前回「つわものどもの筆の跡」では、深川製磁本社に訪れ、
ここにその筆の跡を残した軍人たちについてお話ししました。
今日は深川製磁と海軍、ひいては戦後自衛隊との関係について、
ここ深川製磁の資料室の展示ををお見せしながらお話しします。
しかしそのまえに(笑)、初代深川忠次が1900年のパリ万博での成功の
10年後に「宮内庁御用達」の指定を受け、今日に至るまでの
皇室とのゆかりについて先に触れておきたいと思います。
おそらく最初に御用達指定を受けたときの看板。
これも戦後になって宮内省が無くなるまで使われたものでしょう。
VOCの文字が入ったブルーの食器がありますが、VOCとは
Vereenigde Oostindische Compagnie
の頭文字で「東インド会社」の略称です。
東インド会社は日本で製造させた食器にこのVOCのロゴを入れて
ヨーロッパに輸入させていました。
深川製磁は勿論その前身の香蘭社を作った深川栄左エ門は8代目ですから、
東インド会社が解散する1799年までの間に深川が制作したものでしょう。
ご真影。
額か絵本体が陶磁で出来ているようでした。
御用達企業にのみ扱うことを許される菊の御紋。
ここにあるすべてのものは、全て謹製品と同じものです。
皇室に納めた品の「残り」がここに飾られているというわけです。
深川製磁が最初に御用達を拝命したときに謹製した食器類。
明治天皇と昭憲皇后両陛下の食器一切を請け負いました。
急須にも花瓶にも菊があしらわれて。
ご飯を食べると菊の意匠が表れる仕組み。
「日本の陶器」というページを開いた辞書を陶器で再現。
これについては社長に「何ですか」と伺ったものの
「ちょっと作ってみました」位の返事しかもらえませんでした。
右に三つ見えているのはボンボニエールですが、これにはご成婚される方の
お印があしらわれているのが普通です。
皇室の行事、たとえば
「成年式」「立太子礼」
などの記念品である杯もその都度受注し新しいデザインのものを作ります。
これにもお印があしらわれます。
一番左は黒田家に降嫁された内親王清子さまのご成婚のためのもので、
清子さまのお印は「未草」(睡蓮)です。
そして皇太子殿下ご成婚の際宮中晩餐会で乾杯に使われた杯。
杯はそのまま出席者の記念品として引き出物になりました。
こういった御用達品は世間に知れるよりもずっと早くから注文されます。
宮内庁の方も「これこれこのような」という注文を出しても、
何にどう使われるのかは決して明かしませんから、深川製磁の人々は
皆がそうと知るよりずっと早くご成婚されるらしいと推測しており、
制作の途中ニュースでそうと知る、というものなのだそうです。
先日高円宮典子女王の婚約が発表されましたが、深川ではこのころ
すでにお印の蘭の入った杯の受注でそうと知っていたと思われます。
皇后陛下の御還暦祈念に謹製された杯と花瓶。
花瓶の白樺の模様は美智子皇后陛下のお印です。
美智子妃殿下が入内遊ばすときにご自身で選ばれたもので、
天皇陛下と初めてお会いになった軽井沢の白樺からだとか。
これはお印とは関係なく、ただの果物などをあしらった皿。
国賓を招いての晩餐会の食器も深川が請け負います。
この、宮内庁とのビジネスのやり取りというのも色々あるらしく(笑)
深川社長は一度あまりにも注文の最終決定が来るのが遅いのに業を煮やし、
「決めるのなら決めて下さい、やめるならそういってください」
と催促?したところ
「そんなことをいう御用達は初めてだとえらい怒られた」
というようなこともあったそうです。
天皇陛下のご生誕時記念品として作られたものだそうです。
そういえば「皇太子様お生まれになった」という戦時歌謡がありましたね。
「ゆうせん」でこのチャンネルを聴いていると時々鳴ります。
「♪てんのうへーいかおよろこびー」と「♪こうごうへーいかおだいじにー」
という部分しか覚えていませんが(笑)
また、宮内庁からは、国賓への贈答品として注文が来ることがあります。
この金色のティーセットの模様はなんと手描き。
「ものすごく手間がかかり」とその苦労が書かれています。
このアーリア王妃ですが、ヨルダン国王フセインの第三王妃だった人で、
このティーセットが送られた翌年の1977年、
ヘリコプター事故で、まだ29歳の若さだというのに亡くなってしまいました。
合掌。
この黄色い磁器は中国の伝統的な色模様を再現したものです。
周りが朝顔なのに桜と椿、そして菊があしらわれています。
これは一つの画面に一年の季節の花を全部盛り込んで、
シーズンレスに対応するための工夫なのだとか。
これなら季節ごとに片付けたりする必要はありませんね!
ちなみに深川忠次は朝顔が大好きであった模様。
どおおおお〜んとおかれた巨大な壷。
前にもパリ万博に出品して金賞を受賞した大壺について書きましたが、
こうした大物を作るには、冠や台座を除いたボディの部分を4つに分け、
ろくろを回して作ったものを焼き上げてから接合するのです。
これをするには極端に高レベルのろくろ技術が問われますが、
この作業をしたのは天才ろくろ師といわれた井手金作という職人でした。
技術では右に出るものはなく、高収入を派手な遊びにつぎ込む芸術家肌で、
有田の人々は「華の金作」「派手の金作」と彼を呼んだということです。
継ぎ目が年月をへて目立ってきています。
絵付けももちろんのこと手描き。
熟練の職人技はもはや芸術の域です。
イギリスに店舗を構えていたときの看板と、おそらく
「宣伝用絵皿」であると思われます。
さてお待たせしました。
やっとこさこの写真を挙げるときがやってまいりました。
冒頭の白磁に金線の入ったエレガントな曲線のシチューポットにカレー皿。
いや、海軍のものですからシチューではなくカレーポットでしょう。
皿には桜に錨の海軍マークが。
これはまぎれもなく深川製磁が海軍から注文を受け、戦艦「三笠」艦上で
食事を・・・・カレーを食べる東郷元帥や加藤友三郎大将、そして
秋山真之参謀らの高級士官たちのために作られたものです。
といいながらいきなり寄り道です。
この連合艦隊司令部の写真は三笠に関係する資料では必ず見るものなんですが、
わたしはかねがね後列右端の超イケメン士官の正体を知りたいと思っていました。
この人ね。
しかし、全員の名前が書かれた資料は今まで見たことがなかったのです。
ところがこの旅行のとき見学したセイルタワーでは、写真に全員の名前が添えられ、
イケメンが
「清河純一」
というその響きも水が滴りそうな男前っぽい名前の参謀であることが判明しました。
(書くものも持っていなかったし、写真も撮影禁止だったので覚えて帰りました)
しかしこの爽やかな名は体を表すってやつでしょうか。
どうしてこんなに若いのに東郷元帥と一緒に写真を撮っているのかというと、
彼は参謀ということらしいので、先日の練習艦隊副官・阿川大尉のように
「戦艦三笠副官」とかだったからではなかったかと思っています。
その練習艦隊の話が出たので再び出して来る練習艦隊絵皿。
となりにちらっと見えている海軍マークの壷には、たしか
東郷元帥肖像が描かれていたような気もするのですが、残念ながら
どういうわけかこれだけ写真を撮り損なってしまいました。
この写真でいうと清河大尉(勝手に階級を決めてるしw)は
後列左端の参謀飾緒ではないかと思われます。
座っている軍人は皆膝の上で手を拳に握っていますが、
これは現在でも海自の「正しい座り方」です。
一人正しくない人がいますけど。
このころ製造された士官用の茶碗など。
先日コメント欄ですこし話題になった「海軍ドンブリ」もありますね。
やはり海軍だけに海とかフネにゆかりのあるデザインを使用しており、
右側の帆掛け船の小皿は浜千鳥に松、海という意匠です。
小皿の桜の花模様ですが、全部同じではなく「一つ花弁を散らした桜」
があるのが粋な感じがします。
ところでイケメンに気を取られて肝心の話をまだしていませんでした。
なぜ深川製磁は海軍御用達になったのか。
1878年の、深川忠次が総指揮を執って完成させた大壺が金賞となった
パリ万博の事務館長を務めていた日本人で、実業家となった
前田正名(まえだまさな)という人物がいました。
深川は彼の紹介により、東郷平八郎元帥に知己を得て壷を贈ったことがあり、
それ以来二人は親交を結んでいたのです。
その東郷元帥が直々に依頼したため、帝国海軍の織機製造は
深川製磁が一手に引き受けることになったのでした。
特に「三笠」始め軍艦に載せる食器は
「割れ難く丈夫でかつ美しい」
有田の陶磁製がまさにおあつらえ向きだと東郷元帥は判断し、
この決定を下したのだと思われます。
つまり深川製磁は連合艦隊司令長官の指定業者で、
それだけではなく元々社長は元帥のお友達なのですから、
ただの納入業者とは一線を画す扱いにならざるを得ません。
必然的に海軍と深川製磁とのお付き合いはそれから特別なものになります。
というわけでいつの間にか代々佐世保鎮守府に着任した長官は、
この地に着くなり有田の深川製磁まで出向き、
白磁の壷に名前を書くことが慣習となったのでありましょう。
また、このようなつながりもあります。
これはまた珍しい。
飛行機を導入するようになってからの海軍にはこんな絵が描かれた
湯のみも納められたということなのですが、
この旅行のとき買い求めた伊藤緋沙子著「華の人」には
こんな一文があります。
美智は楽しそうにそのことを報告した。
「喜美子姉さんの旦那さまは、今、三菱重工業で
『零戦』の開発を担当しているそうなの」
美智、とは深川忠次の息子、進と結婚した敏子(本編の主人公)の妹で、
喜美子とは敏子の姉です。
喜美子が嫁いだのは東大出の技術者野田哲夫。
風洞試験場主任であり、零戦の開発に当たって堀越技師が採用した
浮力調整のための「スプリット・フラップ」を開発し特許を取った人物です。
「零戦の開発をしている」というのは厳密に言うと間違いで、
野田技師がこの技術を開発したのはそれに遡ること4年前、
九六式艦上戦闘機のためでした。
技術屋で世間知らずだったのか欲がなかったのか、野田技師はこの特許を
外国で取ることをしなかったため、数年後にはアメリカ人に使用されてしまいます。
零式艦上戦闘機の開発責任者堀越二郎は
「なんで外国特許を取らなかったのか。金銭的な逸失もさることながら
日本の技術力を世界に知らしめることになったはずなのに」
と悔しがったとされます。
このようなところにも深川製磁と海軍の縁があったのでした。
この湯のみはおそらくですが野田哲夫が九六式を開発したことに
因んで作られたのではないかという気もします。
湯のみに描かれているのは零戦ではなく九六式みたいですし。
さて、深川製磁と海軍の縁は戦後も続き、現在でも海自には
このような接客用の食器が注文の度に制作されています。
注文があるごとに作り、余剰品を販売するので、
そのときのストックがなくなったら終わりです。
写真のマグカップも、ここに飾られているのと在庫が一つだけ、
最後の2個をわたしが買い占めてしまいました。
海軍時代ならずとも2〜30年前の海自では、護衛艦の士官室でも
金色の錨が入った深川製の珈琲碗皿が普段用として使用されていたそうです。
また防衛駐在官が赴任するとき、任国で交換するギフトには
深川製磁の富士山の絵皿などが多数調達されてきたそうです。
おまけ*
2階の資料室の見学を終わり、1階でこの珈琲カップをお遣いものにするため
購入手続きをしていますと、店内に痩せたネコが入ってきました。
カウンターの下からお店のお姉さんに向かって鳴いてます。
「そんな鳴いたってここなんにもないよお〜」
お姉さんはネコに言ってきかせますが通じません。(そりゃそうだ)
取りあえず長期戦を決め込んだらしく、ネコは脚拭きマットで毛繕いを始めました。
1枚目の写真に写っている靴の先は深川社長の靴なのですが、
お客さんも何人かいる店舗のなかに汚い野良猫が入ってきても、
社長は全く意に介する様子がありません。
かといって構ったり声をかける様子もありませんでしたが、
そこにいたいならいさせてやる、という感じで話をしながら眺めているだけ。
客をアテンド途中の社長が
「しっしっ」
と目を三角にしてネコを追っ払ってもなんら不思議はないのですが。
これにこの人の「質」の上品(じょうぼん)を見た気がしたわたしです。
土曜日なのに車以外人っ子一人いない駅前通り。
まるで書き割りのようにも見える街有田を後にして、
わたしたちは今日の泊地、ハウステンボスに向かいました。
(ハウステンボス編に続く)