先日、この中国地方の地銀の本店に潜入し、
数多の美術品を写真に撮ってくることに成功した
エリス中尉でございます。
何度も言いますが、わたくし銀行のこのような
内部に潜入したのは初めての経験。
従って、これも何度も言いますが、すべての地銀が
このような「行内美術コレクション」を持っているのか、そして
立派な行史展示室があって、その歴史を見ることができるのか、
全く知りません。
知りませんが、なんとなくここは特別なのではないかなあ。
そう思うのは、やはり前回言ったように、ここの初代頭取が
倉敷紡績の生みの親である大原孫三郎であったりするから。
そしてこれだけの歴史もあれば、文化面でも貢献する銀行として
地域に根付いてきたとしても当然のような気がします。
さて、本店内のいたるところに置かれたコレクションの数々を
見ながら歩いていくうち「銀行の歴史資料展示室」
がありました。
ここが、レトロ好きのわたしにとって興味深いものでした。
冒頭写真は「五玉そろばん」。
言われてみてああそうか、と思うのですが、昔は銀行員は
そろばんが達者でないとなれなかったんですね。
うちにもそろばんがあり、習っていた覚えもかすかにあります。
しかし銀行や郵便局の窓口の係がお釣りの計算に
そろばんを使う姿をいつの間にか見なくなりましたね。
今の銀行員はそろばん、するんでしょうか。
さて、そんな資料が展示されている展示室。
まるで一般の美術館のようです。
銀行名の書かれた書は、看板にするためのものでしょう。
現在の当行本社ビル。
行員の方に説明を聞いて印象的だったのは、
この銀行はニューヨークのワールドトレードセンターに
出向していたということ。
みずほ銀行の行員たちが警報を受けていったんロビーまで避難し、
それは「日本の組織らしく実に素早かった」にもかかわらず、
無責任な警備員に「衝突は隣のビルだから戻れ」といわれ、
素直に戻ってしまって犠牲者がでたわけですが、
この銀行の行員には被害はありませんでした。
建て替え前の本店。
焼け野原の中に無傷で立っている本店(笑)
1930年の開業ですから、このときすでにかなり年月が経っていたはずですが。
岡山市内もかなり酷く戦火に見舞われたのですね。
左の白いシャツの人は、ここの住人だったのでしょうか。
現在も残る当行倉敷出張所。
国の登録有形文化財となっています。
その倉敷支店設計図。
建築家の書いた字がアーティスティック。
かつての本店模型。
林野支店。
赤レンガと円柱風の飾りが実に優雅です。
窓ガラスに鉄格子がはまっているのは銀行だから。
かと思えばまるでお寺のような作りの津山東支店。
煉瓦の塀に「お寺らしくなさ」を感じる妙な取り合わせ。
なんとこれは釘を一本も使わず檜で建てられています。
一回は吹き抜けで腰板は花崗岩を使用。
昭和50年までここで業務が行われましたが、
現在は津山洋学資料館となっています。
う、美しい・・・・。
これが銀行。
しかも戦災にも遭わなかったと。
業務机に尽くカバーが欠けられているので、もしかしたら
取り壊し前に最後の撮影をしたのかもしれません。
この柱のモチーフが
現在の本店内部にもこのようにあしらわれています。
しかし、どうしてこのような建築物を保存しておけないものか。
惜しいなあ、と思ってしまうのはわたしだけではありますまい。
資料室に残る当時の看板。
昔は銀行って株式会社だったんですか?(驚)
そして、行員さんも法被来て仕事していたと。
今なら大型電気店の店員くらいしかそんな姿見ませんが。
児島郡にあった東児支店の鬼瓦。
ちゃんとこの支店のマークが刻まれています。
これが大原孫三郎。
初代頭取でございます。
1930年の開業から10年間頭取の任にありました。
さすが美術収集家だけあって、肖像画が写真ではありません。
46年から77年まで。
なんと30年も長期政権?にあった守分十。
次の頭取も娘婿です。
この肖像画も孫三郎さんのと同じタッチですね。
面白かったのが昔のパンフレット。
真ん中のはがきですが、俵に小判があしらってあります。
穀物検査しているところなんだそうですが、
今一つ銀行業務との関係はわかりません。
上段すべて倉敷支店の新築記念パンフ。
左の設計図は新行屋の間取り図で、
右側の「新築移転のご案内」は大原の名前で出されています。
大正11年のことです。
これも新築記念のお知らせ。
よほどの大事業だったようですね。
昭和26年当時の本店案内。
まだこの頃も旧字体を使っていたのですね。
現在の本店に移築する前、旧行屋の解体に際し、
カウンターに使われていた大理石(!!)をこのように削って、
ペン立てを作り記念品にしました。
これ、貴重なものですが、果たしてどのくらいの人々が
今でもこれを愛用しているでしょうか。
なぜ桃太郎。
岡山だから?
これも記念品として配られたもの。
桃太郎のはっぴの裾をつかむサルがかわいい。
昔の預金通帳と定期預金証書。
大正14年の200円ですから今の300万弱くらいかな?
と思ったらもっと大金の定期預金証書。
やはり大正14年で7万円!
ということは
9おく6せん6ぴゃくまん。
殿、っていうのはやはり企業名でしょうね。
しかし、そんな大金がこんな紙切れ一枚で・・・。
これ失くしたら9億6千6百万は・・・・・。
第一合同銀行だったころの営業報告書と預金通帳。
最初国立銀行だった八十六銀行は、
私立銀行になり、明治三十年株式会社となりました。
倉敷銀行の通帳。
これも銀行の記念品。
銀行が預金をするといろいろくれるのは、
この時代からの習わしだったのですね。
しかし、当時の記念品の方が値打ちがありそう。
大正年間の第一合同銀行記念品は扇子。
当行設立記念は財布。
開業から三日間、財布が配られたそうです。
設立十周年記念は茶托。
丁度大原孫三郎が退任したときですね。
新しい頭取のお披露目の意味もあったのでしょうか。
総預金100億を目指して士気を高めるため、
優秀なチームに「頭取杯」を出すことにしました。
全員一丸となってこれを目標にした結果、昭和二十五年に目標達成。
大原孫三郎の書。
同心戮力(どうしんりくりょく)。
心を同じうして力を合わせる、という意味だそうです。
当時の「非常時」に際して書かれたとか。
非常時って、やっぱり戦争ですよね?
先日ログにアップした
「うちのTOが作った湯呑」みたいです。
この地方の各銀行頭取が集まったとき、
皆の名前を書いて陶板にしたもの。
で、それがどうした、などと言ってはいけません。
全行員の懇親会?
それにしてもなんだかきれいな人が多いですね。
説明を写真に撮るのを忘れました。
たぶん全行員集めての会合でしょう・・・・
って見ればわかる。
守分十(ひとしと読むらしい)が頭取のころの
業務報告パンフ。
戦時調です。
「戦力強化は貯蓄から」
「必勝の意気 貯蓄で示せ」
決戦時局に即応業務大拡充
なんかよくわかりませんが、貯蓄内容は
あまり戦争とは関係ないような・・・・。
時局ゆえのアオリ文句だったのですね。
国民貯蓄組合据え置き預金証書。
つまり、戦時下で国に資金調達を優先するため、
このような措置を取った模様。
銀行もお国のために戦っていたということですか。
それというのも国債を消化するため。
アメリカでもチャップリンが広告塔になって
「戦時国債」を集めたりしていましたね。
本文三行目、赤文字で
大東亜戦争を勝ち抜くためにも是非ご購入
くださいますようお願ひ致します。
とあります。
しかしまあ、その後この銀行の周辺はがれきの山となり、
ある日突然戦争は終わりました。
そして、いきなりですが、
戦後二十四年。
決戦を勝ち抜くためではなく
「夢を実現するために」希望預金。
そして、なんと
東京オリンピックにご招待!
大口の預金をしたらチケットをもらえたりしたんでしょうか。
今にして思えば、オリンピックや大阪万博は、
このように日本の企業の「業務推進」のネタとして
かなりお役に立ったんでしょうね。
さて、そんな歴史の流れを見てきたこの地銀。
こんな立派な会議室を何部屋も持っておられます。
このような円卓を持つ会議室だけで3〜4室あったような。
テレビ会議対応。
設備は勿論最新式のものです。
しかし地図は何とも世界地図はレトロ。
別の会議部屋には児島虎次郎の絵。
なんて贅沢なんでしょうか。
銀行の玄関前にも美術品がさりげなく。
というわけですべての見学を終え、銀行の公用車で送っていただきました。
運転手さん付きのベンツの後部座席でふんぞり返り、ちょっとしたVIP気分です。
美術品もさることながら、これだけ歴史的資料をそろえ、
いつでも見られるようにしている銀行というのも、
実は結構珍しいのではないかと思いました。
地方に根付いたご当地銀行の底力に
最初から最後まで圧倒されっぱなしの一日でした。