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ベッシーとロキシー〜ベシカ・レイシェ博士 女流飛行家列伝

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スミソニアン博物館の黎明期の女流飛行家のコーナーを見ていて、
この写真が目に止まったことから、彼女を紹介する気になりました。
■ 女性による史上初単独飛行達成者


Bessica Faith Medler Raiche M.D.
写真写りがどうというより、この雑な切り抜きのせいで
女性である被写体の気持ちにならずとも、残念すぎる肖像です。
ネックレスをしていなかったら男性と思ったかもしれません。
どうせならこちらの写真を使って欲しかった
添えられた説明を読んでみましょう。

ベシカ・レイシェは、この時代の女性には珍しい2つのキャリアを追求した。
1910年、彼女は夫と一緒に作った飛行機で単独飛行した。
それ以来、彼女は医学の学位を取得し、開業医となった。

1910年当時、アメリカでは(というか世界でも)、
当時登場した飛行機に乗る女性はもちろんのこと、
医学博士も少なかったということがわかります。

(我が日本ではもう少し早い時期に楠本イネ、吉岡弥生、
そして同時期には荻野吟子などが女医として活躍している)
ますます興味が出て、彼女を飛行家列伝で取り上げることにしたのですが、
まず、Raiche をどう発音するのかわからず、YouTubeを検索してみました。

ところが、三本見つかった動画の発音が皆違います。

Women's History Month - Bessica Raiche
この動画はレイチ、もう一つの公開できない動画はリシェと言っています。

Throwback Thursday - Rockford's Aviation History
こちらは、研究者?がテレビの番組でインタビューを受けているもので、
この人の、レイヒという発音はもしかしたら正しいのかもしれません。

しかし、この人が飛行家として活躍していた1910〜1920年ごろは、
サイレント映画の時代で、音声のあるニュース映像がなかったため、
今となっては「レイヒ」だったかどうかも確かめることはできません。

Raicheがフランス系の名前であるということなら、可能性としては
フランス発音で「レシェ」が一番近いのではないでしょうか。

ですので、本稿では中をとって?レイシェとします。


まず、 THIS DAY IN AVIATION という航空版「今日は何の日」サイトには、1910年9月16日、として次のように紹介されています。

1910年9月6日: ベシカ・フェイス・カーティス・メドラー・レイシェ医学博士は、
何の訓練も受けていなかったが、夫のフランソワ・C・レイシェとともにニューヨーク州ミネオラの自宅で製作した飛行機で単独飛行に成功した。

そして、これは「女性が単独飛行した史上初」であるというのです。

今まで何人もの女流飛行家を紹介してきた当ブログですが、
どの飛行家たちも、何らかの形で功績を上げてきたからこそ名前が残るので、
果たして誰が何の「史上初」なのかわからなくなっていました。
ところが、名前の読み方も世間的に確定していないらしいこの飛行家が、
「史上初の女性」とされていることを知り、正直驚きました。
記憶を辿る限り、女性で初めて操縦をしたのは、
ざーますメガネのお嬢様飛行家、ブランシュ・スコットだったのでは?
と思い、あらためて自分のログを読んでみたのですが、

ブランシュ・スコット〜空飛ぶトムボーイ

彼女がカーティスに操縦を習ったことは分かりましたが、
意外と「史上初」のタイトルではなかったことが確認できました。
(超音速の飛行機に乗った最初の女性という記録はありましたが)

この「今日は何の日」の記事では、その辺の経緯もちゃんと記してあります。

レイシェが単独飛行を行う2週間前の1910年9月2日、
ブランシュ・スチュアート・スコットも、
グレン・ハモンド・カーティスの指導を受けながら、
飛行機で単独飛行に成功している。

スコットは飛行機とその操縦に慣れるためにタキシングの練習をしていた。カーティスは、飛行機のスロットルに細工をして、
離陸するのに十分なほどスロットルが進まないようにしていたが、
折から吹いた突風のせいで、飛行機は意図せず離陸してしまい、
このことによってブランシュ・スコットはアメリカ人女性として
初めて単独で飛行機を操縦したと考えられている。

なんと、レイシェの2週間前にスコットが飛行成功していたんです。

しかしですね。
おそらくカーティスの、

「お預かりした大事な(金持ちの依頼主の)令嬢に何かあっては大変だから」

という配慮からスロットルにストッパーをかけていたことで、
つまりその飛行は「意図的なのものではなく、つまり偶然」とみなされ、
アメリカ航空学会はこれを正規の記録として認めませんでした。
そしてベシカ・レイシェを初の「意図的な女性の単独飛行者」としました。

「自分の意思で、飛ぼうと思って飛んだ」

ということが、カーティスの名前や超富豪のパパの力より優先されたのは、
当時のアメリカの組織が今ほど堕落していなかったということでしょうか。


同協会が彼女に授与したダイヤモンド入りの(翼の真ん中)金メダルには、

「The First Woman Aviator in America(アメリカ初の女性飛行家)」
と刻まれています。
(冒頭絵でレイシェが右手に持っている一つがそれです)

■ 夫婦で飛行機を制作

ベシカ・メドラーを一言で表すなら「多才な女性」に尽きます。まず、当時の女性としては珍しい医学博士ということはお伝えしましたね。

1900年、ベシカは25歳でタフツ大学医学部に入学し、3年後に卒業。
ニューヨークの小児病院に勤務した後、開業しています。
1904年、ニューハンプシャーで開業していたとき、彼女は
フランス移民の息子、弁護士のフランソワ・レイシェ博士と結婚しています。
彼らの間には一女が生まれました。

医師という職業以外に、彼女は言語学者であり、芸術家でもありました。
そちらはプロではありませんでしたが、タフツ大学に入学する前、
フランスに留学して、そこで絵画と言語学を学んだのです。
これからわかるのは、彼女の実家が半端なく裕福で、
かつ女性も教育を積むべきと考える知的な層だったということです。
ブランシェ・スコットも資産家のお嬢様でしたが、まあ要するに、
女性(に限らず)飛行機に乗るなんてのは、本人のやる気以前に
経済的なバックアップがないと何も始まらなかったんですね。

彼女が飛行機の世界に興味を持ったのは、フランスで
オーヴィル・ライトのライト・フライヤーの実演を見たからでした。
史実としてのそれは1908年8月8日のことです。

この時期、彼女は医師として順風満帆に仕事をしていたので、
おそらく夫の故郷であるフランスに、旅行か何かで訪れていたのでしょう。

ライト・フライヤーの飛行を見た彼女は、ぜひ飛行機で空を飛んでみたい、
と思うわけですが、驚くのは、それを「飛行機づくり」から始めたことでした。

■ 自作飛行機

その後、アメリカに戻った彼女は、夫婦で飛行機を作り始めました。

ライトの設計図を使いましたが(どうやって手に入れたんだろう)オリジナルの重いキャンバス地のカバーの代わりに、竹と絹で重量を減らし、
家にあるグランドピアノを分解してピアノ線を利用するなどして、
全ての部品を家の中で完成させ、外に持ち出して組み立てました。


複葉機の全長は28フィート6インチ(8.687メートル)、
翼幅は33フィート(10.058メートル)。
C.M.クラウトが製作した約30馬力のエンジンを搭載していました。
そして、1910年9月16日、ニューヨーク州ヘンプステッド・プレインズで、
レイシュは自家製飛行機に乗り、単独飛行を成功させました。
この日、彼女は5回の飛行に挑戦し、最後の飛行は1.6キロを記録しました。
着地したとき窪地で飛行機が傾き、機体から放り出されましたが、
彼女は無傷で、飛行機もわずかに損傷しただけですみました。

このとき夫のフランソワでなく彼女が操縦したのは、
ただ単に彼女の方が体重が軽かったからですが、
このことで彼女はアメリカ航空協会に認定された、
アメリカ初の女性による単独飛行機飛行のタイトルを得たのです。

その後夫婦はフランス・アメリカ飛行機会社を設立し、
さらに数機の飛行機を製造したのですが、1925年に離婚しています。

■「ベッシー&ロクシー」の像



ところで、冒頭のレイシェ博士の肖像、気になりませんでしたか?
なぜ犬を左手に乗せているの?って。

これは、レイシェ夫妻が最初に飛行機を飛ばした、
ニューヨーク州ミネオラのロングアイランド駅に建てられた、
他ならぬベシカ・メドラー・レイシェ博士のブロンズ像をもとに、当ブログ絵画部が実物のように書き起こしたものです。

ミネオラが飛行の歴史に重要な役割を果たした、ということから、
レイシェ博士が選ばれたのは納得なのですが、それではこの犬は?

1901年(これはレイシェ博士がまだボストンで勉強していた頃です)
ロングアイランド鉄道のガーデンシティ駅に、
ロキシー(Roxie)という名の子犬が迷い込んできました。

子犬はいつのまにか駅に住み着いて、列車に乗り込んだり、降りたり、
その間乗務員や乗客にかわいがられるようになり、十分に餌を与えられて
いつのまにかLIRR(ロングアイランド鉄道)のマスコットになりました。

犬は、いつでも車両に乗り降り自由、どこに座ってもよろしい、
という「公式パス」を与えられていた上、
ガーデンシティの駅長の「養子」となって、駅舎で寝泊まりしていました。



これはイラストなのですが、セオドア・ルーズベルト大統領の右にいるのは、
他でもないこのロキシーくんで、有名犬となった彼はなんと、
大統領専用車で保養地のあるオイスターべイを訪れ、
「夏のホワイトハウス」と呼ばれる、サガモア・ヒルの
大統領の自宅を訪問するという栄誉を得るまで出世しています。

1903年、電車犬になってロキシーがずっとつけていたタグ。

「俺ロングアイランド鉄道犬のロキシーだけど、お前どこ犬よ?」

と刻まれています。(なぜ他の犬にマウントをとっているのかは謎)
冒頭イラストでレイシェ博士が持っているもう一つのメダルがこれです。

そんなロキシーが亡くなったのは1914年のことでした。
14歳というのは、犬としてはまあまあ長生きでしょうか。
以下、彼の死を報じる新聞記事です。

6月12日-ロングアイランド鉄道の犬、ロキシーはもういない。

ロングアイランド全域で知られ、何年もの間、
ロングアイランド鉄道の列車で毎日のように乗車していた犬は、
昨日午後遅く、ジャマイカのヴァンウィック通り76番地にある獣医師、
W・L・ジョンソン博士の自宅で、
1年以上続いた長引く病気の末に息を引き取った。

ロキシーは水腫を患っており、
冬の間、獣医師によって手厚く看護されていた。

14歳の犬、ロキシーはおそらくロングアイランドで最も有名な犬だった。
何年もの間、彼はファンから贈られた首輪をつけていた。
松の箱に入れられたロキシーは、今朝、
ロングアイランド鉄道の高張力部門総監督である
A・G・スラックの自動車で最後の走行をした。

ロキシーの遺体は、スラック氏と鉄道の電灯部門の主任である
C・F・ヤングに付き添われてリトアニア州メリックに運ばれ、
ロキシーの親友であったミス・エルシー・ヘスの家の前に埋葬された。

石切り職人が墓を示す小さな石碑を寄贈することを約束しており、
これには適切な碑文が刻まれる。

ロキシーを偲ぶ花輪は、鉄道会社の従業員やその他の人々から贈られたもので、
今日、墓の上に置かれる予定である。


その後、彼のストーリーは
「マイルズ・オブ・スマイルズ」という絵本にもなっています。
ところで、この絵本のロキシーの柄が本当なら、
わたしの解釈(ブチ白犬)は大いに間違っていたことになりますが・・
まあいいや。

というわけで、レイシェ博士は犬とは何の関係もないことがわかりましたね。

ブロンズ像「ベッシー&ロキシー」は、ロングアイランド鉄道の依頼で、
ドナルド・リプスキーというアーティストが製作しました。

何かこの駅に象徴的な存在の像を作る話になったとき、飛行家か犬か、
どちらも捨て難いので、一緒にしてしまおう、となったのだと思うのですが、
いくら何でも女性が犬を高く片手で掲げ持つデザインは・・・。

と思ったのはきっとわたしだけではないでしょう。
(にも関わらずその絵を描いてしまうのはおそらくわたしだけでしょう)
しかし、いずれにしても、2023年に完成したばかりというこの像は、
ミネオラ駅の広場で目にした者の興味をそそらずにいられません。

飛行服の女性、そして彼女が捧げ持つ犬。

多くの人が、自分のデバイスでその由縁を即座に調べ、
そして同時にこの地方にゆかりの深い二つの大きな存在について知るのです。
「実際には交わることのなかった二つの道が、
ミネオラと20世紀初頭の交通機関という共通点によって一緒になった」

作者はこのブロンズ像についてこのように説明しています。


さて、ドクター・ベシカ・レイシェの最後についても述べておきます。
1912年、彼女はカリフォルニア州ニューポートビーチに移転し、
そこで生涯開業していました。

産科と婦人科を専門とし、患者からの評判も大変良かったそうで、
オレンジ郡医師会の会長も務めるほど医師として実績もあったようです。

1932年4月9日、ニューポート・バルボア島の自宅で死去、享年56歳。
死因は心臓病の合併症によるものでした。

彼女は今、カリフォルニア州サンタアナの墓地に眠っています。



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