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リーツェンの桜〜ドクトル肥沼を知っていますか

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今年の桜の開花は観測史上最速だそうです。
我が家の裏にある立派な大木も今7分咲き。
桜の名所である近くの公園には、
きっと今週末お花見を楽しむ客がやって来るでしょう。

本日のエントリは、桜の咲くであろうと思っていた
4月1日にアップしようと思っていましたが、
予想を裏切る開花の速さに、予定を変更して
慌ててログ作成しました。

日本の桜がドイツのある町で花を咲かせている、
という話です。




旧東ドイツのポーランド国境近くに、
リーツェン(Wriezen)という小さな町があります。

この700年の歴史のある市のある広場の墓地に、
この地に尽くして死んだ一人の医師が眠っています。

その墓石は高さ一メートルの大理石で、
表面には古代ギリシャの医神、アスクレピオスの持つ杖、
ヘビの巻き付いた杖の意匠が刻まれています。

またこの町では体育連盟の主催による少年柔道大会が行われ、
300名弱の参加者は全員大会前に、
この墓の前に詣でて花を捧げることを恒例としています。

この町の人々がこの医師の偉業を偲んで何かしよう、
ということになったときに思いついたのが柔道でした。

「彼は日本人だから、やっぱりするなら柔道だろう。
柔道をやろう」

その柔道大会はこう名付けられました。

「肥沼杯」

1946年、医師としてこの地にあって、瓦礫の町に蔓延する
チフスの治療に無私の情熱を注ぎ、ついには自らがその病に
斃れた日本人医師の名が冠されたのでした。


肥沼信次(こえぬま・のぶつぐ)は1908年(明治41年)
東京八王子に、開業医の長男として生まれました。

中学時代から数学にのめりこんだ肥沼は、
アインシュタインやキュリー夫人に憧れ、
ドイツに行って勉強したい、という夢を持っていました。

あまりにも数学ばかりを勉強しすぎて他の教科ができず、
旧制一校を不合格になった肥沼は、数学を東京理大で教える
アルバイトをしながら(笑)日本医大に入学します。
その後東京帝大からベルリン大医学部へを進みますが、
どこに行っても彼の評価は一つでした。

「数学の鬼」

医学部にいながら、数学ジャンキーの彼は、
「趣味は数学」と言い切るほど数学に熱中していたのです。

東京大学で放射線医学を学んだ肥沼は昭和12年、
29歳のときに憧れのドイツ、ベルリンに渡りました。
出発の日、横浜の港は冷たい雨が降っていました。
母や弟たちにとってこれが肥沼との今生の別れとなります。

ベルリン大学医学部で放射線研究所の研究員となった肥沼は、
留学6年目には論文が認められ、教授資格を得ます。

ベルリン大学の教授資格を東洋人が受理されたのは
肥沼が初めてでした。


当時ドイツは一次大戦の敗戦による社会の疲弊が、
アドルフ・ヒットラー率いるナチス党に対する大衆の支持を生み、
その独裁体制を一層強化する国情となっていました。

ヒットラーの民族主義はユダヤ人迫害、そしてアーリア人種至上主義
となって現れ、社会の中枢は次々と「ナチス化」されていっていました。

「白バラの祈り」という映画についてエントリを上げたとき、
ナチス式の挨拶を法廷がしてから審理が始まるシーン、
そして反ナチスの被告を罵倒するナチ裁判官について書きましたが、
法曹界、宗教界、公務員などの組織もナチ化が進められます。

医学界もその例外ではありませんでした。


「ナチス医師同盟」に医師は強制的に入会させられました。
ナチスに反対を唱える学者や医者は追放される運命だったので、
皆それに従うしかありませんでした。

44年の2月、肥沼はドイツ政府にある宣誓書を提出させられました。
その内容は次のようなものです。


「私はフリーメーソン結社に所属したことはないことをここに宣誓します」

「私は純潔な日本人であり、日本国籍を有することをここに宣誓します」

当時日本とドイツは同盟国でしたから、日本人は「名誉ドイツ人」
としていわば特別扱いになっていました。
しかし、当時のナチスの純血主義を鑑みると、この宣誓、
あえて純粋な日本人であることをあらためて宣言したこの宣誓は
肥沼の日本人としての矜持のさせたこととはいえ、
非常に勇気のいる発言でもあったと言えます。

ナチスに毫も媚びなかったこの態度が、今日に至って
彼を知る人たちに評価されている所以です。

また、肥沼は1944年、フンボルトハウスで行われた講演の中で
このように述べています。

「アーリア人こそ優秀な民族である、というが、
我々はヨーロッパ自然科学を生み出したのと同じ能力を、
日本人も前々から持っていたと考える」

「その証拠として次のような例を挙げたい。
ライプニッツやニュートンとほぼ同じ時期に、
日本人の関孝和は書式こそ違うとはいえ、かの高等な
微積分学とほぼ同一の計算式を考案していた」

「日本人は疑いなく種類や程度の高さにおいて、
ヨーロッパのそれと等しい
自然科学の研究能力を持っている」

「今日は欧州の築いた基礎の上に
独自の研究を重ねてはいるが、
他人の畑の果実を収穫するだけでなく、
自らの種を撒くことのできる知力を
備えていると言っていいだろう」

「日本人が一から行ったと評価されている業績もたくさんある。
山極勝三郎、市川厚一による癌発生システムについての研究、
吉田富三の肝臓がんを発生させる研究、
そして湯川秀樹の作り出した中間子理論などである」

肥沼は湯川がノーベル賞を受ける5年も前に、
その中間子論を高く評価していたのです。

アーリア人至上主義のナチス政権下で、このような
「日本人優秀論」を講演で唱えた肥沼が、はたして
どのように扱われたか。
このようなことは全く記録にありません。

彼がいつベルリンを去ったのかさえも、はっきりしていないのです。

ベルリンを脱出した肥沼は、終焉の地となるリーツェンに移りますが、
この町は当時酷い衛生状態であらゆる伝染病が蔓延していました。
ドイツ人の医師はすべて戦争に駆り出されていたので無医村状態。
あまりの発疹チフスの蔓延ぶりに、近隣の都市の医師は
伝染病に感染するのを恐れて診察に来ませんでした。

ここに一人、ふらりとやってきたドイツ人以上に正確なドイツ語を話す
日本人が、ベルリン大学の研究者で教授資格を持っていることなどを
ここの住民は何も知りませんでした。

彼は自分のことをほとんどしゃべらなかったからです。

ここで肥沼は、ベルリンからある夫人とその娘を伴ってきていました。
シュナイダー夫人というこの女性は、肥沼にとても献身的に
尽くしていましたが、「夫婦という感じではなかった」そうです。
この女性は肥沼の最期を看取ると、
どこへともなく去って行ったということです。




自分のことを話そうとしなかった肥沼が周囲に時折話していたのは

「日本の桜は大変綺麗です。
皆にぜひ見せてあげたい」

ということでした。





この地での肥沼の死闘が始まりました。
発疹チフスはペスト、マラリアとともに恐ろしい病気です。
シラミによって感染し、戦慄、高熱、頭痛、四肢痛、
めまい吐き気を伴い、発疹が次いで表れます。
重傷者は心臓の衰弱により死に至るのです。

この国境沿いには、ポーランドから退去させられた
大量のドイツ難民が400万人流れ込んできていました。
リーツェンの近郊には難民収容所が緊急に作られ、
大勢の病人が収容されていました。

そこは地獄と化していました。

人々はそこでただ虫のように横たわり、
苦痛ととシラミに苛まれて助けを求めていました。


「肥沼先生は、まるで勇敢な兵士のように入っていき、
身の危険も全く顧みず、もっとも酷い症状の患者に
持ってきた貴重な薬をせっせと与え、
また次々に患者を見て回るんです。
こんな無私無欲の行いを目の当たりにして、
気が遠くなるような感動に打たれました」


肥沼についていた看護婦の証言です。

それどころか、肥沼はたった一人の患者のために
雪の中を一人で往診に出かけ、診察料のことを
口にしませんでした。
これもまた、

「金銭のことを口にするのは下品である」

という意識が浸透している日本人ならではです。
そして、

「また一つの小さな命が救われた、よかった」

治療の効果が出て患者が回復するたびに
肥沼はこのようにつぶやいたそうです。

このように肥沼に命を助けられたリーツェンの住民は多く、
その伝説は子から孫へと伝えられ、いまでは
リーツェンの小中学校では必ず先生がこの日本人医師の
偉業について伝える時間があるのだそうです。


精力的に患者の間を歩き回っていた肥沼自身が
発疹チフスに倒れたのは、死の二か月前のことでした。

「ベッドに横たわっている先生の頬はすっかり落ちくぼみ、
顔が大変小さくなっていました。
額からは汗がどんどん吹き出し、私はふき取ってあげました」

家政婦だった女性の証言です。

肥沼が死んだ前日の3月7日はこの家政婦の誕生日でした。
かねてから誕生日パーティをやりましょうと約束していた肥沼は

「誕生パーティをやれずにごめんね・・・・・。
誕生日おめでとう」

と言い、次の日の午後一時、37歳の生涯を終えました。

肥沼の遺体は粗末な棺に納められ、数人の囲まれて
墓地に運ばれていきました。



戦争が終わったとき、研究者であった肥沼は日本に帰り、
専門の研究をしたかったことでしょう。
しかし、彼はリーツェンにとどまり病気に苦しむ人を診療した。

その無私の精神、そして「自死の心」を以て、
肥沼は「アピクレウスの杖」に忠実たろうとしたのです。
肥沼がドイツ人に向かって

「日本人は科学的な劣等民族などではない」

と堂々と述べたことからも、彼がヨーロッパ人の中にあって
日本人を代表する誇りと気概を常に持っていたことは
間違いのないところでしょう。


肥沼の本質は「研究者」であったはずです。
しかし、彼は目の前で苦しむ人々を医者として
見捨ててそこを去ることができなかった。


それは彼が日本人であったからこそではなかったでしょうか。



リーツェンの人々は、かつて自分たちの生命を助けてくれた
この日本人医師に対して感謝をし続けてきました。
そしてこの小さな墓を守り続けてきました。

しかし、日本の関係者に彼の行方は全くわからないままでした。
東ドイツの社会主義体制の中では、たとえ住民が感謝していても
「資本主義国の日本人」
ということで不審、異端を見る目で見る人々もいたからです。

しかし、ベルリンの壁崩壊後、社会体制が変わったことで、
ドイツ国内でもそれまで公にされていなかったあらゆることが
表に出るようになります。

肥沼信次のこともその一つでした。

リーツェンの新市長が市としてこの恩人である日本人医師の
生前の偉業を掘り起し、柔道大会や「肥沼通り」という
桜並木の道路を造る計画を進めた結果、
日本の遺族と連絡が取れたのです。

その際、弟の肥沼栄治氏が、兄が生前現地で言っていた

「日本の桜を見せてあげたい」

という言葉を知り、リーツェンに100本の桜の苗木を贈りました。
そのうち枯れずに残った50本が、市庁舎の庭で育ちました。

それが1991年のことです。

1993年に訪独した舘沢貢次氏によると、

「大きく育ったらこれを何本か肥沼さんの墓に移し替え、
残りは『肥沼通り』に植えたい」

と市長は言っていたそうです。

それから22年。
市長のその計画は実を結んだのでしょうか。


今頃、日本から贈られた桜は花を咲かせ、
今日本で咲いているのと同じ色のその花びらを
ドクトル肥沼の墓に散らせているのでしょうか。





参考:大戦秘史 リーツェンの桜 舘澤貢次 ぱる出版


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