この防衛省ツアーは平成10年に記念館が移築して
二年後の平成12年から始まりました。
このことを防衛省に確認するついでに
「移築前もツアーはあったのか」と聞いてみると、
「今のような形ではなかったがあった」
ということです。
そこで気になったのが、その旧ツアー、
つまり市谷法廷や三島事件のあった部屋が
その当時のままであったとき、
見学者はそれを見ることができたのか?
そこまで詳しく聞くわけにはいきませんでしたが、
昔のツアーのこと、どなたかご存知ないですか?
さて。
1970年(昭和45年)11月25日、午前10時58分。
三島由紀夫と楯の会メンバー4人は、
市谷の自衛隊駐屯地、陸上自衛隊東部方面総監部の
二階に向かいました。
コッポラの映画「MISHIMA」では、市谷に向かう車中、
彼らが歌(たしか『唐獅子牡丹』)を歌い、
検問では中を覗き込んだ守衛が
「三島先生ですか」
と顔パスで中にいれた様子が描かれていました。
訪問の名目は「優秀隊員の紹介」。
この部屋で増田総監に日本刀を見せることをきっかけに
総監を拘束し、椅子などで扉にバリケードを張ります。
見学者全員その窓から外のバルコニーを一心に見ているの図。
おそらく、皆の心の中にはそのバルコニーに立つ
三島由紀夫の後ろ姿が彷彿としているに違いありません。
さて、現場にもう一度話を戻します。
お茶を出そうとしていた一佐が異変に気づき、通報。
12分後には警視庁から機動隊一個中隊が到着しました。
この総監室はドアが両側に二か所あり、
そのどちらもからバリケードを壊して幕僚たちが突入。
管理職とはいえさすがは自衛官です。
普通の会社組織ではこのようなことはありえないでしょう。
とにかくこの時乱入してきた幕僚を相手に、
三島は刀を振り回してこれを追い出します。
その時ついたと言われる刀傷。
本当は二か所ありますが、写真がボケていました。
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この時腕を斬りつけられて重傷を負った幕僚がいるのですが、
この人は
「もし私を殺すつもりなのだったらもっと思い切ってやっただろう。
腕をやられたときには手心を感じた」
と語り、自衛隊の理解者であった三島に対しては
「全くうらみはありません」
と語ったということです。
この時の三島の演説を見ても、三島を糾弾する者がいるとしたら
それは「左派勢力」だろうなと明確に思えます。
自衛隊内部のものの心境は、あとで触れますが複雑だったでしょう。
この後「人質の解放条件」として三島は、
「駐屯地の全自衛官を建物前に集合させること」
と幕僚に要求し、あの「三島演説」が行われるのです。
800名の自衛隊員が招集され、きっかり12時、
三島は「七生報国」の鉢巻を締め、バルコニーに立ちました。
このときの演説内容をわかりやすくまとめてみます。
日本は、経済的繁栄にうつつを抜かしている。
精神的にカラッポに陥って、政治はただ謀略・欺傲心だけだ。
こんな日本で、本当の日本の魂を持っているのは、自衛隊であるべきだ。
日本の欺瞞を糺す存在であるべきだ。
去年(1969年)の反戦デーのデモが警察に制圧された。
自民党は警察権力をもっていかなるデモも鎮圧するつもりだ。
治安出動はいらなくなったんだ。
すでに憲法改正が不可能になったのだ。分かるか、この理屈が。
このことを以て自衛隊は「憲法を守るだけの軍隊」になったのに
諸君はなぜ気づかないのか。
自衛隊の健軍の本義とは国を護ること。
日本を守ること。
天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることだ。
諸君が立ち上がらなければ憲法改正は無い。
自衛隊はアメリカの軍隊のままだ。
諸君は武士だろう。
武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。
どうして自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。
今の憲法は政治的謀略で自衛隊が合憲だかのごとく装っているが、
自衛隊は違憲なんだよ。
自衛隊は憲法を守る軍隊になったのだ!
俺は諸君がそれを断つ日を、待ちに待ってたんだ。
諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。
一人もいないんだな。
まだ諸君は憲法改正のために立ちあがらないと、見極めがついた。
これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。
それではここで、俺は、天皇陛下万歳を叫ぶ。
天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!
全然わかりやすくまとまってないぞ、って?
なんか、省略しにくくって・・(笑)
まあ、要は
「憲法改正のために立ち上がろう、
自衛隊諸君、俺についてこい」
というクーデター呼びかけですね。
今さらここで言われんでも知ってる、と言われそうですが。
この間、何度も三島は
「静聴せい!」「静かにせい!」「話を聴け!」
と繰り返し、ヤジる自衛隊員を怒鳴りつけており、
自衛隊員は三島に向かって
「なんで我々の総監を傷つけた」
「それでも武士か」
「バカヤロー」
などという言葉を投げかけています。
うーん。
今にして思いますが、これ、主張は全然間違ってなくない?
三島が30分の予定の演説をわずか7分で切り上げたのも
この自衛隊員の反発があまりに酷かったからですが、
黙ってこの内容に耳を傾けている隊員の中には
このように考えた人間もいました。
少し長いのですがウィキからの記述をそのまま掲載します。
バルコニーで絶叫する三島由紀夫の訴えを
ちゃんと聞いてやりたい気がした。
ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、
三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した。
野次がだんだん増して行った。
舌打ちをして振り返った。
(中略)無性にせつなくなってきた。
現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた
我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、
大なり小なり、隊員同士で不満はもっているはずなのに。
まるで学生のデモの行進が機動隊と対決しているような状況であった。
少なくとも指揮命令をふんでここに集合してきた隊員達である。
(中略)部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、
たとえ、暴徒によるものであっても、
いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。
こんなありさまの自衛隊が、日本を守る軍隊であるとは
おこがましいと思った。
この日、三島は勘違いしていましたが、
いわゆる自衛隊の実戦部隊であるところの第32普通科連隊、
つまり精鋭部隊は朝から富士演習場に行ってしまっていたため、
ここで三島の演説を聴くために駆り出された800名はほとんどが、
資材調達、通信、補給などの部隊の隊員でした。
もし、ここに三島の言う「武士」である隊員が数百単位でいたら?
勿論戦後の平和を享受してきた隊員たちが、
たとえ実戦部隊の自衛隊員であっても、この三島の演説に
「武器をもって立ち上がったかもしれない」
と考えるのは今となっては妄想とでもいうべきでしょうが、
少なくとも上記回想をしたある陸曹が感じたように
「惻隠の情」からせめてちゃんと三島の話を聴いたかもしれない、
という気はします。
もっともその場にいた隊員の誰もが、
そのあと三島が割腹自殺を遂げるなどとは思っていなかったからこそ
声をからしてその演説をヤジっていたわけで、
その時の彼らはこれも陸曹の回想にあるように、
「気分は学長をヤジる学生運動家」だったのではないでしょうか。
そして後からそのショッキングなニュースを聞き
「自殺までするなら話を聴いてやればよかった」
と後悔したというのが本当のところかもしれません。
また、こんな話もあります。
三島の遺体が自宅の平岡家にに帰ってきたとき。
遺体の首は綺麗に縫合され、楯の会の制服が着せられて、
外からはその傷さえ見えず、さらに刀がきっちりと胸に置かれていたことが
息子の無残な姿を覚悟して恐る恐る棺を覗いた父親を驚愕させました。
遺族に対しこのとき処置をした警察病院の担当者は、
「自分たちが普段から蔭ながら尊敬している先生の御遺体だから、
特別の気持で丹念に化粧しました」
と語ったということです。
こうして旧一号館と再現された記念館を比べると、はっきりいって
「レプリカ」みたいな感じは否めません。
というか全く別の建物でしょこれは。
しかしながら、この保存に関しては案の定(笑)
「こんなもの残すのは負の遺産でしかないから潰せ」
という左なお方たちからの騒音が物凄かったとか。
どうせ「我々の税金で」なんてことを言ったんだろうなあ。
都合の悪い歴史は無かったことにしようなんて、
「日帝の負の遺産は皆消してしまえ!」
と全ての(現行で使用している施設については見ないふりして)
日本統治時代の名残りを潰したり、桜を切り倒したりする
どこかの国と同じメンタリティじゃないですかー。
あっ、もしかしたら同じ・・・・(察し)
しかし、こういった部分は本物そのまま。
三島が10分足らず立ち、檄を飛ばした
そのバルコニーそのものです。
演説を終えた三島はこの窓から部屋に戻ってきて
恩賜の煙草を吸った後、割腹しました。
同行の森田必勝に向かって三島は「君はやめろ」
と言ったのですが、三島の後森田も割腹し、
介錯で切断された二人の首を残された三人は並べ、涙しました。
拘束されていた総監は三島が腹に刀を突き立てたとき
「やめなさい」「介錯するな」と叫んでいたそうですが、
全てが終わり拘束を解かれて泣いている彼らに向かって
「もっと思い切り泣け」といい、さらに遺体に向かって
「私にも冥福を祈らせてくれ」と正座し瞑目したそうです。
総監の心の裡で三島の訴えはどのように響いたのでしょうか。
事件の次の日、ある隊員の手で総監室の前に菊が供えられたのですが
一時間も経たないうちにそれは幹部の手で片付けられました。
また、事件後、陸上自衛隊内で1000名によるアンケートが行われました。
大部分の隊員は「檄の考え方に共鳴する」という答をしたそうです。
一部に「大いに共鳴する」という答もあり、そのことが防衛庁を慌てさせました。
つまりは、そのような大事を行うのに三島のやり方は
いかに自衛隊員を納得させる道理があったにもかかわらず、
惜しむらくはあまりにも性急に過ぎたのです。
つまりサラリーマン的に飼いならされた自衛官に対してそのような訴えをしても、
三島の期待したようにはならなかったであろうことは自明の理だったと言えます。
アジテーションに失敗した三島は、その殉教的自己犠牲、
(彼が昔憧れを以て見つめた『矢に射られるセバスティアヌス』のような)
その犠牲があわよくば社会に変革を触発し、改革へのきっかけとなって
憲法が改正されることを期待して自決したのではないか、とも思います。
「ここであの事件が・・」
見学者全員がおそらく同じような思いを持って
この事件のあった部屋に佇んでいたと思われますが、
新しく移築されたときにそのような空気は払拭されたのか、
妙に明るい壁といい、気のせいか映画「MISHIMA」でロケに使われた
部屋の面影は全く感じられませんでした。
ただ。
当時からそのままである廊下側の窓の桟に、
水の湛えられた茶碗がひっそりと置かれていました。
死者の霊を慰めるための水でしょうか。