東条鉦太郎画「三笠艦橋の図」。
しかし、この東条鉦太郎画伯の画力はすごいですね。
この画家は、戦争画専門の絵描きとして活動しており、この
「三笠艦橋の図」も、海軍からの依頼で描かれました。
芸術としてどうか、ということとは全く無関係に、この絵は
日露戦争の、日本海海戦の勝利とともにシンボルとなり、
こうして画家の名前も後世に残ることになったのです。
勿論三笠艦橋の様子を見たわけでもない東条画伯ですから、
この、聯合艦隊がバルチック艦隊と接触した直後の様子は
想像の上に描いています。
実は、このときに海軍に依頼されて描いた最初の「三笠艦橋の図」、
関東大震災で焼失してしまっています。
現在残っているこの絵は、そのあと本人が描きなおしたもので、
オリジナルとは煙突の煙やハンモックの縛り方が違っているそうですが、
描かれている人物は元の通りだそうです。
もし画伯が焼失した後そのままにして世を去っていたら、この構図は
今のように日本海海戦の象徴となっていなかったでしょう。
それにしても、この絵を見るといつも思うのですが、
東郷長官が世界中で「三大提督」とまで称えられたのは、
もしかしたらそのイケてる容姿も手伝っていませんか?
イギリス留学時代の写真も、高陞号事件の艦長時代も、
そして晩年の姿ですら、かっこいい。
いまさらですけど。
ついでに東郷平八郎自筆。
日記のようですが、拡大しても何が書いてあるのかほとんどわかりません。
さて、この「三笠艦橋の図」から、東郷大将の双眼鏡について前回お話ししましたが、
今日はこの絵の艦橋上に見られる、他の光学機器についてです。
記念艦「三笠」の艦橋を下から撮ってみました。
測距儀が見えます。
この測距儀、レンジファインダーといい、書いてその通り、
距離を測るための機器です。
去年、護衛艦「さみだれ」で、この測距儀を持たせてもらいました。
これ、ラックみたいなのに置いてあって、持って使います。
その際、ベルトのようなものを首からかけて落とさないようにするのです。
なにしろあらためて驚くのは、明治時代の日露戦争で使っていた測距儀と、
今のがほとんど同じというこの事実。
どれだけ完成度が高かったのか、って話ですが、それでは測距儀って何?
とおっしゃるあなたのために少し説明しておきますと、
光学的測距儀の仕組みは、簡単に言うと、
「対象点の方向と基線とから三角法で対象までの距離を求める」
というもの。
もう少し詳しく言うと、
「左右に離れた2個の対物レンズで取り込んだ画像を、
距離計に連動して回転する鏡によって、合成プリズムに送る」
え?あまりよくわからない?
あなたの頭には目が離れてついていますね?
だからこそ距離を認知することができる、というのと同じ。
測距儀も1つの物体を左右2つの窓から見る時の角度差を測って、それを距離に換算するのです。
この仕組みゆえ、測距儀は今も昔も筒型をしているんですね。
この離れた二個のレンズの間の距離を「基線長」というのですが、
この基線長が長ければ長いほど、測定結果は正確であるということです。
戦艦「大和」には日本光学(現ニコン)製の、15mの測距儀が搭載されていました。
軍事において測距儀は、放物線を描いて飛ぶ砲弾の、
目標までの正確な距離を知るために必要とされました。
三笠に搭載された測距儀はF.A.2型で基線長1.5mあります。
絵の一部を切り取ってみました。
この測距儀が、三笠搭載のもの。
イギリスのバー&ストラウド社のものです。
測距儀を覗いているのは、残念ながら業務の性質上顔が見えませんが、
名前ははっきりしていて、測的係の長谷川清少尉候補生(後に海軍大将)。
長谷川候補生が覗いている測距儀を見ていただけると、両側のレンズ穴、
そして覗き込むプリズムの部分の穴がはっきり描かれているのがわかります。
右手は測距儀に添えられていますが、左は何か持っていますね。
これは、テレグラフの操作器具で、測定結果を同時に信号にし、
送っていたということらしいです。ハイテクですね。
まあ、風の強い艦橋で戦闘中に怒鳴っても何も聞こえませんしね。
この絵は、聯合艦隊がバルチック艦隊を発見してすぐ、という設定で、
このときバルチック艦隊は旗艦三笠から見て左舷側にありました。
東郷司令長官の視線の方向と、長谷川候補生が向けている測距儀のそれが
同じであることにご注目ください。
さらに、先ほどの写真と並べてみますと、
この測距儀が全く同じ形をしているのにお気づきでしょうか。
つまり、左の写真は、長谷川候補生の立って測距儀を覗き込んでいるのを
背中側(の上甲板側)から見ているということになるのです。
こんど三笠に行くことがあったら、ここに立って測距儀を覗き込んでみてください。
長谷川候補生の気分が味わえます。
さて、艦橋の上にはもうひとつ測距儀が見えていますね。
誰も使用していませんが、これは可動式の測距儀のようです。
もしかしたら秋山参謀が使うためかもしれません。
このとき長谷川候補生が覗いていたのと同じ時代のものを、
調査研究したという読者の方が、昔URLを下さっていたのでご紹介しておきます。
2011年5月ニコン研究会東京レポート
この測距儀は、館内に展示されていました。
三笠のものではないようですが、説明の写真を撮るのを忘れたので、
由来はわかりませんでした。
「三笠艦橋の図」左下部分。
まず、羅針儀を覆っているハンモックに注目。
ハンモックにはちゃんと番号が振られていて、
誰のものかわかるようになっています。
これが本当のハンモックナンバー。
でも、あれ?皆ここにあるのは二けたですね。
以前「ハンモックナンバー」というエントリで、「4ケタ」って書いたのに。
それは置いておいて、羅針儀左に置かれている普通の望遠鏡。
これは望遠鏡の下でかがみこんでいる、おなじみ(エリス中尉的に)、
ハンモックナンバー一番の男!
枝原百合一(えだはらゆりかず)航海士少尉
が使用するためのものではなかったでしょうか?
いや、全く適当に言ってますが。
実は、改装為った記念艦三笠、今回来てみたら、
このような大パネルが上甲板に設置されていましてね。
こりゃーあれだな。
観光地にあって、顔だけ出して写真を撮るパネルと同工異曲。
ここまでするなら加藤少将と伊地知艦長はともかく、
せめて東郷元帥と秋山真之くらいは顔をくり抜いて写真が撮れるようにしてほしかった。
さすがにそれはアイデアは出たものの不謹慎ということで
ボツになり(たぶん)、ただ前に立って写真を撮るコーナーになっていました。
それはともかく、この前に来たときにわたしがTOに
「右が秋山真之で、左が加藤友三郎、その隣が伊地知艦長で、
しゃがんでいるのが枝原百合一という少尉」
とすらすらと説明したところ、呆れかえった顔で
「今この三笠の中で、このしゃがんでる人の名前を知っているのは
断言してもいいけど一人しかいないと思う」
と宣言されました。
いや、少し日本海海戦に詳しければこの4人くらいは知ってるでしょうけど、
枝原少尉の場合、わたくしその名前があまりに衝撃的にファンシーだったので、
自然と脳髄に刻み込まれてしまったんですよ。
この左下部分の将官たちも等しく首から双眼鏡を下げていますね。
しかし、これは前もお話ししたように、東郷長官のツァイス製のとは違い、官給品。
いざ海戦の際、ペテロパブロフスクの爆沈を確認したのは東郷長官だけで、
性能が劣っている官給品を使っていた他の将官全員は、
作戦立案をした秋山参謀を含めて、この瞬間を捉えることができなかったというのです。
このときにもどかしい思いをした将官たち、もちろん秋山参謀を含む全員が
フネを降りるや否やツァイスの角型眼鏡を注文したのに違いありません。