しまなみ海道をご存知ですか。
正式には西瀬戸自動車道という、本州と四国を結ぶ道路で、
間に点在する島々を広島県尾道から今治まで繋がっています。
今回、わずかな時間ではありますが、ここをドライブしてきました。
といっても、わたしが運転したのではなく、全て地元の方にアテンドされ、
すべてお任せのらくちんドライブです。
現地には前日夜から入りました。
夕食は、某コンツェルンの会長と税理士さん、TO、わたしの4人で
舌がとろけそうなTボーンステーキを頂きながら会話を楽しんだのですが、
この会長さんの話が面白くて、話は大盛り上がりでした。
このグループの業務は多岐にわたりますが、その一環として
「交通」があります。
関西に有名な猫の駅長がいますね。
グッズの売り上げだけで年間6千万、経済効果11億、
しかも何の要求もしない。(会長曰く)
会社に取って「最優秀社員」であり「神様お猫様」。
この方はその「仕掛人」です。
仕掛人ならではの内部情報をここで少し公開すると・・・。
小さいときに売店のおばちゃんがポケットに入れて育てた。
最近メディアで有名になって「おばちゃんの化粧が濃くなった」。
おばちゃんは「この猫は私が育てた!」状態。
さらにはそのおばちゃんにおじちゃんの影が・・・(内縁の夫?)
という生々しい()話になっている。
初代駅長はもうお年(15歳)なので、
二代目三代目を育成しているのだが初代ほどのスター性がない。
なかでも一番笑ったのが、猫駅長に、和歌山名誉県民の申し出があった話です。
その話が和歌山県から来たとき、会長は恐る恐る聞いたそうです。
「ありがたいですが、他の名誉県民はたとえば誰が・・」
「松下幸之助先生と」
「ちょちょちょっとそれはご辞退させて頂けますか」
という楽しい夕べの次の朝、ホテルから庭を見下ろしたらこんな眺め。
朝ご飯はバッフェです。
昨日の夕食を頂いた外のテラスが見えています。
出発は11時。
まずは因島に行きます、ということで
機嫌良く車窓を眺めていたら、
「しまなみ海道→」という表示が通り過ぎました。
「今しまなみ海道って見えたんですけど」
「いや、大丈夫です・・・あれ?うーん・・」
車内でわたしたちがリクエストして、この方の息子さんのCD
(結構メジャーなビジュアルバンドのメンバーだった)
を聴いていたのがどうやら集中力を欠いた原因だったようです。
「ビジュアルロックに気を取られすぎました・・・」 (社長)
というミスで時間を少し無駄にしながらも、なんとか生口島(いぐちじま)に到着。
広島県尾道からは3つ目の島に当たります。
瀬戸内は思ったより小さな島がたくさんあります。
明らかに誰も住んでいない一軒家サイズの島も。
生口島の有名な観光名所の一つ、
平山郁夫美術館に来ました。
常設展示だけでなく、時々は展示が入れ替わるようです。
生涯たくさんの作品を残した平山先生ですから当然ですね(棒)
この二つの絵は、現代の京都を描いています。
どう見ても平安時代のような街並なのに、よくよく見ると、
ビルもその中にちゃんと描かれているのです。
どちらも巨大な絵でした。
美術館入り口。
平山郁夫がまだ生存中の1997年に出来たといいますから
もう17年も経っているのですが、大変新しく見えました。
このロビーの「気」が良いので心が静まって行くようです。
庭園の緑がまことに目に鮮やか。
エントランスには皇太子殿下ともうお一方、皇室の方(お名前失念しました)の
植樹がありました。
この美術館で特筆すべきは平山の幼少時の絵画が飾られていることです。
見たところ小さいときの絵はピカソやダリのように天才を感じさせるものはなく、
上手いけど所詮子供の絵だなという感じですが、13歳からいきなり上手になります。
しかし、芸大在学中の絵も正直「上手いんだろうけど・・」という感じ。
芸大生ならこれくらい描く学生はいくらでもいるだろうというレベルです。
そして有名になってからは「皆あの調子」。
つまりわたしはこの画家を評価していないらしいことがわかりました。
好きか嫌いかでいうと好きなんですけどね。
ところで、展示作品の一つに「瀞」という絵がありました。
瀞八丁は和歌山から奈良県にまたがる峡谷で、
瀞峡(どろきょう)は渓流下りの名所です。
実はうちの両親が新婚旅行に行った場所だったので、うちには
そのときに買い求めたという瀞峡の小さな油絵がずっとありました。
ところが絵の題名「瀞」の英訳は「A POOL OF RIVER」、
つまり「流れ溜まり」のような題になっていました。
わたしは帰りにこっそり一人で受付に行って、
「あれは和歌山の瀞八丁のことなので、英題は『DORO』だと思います」
とお節介ですが進言してきました。
美術館を出て、取りあえずお昼ごはんを食べることにしました。
歩いて行くと、かわった城壁のようなものが。
何とも不思議な佇まいです。
甍のしゃちほこ?は妙な形の魚。
白壁は至る所剥げて倒壊寸前といった感じです。
よく見ると、旧式のアンテナらしきものも見えます。
さらに区画沿いに歩いて行くと、ごらんのような洋館が。
しかもこれが・・、
お寺の一角に建っているのです。
「何でしょうか。シュールなお寺ですね」
まるで台湾にあったお寺のような・・。
このお寺の正体は「耕三寺」(こうさんじ)といい、
大正・昭和初期に鉄鋼業で財を成した大阪の実業家金本耕三が、
幼少期に過ごしたここ生口島に、まず母親の住居を建て、
それに「潮聲閣」という名前をつけました。
どうやらこのモダンな洋館は彼が母親のために造った家だったようです。
その母親が亡くなると、彼は出家して、
母の菩提を弔うための寺をここに建立したのだそうです。
それに加え、金本はかねてより、この地に誇りうる文化財のないことを
残念に思っていたため、母のために造った家の回りに、
日本各地の著名な歴史的建造物を模した堂宇で埋める計画を立てました。
つまり、ここに「ハウステンボス」や「ヨーロッパ村」のような
「なんちゃって寺院村」を作ろうとしたのです。
工事は完成までに30年を要し、1936年(昭和11年)に創建が始まり、
最後の宝物館が出来上がったときには1968(昭和43年)になっていました。
寺院というより、博物館というのがメインだったようです。
しかし自分の名前を寺院名にしてしまうとは・・。
これは日光東照宮を模した孝養門。
奥には平等院鳳凰堂を模した本堂などもあります。
時間があれば是非見てみたかったのですが、
もう一つくらい島に行ってみたかったので涙をのみました。
境内?はいたるところ蓮の巨大な鉢植えで埋められていました。
さすがに蓮池は造れなかったようです。
一つ一つの実は丁寧に布でくるまれていました。
耕三和尚の母親が好きだった花なのかもしれません。
お寺の向かいに飲食店がいくつかありました。
「穴子専門店とたこ料理専門店、どちらにします?」
どちらか決めかねて、TOに
「わたしが勝ったらタコ、負けたら穴子」
と決めてじゃんけんをし、勝ったのでタコ料理にしました。
こういう飾りのあるところには不安がないでもなかったですが。
TOはなぜか穴子定食。
タコの刺身、タコ天ぷら、タコ飯、タコのおひたし、
タコづくし定食です。
TOとシェアして、穴子も一口貰いましたが、
やはりタコ専門店であるせいか味付けは今ひとつ(辛かった)でした。
さすがにタコはお刺身と天ぷらが特に美味しかったです。
壁に貼ってあったレトロなアサヒビールのポスター。
復刻版のようです。
さりげなく部屋の片隅に平山郁夫先生の自筆色紙が!
年代物らしいおかめさん。
さて、この後わたしたちは車に乗って、本土に戻り、
尾道から一番近い島、因島に向かいました。
目的?
わたしの希望で、因島の村上水軍城を見るためです。
村上水軍は、南北朝時代から室町・戦国時代までを活動していました。
瀬戸内の水路を臨む島々に砦を築き、「海賊衆」と呼ばれ、
この海域の一大勢力を誇っていました。
村上水軍の「村上」は因島村上家のことで、瀬戸内海の中心で
11万4500石を領有した「海の大名」でした。
数百年間にわたってこの地域の制海権を握り、
たくさんの合戦に参加したのは勿論、遣明船の警護も行っています。
特に有名なのは6代目の村上新蔵人吉充で、
1555年、厳島の合戦では毛利氏側について、
織田信長率いる織田水軍を壊滅させた実績を持ちます。
瀬戸内の海は古くから
我が国の経済と文明の一大動脈であった その
海を制した村上水軍
自由と熱血の歴史 ここに眠る 奈良本辰也
奈良本辰也は吉田松陰など、幕末の歴史研究家です。
なぜかここに置いてある大小の錨。
いわゆる普通の錨は「ストックレスアンカー」なんですけど。
この日は夕方土砂降りになったのですが、そのせいか
朝からムシムシして陽射しの辛い一日でした。
車から出ると汗が噴き出すくらいです。
その中を
「ここまで来たんですから上りましょうか」
「上りましょう」
(わたしのパンプスを見て)
「奥様大丈夫ですか」
「大丈夫です」(きっぱり)
日頃7センチヒールなんてハイヒールじゃない!と豪語しているので
こんなときも口だけは威勢がいいエリス中尉。
そして登り始めたのですが・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
やっぱり傘をさしてパンプスで写真撮りながらこの傾斜はきついわー。
60歳の会社社長に距離にしてこれだけ引き離されております。
どうなるかと思ったとき,ようやく頂上に到着しました。
上に資料館ができたのは比較的最近のことです。
中は撮影禁止でしたが、鎧や兜、武器の数々と
ジオラマなどがまとめられていて充実していました。
こんな水軍ならではのデザインの兜とか。
面白かったのは水軍の戦法要領、という
いわゆる艦隊戦のフォーメイションが書かれた紙です。
(パンフより)
また船上で戦う武器として、長い竿の先がかぎ状になっていて、
それで敵の鎧などを引っかけ、水に落としたり、
海上を漂う敵をそれで引き寄せて首を取るためのものがありました。
しかし水軍の殿様始め兵達はどれだけタフだったのか。
ところで頂上に登っても海は全く見えません。
「はて」
「ここから見下ろしたというけど、全く海らしきものもない」
首を傾げていたらこんな看板で親切にも説明されていました。
つまり、昔とは地形が変わってしまって,深く入り組んでいた入り江が
今は全て陸になってしまっていたのです。
なぜかというと、この看板にもあるように、入り江を耕地にするために
埋め立ててしまったからでした。
水軍の城は、いまやその痕跡が地面に残るだけになり、
これらの城も資料館として1983年(昭和58年)に建てられたばかりの、
「おそらくこんな感じだっただろう」というイミテーションにすぎません。
残された資料から、できるだけ史実に忠実に作られている
・・・・とは思うのですが、全然違うかもしれませんね。
ところで、冒頭の写真を撮ってから、ズームしてもう一度撮った
この写真を見比べ、この数秒の間に窓が開いていたのに気づきました。
丸の中に「上」の入った甍を拡大しようとして気づいたのがこれ。
ここは観光客が開けてもいいような窓だったのでしょうか。
空港に着いたとたん土砂降りになったのですが、東京でも
空が荒れていて、着陸態勢になったとき恐ろしいくらいの
タービュランスがありました。
「積乱雲が空港上空に立ちこめているため、
別方向からの侵入を試みます」
とパイロットのアナウンス。
しかし、タイミングと、他の飛行機の侵入順番を待って、
羽田上空でたっぷり30分は遊覧飛行を楽しみました。
結局大雨と積乱雲で1時間は到着が遅れましたが、
パイロットは優秀らしく、何のストレスもない
ビューティフルランディングを決めてくれ、
わたしは無事帰って来ることが出来たという次第です。
というわけで、わずか6時間くらいでしたが、充実の旅でした。
しまなみ海道をのんびりドライブ、あるいはサイクリングで渡り、
瀬戸内海の水軍の名残を訪ねる旅も悪くなさそうです。
みかんを始め、美味しいものがいっぱいあるようですし、
今度は道後温泉まで行ってみようかな。