三六式無線のときにも少しお話ししましたが、日本海海戦において
情報の伝達が非常にうまくいったことの一つの要因として、
海底ケーブルがその一助を担ったということがあります。
「児玉ケーブル」とも言われたこの国産初の海底ケーブルは
以前にもお話ししたこの軍事、政治、経済、産業、全般にたいし
オールラウンドな才能を持っていた児玉源太郎によって敷設されました。
先日その「NHK史観」について少し苦言を呈した形の「坂の上の雲」
では高橋英樹がこの大物を演じています。
秋山好古が陸軍大学の学生である時に、校長職にあったのが児玉でした。
「坂の上の雲」では、ドイツ軍大モルトケの推薦により派遣された
クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐が陸軍大学校教官として、
秋山好古らを厳しく指導する様子を微笑みを浮かべて見守っていましたが、
メッケルを招聘してきたのも「臨時陸軍制度審査委員会」委員であった児玉です。
ちなみにメッケルの陸軍大学校での教育は徹底しており、1期生で卒業できたのは、
東条英教(東条英機の父)や秋山好古などわずか半数の10人という厳しいものでした。
その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、
校長である児玉始めさまざまな階級の軍人が彼の講義を聴くことができたということです。
メッケルはその後、日露戦争開戦と同時に山縣有朋に対し「日本万歳」と打電してきています。
「児玉がいる限り日本は必ず勝つ」というのが参謀教育で来日し
陸軍大学長である児玉を教えたメッケルの確信するところでした。
今日は、ある意味秋山真之よりもプロデューサーとして日露戦争の勝利に貢献したというべき、
この児玉源太郎の功績についてお話しします。
児玉は日露戦争では満州軍総参謀として二〇三高地陥落させたように、
秋山好古に秋山支隊を編成させロシア軍右翼を脅かすなど、
満州における陸軍の作戦を主導しました。
そして、児玉は情報通信を徹底的に重視します。
冒頭の「海底ケーブル」とは、1851年に世界で初めてドーバー海峡に敷かれた
電力用または通信用の伝送路一般を言います。
20年後の1871年には大北電信会社によって日本も海底ケーブルを
長崎〜上海および長崎〜ウラジオストク間に敷設しました。
その後1883年には呼子〜釜山間にも海底電信線が敷かれます。
しかし、日清戦争後、この状態に児玉は危機感を抱きます。
すでに日露間で戦火を交えることを視野に入れてこその危惧でした。
児玉の抱いた危惧とは。
●呼子〜釜山線は欧米人が使用しているので軍の独占ができず、
またここを切断されたら通信が途絶えて致命的であること。
●大北電信は名前こそ大北であるが、実はデンマークの電信会社。
後ろにロシアが控えていて、情報が筒抜けになる恐れがあること。
●長崎〜ウラジオストック線も、当然日露戦争で使えるわけがない。
そこで児玉は、日本の手による海底ケーブルの敷設に乗り出すのです。
それは、本土と大陸(半島)をケーブルで結び、さらに台湾経由でイギリスの
ケーブル網につなぐ計画でした。
日本人だけの手で、日本の勝利のために海底にケーブルを敷く。
これが、児玉の壮大な計画であった。
(BGM 「地上の星」)
児玉は、まず、イギリスに海底ケーブル敷設船「沖縄丸」を発注し工事に着工しました。
「日本人にケーブル工事は無理だ。我々に任せておけ」
と大北電信が口を出してきますが、勿論児玉ははねつけます。
大北と無関係のケーブルを造るためにやっているのに何を言うやら。
ってところです。
さらに、日露戦争を見据えての事業ゆえ、情報の漏えいを防ぐために
お雇い外人技師もいっさい使いませんでした。
これを見て「日本人には無理」と欧米人は冷笑していましたが、
日本の技術陣は驚いたことに、明治30年には
九州〜那覇〜石垣島〜台湾ルートのケーブルを完成させ、
その年中に支線を含め計画はすべて完了させてしまうのです。
日露戦争開戦に先立つこと8年前のことでした。
英米以外ではまだ難しい、といわれていた長距離のケーブル網を、
測量に始まって、すべての敷設まで有色人種が助けを借りずにやり遂げたのです。
日本と日本人の技術力に対して、欧米諸国が脅威を感じた最初の出来事でした。
そしてその後、この時に工事に携わったケーブル敷設船である「沖縄丸」の
八面六臂の活躍が始まるのです。
日露大戦開戦約1か月前の1903年(明治36年)末。
「沖縄丸」は、関門海峡の電信線修理などの名目で長崎港へ移動しました。
そして、すでに児玉の手によって用意されていた海底ケーブルを着々と敷設していきました。
この際、正体を偽装するため、沖縄丸はマストの位置を移動、
船首のシーブ(ケーブル用滑車)を隠す偽の設置、
船体や煙突を白色から黒色へ塗り替えるなどの工事を、佐世保海軍工廠で施されています。
さらに機密保持のため、乗員は誓約書を提出させられました。
船名も「富士丸」と偽装して、準備万端整えます。
そして開戦。
富士丸、いや沖縄丸は、陸軍の前進にともなって朝鮮半島西沿岸を北上し、
あの旅順近くまでこっそりレールをつないでいきました。
旅順はご存知のようにロシア艦隊が停泊している港でしたから、
沖縄丸の作業は、いつも決死作戦のような緊張にいつもさらされていたことになります。
そして、日露戦争が日本の勝利に終わりました。
「沖縄丸」の為した功績は非常に大きなものとして、
「沖縄丸」の船尾には日本海軍軍艦と同じ菊花紋章の飾りが取り付けられました。
また、1905年の日露戦争勝利の凱旋観艦式にも海軍艦船以外で唯一参加しています。
菊の御紋を付けた沖縄丸。
沖縄丸はその後大東亜戦争中に海軍に徴用され、
グアムでの任務中に米軍潜水艦の攻撃により戦没しました。
ここでもう一度、ここで日本海海戦の情報伝達について記しておくと。
日本は望楼(見張り台)を持つ島々を海底ケーブルで結んだ警戒線を
対馬近海から日本海にかけて巡らせていました。
開発されたばかりの三六式無線の電信機も各艦船に突貫工事によって積載済みです。
信濃丸がバルチック艦隊を発見し、
「敵ノ第二艦隊見ユ 地点二〇三 信濃丸」
という電文が打電されると、これを「厳島」が中継して「三笠」に伝え、
「三笠」は直ちに聯合艦隊に出撃命令を発します。
電文は海底ケーブルと陸上線で本州の陸上線を通って、
下関から東京に達しました。
海底ケーブルがいかに日本海海戦の勝利に寄与したかは
「三六式無線」のエントリでお話ししましたのでここでは割愛します。
児玉がいかに慧眼であったかは、この計画の随所に表れていましたが、
たとえば、開戦になるとそれまで使用していたケーブルが切断されてしまうことを
最初から読んでいたこともその一つです。
児玉はそれを織り込んだうえで、日本製のケーブル敷設を強硬に推し進めたのでした。
その先を読む力は維新以降初めての国際戦争であり、
同時にインテリジェンス戦争であった日露戦争にとって、勝利への布石をなしえたのです。
ところで。
その後、昭和の時代に日本はその技術において
画期的なケーブルを生み出し、一時はそれが世界の基準とされていました。
この無装荷ケーブルを1932年に生み出したのも、松前重義という日本人です。
日本人って、本当に素晴らしいですね。
そして昭和50年代以降、海底ケーブルに光ケーブルを利用する
この技術で日本は世界一の地位に躍り出ます。
現在、世界中のインターネットを支えているのは光海底ケーブル通信です。
そして日本の光海底ケーブル技術は世界トップレベルなのですよ。
自らを誇らないのを美徳とする日本人と、我が国はもうだめだ、昔からダメだ、
と言い張りたい特定日本人たちのいる日本ではこれもまた周知の事実ではありませんが。
しかし、現在日本の技術がその地位を得ているのも、
このとき、児玉源太郎という巨人が先を見通して当時の日本の技術力を結集し、
「児玉ケーブル」を作ったこと、さらに技術者たちの辛酸とそれを克服する努力(沖縄丸含む)が
その計画を実現したことがあってこそなのだろうと思います。
ちなみに、児玉源太郎ですが、日露戦争終結の10ヵ月後、
54歳の若さで亡くなりました。
南満洲鉄道創立委員長に任命されてわずか十日後のことでした。
それにしても児玉源太郎・・・・・・54歳にしては老けすぎてません?