The Pacific Coast Air Museum
今時の航空博物館はどこも大変充実したHPを持っていて、
展示航空機についての詳細もこれを見れば一目瞭然。
なのですが、やはりここパシフィックコースト航空博物館のように
動的展示可能な機体が多く、しかもしょっちゅうメンテナンスをし、
企業のスポンサーを集めて来れるようなある意味「実力のある」
ミュージアムは、その所有並びに展示機もしょっちゅう変わります。
先日問題になったA6の件も、つまりはあの機体が来たばかりで
まだ情報の書き換えがされていないために起こった当方の勘違いでした。
HPの機体情報には
「展示航空機の何か新しい情報が入れば随時更新します」
と書いてあり、正しい情報を常に発信しようという姿勢は窺えるものの、
やはり追いつかないことも多いのかと思われます。
冒頭のYouTubeは、HPの紹介ビデオを誰かが上げてくれていたので
拝借してみました。
おじさんたちがしゃべっている合間に館内の映像が入りますので
アメリカの航空博物館の雰囲気を味わいたい方はどうぞ。
NORTH AMERICAN SABRE JET
F−86は1940年代の後半に開発されたアメリカ初の後退翼機です。
ノースアメリカン社は、1944年の初頭、日本海軍に対抗するための艦載機を
海軍に提案(というか売り込み)していたのですが、それを受けてノ社は
後のFJ−1フューリー(怒り)である試作機を開発します。
こちらは皆さんもご存知のように直線翼の飛行機ですが、
この開発の最中降伏したドイツの占領地で、アメリカ軍は大量の
後退翼についての研究資料を手に入れます。
その資料から、ノ社は開発中の戦闘機に後退翼を導入することを決め、
陸軍にその許可を得て後退翼戦闘機を受注することに成功します。
(海軍はそのままだったのでそれがFJ−1になるわけですね)
そうこうしているうちに戦争は終わり、アメリカ陸軍航空軍は
陸軍から独立してアメリカ空軍となったため、
それに伴い航空機の名称も変わって来ることになります。
それまで戦闘機はPursuit(追撃)の”P”がつく番号が割り振られましたが、
Fighter(戦闘機)の”F” がつくようになったのはこのときからです。
この機体はCalifornia Air National Guard、即ち
米軍の空軍民兵であるカリフォルニア州陸軍修州兵のユニットである州軍の
所属であったことがわかります。
州兵は日本の予備自衛官と同じような位置づけで、任務は、
アメリカ国内における災害救援、暴動鎮圧などの治安維持のほか、
アメリカ軍の予備部隊としての機能を果たすことです。
州兵は、大統領命令において戦闘任務を含む各種任務を担当します。
このセイバーを使っての戦闘任務もまた当然行われていたということです。
塗装は青の部分だけが残り、あとは剥落してしまっています。
つなぎ目にシルバーのダクト用テープが貼られているのが
なんだかしみじみとした風情を感じさせますね。
ご存知のようにセイバーのエアインテークはノズルインテーク。
覗いてみるとまさにその部分はインテークそのものです。
当たり前か。
セイバーが活躍したのは朝鮮戦争です。
当時金日成が率いた北朝鮮空軍には空軍力はなく、
F-51D
F4U コルセア
なども投入されていたといいます。
F−51もコルセアも第二次世界大戦の航空機です。
ところが中国人民解放軍の後退翼機MiGが登場し出すと、
直線翼の航空機では対抗できないと判断したアメリカ軍は、
ここに同じ後退翼を持つF−86が投入されることになり、
ここに史上初の後退翼同士の戦闘機対決が幕を切って落とされます。
基本性能ではMiGが一枚上手だったといわれていますが、
根性、ではなくパイロットの技量ではセイバーが勝ることもあり、
加えてレーダー照準器などの性能が優れていたため、
キルレシオ(撃墜対被撃墜比率。
空中戦を行った際に、彼我に発生した損害比率を示す)では10、
具体的には78機損失に対して800機以上を撃墜するという結果を上げました。
NORTHAMERICAN RF-86F SABRE
F-86でWikipediaを検索するとこれと同じ機体が掲載されています。
ここにある機体ナンバー24913が空を飛んでいるところなのですが、
これはおそらくワインカントリーエアショーでの一こまでしょう。
それにしてもいつも思うのですが、こういうエアショーで
引退したウォー・バードを操縦し、実際に飛ばすパイロットというのは
一体どのような資格で、しかもトレーニングもままならない機体の
操縦を行うのでしょうか。
さて、このセイバーは、南カリフォルニアにあるチャイナレイクの
装備倉庫からここサンタローザにやってきました。
当ミュージアムが引き取ることになるまで、
ミサイルのターゲットドローンとして使用されることが決まっていたそうです。
R(reconnaissance)と頭につくこの偵察用のセイバーですが、
「工場ではなくエアフィールドで開発された」
といわれています。
朝鮮戦争で偵察機はその速度の遅さからMiG15の危険にさらされるようになり
その役目を果たすために偵察に飛ぶことすら不安な状態でした。
金浦に基地のあった第15戦術偵察隊にとってそれは死活問題でしたが、
誰も他人事として注意を払ってくれません。
そこで第15偵察隊は同じ航空基地にあった第4戦闘機隊の司令官を説得し、
基地内にスクラップとして廃棄所に放置してあったF−86の胴体を
自分たちの「遊び」のために使わせてもらう許可を取りました。
まず本体についていたいくつかのガンを取り外し、
カメラを設置する場所をいくつか発見します。
そののち、当時日本にあった極東航空本部の司令に
F−86Aにカメラをインストールすることを納得させ、
偵察仕様のRF−88Aは(なんと)
立川基地で初飛行を行ったのでした。
このHPの説明も、また英語でのRF−88のWikipediaにも
このときに「日本で作られた」ということにしか言及していませんが、
日本のwikiによるとこの計画は
「ヘイメーカー計画」(oparation haymaker)
つまり米俗語で 「強力なグーパン計画」という名称のもと、
1953年当時、アメリカ軍立川基地兵站部に勤務する日本人技師チームに、
F-86Fをベースとした写真偵察機の製作の設計を命じたもの
であったことが書かれています。
ところがHPにも
It was done at Tachikawa in Japan and
the first RF-86A’s flew in the winter of 1951.
と書かれてはいるのに、それが日本人技師による設計・施行であった
とは全く書かれていないのです。
確かにそれを思いついたのは偵察隊のメンバーかもしれませんが、
これだけの仕事をさせておいて、全く日本人の手によるもの、
ということに触れないのはアメリカさんもなんだか大人げなくない?
試験成功した偵察機セイバーはF−86戦闘機の中に一機だけ、
つまり混成編隊で飛び、司令が何より欲していた敵基地内の
捕虜収容施設の写真を撮って来ることに成功し、味方を喜ばせました。
この結果、偵察仕様のセイバー、F−86Aが6機追加制作され、
これまでのF−80と併用で偵察任務に投入されることになります。
この「ほっぺたの膨らみ」を、アメリカのサイトでは
「チップスマンクビューグル」(リスの膨らんだほっぺた)と呼びます。
朝鮮戦争に投入された少なくとも最初の3ヶ月間のRF−88Aにはこれはありません。
より精密な写真を要する偵察に投入するため、ここには
40インチのスプリット・ヴァーティカル・カメラが搭載されました。
いつからこの「りすのほっぺた」が投入されたのかは、実は
あまり明らかにされていないのだそうです。
少なくとも小牧基地から朝鮮半島に機体が運ばれた1954年、
このバージョンはまだ導入されていなかったという証言もありますが、
つまりこれはまだ当事者が語ることをしないため明らかになっていません。
国家安全保障局(NSA)によって情報がクリアになるまで
軍人は公に任務、特に偵察任務について語ることを自重するものなのか・・。
ここにある24913について、博物館のスタッフは空軍の
個体認識情報を所持しているそうですが、少なくともそれによると
この機体は朝鮮戦争では全く使われた形跡はなく、
偵察機に改装された時期も明らかではないそうです。
しかし、確かなことはこのRF−86Fは
日本国航空自衛隊が
配備していたことで、その証拠は米軍のペイントの下に
明らかな空自時代のペイントが光の加減で確認できることです。
(上の写真でそれが分かる方がおられませんでしょうか。
わたしにはわかりませんでしたが)
航空自衛隊には主力戦闘機としてF−86F、Dを合わせて557機、
そのうち18機がこの偵察機として配備されています。
空自ではこの機体に「旭光」と正式名称をつけ、
また東京オリンピックではプルーインパルスの初代機体として
開会式の五輪を空に描いたことで有名になりました。
現場での愛称は「ハチロク」。
このセイバーは朝鮮戦争という舞台に置いても殆ど
未知の飛行機とされてきました。
唯一つの偵察飛行隊、第15飛行隊によって飛ばされましたが、
それも運用の実態は秘匿され、マーキングも戦闘機のセイバーと
全く同じようになされ、第4戦闘機隊と行動を共にしていたそうです。
偵察機ということで慎重を期したのだと思いますが、
だからこそ日本の技術者に搭載を任せたのでしょうか。
いずれにしても、偵察機セイバーは全部日本で作られていました。
つまりここにあるのは「メイドインジャパン」なのです。