ボストンにある「ファイン・アーツ・ミュージアム・ボストン」に
家族三人で訪れたときのご報告、後半です。
現代美術のコーナーを通り抜けて印象派の部屋に。
ガイドも何も見ずに歩いていると、時系列も何も無茶苦茶な鑑賞をすることになりますが、
それもまあ何度も来ているため気分が変わっていいよねということで、
あえて無茶苦茶に歩き回ってみました。
モネの「睡蓮」ですが、日本に来れば立ち止まることも許されないくらい人が押しかけるこの絵も、
常設であるボストン美術館では前に立ち止まっている人すらいません。
題名はみませんでしたが、確かピサロの作品だったかと。
こういう作品を見ると、印象派の画家たちが描きたかったのは「光の色」だったんだなあとあらためて思います。
モネの「ラ・ジャポネーズ」とドガの「踊り子」が一緒に見えている空間。
「ラ・ジャポネーズ」はアメリカでも「ジャパニーズ・ガール」などと翻訳されず、
フランス語のままで知られています。
この辺りにやたら人が多いなあと思ったら、「ラ・ジャポネーズ」の前で
パフォーマンス的解説が行われる時間を待っていたようです。
キュレーターと思しき女性が、絵とそっくりの打ち掛けを持った女性と一緒に現れ、
今からこの絵についてのレクチャーを約15分行います、と告げました。
わたしはきいていたかったのですが、閉館まであまり時間がなかったことと、
他に見たいものがあったので、泣く泣くパスして次を急ぎました。
しかし、去る前に打ち掛けの仕様をチェックしたところ、これは日本の着物の織りなどではなく、
おそらくこの美術館の製作室が絵とそっくりになるようにパッチワークしたもので、
本来ならば金糸銀糸の縫い取りであろう部分に妙な素材が使われていて、
日本人の目には「いやこれは打ち掛けではないだろう」というものになっていました。
まあ、展示説明用ですし、本物の絹織物などもったいなくて使えませんけどね。
どうも、マネがモデルにどのような着せ方をして絵を描いたかなど、
残されている文献を元に説明をしたようです。
部屋を去る前に撮った、マネの「音楽家たち」(多分)
彼女らはアメリカ絵画のコーナーにあった肖像。
黒いサッシェを斜めに垂らしたのは画家の注文でしょうか。
前ボストン美術館の正面の写真をアップしたときに気づいた方がおられるかもしれませんが、
わたしたちが行ったとき、美術館では「北斎」を特集していました。
「みてみて、北斎だって!」
わたしたち三人驚喜。
ボストン美術館には、日本に滞在していたことのあるボストン出身のビゲローは、
フェノロサとともに「大森貝塚」のモースの講演を聞いて日本に興味を持ち、
来日の際浮世絵などの作品を買い集め、ボストンに持ち帰りました。
北斎の版画もその一環で、こういった日本の芸術作品を海外に流出させたことが
非難されることもあるのだそうですが、そもそも当時の日本には、浮世絵などを
芸術作品として保護するなどという感覚がなく、ゴミ同然に扱われていたので、
むしろ彼らがアメリカに送ってくれたからこそ後世に残されたと考えたほうが良さそうです。
民主党政権の時、ノムヒョン政権時代から要求されていた「朝鮮王室儀軌」返還に
気前よく応じた(フランスは拒否している)ということがありましたが、これらのものもまた、
当時の朝鮮ではゴミ扱いされていたため、日本で保管したという構図なのです。
これは日本政府がアメリカに「北斎やら浮世絵やら盗んだものを返せ」というようなもので、
民主党が返還に応じたのは、アメリカが日本に浮世絵コレクションを返すようなものだったんですね。
民主党のやったことがいかに異常なことだったかわかっていただけるでしょうか。
「北斎」の展示は、2年前「サムライ!」というテーマで展示されていた
同じ地下のフロアーで行われていました。
「葛飾北斎(1760〜1849)は日本の国内外で最も知られている」
という冒頭の一文に続いて、北斎の芸術的価値、そして1892年に、ボストン美術館は
世界で初めて北斎の展示を行った美術館になったことなどが書かれています。
三味線や琴は直接北斎とは関係ありませんが、浮世絵、ことに遊郭などを描いたものに
こういった楽器が登場することから、実物が展示されているようです。
当世の人気役者とその女房の肖像。
プロマイドのようなものだったのでしょうか。
熱心に細部を眺めている人がいた、吉原遊郭の図。
「火の用心」の札がリアルです。
金竜山仁王門の図。
参拝の人々で賑わっているのが描き込まれています。
この赤富士に「凱風快晴」という題が付いているとは知りませんでした。
英語の題名は「Fine wind, Clear Weather」となっていました。
「北斎漫画」。
相撲取りの生態を描いたページですが、解説には「漫画」の定義と、
今日の日本のマンガのルーツはここにあるということが書かれています。
面白かったのは、北斎の絵をこのように立体的に切り出して展示していたこと。
説明はありませんが、喧嘩している人とそれを見物する人、
「いやーねー」と眉をひそめるご婦人といったところでしょうか。
植物&鳥類図鑑のように、「鵙」「翠雀」(るり)、「蛇苺」
などとちゃんと説明が添えられています。
「桜花に鷹」。
「牡丹にアゲハ」。
「紫陽花にツバメ」。
さて、北斎は怪談絵を多く残していますが、それもここにありました。
版画なので、ここにあるのが唯一のものではなく、同じものが東京にもあります。
「百物語 さらやしき」
おなじみ歌舞伎で知られた番町皿屋敷、有名なお菊さんの幽霊。
蛇をイメージしたらしい胴体に皿が巻き付いています。
お菊さんは美人の妻だったという設定ですが、どんなに美人でも幽霊になるとこうなるという、
北斎のうがった解釈による表現でしょうか。
ちなみに、カップルで鑑賞していた女性の方が、これを見て、
「ゴースト・・・スケアリー!」
と低くつぶやいていました。
向こうの人にはこういうの本当に怖く見えるんだろうなと思います。
「百物語 お岩さん」
「四谷怪談」のお岩さん。
毒を飲まされて目が片方潰れたのが一般的な?お岩さんですが、
北斎は目を大きく開き提灯になったお岩さんです。
これも北斎ならではの表現だったのでしょうか。
「百物語 笑いはんにゃ」
これは怖い。
鬼の顔はともかく、右手に持った子供の生首が怖い。
「百物語 しうねん」
それよりもっと怖いと思ったのがこれ。
題名が「しうねん」つまり「執念」。
位牌と線香立て、お供物にまとわりつく蛇。
どんな物語があるのか、じわっとくる怖さがあります。
「百物語 こはだ小平次」
木幡小平次というのは江戸の売れない役者で、やっと幽霊の役をもらったのですが、
旅先で妻の密通相手に殺されてしまったという、ついていない人。
妻と密通相手を「うらめしや〜」するために蚊帳から顔を出してみました。
もらった役が死んだ後で役に立ったというところです(ちょっと違う?)
当時の版画の制作工程が示されていました。
何回も色を変えて重ねていくやり方であの華麗な色使いがなされたのです。
それも、色のパートごとに何枚も原板を重ねていくというやり方。
現場のモニターでは、今も同じやり方で版画制作をする日本人が
実演している様子を放映していました。
展示場を出たところのミュージアムショップにも人がたくさん。
全体的にどこも混雑することのないこの美術館で、こんなに人がいたのは
この展示場だけだったような気がします。
アメリカ人(に限らず)北斎は世界中の人々にとって大変関心が深いものなのだと実感しました。
もしかしたら、日本で開催するよりずっと盛況だったかもしれません。(笑)
写真はショップで売られていた「HACHIKO」(ハチ公)の物語の本、
向こうは「SADAKO」つまり原爆症で亡くなった「折り鶴の少女」貞子さんの本です。
ショップのモニターではなぜか「ハウルの動く城」が放映されていました。
宮崎駿の作品はとりあえず全てここで買えるようです。
日本で着ていたら勘違いされそうな浮世絵のTシャツ。
どう見ても中国的なセンスの「北斎をイメージしたデザインの洋服」。
わかっとらん。
というか、誰が着るのかこんな配色の服を。
北斎コーナーを出て、最後に一つだけ、息子が観たことがない古代エジプトを観て帰ることにしました。
途中で見つけたアメリカ大陸で発見された「ネズミのポット」。
ドーンと入り口でお迎えしてくださる大理石像。
遠近感を感じさせるためか、スネから下が異様に長く、頭を小さく作ってあります。
今回ふと目を留めたセクシーなビーズのドレス。
なんと、実際に発掘されたものを復元したものであることがわかりました。
クフ王の墓に埋葬されていた女性のミイラが身につけていたもので、
本体はこんなことになってしまっていたのですが、
ミイラの周囲に金でできたビーズが散らばっており、どうやらこれを
この形に縫い直したということのようです。
すごい根気のいる作業だったと思われ。
ミイラコーナーで少しウケたおそらく内臓入れ。
この時代も絵画は平面的なものしか残す技術がなかったので、
こういった彫塑にリアリズムが感じられるものがあります。
こんな人がいたんだろうな、と思われる表情の男性像。
一番手前がミイラ本体で、それをその向こうのに入れ、最終的には一番向こうの棺に。
ミイラもマトリョーシカみたいになっていることが判明。
ミイラのあるエジプトコーナーは、興味深いものが多いものの、
見学の後どっと疲れるというか、気力が奪われるというか、
軽く暗い気分になってしまうのが常なのですが、(なぜでしょうか)
そこから出た部屋にこんな「かるーい」絵があって、なぜかほっとしました。
お墓にお花を供えている白いドレスの美女なので、なんか意味があるはずですが、
それでもこの明るい光を描いた色彩は土色のエジプトコーナの後には
一種の資料剤のような役目となってくれました。
それにしても、北斎の世界的評価の高さに驚いた今回のボストン美術館見学でした。