ボストン美術館は日本美術のコレクションが充実しているので有名です。
それに貢献したアメリカ人はこの3人、
モース、フェノロサ、ビゲロー。
モースは大森貝塚の発見者として日本でも有名ですが、
遺跡の発掘は彼に取って専門ではなく、偶然の産物でした。
モースとフェノロサの出身はボストン近郊の町セーラム。
ここは過去魔女狩りがあったせいで現在では
「魔女の町」を観光の売りにしており、年がら年中町がハロウィーン状態です。
東京大学の政治学の教授にフェノロサを推薦したのはモースでした。
岡倉天心と共に、明治維新以降軽んじられる傾向にあった
日本美術の偉大さを日本人に説いて回りました。
ウィリアム・ビゲローもまたモースの知り合い、つまり
日本美術をアメリカに紹介した3人は友人同士です。
医師であったビゲローは二人の友人を訪ねる旅行のつもりで来日し、
その際日本の全てに魅せられ、7年間滞日することになりました。
和服や日本食を好み、仏教に帰依して門徒になるほどの知日であった彼は、
在日中のコレクションをここボストン美術館に寄付します。
当館の浮世絵コレクション5万4千点 のうち6割が彼の寄付によるものです。
昨年、日本の甲冑を一同に集めた「サムライ!」という特別展があり、
そのときの写真をここでご紹介しましたが、
あれもまたここの日本美術のほんの一部です。
中国由来の仏像と違い、日本の、特に快慶や運慶の作品は
いずれも躍動感とただならぬ威容があり、
深い精神性とともに畏怖を感じずにはいられません。
この阿修羅像(だっけ)には額に仏眼といわれる「第三の目」があります。
これは普通に「アジア美術」の回廊にあった仏像ですが、
進んでいくとまるでお寺の本堂のようなスペースに、如来は阿修羅が
三体、ご本尊状態で展示してありました。
しかし中で撮った写真がことごとく失敗していましたorz
しょうがないので外から撮ったものを。
この入り口に入ると、まるでどこかのお寺です。
解説には、
「出来るだけ忠実に日本の寺院を再現してみました。
線香やろうそくを立てるわけには行きませんが、祈りの場を
そのまま体験していただくために座るところを設けましたので
ぜひそこに腰をかけて、日本の寺にいるような気分で鑑賞して下さい」
と書かれ、ここから入って左側のベンチには
何人かの人が腰をかけて、静かに仏像を眺めていました。
ライティングもドラマチックです。
小さいとき仏像、中でも仁王像や阿修羅像が怖かったのを思い出しました。
外国人にもこの感覚が「畏れ」として感じられるでしょうか。
ただの天井も気づいてみれば展示スペースとなっています。
この部分には飛翔する人が。
気がついたらあちらこちらにいます。
さらに雲があることに気づきました。
現代美術でもこのようなものは作品として認められるのですが。
どうもパフォーマンス系のやつは
「何やっても芸術にしてしまえるならやったもん勝ちじゃないですか」
といった、列に横入りした人に対して感じるような
釈然としない感想を持つのではわたしだけでございましょうか。
たとえば、会場で放映されていたこのビデオ。
人の口に土のついた花の苗を一生懸命植えています。
何らかの意味あってのことなのでしょうが、
これがわざわざボストン美術館で公開されるほどのものか・・。
モデルになって口の中に土を入れられた人には
お気の毒としか言いようがありません。
口を開けっ放しで上を向いていると、歯科治療のときのように
唾液を飲んでしまいますから、さぞ苦しかったでしょう。
さらにこれ。
白いシャツに黒いズボン、髪型(スキンヘッド)も眼鏡も、
自分と瓜二つの人形を吊るし、それを大変な時間をかけて動かないようにし、
おもむろにバットを出して、脚から殴っていきます。
何度か殴ると脚がもげ、そこから赤い筋と粉が出てきます。
両足をもぎ終わり、胴体に入ると、そこからは次々と
胃やら腸やら、内蔵の形をしたものがぼろぼろ出てきます。
「なんなんでしょうかこれは」
「見ていてただ不愉快なだけなんですけど」
わたしもTOも早々に観るのをやめましたが、
最後まで観ていたらどういう結末だったのか・・。
確信を持って言いますが、もし最後まで観たとしても、
「で?」
という感想しかなかったでしょう。
この「で?」に対して誰か納得のいく、
「ああそれならこれが芸術と呼ぶに相応しいパフォーマンスだ」
と思わせる説明をしてほしいものです。
やっぱりこういうのはわからないな。
日本の仏像美術に圧倒的な説得力を観た直後のこれは、
どう好意的に解釈してもまやかしとかごまかしとかひとりよがりとか、
いずれにしてもそれに「感動する」こととは別の世界って気がします。
たとえばこの絵。
近くで見ればテキスタイルのようですが・・・、
離れてみればこのとおり。
こういう「騙し絵」みたいなのは面白いからよし。
ぱっと見た目、オレンジ、サーモン、黄色と紫のグラデーションに支配された
美しい色彩で、解説がなければここで起こっている惨劇には気づかなかったでしょう。
ターナー作 「奴隷船」
奴隷商人は荷物のように黒人奴隷を船で運んだのですが、
船上で過酷な状態に置かれ死亡した奴隷を、
彼らは海に放り込みました。
中にはまだ生きている奴隷もいたそうで、それは「溺死した」ということにすれば
保険金が降りたからだそうです。
画面の右下では、投げ捨てられた奴隷の体をむさぼるために群がる
海の魚とカモメが描かれています。
人間の体として認められるのはこの脚だけですが、その足首には
鎖がまだついたままになっています。
両足を鎖でつないでいた名残です。
この奴隷船は「ゾング」という名前の船で、このとき投げ捨てられた奴隷は
132人であったということもわかっています。
ターナーといえば夏目漱石の「坊ちゃん」でも名が登場した英国の画家ですが、
彼は1781年に起きたこの事件を憤り、奴隷廃止をこの絵で訴えました。
奴隷制度は1815年、ウィーン会議(会議は踊る、のあれ)で廃止が合意されました。
ロンドンのナショナルギャラリーにも同じ構図の「奴隷船」があります。
杖を持っている人が嵐を起こしているの図(適当)。
晴れているような曇っているような嵐の空がドラマチックだなーと思って。
宗教画というのは、聖書の1シーンが描かれたものが多いですが、
殉教した聖人の処刑シーンというものも非常に多いですね。
有名なところでは至近距離から矢で射られたセバスチャン、
石打ちの刑になったステファノ、逆さ磔になったペトロ。
名前は忘れましたが、こういった宗教画で観たことのある殉教シーンは
おもりと一緒に水に落とされるとか、やっとこで歯を抜かれるとか、
火あぶりや斬首など、ありとあらゆる残酷な方法が取られています。
勿論ドラマチックにこれらを描くことが画家の腕の見せ所なのですが、
もしかしたら画家には、残虐なシーンや死体を見たい民衆の心理に
こういう絵を描くことでアピールする下心があるのではないでしょうか。
好むと好まざるにかかわらず、インターネットには事故の瞬間や、
それによって人間が死ぬ瞬間の映像、甚だしきに至っては
遺体写真などがあふれています。
なぜあふれるかと言うと、それを見たい人がいるからでしょう。
インターネットのない時代、こういう残虐なシーンを描いた宗教画が
人々のそう言った興味を満たす役割を果たしていた、
という面もあったのではなかったでしょうか。
この八つ裂きの刑に遭っているのは聖人ではなさそうです。
殉教しようとする聖人の頭に必ずさしている後光が描かれていないからで、
この「聖人」「後光」はほとんどお約束の画法となっていたからです。
斬首される何人もの聖人に後光が射しているだけでなく、
すでに切られた首にもむりやり?後光が描かれている絵もあり、
これはちょっといかがなものかと思ったことがあります。
馬に引かれている受刑者の両手両足はすでに真っ青になり、
その顔は苦痛に耐えてかっと両眼が見開かれています。
出来るだけ早くこの業苦が終わるようにと願っているのでしょう。
左端には処刑を見守る何人かがいて、そのうち一人は王冠を被っていることから、
王様が自ら見守っているらしいことがわかります。
おそらく、彼は反逆罪で処刑されているのではないでしょうか。
この手間のかかりそうな処刑法を日常的にするはずもなく、
現にフランスでもイギリスでも、名前がはっきり残るほどしか、
すなわち為政者を殺害、あるいは殺害を企てた者にしか
この方法で処刑は行われていないからです。
この絵は中世の作品なので(タイトルを撮らなかったのが悔やまれます)
アンリ3世を殺害した犯人か、アンリ4世の殺害を企てた犯人か、
あるいは本当にアンリ4世を殺害した犯人か(アンリ4世って嫌われてたんですね)。
いずれにしてもフランスで5件、スペインで2件、
イギリスでも2件しか行われていない刑罰です。
フランスで最後に行われたダミアンの処刑では、あまりの残酷さに
処刑人のガブリエル・サンソン(有名な処刑人の家系)は
このあと引退してしまったといいますから、行う側の負担も大きく、
よほどのことがないとこんなことをできなかったのでしょう。
ダミアンの処刑を最後にこの処刑法はその残虐性から廃止になりました。
かわって
「最も科学的で苦痛のない方法」
と開発者のギヨタンがいうところのギロチンが主流となるのです。
映画「グリーンマイル」を見るまでもなく、大抵の処刑法が
実は受刑者に苦痛を与えるらしいことがわかっていますが、
一瞬で命を絶つこの方法は生きている者の感覚から
「残酷である」とされ、廃止になっています。
この絵のような八つ裂きの刑は究極の「苦痛を伴う死」であり、
その苦痛はすなわち王の死を企てたことに対する報復とされます。
しかし、死刑は報復ではないというのが基本精神となっている現行の死刑は
それにもかかわらず受刑者に結構な苦しみを与えているわけです。
ボストン美術館所蔵の有名作品のうちの一つ。
エドガー・ドガの
14歳の小さな踊り子
オリジナルはワックスに彫刻されたもので、鋳造されたものも
オリジナルのようなチュチュを着用しています。
ドガはバレリーナを多く描いたことで有名ですが、当時のバレリーナは
オペラ座では「小さなネズミ」と呼ばれていました。
芸術家として扱われる今日と違い、当時のパリではバレリーナは
貧しいが美しい女性がパトロンを見つけるための「水商売」で、
バレエを観る男たちは「品定め」に来ていたようなものだったそうです。
この踊り子はわずか14歳でそういう道に入らねばならなかったわけで、
幼くして身売りされた昔の芸者のような境遇だったと言えます。
バレリーナやバレエを描いた画家はドガが最初だったそうですが、
それというのも彼女らの地位の低さにあったといわれています。
もっとも同時代のロートレックは酒場や妾館の女を描いています。
この時代からそういうリアリズムが彼ら写実派によって
「芸術」ともなる傾向が生まれたのかもしれません。
モネ作「睡蓮」。
モネの「睡蓮」は全部で200作以上あるそうです。(大量生産?)
この睡蓮は彼のジヴェルニーの自宅庭にある池のもので、
彼が1890年にジヴェルニーに家を購入し、3年後に池を造り、
それから彼の作品には睡蓮をテーマとしたものが増えます。
「日本の橋」が描かれている作品もありますが、これも実際に
モネが造らせたものでした。
日本の美術に当時の多くのフランス人芸術家と同じく傾倒していた
モネは、同時に日本びいきで、日本からの来客はいつも歓迎したそうです。
オーギュスト・ルノワール作
ブーシヴァルのダンス
ルノワールは同じ構図で「都会のダンス」「田舎のダンス」そしてこの作品という
「ダンス三部作」を描いていますが、「都会」とこの「ブーシヴァル」でモデルになった
シュザンヌ・ヴァラドンは、ドガの「踊り子」たちのような育ちでした。
シュザンヌ自身が私生児で、13歳からあらゆることをして金を稼ぎ、
15歳で画家たちのモデルになっていましたが、これも踊り子たちのように
同時に、多くの画家たちと「恋愛関係に」ありました。
これが描かれた当時、彼女は17歳でしたが、ルノワールと関係があったと言われます。
シュザンヌ自身、モデルを務めるうちに絵を描くようになり、
そのデッサン力にはルノワールも驚いたといわれていますが、
彼女が父親を明かさぬまま生んだ息子は長じて画家になりました。
モーリス・ユトリロ。
父親がルノアールである可能性は非常に高いと言われています。
窓から差し込む光と人物の背中、そしてドアに映る光の照り返しが
何とも魅力的な作品。
今年の訪問で眼についた作品を何点か紹介しましたが、
だいたい美術館で写真が自由に撮れるというのもじつにおおらかというか
太っ腹な展示だなといつも思います。
日本だと、たいしたことのない作品でも撮影はまかりならず、
それはたぶん版権とか著作権とかそういうことなんでしょうけど、
美術作品は現物を観ることに意義があるのであって、
いくら写真が出回っても本物の価値を損なうことにはならない、
そういう観点からおそらくボストン美術館もルーブル美術館も、
つまり世界の殆どの美術館は写真を撮ってもいいことになっているのでしょう。
膨大な作品群をいつも入れ替えて展示しているボストン美術館は
何回行っても決して同じ展示ではありません。
来年はどんな作品が見られるのでしょうか。