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佐世保探訪〜海軍兵学校とハウステンボス

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深川製磁本店を訪ねるのが目的の旅は、わたしの強い希望により
佐世保の海自基地で週末行われている艦艇公開と、
セイルタワー見学を無理くり盛り込みました。

ただし、行くのはわたし一人だけです(笑)

TOと息子は普通に宿泊先のハウステンボスを見学することになり、
またしても我が家は別行動で観光をしたのでした。

有田の深川製磁本社を辞した我々は社長に駅まで送っていただき、
そこからタクシーでハウステンボスのホテルヨーロッパに行きました。



ふおおおおお〜。

なんかいきなりベルサイユ宮殿みたいになってるし。
いや、わたしはベルサイユには行ったことがあるけどこんなじゃなかったな。
見てないけどルイ王朝当時の昔もこんなじゃなかったと思う。



なぜベルサイユを想像したかというと単純に薔薇だらけの空間だったから。
小さいときの刷り込みって怖いですね。

それにしてもこの薔薇だらけの空間、これはただ事ではない。
何かと思えば、このときハウステンボスでは薔薇が満開で、
「ローズガーデンフェア」なるものを開催していたため、ここ
「ホテルヨーロッパ」もロビー中を薔薇で埋め尽くしていたというわけ。

これを見ていただくだけでもおわかり戴けるかとは思いますが、
とんでもなく手間とお金がかかっているデコレーションです。

連休明けでそんなに暑くもない頃でしたが、薔薇を保たせるために
ロビーの温度を低く設定していると断りがありました。 




これは時計ではなく、巨大なオルゴールです。
真ん中の金属板を時計の針のような爪が掻いて音を奏でます。
このときロビーではヨーロッパ人らしいアコーディオンとバイオリンのデュオが
真っ昼間だというのに生演奏でタンゴを奏でておりました。

こういう空間に身を置くと、何より費用対効果が気になるもので、

「あんまり宿泊客もいないみたいだけど、大丈夫なのかな」

などとつい思ってしまう貧乏性のわたし(笑)
TOから聴いただけで詳細は不確かながら、一旦経営不振になったものの
旅行のHISが経営に加わったので最近はかなり調子もいいとか。



なぜここに泊まることになったかと云うと、ここは金美齢さんの定宿で、
金さんは九州地方に来る用事があるとここに泊まる、と聴いていたからでした。

いい意味での贅沢好きの金さんが気に入っているのならきっと、と思ったのです。

雰囲気としてはディズニーシーに隣接した「ホテルミラコスタ」のような感じ。
ふんだんに土地はあったらしく、人口の運河ぞいに建物を建て、
まさにベネチアの雰囲気です。
ホテルからは船でチェックアウトすることもできるとかできないとか。



部屋から窓の下を見下ろすと、船が行き来しています。

ベネツィアのゴンドラに乗ったことがありますが、あれは観光用なので
手漕ぎでモーターはついていません。
ここでは大量に観光客を乗せるという設定なので勿論モーター付き。

しかし、完璧なこの舞台装置なのに何かしら、言っては何ですが
違和感を感じる眺めでもあります。

たとえばこの船でも船尾に乗っているのはバッグを斜めがけにし、
お揃いのようにちゃんちゃんこ状のベストを着て黒い運動靴とも革靴とも
つかない中途半端な中高年女性の良く履いている靴を履いた
おばちゃんの団体と、ピンクのトレーナーにピンクのパンツをはいた
女児を連れた家族連れだったりするわけ。

勿論ここは日本だから当たり前の光景ではあるんだけど・・・・
ベネツィアでゴンドラに乗ることになったときも、ツァーだったため、
船に乗っているのは当然ながら全員が日本人。

リタイアした老夫婦や子供連れ、つくづくその陣容を見て、
まるで長良川の渓流下りの船に乗っているような気さえしました。
そして自分もその一員でありながら

「似合ってねえ・・・」

と日本人団体と周りの光景のミスマッチに苦笑したものですが、
それと同じ現象がここでも起こっているようでした。


ちなみにベネツィアのゴンドリエは、日本人ばかりの客を甘く見たのか
それはわかりませんが、制服の上から着込んだジャンパーを最後まで脱がず、
しかもポケットに手を突っ込んだまま歌を歌っていました。

そんな競馬場のおっさんみたいなゴンドリエ、写真に撮りたくもないっつの。

わたしは結局園内に入らずに佐世保に行ってしまったので聴いた所によると、
園内はそれこそ中国人韓国人だらけだったとか。
さらにこの光景とそこにいる人間とは空間にねじれを生んでいたことでしょう。




ホテルの窓からの眺めはまるでヨーロッパ。
ただし夜になると雰囲気は一転します。
この巨大な教会の塔はライトアップされるばかりかそのものが
赤やら紫やらの禍々しい色が交互に点滅するのではっきり言って逆効果で、
うちの息子とTOは

「この教会イーブル(邪悪)すぎない?」

と二人でいちいちネタにして盛り上がっていました。
ヨーロッパの教会は普通7色に点滅はしないだろうな。



こうして写真に撮ると、確かに「良く造ったなあ」と思います。

しかしわたしはこの「日本にあるヨーロッパ」というコンセプトそのものに
天の邪鬼かもしれませんがこのときあまり意味を見出せませんでした。
実際にヨーロッパに行ってその非日常的な空間に身を置くからこそ意味があるのであって、

「その町並みをまねただけの人工的な空間」

にわざわざ行くことに果たして意味はあるのだろうかと・・・。

このときは明治村の方がよっぽど価値があると思ったんですね。
このときはね。(伏線)




客室はミラコスタよりもすこし田舎風で、ニースで泊まった
海辺の小さなホテルに似ていると思いました。



中庭に当たるところは壕になっており、まるでベネツィアのホテルにいるようです。
ここでわたしたちは何をするでもなく部屋でルームサービスのご飯を食べ、
夜になったら夫婦でスパでマッサージしてもらい(他に誰もいなかった)、
勿論テレビなど一度も付けずに全員がパソコンに向かい(笑)、
淡々と時間になったら寝るといういつも通りの夜を過ごしました。



次の朝、爽やかに目覚め、人がごった返すバッフェ式ではなく
サーブ式のレストランで朝食をいただきました。
うちの息子はホテルにしょっちゅう泊まるせいで朝のバッフェが大嫌い。

わたしも最近のホテルではあまりなくなってしまったサーブ方式の方が好きなので、
どちらでも好きな方を選べるこの方式はありがたかったです。


さて、このあとわたしはタクシーで佐世保に、二人はハウステンボスに。

わたしは自分の「海軍欲」を満たすために何の未練もなくここを発ったのですが、
後からたまたま一夜を過ごしただけのここもまた、
海軍に大変縁が深い地であることを、わたしはそのとき知りませんでした。



まずこれです。

ここから車で15分ほど行った、同じ針尾島内には、重要文化財である

「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」

があります。
海軍の佐世保鎮守府隷下の通信施設で、1918年(大正7年)完成しました。

この写真には「トラトラトラ・タワー」とインデックスがあります。
真珠湾攻撃の際「ニイタカヤマノボレ」を打電した塔とされていますが、
wikiによるとそれは千葉県の船橋送信所の間違いで、ここからは
長門からの打電を受け取り中国大陸に送ったとされるも詳細は不明だそうです。

戦後はアメリカ軍の接収後、海保と海自で共同運用していたそうですが、
1997年に後継の施設が完成してからは使われていません。

このことは行ったときから「時間があったら見に行きたかったね」
と話したりして知っていたのですが、それよりも後から聞いて驚いたのはここ、
ハウステンボスそのものが

「海軍兵学校針尾分校」「針尾海兵団」跡

であったということです。
そもそもハウステンボスが針尾島にあるということを知らなかったのですから、
さしものの海軍オタクもこれにはまったく気づいていませんでした。

わたしがハウステンボスに行ったことを前のエントリに書いたら、
メールでこのことを教えて下さった方がいてそれで初めて知ったという次第です。

滞在しているときにそれと知っていたらせめて

海軍兵学校 針尾分校之碑

を見に行ったのにな。
このページには「最後の海兵生徒」である78期生であった方が
碑を訪れた様子とともに針生分校の碑に書かれた文言を記しています。

これを読んでいただくと文中に

「同年7月防府分校へ移転した後 
同年8月太平洋戦争の終結により海軍兵学校は閉校となった」

とあります。
78期生徒がここに入学してきたのは昭和20年4月3日のこと。

「海兵生徒小沢昭一〜最後の兵学校生徒」

というエントリでこの78期生(正式には予科生徒という名称の
中高生であった)であった故小沢昭一氏について書きましたが、
その文中、

 一瞬の気の休まる間もない訓練、江田島ではなく防府分校の急ごしらえ校舎の
ノミ・シラミ、得体の知れない皮膚病を始め
赤痢や流行性脳炎すら発生する衛生環境の悪さで入院患者続出。
そんな中で毎日のように米軍艦載機の来襲を受け、のべつ裏山に逃げ込む毎日。

と78期生の学生生活について触れています。
ここ針尾に分校を作ったのは、この予科生徒だけで海軍は4000人もの人員を
この年採用したため、本科の生徒で既に手一杯の江田島だけでは全員を
収容できなかったという理由によるものでしたが、この針尾には前述の通信塔、
佐世保の軍港があったため、連日空襲に見舞われることとなりました。

犠牲者も出たため、兵学校は山口県の坊府に移転することになり、
7月上旬から空襲の相次ぐ北九州を4000名の生徒、教員、下士官など関係者は
臨時運行させた汽車での決死の移転作戦を決行します。

この決断は沖縄の玉砕を受けてのことで、海軍はこのとき

「次は九州全土が攻撃対象になる」

と読んでいたらしいことがわかります。
それで本州最端の山口への移転を決定したのでしょう。

しかし、このような事情で移転したため、設備らしい設備もなく、
九州ほど食品も豊かでなかったことから、予科生徒たちは、
上記のような酷い兵学校生活を送ることになるのです。

終戦の勅を聞いたときには「シメタ」と思ったという小沢氏のような
予科生徒がいても当然だったかもしれません。


しかし、残された手記をいくつか読むかぎり、ここ針尾島の分校は
空襲に見舞われる以外はそう劣悪な環境ではなかったようです。


戦争の推移に鑑み、海軍は兵力の増強のため、昭和19年、全国に
8つの海兵団を新設しました。

海兵団とは、海軍4等兵である新兵、海軍特修兵となる下士官教育のために
全国の各鎮守府に設置されていた教育機関のことです。


呉にもあったこの海兵団跡は現在「呉教育団」となり、海兵団と同じく
初等海士教育の場となっていて、わたしも2年前見学に行ったものですが、
ここ針尾には昭和19年5月、つまり兵学校予科の新設と同時に、
佐世保海兵団も併設する形で設置されました。

兵学校が移転したとき、海兵団はどうなったのかはわかりません。


海軍はこの針生分校で行う予科生徒たちへの教育に期待していたらしく、
(戦争が負けそうだから戦後の人材教育に資金をつぎ込んだという説も)
教育体制には万全を期していたようです。

たとえば教頭は7月15日付けでキスカ救出作戦でその成功を謳われた名将、
木村昌福(まさとみです。しょうふくではありません)少将に



 海軍兵学校教頭兼防府分校長 兼監事長 兼海軍防府通信学校長

という辞令を以て当たらせていますし、教官兼先任部監事として
メナド降下作戦で一躍名を挙げた堀内豊明大佐を任命しています。



いわゆる秀才タイプではなかった木村教頭に教育を任せたのですから、
ここでの教育方針が

「出来るだけ腹一杯喰わせて、体力作りを重視する」

というものになったのは当然の成り行きというものです。
堀内大佐はなんどもお話ししているように「海軍体操」の発案者で、
針生では生徒たちに自分の考案した海軍体操を指導し、成果を上げました。

海軍軍人として必須である水泳の教師には、



鶴田義行(アムステルダム大会200m平泳ぎ金メダリスト)



遊佐正憲(ロスアンジェルス大会800mリレー金メダリスト)

があたるという何とも贅沢な授業だったそうです。
鶴田のバイオグラフィによると1943年に海軍に応召されたとありますから、
どこか別の所で一般の応召任務に当たっていたメダリストを
海軍が見出してここに連れてきたと考えるのが良さそうです。

 

それにしてもこの終戦ギリギリの時期に、海軍というのはどこまで
「人材教育」に力をいれていたかということです。
その海軍側の意向は、人にもよりますが生徒たちにもある程度伝わったはずです。

何と言っても彼らにとって幸福だったことは兵学校生徒に取って最大の恐怖だった

「怖い上級生の修正」

が第一期生である彼らにはなかったことでしょう。
こんなのびのびした兵学校生活があるでしょうか。

万が一開校がもう少し早いか、終戦が遅かったら、組織の常として
そういった悪習ともいえる慣習も根付いていくことになったのかもしれませんが、
幸か不幸か、ここで兵学校生徒が過ごしたのはわずか三ヶ月間のことでした。

小沢生徒がそうだったように「国を護る覚悟」も「死ぬ覚悟」も、
つまり海軍精神を身につけるまで至らなかった生徒も多かったでしょうが、
いわば組織が硬直する前に全てが終わってしまったのですから、
その点だけは悪くなかったといえないこともありません。


ところが、この後移転した防府では、ある意味針尾より酷い生活が待っていました。
空襲の頻度はほとんど変わらず、校舎は殆どが焼かれて生徒館での仮暮らし。
そして食物が足りず栄養状態はたちまち悪化、おまけに集団赤痢が蔓延し、
軍医や教頭の木村少将までが罹患して倒れ、終戦までに死者12名を出したと云います。

わずか4ヶ月前、真新しい軍服にガワだけとはいえ短刀を吊って、
若々しい顔を期待と誇らしさで輝かせていたに違いない紅顔の前途ある少年が、
失わなくても良い命をこんな形で散らせて行ったという事実があったことを
わたしたちは記憶に留めておくべきでしょう。



さて、昭和20年7月から生徒の姿が消えたここ針尾分校は、戦後、
米軍に接収され厚生省佐世保引揚援護局として機能していました。

針尾島西部の浦頭港に帰着した船舶から上陸した引揚者は、
ここまでを徒歩で移動し、休息救護を受けたそうです。
そしてこの地で休息後、もよりの国鉄南風崎駅から故郷への帰宅の途につきました。


1950(昭和25)年9月からは警察予備隊針尾駐屯部隊が使用しています。

余談ですが、現在の自衛隊の階級も旧軍ととにかく変えることを目的に
「尉、佐」官には大中小の代わりに数字の「1、2、3」を充てるという
「珍案」(個人的感想です)を編み出し現在に至るわけですが、
警察予備隊時代の階級ってどんなだったか知ってます?

尉官に相当するのが「警察士」。
これに「1、2、3」がつき、たとえば1尉相当は「1等警察士」といいました。

うーん、なんだか犬の訓練士、みたいですね。
略称は何だろう。「1士2士3士」かな。


佐官は「警察正」、
将官は陸将相当が「警察監」、
陸将補が「警察監補」。

1948年には警察法でいわゆる警察組織もちゃんと存在していたわけですが、
こんなに紛らわしい階級で不便じゃなかったんだろうか。

まあ不便とまでは行かずとも皆イマイチだと思ってただろうな。
陸将が「けいさつかん」だもの。

しかしご安心下さい。

ポツダム宣言の受諾に呼応してその2年後この名称も消えてなくなり、
この階級が日本に存在したのはたった2年間のことでした。



さて、ここ針尾の地はその後昭和30年、警察予備隊が発展的解消した組織、
保安隊の駐屯地となっていましたが、それが相浦に移転した後は国有地となります。

ちなみに保安隊の階級は先ほどの「警察」を「保安」に変えたもので、
たとえば1尉相当は「1等保安士」(これも略称1士?)と称しました。

うーん、なんか「1等保育士」みたいですね。


その後ここは1969年着工、1975年完成の針尾工業団地となりました。
192億円のお金をかけて埋め立て地を含め長崎県が造成したものです。
しかし、工場誘致はまったく失敗に終わりました。

ちょうどオイルショックが席巻したこともありますし、
工業用水の供給がうまく行かず、もともとヘドロで埋め立てた土地は
雨が降ると地面に染みこまずに巨大な水溜りになり、乾燥するとひび割れを起こすような
最悪の土壌だったということもその理由だったようです。

ハウステンボスはその土壌を入れ替え、樹木林を形成させることからスタートしました。
土地購入費以上の投資をして土地を掘削し、堆肥を混入する有機的な土壌改良を実施し、
綿密な周辺調査に基づいて植栽を行い、約40万本の樹木と30万本の花を植え・・。

ここが、テーマパークというわりには派手な絶叫ライドもなく、
メインは街並と植物園であるということに、この造成のエピソードを知って
初めてわたしは合点の行く思いをした次第です。

道理で町並みにもアメリカ発祥の在阪某テーマパークのそれのような
書き割り丸出しの嘘くささがないわけです。
運河も、船が航行するところ以外は深さ30センチで、水には着色している、
というアメリカ発祥の在千葉テーマパークとは違い、本物です。

ここが工業団地としてもし成功していたら、この辺りは確実に
今の中国のような環境問題がその後起きてきたでしょう。
ヘドロで作った土壌の上に環境に配慮した工場が建てられるはずがありませんから。

そして、その後、そんな工業地として使われた跡地にテーマパークができていたら?

・・・・・・あ。思い出した。

そういえば「書き割りの街」のテーマパークは元工場地だったため、
環境汚染があるとかないとかそこの法務部の人が(ゲフンゲフン)



つまり将来の環境に巨額を投資するような日本的な企業が買い取ったからこそ、
今のハウステンボスは「舞台裏のない街」を実現させているのです。
(ハウステンボスにはテーマパークにありがちなバックステージがない)

かつての針尾分校が、終戦直前でありながら人材教育に力を入れたのと、
その後同じ地にできたハウステンボスの経営姿勢というのは
こじ付けかもしれませんが通じるものがあるなあと感銘を受けたエリス中尉です。

ハウステンボス、きっとまた行くと思います。
こんどはちゃんと入園して街並を楽しもうと思います。


・・・・・と、いきなり掌返しをするエリス中尉である。 



(佐世保見学編に続く)
 



 


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