日本海海戦シリーズの最中ですが。急遽内容を変更してお送りします。
先日、「三笠刀」について書いたところ、コメント欄に
「大和関係の本で溺者救助の時にバッタバッタと溺者を
その軍刀で斬るシーンがあったのを思い出しましたが」
という一文が寄せられました。
そのことそのものを話題にしたのではなく、あくまでも刀の切れ味についての感想でしたが、
これを掲載し、わたしが「そういえばそんな内容の小説もあった」と返答したところ、
それに対し、「待った」の声が一つならず寄せられました。
このコメント欄の「大和関係の本」が吉田満著「戦艦大和ノ最後」であることを前提として、
少しこの寄せられたコメントなどを紹介させていただくことにしました。
まず、問題の部分ですが、このような一文ですね。
「初霜」救助艇ニ拾(ひろ)ハレタル砲術士、洩(も)ラシテ言フ
救助艇忽(たちま)チニ漂流者を満載、ナオモ追加スル一方ニテ、
危険状態ニ陥ル 更ニ拾集セバ転覆避ケ難(がた)ク、
全員空(むな)シク海ノ藻屑(もくず)トナラン、
シカモ船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、
艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル、
ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ、
犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、
マタハ足蹴(あしげ)ニカケテ突キ落トス、
セメテ、スデニ救助艇ニアル者ヲ救ハントノ苦肉ノ策ナルモ、
斬ラルルヤ敢(あ)ヘナクノケゾッテ堕(お)チユク、
ソノ顔、ソノ眼光、瞼(まぶた)ヨリ終生消エ難カラン、
剣ヲ揮(ふる)フ身モ、顔面蒼白、脂汗滴(したた)リ、
喘(あえ)ギツツ船ベリヲ走リ廻ル 今生ノ地獄絵ナリ
この部分は、そのショッキングさからかなり後世の耳目を集めたようです。
まず、ある方のコメントからどうぞ。
「初めてこの本を読んだとき、わたしも愛する海軍で
そのような行為があったとは俄に は信じがたいと思った一方で、
戦時下に起きる生々しい事実なのかと思うところで した。
しかしこの件については第二艦隊関係者や大和生存者から
多くの反論が寄せられてい ることを指摘しておきます。
吉田も一連の著作はあくまで「小説」と述べていたようです。」
そして、そのうち二通のコメントが、この件を否定するサイトをご紹介くださっています。
吉田満著「戦艦大和の最後」の虚構と真実
この部分について書かれている部分はこのようなもの。
抜粋ですので、全文はぜひサイトでお確かめください。
士官は短剣を常用し、海軍下士官は軍規上軍刀を元々持てないし佩用出来ない。
「乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ・・・」は明白且つ重大な誤りである。
救助員に軍刀は邪魔物以外の何物でも無い。
冷静に考えればあり得ない話しである。
内火艇・橈艇とその構造をみれば、波や漂流者が掴まろうとして 動揺する内火艇・橈艇の「船ベリヲ走リ廻ル」とはサーカスの曲芸と云ってよい。
これが、救助された砲術士の発言であったとしたら余計に信じ難い事になる。 海軍を知る者としての発言とはとても思えない。
直ぐに虚構と判る供述を何故敢えてしたのか ?
戦後、意図的に日本を辱めようとした元軍人達
(俗に云う懺悔(ざんげ)組)の例は枚挙に暇(いとま)がない
また、別の方からはこのようなサイトのURLをいただいています。
三井田孝欧議員のブログ「納豆人生」
戦艦大和ノ最期』にはこうある。
「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、
手首ヨリ バッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」
「大和」沈没後、付近の海域の救助に向かったのは「冬月」「初霜」。
著者の故・吉田満氏によれば、
「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として紹介しており、
救助艇が生存者で満杯となったものの、乗り切れない生存者が船べりを掴んだので、
下士官が掴んだ手首を次々と切り落としたというのである。
著者の故・吉田満氏は、「大和」に電測士、いまでいうレーダー担当者として乗り込み、
沈没後は「冬月」に救助された。
『戦艦大和ノ最期』に書かれた指揮官に該当する人はまだご存命である。
「初霜」の通信士で、救助のための内火艇の指揮を務めた松井一彦氏その人。
松井氏によれば、
・「初霜」の内火艇は「矢矧(やはぎ)」の救助に向かったそうである。
また、「大和」を護衛して沖縄を目指したものの「大和」沈没により
帰投中であった「雪風」に救出された、「大和」乗組員の八杉康夫氏によれば、
・這い上がってくる仲間の手首を軍刀で切るなどありえないと証言する。
生き残った「大和」乗組員の重傷者は、佐世保の海軍病院、軽傷者は
浦頭の検疫所に運ばれたが、どこからもそのような話は聞いていないという。
前述の松井氏も「雪風」「冬月」関係者に聞いたが、そんな話はないとのこと。
そもそも、内火艇は、船べりが高く、海面から手を伸ばしても届かない。
ロープを投げ、引き寄せて救助するのである。
映画の救助シーンでもそうであったし、海軍の溺者救助、
漂流者救助のマニュアルにもロープを使う旨記載してある。
また、内火艇は羅針盤があり、軍刀は磁気に影響するので、持ち込まない。
しかも海軍の士官は、軍刀は常時携行しない。
ただ、沖縄決戦を想定していたので、
米軍との白兵戦に備えての軍刀が駆逐艦のなかにあったのは事実である。
では、救助に向かった船が違うものであったとしたらどうであろうか。
海面から手を伸ばして手首が見える高さの船べり、つまり簡易な救助艇を想定する。
軍刀も良く切れるものを持っていたとする。
すでに船のなかは生存者で満杯。
戦時下の沈没にともなう救助であり、生存者は当然、重油まみれである。
そんななか、軍刀を振り回し、次々と手首を切り落としていくことは可能であろうか。
この件については、松井氏のみならず、旧海軍の親睦団体「水交会」からも
「初霜」乗組員を中心に「訂正すべし」の声があがっている。
『戦艦大和ノ最期』のなかでは、その他のことについても「訂正」の声がある。
レーダー担当者であった故・吉田満氏の勤務場所は艦橋。
とてつもなく巨大な「戦艦 大和」のほかの部署のことも書いてあるが、
本人が直接体験したものではなく、伝聞によると考えるのが通常であろう。
故・吉田満氏が『戦艦大和ノ最期』を書いたのは1946年。
軍国主義の復古だとしてGHQの検閲により出版できず、
発表は1952年になったものの、書いたのは終戦直後。
電話もなく、生存者の住所も分からなくなっているなか、
取材をどう行ったのかは不明である。
また、当初のタイトルは「小説・軍艦大和」であり、ノンフィクションではないとしている。
著者の吉田満氏がすでに鬼籍(昭和54年9月17日、56歳で死去)に入っているので、
本人による訂正はできない以上、今後、出版社は
『戦艦大和ノ最期』をあくまで小説であると紹介してほしい。
なるほど。
実に論旨ののすっきりとした検証です。
「愛する海軍でそのようなことがあったとは俄かに信じがたい」
という情緒的とも言える疑問はもとより、わたしも
言われてみれば共に死のうと決めた同じ船の仲間を
そんな極限状況であってもこのような方法で殺めるなど、
果たして日本人にできるであろうか?
とこれまた情緒的にに思わずにはいられません。
このコメントを戴いたとき、最初に思い出したのが、吉村昭著
「海の棺」という戦記小説でした。
ある漁村で、その沖で戦没した艦艇の乗組員の死体が多量に流れ着く。
不思議なことに、その死体のいずれもが二の腕から先が無かった、
という導入で始まるものです。
「船艇に乗ったのは将校のみですね」
「おもにそうです。従兵と機関兵もいましたが・・・・・」
「切りましたか」
私は、たずねた。
「なにをですか」
かれは、いぶかしそうに私を見つめた。
「兵士の腕です」
男は一瞬放心したような目をした。
そして徐に視線を落としたが、あげた顔には妙な笑いが薄く漂っていた。
「私は、切りませんよ。
暗号書を抱いて船艇の真ん中に坐っていたのですから・・・・」
かれの微笑は、深まった。
「切った将校もいたのですね」
と、私。
「いました」
と、彼。
「船につかまってくるからですか」
と、私。
「船べりに手が重なってきました。
三角波に加えて周囲から手で押されるので、船艇は激しく揺れました。
乗ってくれば沈むということよりも、船べりを覆った手が恐ろしくてなりませんでした。
海面は兵の体でうずまり、その中に三隻の船艇がはさまっていました。
他の船艇で将校が一斉に軍刀を抜き、
私の乗っていたフネでも軍刀が抜かれました。
手に対する恐怖感が、軍刀をふるわせたのです。
切っても切っても、また新たな手がつかまってきました」
「あなたは、なにもなさらなかったのですか」
「靴で蹴っただけです」
「海の棺」からの抜粋です。
このとき撃沈した艦船というのは占守島から出発し沖縄に向かう輸送船でした。
根室沖合で護衛の海防艦が敵潜水艦に撃沈され、さらに
輸送船も次々と餌食になった、という設定です。
さらに、ここで長刀を振るい船艇に縋ってくる溺者を切るのは、
全て陸軍の軍人ということになっています。
戦後の人間がこれを読む限り、海軍と違って陸軍軍人であれば
海での非常時にすべきこと、助かるすべ知らない陸軍であれば
このような惨事になることもあったのかもしれないと思えますし、
いつも長刀を佩している陸軍将校がこのようなことをやりかねない、
というイメージを戦後の一般人にあらたに植え付けるに十分な記述です。
陸軍だからやりかねないというのか、このようなことをするから陸軍だと思うのか、
いずれにせよそこには戦後の
「絶対悪としての軍」
を上からあくどい色でなぞるような情報操作の匂いがします。
この話は、この吉田満氏の記述にインスピレーションを得て創作されたのではないか、
という気がしてならないのですが、いかにも「隠された真実の暴露」
といった調子で描かれているあたりに、タチの悪さを感じないでもありません。
今回、読者の方から戴いたコメントの中にも、貴重な証言があります。
この方が実際に「大和」に乗っていた生存者(矢矧航海長であった池田武邦氏)
に直接このことを尋ねたところ、明確に否定されていた、というものです。
それでは、大和が沈没した後、海中に投げ出された乗員の証言をいくつか挙げて、
このときの空気の片鱗だけでも想像してみることにしましょう。
冒頭に写真を挙げた「戦艦大和の最後」。
こちらは高角砲員であった坪井平次氏の著作です。
ここから、海中を漂流していたときの記述を抜粋してみます。
むろん、戦ったのは、なにも私一人ではない。
いま、この海面に浮いている戦友は、みんな、
それぞれ死中に活を得た者ばかりである。
なかには負傷し、その痛さや苦しさに耐え、
血を流しながら漂流している気の毒なものもあるかもわからないのだ。
それを思えば、さいわいに私の体は傷らしい傷は受けていないようである。
どこも痛まないし、関節も不自由なく動いている。
水中に漂流をはじめたのもみんな同じだ。
苦しいのはみんな一緒である。
今へこたれたらおしまいだ、と決意をあらたにしたそのとき、
「オーイ駆逐艦が来てくれたぞ」とだれかが叫んだ。
「『雪風』がきてくれるぞ」
「『冬月』も来てくれた!」
「オーイ、ありがとう。頼むぞ」
「オーイ、オーイ」
とたんに、いままでの不安感が消えて、ふつふつと気力が涌いてきた。
著者は『雪風』のロープに手をかけて引っ張り上げてもらい、一命を救われました。
また、「男たちの大和」(逸見じゅん著)から、いくつかのシーンをご覧ください。
■火薬缶に取りすがって見渡すと、大きなうねりと重油の漂う海ばかりだった。
「おれ一人か・・・」
ぼんやりとうねりのかなたを眺めながら、一人なら一人でよいと思った。
うねりに乗って見回すと、黒い頭がポツリ、ポツリと見えた。
「集まれ、集まれ」
海面をはうように声が聞こえた。
静かな、あきらめと言った気持が漂い始めた。
生きたくもなければ死にたくもない。
怖ろしくもなければ、一人でいるのが寂しくもない。
寒くもなく、痛くもない。
不思議な心持がひたひたと押し寄せた。
三笠は敵の機銃掃射を目撃していない。
不意に、東の水平線にマストが一本見えた。
その左にもまた、一本、見えた。
やがて艦橋が見え、甲板が姿をあらわした。
「駆逐艦だ・・・・・」
味方の駆逐艦が生き残っていたのだ。
熱いものがこみあげ、マストに翻る軍艦旗がぼやけた。
■「助けてくれッ・・・・」と思わず叫んでいた。
八杉は目の前に高射長を見つけ、なんということを叫んでしまったのだと
自己嫌悪にかられた。
「高射長・・・・・・」
八杉はひきつった声になった。叱られる。
しかし死にたくないという思いがこみあげた。
「落ち着いて、落ち着いて、そーら、大丈夫、これにつかまるんだよ」
高射長は脇に抱えていた円材を八杉のほうに押し流した。
「さあ、もう大丈夫。がんばるんだ。がんばって生きるんだよ」
「高射長・・・・」
ふたたび高射長を観たのは駆逐艦がカッターをおろし、
近くの漂流者を救助し始めてからだ。
我先にと駆逐艦にむらがる者たちの中で、高射長は一人漂っていた。
「高射長ッ・・・・」
八杉は幾度も声を挙げた。
その声に一度顔を向けたようだったが、急に体をめぐらすと
駆逐艦とは別の方向にむかうようにその姿は消えた。
■八杉もまた、駆逐艦のおろすロープを奪いあう人の群れを見た、
ロープを体に巻きつけようやく水面が離れた者の足を、
引き下ろすようにしてすがる。
戦闘のときではなく、この救助のときに、生まれて初めて地獄を見た。
死ぬとはもう思わなかった。殺されると思った。
■八杉の足は舷側にかかったまま滑った。
甲板上の兵は顔を真っ赤にして足をハンドレールにかけ、
弓なりになってロープをひく。
甲板の兵は八杉の体を抱きかかえ、後ろにのけぞった。
一瞬、八杉の体はハンドレールを超えた。
抱き合って二人とも甲板上に転がった。
「バカ野郎!」
兵は泣きながら、八杉の横面を殴った。
よろける八杉を引き起こし、「よかったな、おまえ、よかった・・・」
といって、また殴った。
八杉は目を涙でいっぱいにして、「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。
八杉が海軍に入り、殴られてうれしいと思ったのは、この時が初めてであった。
諦めと無気力、助かろうとする者の本能と、その本能の生み出す地獄。
その中でも他を思いやり莞爾と死んでいく者、誰かを助けようとする者。
およそ考えうる極限状況のあらゆる人間のさまがそこにあります。
であるゆえに、「小説」を書いた吉田満は、自分が目撃した事実ではないにせよ、
「バッサ、バッサと手首を軍刀で切る」
という話もまたそのような状況では当然あり得べきと判断したのでしょう。
たしかに「雪風」も「冬月」も、多くの将兵を海上から救出しましたが、
それでもかなりの人員を置き去りにしたままそこを去り、北上しています。
「いいかッ。『大和』の生き残りのものは、よく聞け。
戦闘はまだつづいているぞ。
『雪風』の戦死者にかわって配置につけッ!」
「まだこれからだぞ!沖縄に突撃するぞ!」
殺気を含んだ声が続けざまにとんできた。
まごまごしていたら、もう一度、海の底へ投げ込まれそうであった。
しかし、ここでは命の意味が違うのです。
兵員を救助するのも、NHKの「坂の上の雲」で全編に亘り貫かれていた、
「人間をひとりでも死なせないことが目的」(笑)などという意味ではなく、
あくまでも今後の戦いに投入せられるべき「兵力」の確保なのです。
これが人道的にどうかということもまたここでは問題になりません。
なぜならそれを決定する側もここでは「戦いに身を投じる者」であり、
いずれは戦いに死ぬという覚悟の上にその決定はなされているからです。
そこでもう一度「手首斬り」について考えてみると、
確かに我先に助かろうとする極限のエゴイズムは戦場で散見されるものだけれど、
上記2サイトの筆者が検証するような、物理的不可能もさることながら、
すなわち覚悟の上で大和に乗り込み、そこにあった海軍軍人が、果たして、
一人ならずそのような醜行に及んでまで自分だけが助かろうとするだろうか、
という根本的な疑問を持たずにはいられません。
この件について寄せられたコメントの中に
「吉田氏がそうだったのか、否か、良くは知りませんが、
この様な話を大げさに広めた人達の『匂い』を、
エリス中尉なら、感じられるのではないでしょうか?」
というものがありました。
匂いますね。確かに(笑)
ことに、「軍刀」と明言しながら何故それを振るうのが士官だとせず
「下士官」であるとこちらも明言したのかについてはある「匂い」を強く感じました。
いわゆる「懺悔組」が、戦後、元軍人としていかなる心理的変遷を経て、
このような「自虐色」で自らの組織であった海軍をこのように貶めるに至ったのか。
我々にはもはや考え及ぶべくもありませんが、唯一つ言えることは、
結果的に彼らの生み出すことになったこの歪な歴史観もまたおそらく
戦争というものの齎(もたら)した災禍であったのだろうということです。