海軍兵学校同期会の江田島訪問参加記、続きです。
午前中に教育参考館を見学、お昼ごはんを挟んで午後からは
水交館、高松宮記念館、賜餐館
の見学まで進みました。
賜餐館の前に待たせてあったマイクロバスに乗り込み、もう一度
教育参考館の前で降ろされます。
「ここからはバスが通れないところなので歩いて行きます」
一般コースでも同じところを歩きます。
元生徒が後から
「長い距離歩かされて疲れた」
とぶーたれていたのは、おそらくこの行程のことに違いありません。
まず、赤煉瓦の学校庁舎(校舎とは言わない模様)を
横から回り込むように沿って歩きます。
案内の自衛官は色々と説明しておられたのですが、
不思議なことにどんな説明だったか
全く記憶にありません。
おそらく説明のほとんどがもう既に知っていることばかりで、
そうだったのか、と驚いたりすることがなかったせいでしょう。
わたしも4度目ですので、初回のときのように
「写真で見たあの通りだ!」
「あ、ここも見たことがある」
「ああ、ここで兵学校生徒たちが・・・」
などといちいちジーンと感激しなくなっていました。
初回の文字通り心臓が音を立てんばかりの感動はいずこへ・・。
ところで写真の入り口の右、壁に沿ってまっすぐ伸びているのは、
なんとこれ雨樋なのです。
雨樋と言えば管を壁に沿って取り付けるのが普通ですが、
生徒館の雨樋は壁に埋め込んであるんですね。
出っ張りがなく、管の劣化もしにくいというわけです。
樋を伝う雨水は完璧に地下の水路に流されます。
さらに、近づいて覗き込まなくては分かりませんが、
窓枠の石の桟には、下部裏に細く長い線が一本刻まれています。
この小さな仕掛けのおかげで雨水は壁を伝いません。
いつまでもこのレンガが美しいのは、レンガそのものが
大変高価で上質なものだけあって焼きが固いので、
水が染み込みにくいからですが、それだけではなく、
こんなちょっとした工夫が半永久的な美を保っているのです。
裏庭に面した回廊。
今回、この中にも入って行けるかと期待していたのですが、
「今稼業が行われているので申し訳ありませんが・・・」
ということでした。
週末なら見せてもらえたのかしら。
この回廊はよく映画のシーンに登場してきました。
たとえば先般お話した中村吉右衛門主演の「あゝ海軍」では、
吉右衛門が兵学校の教官として、ここで生徒に檄を飛ばしますし、
「海兵四号生徒」では、渡辺篤史が扮する4号生徒が
卒業して行く1号に頼んで最後の鉄拳修正をしてもらうのもここです。
この写真では分かりませんが、吊り下げられたランプには、
錨の模様が小さく入っています。
右手にグラウンド、左手に生徒館を見ながら歩いて行きます。
ところでこの写真見ていただけますか。
兵学校時代の起床後の発声タイム。
多分同じ場所だと思うのですが、見ていただきたいのは側溝。
当時と全く同じものがありますね。
この、蓋をしていない側溝というのも珍しく、
わたしは最初に来たときから気になっていたのですが、
雨水の水はけを良くする為にあえてこの仕様なのでしょうか。
兵学校の中というのは細部に至るまで特別だったのだと
こんなところでも関心させられます。
ここをマイクロバスが通れなかったのは、この立て札が
あったからですね。
グラウンドから表桟橋、つまり兵学校的には「正門」を臨む。
道路に面した門は「裏門」であり、海側が正門とされています。
グラウンドに錨発見。
おそらく旧軍艦のものだと思われますが、遠くてわからず。
一行は赤煉瓦の
旧海軍兵学校生徒東生徒館
の前に到着しました。
一般ツァーはいわゆる裏門から来ますから、逆向きのコースです。
移転前、兵学校は築地にありましたが、そこにあった生徒館も
同じイギリス人建築家、ジョン・ダイアックが設計しました。
先日お話しした裏手にある「水交館」も同じ建築家の手によるものです。
現在ここは海上自衛隊幹部候補生学校庁舎となっています。
幹部候補生学校は、海上自衛隊の初級幹部自衛官として必要な、
知識と技術を習得する為の教育機関です。
年間役600名の一般幹部候補生、幹部予定者、飛行幹部候補生たちが
教育を受けた後、3等海尉として任官し、巣立って行くのです。
いつ見ても1893年(明治26年)の建築とは思えない美しさですが、
実はこの庁舎、割と最近(工事期間1992~2004年)、大改修が施され、
創建当初の輝きを取り戻したばかりなのだそうです。
そういえば、呉の旧鎮守府庁舎も改修後でしたね。
最初に来たとき、桜に錨のマークが妙に金ぴかだなと思ったんですよ。
ところで、行ったことのある方もない方も、気づいておられました?
生徒館の裏手の写真をもう一度見て下さい。
そしてこの写真の中央入り口を見て下さい。
何か気がつきませんか?
そう、生徒館にはドアがないことに。
正面玄関も廊下の出入り口も、開けっ放しのまま。
風が吹けば風が、雨が降れば雨が吹き込んできます。
これには理由があります。
生徒館の建物は横に長いですが、これは兵学校がこれを
フネ(艦)に見立てているから
なのです。
「どんな気候状態にあっても常に対処できる」つまり、
「海の上でどんな気候にあっても心身が翻弄されない」
対処と心構えを教育機関の段階から身体に叩き込むためです。
なるほど、たとえ入り口から風が吹き込んでも、埃や塵が舞うことなど
床が常日頃からピカピカに磨き上げられていれば、ありえません。
最初に来たときも目を奪われた避雷針のデザイン。
何と繊細で流麗な意匠なのでしょうか。
美は細部に宿ると同じセリフをまたしても繰り返したくなります。
ちなみに屋根は建築当初、和風の瓦葺きだったそうですが、
明治38年に安芸大地震が起こり、破損したのを契機に
天然スレート葺きに全面的に代えられて、今日に至ります。
ここでちょっと案内してくれた士官(2佐)に注目。
バスに乗り込んできて自己紹介したときに皆が拍手すると、
「そんな拍手されてしまうと、バスの中でも解説をしなくては・・」
と照れておられました。
大変声が大きく明るい雰囲気の素敵な方です。
写真に撮ってみると、いつも手を動かしています。
しゃべるときに手を動かす癖のある人っていますよねー。
うちわにシルエットで描かれても誰か分かってしまう議員とかね。
あんなものと自衛官を比べるな!と叱られてしまいそうなので
名前は出しませんが、とにかくこの方も同じ傾向のようです。
彼が手に持っているのは説明用の資料。
ツァー中床においてあったので、急いで写真を撮りましたが、
急ぎすぎてピントぼけぼけになってしまいました(´・ω・`)
こういうときにエスコートをする自衛官というのが
どういう部隊の所属なのかは皆目検討着きませんでしたが。
この自衛官が潜水艦隊の徽章をつけているのだけはわかりました。
さて、ここ江田島の海軍兵学校跡。
今まで何度も来て、さらに今回、一般公開されない建物も
同行の皆様のお陰で特別に見ることができたわけですが、改めて思うのは、
どうして海軍は巨額の国費を投じてここまでの一流建築を求めたかです。
敷地内にある建物は、煉瓦造り、煉瓦鉄骨石造り、鉄筋コンクリート造り。
設計も外国人によるものだったり、海軍内設計であったり、外注したり。
さらにネオバロック風、ギリシャ風、バシリカ風、ロマネスク風など様々な、
というか統一性のない建築様式で、要するに一見統一性無くバラバラです。
ただひとつ言える確かなことは、どれもこれも世界基準で見て、
壮麗で立派で威圧的ですらあるということです。
この理由は、海軍の沽券とか権威主義とか、ましてや派手好き 、
などというものから来たのではなく、明快な一点に集約されます。
ここを巣立って行く海軍士官たちが、たとえ世界の何処に行っても、
どんな荘厳で麗々しい建物を目にし、そこに招じられることがあっても、
決して臆することなく、平静を保つことの出来るように。
海軍士官たるもの華美に堕することなく質実剛健たれ、というのは
兵学校心得にも書いてあることですが、一流の建築物の中に身を置くことで
世界の(特に当時は欧米の)何処に出ても堂々と振る舞うことの出来る
平常心を養うこと、というのも、この一群の建築物を教育機関に配した
海軍の「想い」であったようなのです。
続く。