「華の二水戦」という曲をご存知でしょうか。
なんでも「艦これ」関係から生まれたもので、帝国海軍でももっとも練度が高く、
攻撃力に優れていたと誉れの高かった第二水雷戦隊をトリビュートしてできた、
アニソン風の、ってアニソンなんですがまあそういう曲です。
【艦娘想歌】華の二水戦
音楽関係者のくせに「千本桜」のピアノバージョンを着メロにしているくらいなので、
この手の曲にも、出来さえ良ければ偏見は全く持たないわたしですが、
この曲はいかんせん曲の出来以前に歌手の出来が(声優が歌ってるんですよねきっと)
・・というわけであまりの苦痛に最後まで聴けなかったのですが<(_ _;)>
このタイトルの「華の(花の)二水戦」とは、第二水雷戦隊の実際のキャッチフレーズでした。
それくらい二水戦はカッコよく、特に青年士官たちの憧れだったんですね。ええ。
日露戦争の2年前に、帝国海軍は艦隊の編成を行いました。
第一、第二艦隊はいずれも常設の戦闘部隊という位置付け。
第一艦隊は戦艦、第二艦隊は巡洋艦、巡洋戦艦からなる部隊です。
そのまま終戦までこの形態は存続したのですが、
第一次世界大戦の前に、この枠組みの中に新たに創設されたのが水雷戦隊です。
戦艦部隊である第一艦隊には第一水雷戦隊、そして第二水雷戦隊は第二艦隊の所属です。
帝国海軍には全部で6つの水雷戦隊が存在していました。
もしかして知らない方もいるかもしれないので一応説明しておくと、水雷戦隊とは
「水雷(機雷・魚雷・爆雷)攻撃を行うから水雷戦隊」
です。(砲撃・水雷が攻撃の二本柱として考えられていた)
そしてなぜ第二水雷戦隊が精鋭部隊となったか、ですが、前線部隊、
つまり最前線での攻撃が主任務である第二艦隊には、強力な装備と長大な航続力が要求され、
いきおいそこに、強力な装備の駆逐艦が投入されるようになったからでした。
第一戦隊ももちろん最新鋭艦が投入された前線部隊でしたが、
どちらかというと「斬り込み隊」の役どころである二水戦に対し迎撃、防衛がメイン。
従って「二水戦」そして戦時の臨時編成部隊である「四水戦」には装備だけでなく
最高練度の乗員が集められ、ここに配属されることは大変な名誉とされていたのだそうです。
たとえば「二水戦に転勤になった」となると、ガンルームの皆から羨ましがられて
有り金全部お酒を奢らされたほどだったとか。
ただし、その訓練は他のどの水雷戦隊よりも厳しく、日々異常な想定による訓練が
倦まず弛まず繰り返され、ついにはその訓練が過酷すぎて事故を起こすほどでした。
特にこのブログでもファンの多い陽炎型、わたしの好きな吹雪型、
「島風」一隻だけの島風型と最新鋭の駆逐艦が次々と投入されていた最盛期には、
帝国海軍内のみならず、
「世界最強の水雷戦隊」
の名をほしいままにしました。
日本以外では誰が言ったか知りませんが。
ところで、その第二水雷戦隊の旗艦として帝国海軍の期待を一身に背負い、
またその期待に背くことなく最後まで活躍したのが、冒頭画像の記念碑、
軽巡洋艦「神通」
でした。
・・・・え?
どこに「神通」の碑があるんだ、って?
いやわたくし、このとき下に人を待たせていたので、前回と同じく小走りに走りながらも
これらの碑の写真を漏れなく撮りまくったつもりでしたが、死角があったんですねー。
「神通」慰霊碑は、向こう側の、ちょうど字が隠れてしまっている方なのです。
これが「神通」のものであるとなぜわかったかって?
それは、手前にある個人墓石、
「故海軍中将 伊崎俊二之墓」
から類推したのです。
伊崎俊二少将(死後二階級昇進)は、第二水雷戦隊司令官として、
昭和18年7月11日、コロンバンガラ海戦で戦没した旗艦「神通」と運命を共にしました。
wiki
ところで、この最後の戦いは、「神通」が後世の歴史家から
「神通こそ太平洋戦争中、最も激しく戦った日本軍艦である」
と賞賛されることになったものでしたが、その最後の戦いで「神通」は
味方の雷撃を成功させるため、旗艦として先頭に立ち、煌々と探照灯を照らしました。
たちまち「神通」は恰好の目標となり、「リアンダー」「ホノルル」「セントルイス」
からの2600発余に及ぶ砲撃、雷撃が集中し、艦橋への直撃弾で艦長佐藤寅治郎大佐、
およびこの第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将を含む482名が死亡しました。
しかしながら、この照射によって日本側は敵艦隊をほぼ壊滅状態にし、
沈没「グウィン」
大破「ホノルル」「セントルイス」「リアンダー」「ブキャナン」「ウッドワース」
対して我が被害は、攻撃を一身に受けた「神通」だけで、結果日本軍の勝利に終わりました。
(「雪風」がちょこっと小破)
「神通」は探照灯照射しつつ自らも果敢に攻撃を続け、艦首だけを残して沈みながらも
2時間以上砲撃を続けていた様子が、双方から畏敬の念を持って語られています。
このとき二水戦の駆逐艦部隊は、旗艦が喪失して退避命令を出すものがいなくなり、
相手を全滅するまで戦闘をやめられなかったという説もあるようですが、そうではなく、
精鋭部隊の二水戦が「神通」の弔い合戦とばかり、阿修羅のように戦い続けたというのが
本当のところではないかとわたしは思います。
ところで「異常な想定の訓練で事故が起こった」と先ほど書いたのですが、
その事故で損害を受けたのは、実はこの「神通」でした。
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これが事故直後の「神通」の傷ましい姿。
駆逐艦「蕨」と衝突し、「蕨」は沈没。
「神通」を避けようとした後続の「那珂」が「葦」に激突し両艦大破という大事故で、
これを美保関事件といいます。
「蕨」の沈没は激突からわずか26秒後で、乗員92名は何が起こったかわからないまま海に沈みました。
この厳しい訓練も原因を辿ればそこに「ワシントン軍縮条約」があり、
どれだけあの条約で海軍は追い詰められていたんだよ!と今更腹立たしくもあるのですが、
それはともかく、この訓練は『暗闇の中高速で艦の間を艦が縫う』といった
異常な想定で行われたことがわかっており、「神通」に探照灯が照らされて目潰し状態のところ、
接近してきた「蕨」に気づいた乗員の報告を艦長の水城大佐が聞きそこなった、
といろんな不運が重なった結果起こってしまった事故でした。
砲術出身士官は難聴が多かったそうですが、聞き取れなかったのはそのためでしょうか。
いずれにせよこの責任を感じた水城大佐は、判決前日、自決してしまいました。
その事故から16年後、暗闇の中探照灯を照らして自らの位置を知らせ、
「神通」は単艦砲撃の矢面に立って逝ったのです。
探照灯、という共通の言葉に、この事故が影を落としているような偶然を感じずにいられません。
前に行けなかったので下から柵越しに撮った
駆逐艦天津風之碑。
アメリカ海軍の艦船は功績のあった軍人などの名前がよく付けられます。
これに対し、帝国海軍の艦船名は同じ地名でも「大和」「扶桑」などの「美称」、
そしてこの「天津風」を含む「陽炎型」のような「自然現象」などもあり、
実に文学的でしかもかっこいいものが多いのですが、とくにその中でもわたしが
最も美しく文学的でしかも勇壮な響きであると思うのがこの「天津風」です。
「天津風」とは読んで字の通り「天を駆ける風」で、百人一首の僧正遍昭作
天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ
から取られたことは間違いないと思われます。
当時は「天津乙女」という芸名の宝塚の大スターが全盛でしたから、
この艦名からそれを想起した人々もいたかもしれません。
開戦時にはこの「天津風」と「初風」「雪風」姉妹艦の「時津風」の4隻で
花の二水戦の第16駆戦隊を構成していました。
名前こそ典雅ですが、「天津風」は他の駆逐艦とは違う特色がありまして、
駆逐艦改良のため、テスト的に出力が大きな新型ボイラーを搭載していました。
乗組員には各種学校を優秀な成績で卒業した者ばかりが集められ、
その試験結果を観察、報告させデータが取られたそうです。
このデータを元に作られた新型缶を搭載した次期主力駆逐艦こそ、
日本駆逐艦史上に名高い重雷装高速駆逐艦「島風」でした。
開戦当初、彼女は「花の二水戦」の一員として南方に投入され、
船団護衛などに従事、第三次ソロモン海戦(野戦)では、その高速機動を遺憾なく発揮し
巡洋艦を撃破するなどしましたが、やはり相手を見極めるために探照灯を点けていたので
集中砲火を浴びることになり、大破し死者多数を出すことになります。
敵からの恰好の目標になると熟知していながら夜戦で探照灯を点けるというのは、
それでも雷撃を避けてみせるという高速性への自信の表れだったでしょうか。
その後も「天津風」は、艦体をズタズタにされても無事な第一砲塔だけで応戦、
小回りを生かして艦ごと向きを変えて砲撃を行う、という無茶ぶりを発揮して活躍を続けましたが、
ある海域で、米潜水艦の魚雷を受け、躯体が捻れて真っ二つになってしまいます。
このとき乗員は後ろ半分に乗り移ろうとしましたが、潮に流されて艦体はどんどん離れていき、
泳いで乗り移ろうとした駆逐隊指令の古川大佐ら34名は海に取り残され死亡しました。
田中正雄艦長は泳ぎ着き辛うじて生還しています。
艦橋が失われて、動力はもちろん海図も手元に残らなかった「天津風」。
どうしたとお思いですか?
艦内にあった雑誌の付録の地図から推定して救援無線を発したのです。
しかし案の定位置が180キロずれていて、友軍に発見されないまま一週間漂流することになり、
食料も無くなった末、フカを釣って食べたという話も残されています。
乗員の気力と体力が限界に近づいたとき、一式陸攻に発見され、その後
駆逐艦「朝顔」が「天津風」の艦体を曳航して生存者は生還しました。
「天津風」には失われた艦首部分と艦橋を仮設し、応急修理を施しておいて、
日本に自力回航して舞鶴で本格的に艦首を取り替える工事をすることが決まり、
船団護衛をしつつ日本に向けて出発しました。
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最後の航行で交戦する「天津風」。艦首は仮設のもの。
この船団はしかし途中で敵の来襲を受け、「天津風」以外の僚艦は全て撃沈されてしまいます。
「天津風」は果敢にも単艦日本まで向かうことを決意しますが、すぐに敵が襲ってきます。
満身創痍で離脱したと思ったら、いつの間にか機雷源のど真ん中を航行しており、
そこを無傷で抜けたと思ったら今度は浅瀬に座礁。
苦心してそこから抜け出そうとしていたら陸からは現地の匪賊が襲ってくるというありさま。
ここに至ってもはや打つ術なしと、「天津風」からは、
廈門の陸戦隊との連携を恃んで総員が退去したのち、軍艦旗が降ろされました。
「花の二水戦」の強者らしく自らの爆雷によって「天津風」はその波乱の生涯を終えたのです。
た
駆逐艦「叢雲」慰霊碑。
「叢雲」も就役した1929年から1938年までの間、第12駆逐隊として二水戦の一員でした。
叢雲とは読んでその通り「群がる雲」のことです。
「花の二水戦」としては特に戦闘に参加していないようですが、
その後、日中戦争、ミッドウェー海戦、ソロモン諸島作戦の数々に参加しました。
「叢雲」の最後は、サボ沖で待ち伏せしていた敵にやられた「古鷹」の乗員を
捜索しているうちに夜が明けてしまい、ガ島を飛び立った飛行機に攻撃され、
結局味方の雷撃によって沈没するというものでしたが、この「叢雲」については
もう少し踏み込んでお話ししたいことがあるので、また別の項で。