で発見されましたが、
そのとき彼は手に最後の弾丸を抱いたままで、
破壊された砲に最後の砲弾を手で装填しようと繰り返し試みていました。
そして、救助に来た者に弾丸を装填するのを手伝ってくれと懇願しました。

そして「サミュエル・B・ロバーツ」が日本帝国海軍の砲撃で沈没する直前、
カーは砲塔の横で息を引き取りました。
彼には死後銀星章が授与され、誘導ミサイルフリゲート艦に名を遺しました。


■ メトカーフ3世中将の演説


「軍隊、特に海軍ほど伝統が重要な職業はない」

これはグレナダ侵攻で指揮を執ったメトカーフ3世中将の演説です。
「サミュエル・B・ロバーツ」に見られる水兵、特にカーの勇敢な戦い、
自らを犠牲にして戦ったヒロイズムについて以下のように述べています。

「タイコンデロガ」「ヨークタウン」「ヴァンセンヌ」・・。
これらの独立戦争における戦いの名が、現在は
アメリカ海軍のイージス艦の名前となっていることが表すように、
伝統を受け継ぐもの、それが海軍でもある。
伝統にまつわるもう一つの重要な出来事は、今年4月12日に行われるUSS「サミュエル・B・ロバーツ」(FFG 58)の就役である。
この日、3隻の水上戦士は、1944年10月25日のレイテ湾制圧戦における
サマール沖海戦のように、再び足並みを揃えることになる。

その歴史的な日に、LCDRロバート・W・コープランドはUSS「サミュエル・B・ロバーツ」(DE413)を率いて、数でも火力でも圧倒的に勝る敵との戦いに臨んだ。
「ロバーツ」には、オクラホマ州出身、19歳の3等砲手、
ポール・ヘンリー・カーも同乗していた。戦闘に勝利し、レイテ湾への上陸を確実にしたのは、コープランドLCDRの優れたリーダーシップ、勇気、専門知識、そしてカー下士官の並外れた勇気と活躍によるものだった。
しかし、その代償は大きかった。
下士官カー兵曹と多くの乗組員は生き残れなかった。
 「サミー B.」は沈没したが、その前に彼女は
「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」という賞賛を獲得したのである。

この艦、艦長、そしてインスピレーションを与えてくれた乗組員が、
USS「 コープランド」 (FFG 25)、USS「カー」(FFG 52)、
USS「サミュエル B. ロバーツ」FFG 30として艦隊に戻ることになる。

これは今日の海上戦士にとって何を意味するか?これら戦闘フリゲート艦とイージス巡洋艦との関係は何だろうか?

非常に簡単に言うと、それは地上の戦士と過去、
つまり戦闘と革命の伝統とのつながりなのである。
イージスの新たな戦術を模索する際には、
アイデアの革命を起こさなければならない。
「古いやり方」にだけ埋め込まれた慣習をやめなければならない。
しかし同時に、戦いの伝統は維持しなければならない。

今日地上の戦士は、過去の戦いに斃れた人々の英雄的行為と闘志を忘れず、
また先を見据えて新たな革命が近づいていることを認識しなければならぬ。
卓越した戦闘の伝統を築くことは我々の責任である。

そうすることで我々は世界で最も偉大な海軍であり続ける保証がされる。


海軍作戦部長 J・メトカーフ3世アメリカ海軍中将
このような感動的な演説を紹介した後に残念速報ですが、
このメトカーフ3世中将ったら、そのグレナダ侵攻作戦後、
補佐官数名とともに、捕獲したソ連製のAK-47を国内に持ち込み、
ノーフォークの海軍基地で乗っていた機からそれら24丁と弾倉が押収され、
逮捕?されるという不祥事を起こしています。

軍規則と米国関税法のどちらにも違反していたからです。

しかし、ロナルド・レーガン大統領が介入したこともあって、
メトカーフは海軍から警告を受けただけですみ、しかもその後、
海軍作戦部副参謀長に任命されるなど、全く昇進にも影響なしでした。
ただし、この特別扱いが適応されたのはメトカーフだけで、
一緒に同じことをした下士官6名と下級将校1名
(うち2人は海兵隊員、5人は第82空挺師団の兵士)は全員降格、
しかも不名誉除隊となり、少なくとも1年の懲役刑を受けています。

本人にはどうしようもなかったのかもしれませんが、それを差し置いても
そうと聞くと、このご立派な演説の有り難みもあまりなくなりますね。

同じことをやっておいて、というか一番階級が上の彼が責任者なのに、
彼だけが無傷どころか出世して、部下を見捨てた?ことには違いありません。
■ 「サミュエル・B・ロバーツ」

最後にサマール沖での「サミーB」と、三代目「サミーB」の因縁の話を。

1988年、「サミュエル・B・ロバーツ」はイラン・イラク戦争のとき、
クウェートのタンカーを保護する作戦に参加しました。

補給艦と合流するとき、見張りが付近に機雷を発見し、
艦長のポール・リン中佐は、艦が機雷原に入ったことを確認すると、
乗組員を戦闘配置に送り、艦底の乗組員を甲板に上げました。

艦はエンジンを逆転させて機雷原から後退しましたが、
係留されていたイランの接触機雷に接触し、その爆発は竜骨を破壊し、左舷に穴をあけ、2つの区画に 2,000トンの水が浸水し、
大火災が発生したため、5分間とはいえ停電に見舞われ、
消火活動もままならない状態になりました。

必死のダメコンで艦は一応安定しましたが、乗組員10人が重傷を負い、
4人が重度の火傷を負い、リン艦長も機雷の衝撃波で左足を骨折しました。
上層部から艦を失う可能性について尋ねられたリン艦長は、
我々は決して艦を放棄しない、という答えの最後に、

「これに勝る栄誉はない」
と付け加えました。
「サミュエル・B・ロバーツ」(DE-413)の艦長、
コープランド少佐が、サマール沖戦闘後の報告書に記した、

「これらの人々と共に任務に就いたこと以上に名誉なことはない」

という言葉をこの時に引用したのです。

アメリカ海軍士官学校の同窓会ホールには、レイテ湾海戦で

「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」

という名声を得た「サミュエル・B・ロバーツ」と、
その乗員を顕彰するコンコースが存在します。


続く。

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