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記念艦三笠見学〜日本海海戦百周年記念行事

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日本海海戦は1905年の5月27日に行われました。
それからちょうど100年経った2005年、この区切りを記念して、
日本海海戦100周年記念行事が行われました。

8年前の明日です。

8年前といいますと、エリス中尉、日本海海戦ってそれなんだっけ、
とまではいきませんが、ほぼそういう状態で、
海軍については全くと言っていいほど知識も関心も持っていなかった頃です。

勿論そんな頃のできごとですから、先日、記念艦三笠に二度目の見学に行った際、
前回は見落としていた(というか見ても全く関心を払わなかった)コーナーに、
この写真が掲示されているのを見て、
初めてそういった大々的な行事が行われていたことも知ったわけです。

うーん、残念すぎる。

100年記念、それは当たり前だけど、ただ一度きりの機会。
その記念行事を全く目にすることもなく、のうのうとしていたとは口惜しや。
自分の当時の無関心に臍を噛む思いです。



記念式典におけるおそらくVIPの皆様方。
この日舞台の前に1000脚もの椅子が用意されましたが、
瞬く間に満席となり、500名の観客は立って見学することとなりました。

いや、これ8年前だからこの程度で済んだんだと思います。
もしこの行事を今やったら、500どころか三笠公園に人が入りきらず、
仕方なく整理券配布という状態になってしまったかもしれません。

式典はまず、日本とロシアの国歌演奏、この海戦で亡くなった
日露将兵への黙祷をささげることから始まりました。

ロシアの国歌というのは、ソビエト連邦の頃からある、
「祖国は我らのために」。
我が「君が代」は当然この日本海海戦のころはありましたが、こちらは
1944年制定ですから、そのころには存在しなかったんですけどね。

でも、いい曲です(迫真)

ソ連崩壊後、すべてのソ連的なものを排除してきたロシアですが、
この名曲はやはりどうしても捨てられなかった模様。
2001年に、歌詞を変えてロシアの国歌に制定しました。

全く本筋から離れますが、このロシア国家のポップスバージョンで
面白いのを見つけたので貼っておきます。
一瞬ですがロシア空軍のスホーイだかフランカーだかが宙返りしているシーンあり。

ロシア国家「祖国は我らのために」ポップスバージョン

続いて来賓のあいさつ。



中曽根元総理が名誉会長。
やはり一応は海軍軍人であったという経歴からでしょう。
中曽根元総理は5月27日、日本海海戦の日、つまり戦前は
海軍記念日が誕生日なのだそうです。

このあいさつの概要は以下の通り。

日露戦争は、ロシアの場合には領土の拡張に過ぎなかったけれども、
日本の場合は、生きるか死ぬか皇国の危機に臨んでの戦いで、
明治天皇を中心にして、国民が死に物狂いになって戦った結果であります。
この日本海海戦百年目にあたって日本を回復し、
平和国家として世界に貢献する、我々の努力を見てくださいと、
日本海海戦に努力した先輩に対して、心に誓いたいと思うのであります。

8年前において「日本を回復しよう」と、中曽根さんは言っているんですね。

だがしかし。(笑)


そのころもし日本が回復すべき自信を失っていたとおっしゃるのだとしたら、
もしかしたら、その原因の一つは、自分が拗らせ、ついには

「公式参拝が近隣諸国民の日本に対する不信を招くため」

という理由で(実は親しかった胡耀邦の共産党内の政争に対する配慮と言われる)
靖国参拝をやめてしまったようなことにもあるのではないかしら。

先日、ある東大の保守論陣の方が「中曽根さんのやったことの罪は重い」
とさらっとおっしゃってましたし、客観的にもそうとしか言いようがないわけですが、
そういう自覚はご本人に全く無かったってことかしら。 



それはともかく、さすがはもと帝大卒海軍主計少佐、
言っていることそのものは全く間違っていないと思います。
(だからかえってタチが悪いとも言えますが)

なによりこれを、出席していたロシア代表がどう聞いたか興味がありますね。
そのロシア代表、ガルージン公使の挨拶。

丁度100年前にロシアと日本が激しい戦いを行ったのは
歴史の事実であります。
幸い現在は、その日本海を対決の海ではなく
友好、協力の海にしなければならないという
唯一の正しい選択を行ってまいりました。
現在の日露関係が100年前の時期に比べると抜本的に変わった
ことを特にロシアも喜んでおります。


こういう式典では建前に終始するのが一部を除くまともな大人の国家というものですから、
ロシア公使のこのあいさつは至極当然のものです。

目の前で100年前のこととはいえ、

「お前らの覇権主義に我が国は勝利した」

と言われているわけですから、これが文明国家のロシア代表でなければ
最悪のケースですが、ひと悶着起こっていた可能性もあります。

しかも、現在の日露関係は決していいとは言えず、
いまだに北方領土の問題が解決していないのですから、
考えようによっては公使の言うところの

「100年前よりは日露関係はましになっている」

というのは皮肉にすら聞こえます。
まあ、戦争するしないの間には100万光年の差がありますから、
マシと言えばマシですし、何しろ日本にはそちらより
「関係が悪い」国が約三カ国ございますから・・・

ああ、そうそう、関係が悪い国といえば(笑)。

この式典には招待されてロシア海軍の駐在武官も出席していた、
ということですが、よくわからないのが韓国から海軍大佐が
呼ばれて出席したということ。

そのころ併合していたわけでもなく、そもそも影も形もなかった韓国ですが、
何か日露戦争に関係あるのかしら。
自分とこの領土を巡って両国が戦ったから、って理由でしょうか。

しかし、この韓国軍大佐とやらに聞いてみたかった。

この時に日本がロシアに負けて、朝鮮半島がロシアに占領されていたら、
今頃、韓国という国が、曲がりなりにも(笑)世界の中進国として
人間らしい国家を築いている可能性は全くなかったわけだけど、
それでも日本に併合されるよりはそっちの方がよかったとでも言うのかな?
千年恨むとか、そんなフザケたことをぬけぬけと言えるのも、
すべてはこの時日本が勝ったからなのよ?わかってる?って。




・・・・・・・・・さて。

次いで主要来賓や東郷家等日本海海戦に縁のある方々の紹介、
小泉内閣総理大臣や石原東京都知事から寄せられた電報の披露の後に
記念論文の表彰が行われました。




これは日本海海戦100周年を記念して全国から論文を募集し、
作家の三浦朱門氏が審査委員長となって審査が行われたもの。

賞状を授与されているのは最優秀作品に選ばれた京都女子大学大学院生。
「連合艦隊解散ノ辞に寄せて」というタイトルだそうです。

横に三人が控えていますが、これは佳作受賞者の皆さん。
見てお分かりのように一人海自幹部学校学生がいます。
この方の論文をぜひ読んでみたい。



なぜか日本海海戦100周年記念の柔道大会が開催されました。
これはどう考えても広瀬武夫中佐の関係でしょうね。

広瀬中佐は講道館の勝ち抜き戦で5人抜いて二段を獲得、
戦死後、講道館創始者加納治五郎の手で四段から六段に昇進しています。
講道館に殿堂入りもしているということです。





儀仗隊による弔銃の発射、ならびに海への花輪投入。
手前の二種軍装の海軍軍人は手に清酒を持っています。
まるで外洋に出たフネのようにみえますが、これ三笠艦上からでしょうか。



千宗室氏による献茶。




献茶の様子。
画像が小さかったので拡大してもボケてしまい、
良くわからないのですが、こちらを見ているほぼ全員が
着物を着た女性であるように思われます。
これは千宗室の裏千家の門徒であるということでしょうか。



千宗室は、前にも話題にしましたが
学徒出陣により第14期海軍予備学生として海軍少尉に任官。
そして1945年、特別攻撃隊に志願しています。

特攻作戦の実行が近づいたころ、千は自分達が乗る飛行機の機体の傍で
手持ちの道具と配給の羊羹で5人の隊員全員と茶会を催しました。
その中には、機体不良で引き返し、部隊の中でもう一人生き残った
俳優の西村晃がいました。

千宗室は靖国神社の献茶はじめ、戦没者や特攻隊員のための
慰霊の献茶を戦後、数多く行っています。





このような特別展も催されたんですね。

わーん、これ、見たかった!

河合太郎というのは、この不思議な帽子を見てもお分かりのように、
軍艦三笠で軍楽手(コルネット)だった河合太郎軍楽隊長。
聯合艦隊旗艦「三笠」の乗組員として日本海海戦に参加し、
戦闘中は前部主砲の伝令を務めていました。

映画「海ゆかば 日本海海戦」でも主人公のトランペット吹き始め、
軍楽隊員は伝令と救護、通信を担当していましたね。
一般に軍楽隊員は耳が良いので伝令を任されたということです。

河合太郎は日本海海戦を生き残り、その後三笠が沈没した火災の際も
無事で(この火災は楽団員の酒盛りが原因だったという噂あり)
戦後、軍楽長に進級して第一艦隊軍楽長、呉海兵団軍楽長を歴任。
昭和3年に現役を退いた後は広島県呉市に住み、
広島県の吹奏楽の発展に尽くしたということです。
昭和51(1976)年没。



なお、河合太郎の手記を読者の方からいただいており、そのうち上梓する予定です。



100年を記念して、靖国神社の遊就館でも特別展が行われました。



記念遺墨展。

この時に各地記念講演会も行われています。
阿川弘之、上坂冬子、渡部昇一、曽野綾子などのメンバーによるものです。




横須賀プリンスでのパーティで歓談する参加者。
右はロシア公使かな。



このときではありませんが、ロシアのワリヤーグが三笠を
表敬訪問した時の記念写真。
ロシア軍は皆若々しいですが、それもそのはず、皆士官候補生。

現代のロシア人、ことに海軍軍人であれば日本海海戦のことを
戦略研究の教材として徹底的に学ぶでしょうし、彼らが自国の艦隊を
打ち破った三笠に乗り込んでどんな感慨を持ったか、興味があります。

「意外と小さいフネだなあ」

と思ったことは確かでしょう。



交流の記念にワリヤーグが持ってきたメダル。
こういう時は互いにプレートを交換するのでしょうが、
残念ながら三笠のプレートは扱っておりません。
ご了承ください。




そしてなぜかでてくるアメリカ海軍。

日露戦争にアメリカも関係ないだろ?

などと心の狭いことは言いっこなし。
なぜならこのお方は、在日米海軍の司令官だ!

三笠のある横須賀は米海軍の庭みたいなものだし、
荒れ放題の三笠を復元するのに、ニミッツも協力しているし、
関係ないってことはなくもない・・・・ってことで。

しかし、さっきの韓国の話ではありませんが、もしこのとき日本が負けていたら、
おそらくアメリカは日本に脅威を感じることもなく、当然の帰結として
日米の間に戦争が起こる理由も無くなっていたんでしょうね。

そのかわり、現在、日本という国があったかどうかは謎ですが。

大東亜戦争の結果だけを考えた場合、
「日本はこのとき負けて、のちの戦争を回避した方がよかった」
と言う考えもあるのかもしれませんが、わたしはそうは思いません。

日露戦争に負けていたら、おそらく朝鮮は勿論下手すると北海道あたりも
ロシアに占領され、文句なく近代化は遅れたでしょう。
そして、「日本のような小国でも大国に勝てる」
という希望を支配されていた国々に与えることないまま、
世界の勢力地図は大国支配が長く続いたでしょう。

大東亜戦争に敗れたとき、曲がりなりにも小国や被支配国の
独立への動きが世界の潮流となっていたことは、
日本にとっても幸運なことだったと思います。

なぜなら同じ負けるとしても、この頃にはすでに大国が小国を支配する
という構図は過去のものとなっていたからで(善悪ではありません)
戦争に負けても日本が独立する道が用意されていたからです。

まあ、その独立とやらも占領憲法だの言いだすと話がこじれるので
今日はとりあえず戦後については触れませんが。

そういうことを考えても




「皇国の興廃この一戦に在り」

と言う言葉と「後が無い」という意味で挙げられたゼット旗は
決して大げさではなかったのです。



今年で、日本海海戦から108年め。
世に煩悩の数は108あると申します。
昨今日本を苛んできた煩悩の数々が、今年を境に少しでも払拭されて、
少なくとも司馬遼太郎の言うところの、
「あのころ坂の上の雲を目指していた日本人の高揚」
この気持ちの片鱗でもいいから、何とか取り戻すことができないものでしょうか。

「坂の上の雲」効果とはいえ、いま、日本海海戦に寄せる国民の関心の中に、
その微かな気配が見えるような気がして、若干の期待を持たないでもないわたしです。



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