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海軍兵学校同期会@江田島~高松宮記念館

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さて、元海軍兵学校生徒と巡る江田島ツァー、
天皇御行啓に際してあらたに造営された「賜さん館」の次は、
そこからさらに坂を上って行ったところにある

高松宮記念館

です。
勿論戦前はそういっていたわけではないと思います。
海軍兵学校の歴史年表をひもとくと、大正9年の項に

10月 特別官舎新築

とありますが、これが高松宮記念館のことであろうと思われます。

高松宮邸であるからには高松宮宣仁(のぶひと)親王
の御ために造られたことは明らかですが、問題はその時期です。

宣仁親王が海軍兵学校に入校なさったのは大正9年(1920)4月。
兵学校52期で、同期には源田実、猪口力平、淵田美津雄などがいます。


兵学校学生は、平日を校内の宿舎で寝起きしますが、週末には
江田島内の指定民家に「下宿」することになっていました。
この下宿制度は今でも行われており、幹部自衛官候補が
広く世間への視野を広げるという意味があるそうです。


殿下の前後には、

博忠王、朝融王(49期)、博信王(53期)萩麿王(54期)

などの皇族のかたがたが在籍しておられ、いずれも下々の者とは
別に起居するための特別官舎に住まわれていたわけですが、おそらく
「社会勉強のため」週末には下宿に足を運ばれたものと思われます。


しかし、宣仁親王といえば次期天皇陛下の弟君。

さすがにそこまで下々と交わり賜うには畏れ多くお迎えする方も大変、
ということを(たぶん)入校直後になって学校側も気づいたため、
このような一軒家が半年後になって設けられたのではないでしょうか。

これは高松宮殿下の下宿つまり「ウィークエンドハウス」だったのです。



さて、その高松宮記念館を見て行きましょう。

官舎といっても親王の御在所ですから、まるでお屋敷の造りです。
瓦屋根の設えは大変凝ったものですし、軒下の空気抜き?は、
まるで工芸作品のように手のこんだ飾り彫りがしてあります。
外に面したガラス窓は戦後、桟(さん)ごと新しくしたようですね。



「入ってもいいですよ」

案内の幹部に言われてたくさんの人々(女性多し)が
わたしに続いてぞろぞろと中に入って行きます。
実は「入っていいか」と聴いたのも、真っ先に入って行ったのも
何を隠そうこのエリス中尉でございました。

わたしは、ほら、何と言っても皆さんとこの貴重な体験を、
こうやって共有したいという、アツい使命感に燃えておりますから。

で、カメラを構えたわたしに続いて、こういうことには滅法興味を示す
年配の女性陣が+(0゚・∀・) + ワクテカ +しながら入って行きます。

でもなんだか・・・・

とても大正時代のかしこきあたりの御在所というよりは、
昭和50年代に建てられた築30年以上の物件、という風情?

壁は合板ベニヤみたいだし窓はアルミサッシだし、
天井も照明器具も・・・。



わざわざ「洗面所」なんてプラスチックのプレートを貼るなんて、
一体誰の為に?何の為に?

どうもこの様子を見る限り、ここは昭和の末期頃、
明らかに使用することを目的に改築されたような感じ。

特別宿舎として使われていた時期があったようなのです。



脱衣所の床、洗面ボウル、蛇口等は新しいですが、
(といっても30年は経っていそうですが)
浴室の壁面や浴槽、窓などはそのままのようです。



女性陣は一様に風呂に興味を示しましたが(笑)、残念ながら
土足で見学する為に敷かれた白いシートが続いていなかったため、
洗面所から奥には入れませんでした。

大正9年当時に於いてタイル張りの浴室、というのは
大変先端を行っていたのではないかと思われます。

浴槽に入る為に段がわざわざ設えてありますが、
風呂は釜式で、外に薪を焼べて沸かしたもののようです。

「あらー、五右衛門風呂なのねえ」

同行の奥様が興味深げにつぶやきました。
竣工当初は美しいブルーの塗装がなされていたものと思われます。



居室も観ることができました。
というか、入ってすぐ洗面所だったってことは、こちらはいわゆる
勝手口(お勝手はないけど)というやつだったのね。

廊下越しに同行の人々が見えていますが、
「別に見なくてもいいや」という感じでスルーした人たちです。
実際にここで過ごしたことがあるなら興味を持ちそうなものですが。

「わざわざ入ってみなくても、どうせあんなものだろう」

という予想が、身体を動かす億劫さを後押しするのかもしれません。
残念ながら年を取るということは、どんな人間にとっても
好奇心を失うということと同義なのかとふと思いました。



部屋はもっと暗かったのですが、露出を上げてみました。
廊下が長く続いており、見ることの出来たのはごく一部で、
正面玄関や寝室等も別にあるようです。



鴨居の上にあった謎の物体。
コードも見えないし、これ何でしょう。



建築からすでに100年近く経っているのに、
浴室等もそのままであるのは、おそらく高松宮殿下が在籍の4年間、
しかも週末だけしか使われなかったせいかと思われます。


高松宮記念館について検索してみると、「賀陽さんも使用」と
書いてある記述を見つけました。

昭和18(1943)年、賀陽宮治憲(はるのり)王がご入校後、
終戦までの2年間、やはり下宿になっていた、というのですが、
ここで疑問が二つ湧きました。

一、王が入学した75期は生徒数が多かったため生徒は分校に振り分けられ、
 王は岩国分校で教育を受けた(つまりここにはいなかった)とWikiにある

一、今回同行した兵学校の期生が「賀陽宮と同じクラスだった」
 というのを聞いたが、これもwikiによると賀陽宮の期は別である

まさか当のクラスメートが同じ分隊にいた殿下のことを
間違えて覚えてるわけがないし、しかもその生徒は岩国分校ではなく
江田島にいた、と明言しているのです。


??????


これ、どうなっているんでしょうか。
ちゃんと調べる必要があるような気がしてきた・・。



障子紙はすでに黄ばんでところどころ破れがあります。

同行のおばちゃまたちが

「まあー素敵ー」
「いいおうちよねー」
「もったいないわあ」
「住まわないと家って傷むのよねー」

などと口々に言い合っていました。



床の間の掛け軸に焦点を合わせるのを忘れました・・orz
殿下はここで食事等をなさったのだと思われますが、
果たしてクラスの者が遊びに来るなどということは許されたでしょうか。

誰か来るとしても校長(鈴木貫太郎当時中将)とか、偉い人ばかりで、
さぞ窮屈でおられたのではと心配してしまいますが、
やんごとなきお生まれの方は、意に介することもなかったかもしれません。




さて、というわけで中を見学してきた人たちは外に出て、
次の見学場所へと移動して行くわけですが、
そこで大人しく皆と一緒に行かないで、反対側に行く人がいるんです。



はい、それはわたしです。

だって、もしかしたら最初で最後のチャンスなんですよ?
人の流れを一人抜け出し、わたしは小走りに建物の裏手に回りました。

これが建物の裏全景。
やはり「勝手口」の部分は、外壁も新しくなっていますね。



格子の細かい左手の窓が洗面所、奥が湯殿の窓です。
うーむ、明らかにこれは当時のまま。

雨樋は新しく造ったようですが、なぜか古い雨樋を除去せず、
(建物にがっつりくっついているから?)そのままにしています。



建物の基礎部分がレンガ積みであるあたりが兵学校風。



さらに浴場に沿って建物を回り込んで行くと・・。
まだ向こうに棟が連なっていました。
こちらも窓をアルミサッシに変えたりしてあります。

木のついたては何だったのかなあ。
兵学校は全校水洗トイレ完備だったわけですから、当然ここも
そうなっていた筈ですが・・・。

さて、急いでこれだけ写真を撮り、わたしは今度は全力で
皆の後を追いかけました。
一般ツァーでは、ツァーガイドは必ず移動するときに誰も残っていないか
確かめてから次に進みますが、今回はそういう不審な行動を取る人間が
いないという前提ですから、案内の自衛官は自分が先頭に立って
とっとと次に進んで行ってしまいます。
(まあバスの中で人数を数えるんですけどね)



一人で坂をバタバタ走りながら撮った写真がこれ。
皆さんもうとうに賜さん館の前に集合しておられました。(ぜいぜい)

さて、この後我々は再びマイクロバスに乗り込み、
大講堂から陸奥の砲塔、表桟橋を見学しました。


続く。


 


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