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「里帰り零戦」に思うこと

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さいたまアリーナで先週末連休に公開された「里帰り零戦」を
見学してきたことについてお話ししています。



さて、いずれにせよ、パプアニューギニアでこの零戦に乗って出撃し、
この座席で戦死した海軍搭乗員がいたというのは確かなことです。

その零戦がここにあるということは大変意味のあることだと思います。



計器板研究家の協力を得た、と控室に書いてありましたが、
ということは、この部分は完璧に作り変えたということらしいですね。
計器そのものと「加速」「回転」「過荷」などのプレートは
元の機体から取って付けているようですが。



後ろから計器類がよく見えるようにシートは取り外され、
さらにランディングホイールも立った高さから中が見られるように
たたんだ状態で床に置かれています。




これが三分割の最後尾。




水平尾翼は取り外されています。
小隊長機の赤い線を一本巻いていますが、
取得した零戦のペイントに残っていたのでしょうか。





尾翼の部分をこんな風に展示していたのは興味深いです。
4枚の錘が見えますが、これによって後輪が下がるのでしょうか。



NX553TTというナンバーは、当時のものではなく
たとえばアメリカで飛ばす時に必要な機体の番号として
あらたに与えられたものではないかと思うのですが、
詳しいことはわかりません。
もしかしたらエンジンなどに刻まれていた識別番号かもしれません。



こういう外側も、ほとんど作り直されているように見えます。
一体どの部分がオリジナルだったのか詳しく知りたいと思ったのは
わたしだけではありますまい。



アップして思ったのだけど、この部分はおそらく本物でしょう。



来場者はやはりほとんどが男性でしたが、子供を連れたお母さん、
ボーイフレンドや連れ合いと一緒に来たらしい女性も
ごく僅かでしたがいることはいました。
主催者の報告によると、

「12.3歳の頃、零戦の部品を勤労動員で作っていた」

というおばあちゃんたちが訪れ、感激したそうです。

女性一人で来ている人は・・・あまり意識しなかったけど
ほとんどいなかったかも・・。



翼端灯。
今まで復元零戦をいくつか見てきましたが、
ここにライトがあるのには初めて気が付きました。



翼端灯を下から撮ってみました。
向こうにずらりと並んでいるのは、翼の上でオンステージしている
主催者のスピーチを聞いている人たち。
別に前に立たなくても、言っていることはもれなく聞こえるので、
耳をそちらに向けながらせっせと撮影を続けます。



会場の外側ではこういう復刻ボマージャケットを販売していました。
「フクチャン」という部隊があったらしいのにはびっくり。
赤城の艦載部隊がこんなの着ていたんですかね。



主催者はもともとフライトジャケットのメーカーのオーナーで、
その関係から世界の航空関係者、米空海軍、英国空軍、
ハリウッド映画の製作衣装製作などを行ってきたのだそうですが、
8年前から、会社経営の傍ら、零戦の日本里帰りの活動を進めて来ました。

真ん中にあるポスターで零戦と写っているのがオーナーです。



なんと中華民国軍(フライングタイガースかな)の
フライトジャケットまであります。
日本でこれを買う人は・・・さすがにいなさそうだなあ。



演説が終わって零戦を降りる主催者。
いわばこの人の一念でこのプロジェクトはここまできたと、
まあそういうことなのです。

日本政府というのは、特にこういうことには一切関わりたがりたがらず、
歴史的な航空機を保存することすら、実際には惨憺たる状態なのは、
わたしがかねがね嘆くところの鹿屋の二式大艇の例を出すまでもなく
明らかです。

だから、この人が私財を投げ打ってニューギニアの零戦を
里帰りさせてくれたことには素直に感動し、さらには
ありがたいことだとは思うのです。

これらのプロジェクトがこの人にとって金儲けでも売名でもなく、
純粋に一人の日本人としての義務や責任感、誰かがそれをやらねば、
という使命感から生ずる情熱だけでここまでやってきたらしいのも、
会場に来てみて初めてそれがよくわかりました。



しかし、それに共鳴する人間はあまりに少ないというのも事実です。

HPによると、2015年2月4日までに2000万、という集金目標に対し、
現在の達成額は257万、まだ8分の1といったところです。

主催者によると、最終目標はこの零戦を「日本の空で飛ばすこと」
なのですが、たとえばその操縦を誰がするかということひとつ取っても、
日本国内ではパイロットがおらず養成も不可能であるため、
アメリカから零戦パイロットを呼んでこないといけないのだそうです。

故坂井三郎氏は戦後アメリカで零戦の操縦席に座ったことがあるそうですが、
たとえば3~40年前なら、こういうイベントを行うことは、沢山生存していた
零戦搭乗員たちのためにも行う意義は大きかったと思われます。

パイロットも・・・・免許のない坂井氏は無理だったとしても、
当時の自衛隊に零戦の元搭乗員は沢山いたのですから。

しかし、彼らのほとんどが鬼籍に入ってしまった今、前項でも言ったように

「零戦のレプリカをアメリカ人に操縦させて飛ばせる」

ということにすべての日本人が意味を見出すかというと、そう思わない人も多い、
という現状がこの寄付金の集まり方の悪さに現れているような気もします。

しかもそのその零戦は・・・・、会場に来てみて初めてわかったのですが、
それを「本物」と呼ぶのかというと

「飛べるようになった時点でもう元の零戦とは言えない」

という二律背反の命題みたいな状態にあるわけです。



会場ではスタッフによる翼端の跳ね上げが行われています。
艦載機ですので、空母のエレベーターに乗るのにギリギリの
この部分が跳ねあげられればよかったみたいです。



オーナーの説明によると、この零戦はロシアのキエフで
ほとんどの工程を仕上げたということでした。
アメリカからロシアに渡ったというわけです。

うろ覚えなのですが、翼にあるネジのマイナスをきっちりと合わせて
仕様してくれたのは、おそらくロシアの技術者が

「日本人はこういうところをきっちりするものだから」

という考えでそこまでやってくれたのだと思い、
『やるなあ』と感謝している、というようなことを言っていました。

この写真に写っているのはガソリン注入口?(適当)



これも翼の中央に付けられた翼灯。



エルロンを動かす実演もしてくれました。



会場ではその場で急募して、一人5000円出せばコクピットに乗れる、
というサービスをしていました。
兄妹まとめて5000円かどうかはわかりません。



乗りたい!と思った人は、このおじさんに申し込めば、
その場でお金を払い(領収書なし)座って写真を撮ってもらえました。
(もちろん自分のカメラやデバイスで)

「コクピットに乗れるのはここだけです!」
「今回だけです!」

とスタッフは強調していました。
愛知県の三菱でも機会があれば乗れるような気がしたけど・・まあいいや。
確かに風防を閉めてもらえるのはここだけかもしれない。

というわけで、躯体のどういった部分がオリジナルなのかわからないので
わたしにはこの零戦をどう評価していいのかいまひとつ
立つべき位置が定まらない、というのが正直なところです。

あの戦争で、そのとき操縦していた海軍搭乗員と共に南洋の地で果て、
命を終えた零戦は「里帰り」させるだけで以って冥すべしで、
ましてや発動機から何から新しく作り上げてそれを「飛ばす」のは
後世の人間の思い入れが先走りした「余計なお世話」であり、
コメントのように「もう休ませてあげるのが一番」という考え方もあります。 

これとは全く逆に、とにかくも零戦の形を保った機体が日本の空を飛翔する、
その姿を眺めてせめて往時の姿を偲びたい、と熱望する人も多いでしょう。

確かに博物館で静かに余生を送らせることを決めた途端、
その零戦が空を飛ぶ可能性は永遠になくなるわけですから、
それは一回でも空を飛ばせてからでも遅くない、というのもわかります。


ただ、そのために三菱の技術者が作ったエンジンを外し、
12、3歳の女の子が勤労動員で作った部品のほとんどは取り替えて、
新しくジュラルミンで外装を作り上げ、上から鮮やかな緑を塗った時点で、
このプロジェクトはニューギニアで何十年もそこにあった零戦の
元の姿を、永遠に消し去ってしまったという言い方もできるのです。


というと否定的な意見を持っているかのように思われるかもしれませんが、
しかしとりあえずわたし自身は、気持ちだけでも寄付をさせていただくつもりです。

日本の空にそれを飛ばせたいという一念で、私財を投げ打ってまで
零戦に熱情を傾ける人々の意気に「心情的には」大いに共鳴するという意味で。




 







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