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大和ミュージアム・進水式展~記念絵葉書「やがて悲しき」

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大和ミュージアムで行われている「進水式展」です。
冒頭は戦艦「長門」の進水式記念と書かれたパンフレット。

「長門」は八八艦隊計画の第一号艦として1919(大正8)年11月9日、
進水式を行いました。

「八八艦隊計画」とは、日露戦争後に行われた艦隊整備計画です。
このころ世界の経済は、第一次世界大戦の戦争景気のなかにあり、
これを背景に計画されたものですが、この計画において日本は
アメリカ海軍を仮想敵としていました。

八八とは、艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を基本とするという意味です。 

それにしても、このパンフの意匠・・・・なごみますね。
特に右側の、日の丸の中に描かれた水兵さんとお髭の士官の顔が。

こういうのを見てふと思うのですが、帝国海軍というのは、
現在の海自が萌え系で国民に親しんでもらおうとするのと
同じような努力を当時からしていたのではなかろうかと。

陸軍の印刷物にこんな絵があったかどうか調べたわけではないので、
これが海軍だけの傾向だったのかどうかはわかりませんが。



右側は戦艦長門の姿と、大正天皇。
葉書のバックにあしらわれたくす玉と思われる模様などに、
ちょっとアルフォンス・ミュシャを意識したアールヌーヴォーの影響が見えます。
切手を宛名の方ではなく葉書おもてに貼っているのですが、
スタンプは大正天皇の”かんばせ”に決してかからないように押されています。


左は長門進水式の際の立食パーティ入場券。

服装はフロックコート、モーニングにシルクハット、
和装ならば紋付袴がドレスコードとなっています。
パーティは命名式の後に行われ、それに続く支鋼切断並びに進水は
食事の後のお楽しみ、ということになっていたようです。

入場券には紹介者、つまり海軍の関係者の署名と捺印がないと、
無効となり、会場入り口で入場をお断りすることもある、とあります。 

わたしは「ふゆづき」の出港式のときにこのような祝賀会に参加し、
「海軍伝統の祝賀会料理」を頂いたことがあるのですが、



卓のうえにはこのような国旗と護衛艦旗をクロスさせて置くための
専用の旗立てがありました。
おそらくこれも、三井造船に戦前から伝わるものであろうと思われます。

長門の三井造船で行われたものではありませんが、「長門」のときも
おそらく同じように行われたのであろう「海軍立食」に参加したことは、
わたしにとって5本の指に入るくらい印象的な「海軍体験」でした。



前にも書きましたが、このころは写真よりも絵が葉書には多用されたため、
このような味のある長門の姿が描かれ、残されることになりました。

葉書の左側は進水式での長門(構造物が乗っていない)だと思うのですが、
これは当日の写真から画家が絵を作成して、葉書を作ったものでしょう。

上の左、青い葉書は、左が小栗呉工廠長、右が加藤呉鎮守府長官の写真。
加藤は加藤でも友三郎ではなく(こちらは1913年まで長官だった)
加藤定吉海軍大将(のち)のことです。

加藤大将は海上勤務が大変豊富だった軍人ですが、
いわゆる典型的な「艦隊派」「条約反対派」で、ワシントン軍縮条約では
反対派をあおるなど、「元祖大鑑巨砲主義」であったことでも有名です。

「長門」建造の計画となった八八艦隊計画は、加藤大将の頑張り虚しく、
一部破棄の結末に至っています。

このときに、「長門」は完成していました。
しかし、八四計画において同じ「長門型」の「陸奥」は・・・・・・。



はい、ちゃんと進水記念の品だって配られ、絵はがきもあったってことは、
ちゃんと完成していたんですが、これは大変やぶぁいタイミングだったんですね。

「陸奥」の起工は1918年。進水は1920年に行われました。
1921年の軍縮条約で、イギリスとアメリカは

「未完成艦は廃艦とする」

とされた会議の結果を受けて「陸奥」の廃艦を主張しますが、
日本側は「陸奥はもうできている」と突っぱねます。

会議は11月1日から始まったのですが、日本は「陸奥」をその1週間前、
10月24日に無理矢理就役させてしまいました。

しかし実際は測距儀などの備品調達は全く間に合わず、公式試験も省略したまま。
海軍に引き渡されたときには85%しかできていなかったという証言があります。

米英もそこで引き下がらず、調査団を送ってきたのですが、
日本が接待を装ってあの手この手で調査を妨害したため、
かれらは結局確証を掴めないまま「陸奥」の廃艦はお流れになりました。

いやー、日本人もいざとなればこんな狡猾な手を使うことができたんですね。
ちょっと安心しました(笑)





さきほどちょっと「ふゆづき」の話をだしてきたのは
「ふゆづき」進水の際の進水支鋼(真ん中白いロープ)がここにあったからです。

記念品の支鋼といえば太くて短いものばかりだと思っていたのですが、
こんな洗濯ロープみたいな状態で残すこともあるんですね。

実際の支鋼そのものの長さはかなりあります。
しかし、こういうところで見るそれは皆短く切断されてしまっています。
それは縁起物としてたくさん配るためなんですね。

では、なぜ「ふゆづき」の支鋼が「安産お守り」なのでしょうか。

安産の言い伝えとして、妊娠五ヶ月後の最初の戌の日までに腹帯を拝んでもらい、
その腹帯に支鋼を入れておくと、お産が楽になるといわれているからです。

わたしは戌の日に腹帯をほんの形だけ巻いてお茶を濁しただけなので、
そんな言い伝えは今初めて知るわけですが(笑)、これには、
無事に海に滑り落ちた船の誕生に赤ちゃんの誕生をあやかる、
という意味があるそうです。

右上の酒瓶は「いづも」の命名記念と進水式パンフ。
左にあるのは潜水艦「こくりゅう」の支鋼、右上が「けんりゅう」の支鋼です。

いずれもここ1~2年以内の進水式を行ったフネばかりですね。




浅香丸は日本郵船の所有していた貨物船で、竜田丸は豪華客船でした。
パンフレットによると、どちらも豪華客船のように見えますが。
船内にはプールがあって、まるでタイタニック号のようです。

この竜田丸ですが、1941年12月8日、真珠湾付近に向けて航行していました。
 開戦の報を受けるなり急遽Uターンしていますが、これは
真珠湾攻撃の企図を隠すため、平然を装って出航したものという説があります。



佐世保海軍工廠で昭和13(1938年)進水が行われた
工作艦「明石」の進水記念の品。

船の帆の形をした小皿は、もしかしたら深川製磁製でしょうか。

「明石」進水当時は、戦局の拡大が予想されていました。
そのため「明石」の進水準備は灯火管制の元で
いかに建艦を進めるかということの実験を兼ねたものとなっていました。

工作艦というのはいわば「浮かぶ海軍工廠」。
艦内に17もの艦艇修理の工場を持ち、その全部に内地の工廠にもないような
ドイツ製の最新工作機械を装備して、戦地を駆け回り、修理に携わりました。

工作艦はその整備・補修能力の高さから、
『最重要攻撃目標』として敵からマークされていたくらいです。

「明石」はトラック島の空襲で大破し、その後、日本の艦艇は
修理を内地に送り返して行うしかなくなりました。



杯の中の模様が旭日旗。
これいいなあ。欲しい。

ところで「駆逐艦3番および4番」ってなんですか?
杯には「三番進水記念」「四番進水記念」とどちらもかいてあります。



さてそれでは、これは何の進水式の様子だと思いますか?



航空母艦「翔鶴」のものなんですね。
進水支鋼と、記念品の杯。

「翔鶴」は1937(昭和14)年、横須賀海軍工廠にて起工し、
39年の6月1日に進水式を行っています。

その2年後、つまり1941年8月に就役した翔鶴は、
11月には単冠湾に出撃しています。

そう、12月8日の真珠湾攻撃に参加するためです。



「翔翮」は1944年のマリアナ沖海戦において戦没しました。



記念絵はがきは抽象的で、真ん中の絵はがきに
飛翔する鶴を三羽あしらっているところが名前に
因んでいる様子がわかるくらいです。

あと、使われている切手が東郷平八郎の顔をあしらったものであること・・。




駆逐艦「天津風」の記念絵はがき。
進水が1939年であり、長門の頃のアールヌーヴォー風は影を潜め、
わずかに挿絵風というか、イラスト風の描写となっています。

進水式では様々な進水記念が作られ、配布されました。
支鋼切断に使われた斧や鎚、支鋼のほか、掛け軸の風鎮、
文鎮、湯のみ、徳利、杯、皿、メダルがありますが、これらは
主に関係者に配られる「特別な」記念品でした。

一般人が手にすることのできた記念品が、絵はがきです。

郵政省が私製の葉書を使用することを許可したのが1900年、
その5年後に、初めて葉書を記念品としたのは「筑波」のときでした。

進水絵はがきは進水式のときに配られるものなので、
船とはあまり関係のない自然の情景を描いたものや、
名前に関するモチーフなどが図柄として選ばれましたが、
中には「完成予想図」を描いたものもありました。



軍艦「千歳」の進水式絵はがきでは、遠景やアオリ、
さらには搭載されている水上機ごしに眺めた艦体など「具象派」の典型的な作品です。



駆逐艦「萩風」の進水記念は、何と封筒が波の形に
カットされているという懲りよう。

こういう絵を、海軍はどうやっていたかといいますと、それは
今の自衛隊と同じなのです。

そう、海軍内部で募集していたのです。

海軍内部といっても、工廠の建造担当部門からの募集なので、
設計担当でちょっと絵も描いてしまう、みたいな人は
結構たくさんいたのではないかと思われます。

なるほど、設計に近い部門の人ほど、「予想図」を
的確に描くことができるというわけですね。



しかし、一般的に絵はがきは軍艦についてあまり関係ないというか、
むしろ軍事から遠いイメージの、優しげで爽やかで平和的な、
むしろ目指そうとしたのは芸術だろ?と思えるようなデザインがほとんどです。

たとえば「翔翮」はマリアナ沖で没しましたし、謎の爆発を遂げた
「陸奥」、外地で戦没した「明石」、そして「長門」・・・。

戦没や事故で没した戦艦や空母の、進水式のときに配られた記念品や、
艦の無事を祝って行われた儀式の名残をこうやって見ると、
その後を知っている者としては何とも言えない気持ちになるのですが、
特に絵はがきの、一種長閑とも思えるこのデザインを見ていると、
「面白うてやがて悲しき」という句の一節が浮かんできてしまいます。

 


次回は、戦艦大和の進水式についてです。




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