細部にこだわって何度かお送りしてきた市谷防衛省ツアー。
今日は市谷記念館の中に展示されていたものを
ご紹介しようと思います。
先日栗林中将の絵手紙をエントリに上げましたが、
これは本物ではありません。
遺族(国会議員の新藤義孝氏)からの寄贈はあったようですが、
ここに飾ってあるのはコピーだそうです。
昨今のコピー技術はすごいので、
ほとんど本物のと寸分違わないものですけどね。
ですから写真は撮り放題。
フラッシュだけは禁止です。
冒頭写真は山本五十六の揮毫による
「常在戦場」の書。
しかしこういうのを見るにつけ、この頃の政治家や軍人文人は
「書」というものに精神性のすべてを込めていた、という気がします。
226事件で鈴木貫太郎を暗殺する使命を受けた安藤輝三大尉。
彼は鈴木との対話を通じて考えに私淑するに至ります。
そして安藤大尉は鈴木に揮毫を求め、贈られた書を自宅に掛けていた、
という話をアップしたことがあります。
このような人物は勿論のこと、昔の人の字を見ると、
兵学校出身者は勿論、若い予科練の人たちも皆異常に達筆。
それもこれも毎日字を書いていたから?
ならば毎日死ぬほど字を書いても大抵の現代人は
あれほど立派な字は書けないのはなぜ。
書は人を表す、という意識が格段に高かったのでしょうか。
ここは士官学校がありましたから、その関係の資料が多数。
その一つ、士官学校卒業アルバム。
昭和5年、陸士42期のものです。
こうして見ると陸軍の軍服も士官のは素敵です。
前にも言いましたが、ポイントの赤が粋。
こちらは幼年学校の卒業アルバム。
左の三人が陸幼の制服着用ですね。
大正15年の撮影だそうですから、この写真の方々は
今ご健在だとしても100歳。
でた。
陸軍行進曲楽譜。
歌ってみましたが、あまり大した歌ではありません(おい)
どうも「第一」「第二」とあるらしく、
右左に別の曲が各々記されています。
どちらも長調(右ハ長調、左ト長調)で書かれていて、
陸軍=短調というイメージを持っていたのですが、
実際はそうでもなかったようですね。
どうでもいいけど、この譜面を書いた人は
「連けた」の記譜法を知らなかったのだろうか。
左の楽譜が読みにくいんですが・・・。
陸軍幼年学校に受かるともれなくもらえる採用通知。
西郷従龍さんは海軍大将の西郷従道の孫。
陸軍少佐になりました。
西郷従道も最初は陸軍軍人でしたが、ご存知のようにその後
最初の帝国海軍大将となります。
そういえば陸幼出身の作家加賀乙彦の「帰らざる夏」には
陸幼に受かるために特化した勉強法で作文などの練習をし、
テンプレートみたいな「少国民の心構え」などという文章の書き方を
ちょいちょいと勉強して入った、なんてことが書かれていました。
海兵にも陸幼陸士にも、「進学塾」があったらしいですね。
ここで従軍画家の作品を。
「敵中落下 海軍落下傘部隊」高橋克 作
「レンネル沖海戦」 松添健
この図録の黙示も展示されており、ほかに
「ラエ沖空中戦」「バリックパパン上空の空中戦」
などという、それどこの台南空、みたいな題の絵もあるようですが
残念ながらそれは展示されていませんでした。
海軍専属の画家の作品ばかりを集めた本のようです。
慰問袋に千人針。
慰問袋には女学生は写真を入れたりしたそうです。
戦地からお礼の手紙が来ることもあったそうですが、
それがどこから来るのかはわからなかったそうです。
「慰問袋をありがとうございました」
そんな文句で始まる手紙はその後何回か続くのですが、
たいていある日を境にふっつりと来なくなるのでした。
写真でしか知らない女学生に淡い気持ちを抱きつつ、
その写真を大事に持ったまま戦死した兵隊もいたのかもしれません。
陸軍士官学校と大本営の看板。
真ん中の板は字が全く消えてしまったものとみえます。
憲兵の腕章。
今日表題にした憲兵。
評判悪いです。
日本の軍国主義の悪玉の象徴として、
あらゆる映画や漫画で悪者扱いされている憲兵。
陸軍の軍人・軍属の犯した罪は憲兵部で処分できたこともあり、
一般兵にとっては、何かとやかましい事を言う「目の上のタンコブ」的存在であり、
またその職務上から高圧的態度をとる憲兵もいたため、
陸軍の中でもそのイメージは良くなかったようです。
ましてや一般人にとって憲兵とは「軍の警察」であり「鬼より怖い」
と恐れられており、戦時中は特に思想弾圧などで悪名をはせました。
映画の描写が決して大げさではなかったことは
例えば「身内に憲兵がいると知れたら村八分になった」
というようなエピソードにもそれが表れています。
因みに日教組の大物でミスター日教組といわれた
槙枝元文は、憲兵中尉でした。
北朝鮮とのつながりは深く、最も尊敬する人物が金日成だった、
というこの人物が憲兵隊にいたことは何か因果関係があるでしょうか。
一般に憲兵はなりたくてなるというものではなかったそうで、
兵科を身体的な都合で務められなかった者が憲兵隊に回される
といったケースが多かったと言われています。
しかも、職務熱心であるほど世間には疎まれる役回り。
しかも戦犯裁判ではその行為が多く糾弾されました。
BC級裁判で死刑になった者の三割が憲兵という説もあります。
権力をかさにきてそれを必要以上に行使する、
サディスティックな人間も異常な社会では必ず現れるものですが、
多くは職に忠実であっただけではなかったのでしょうか。
靖国神社境内には1969年、「憲兵の碑」が建てられました。
人目につかない池のほとりに、ひっそりとそれはあります。
その碑文です。
国破れて山河あり
靖国の神域昔ながらの荘厳を失わず
国民の尊崇衰えぬは
神州不滅の証左というべきである
憲兵の任務は監軍護法に存したが
大東亜戦争中は更に占領地の行政に
或は現地民族の独立指導に至誠を尽くした
又不幸にして空爆の戦火靖国の神域を襲うや
挺身神殿を護持したのも憲兵であった
敗戦は不条理な多くの犠牲を我が軍に強いたが
別けても憲兵に対して著しかった
終戦時戦死又は獄死 自決により或は
謂われなき罪に問われて非命に倒れた戦友
数百名に及ぶ 実に痛恨の極みである
願わくは憲魂死してなお靖国の聖域に留まり
とこしえに二百五十万余の英霊の衛士たらんことを
靖国神社創建百年の秋に当り
緑の神域にささやかな碑を建て
殉国烈士の霊に捧ぐと共に
憲兵昔日の微衷を吐露して
後世の評価に委ねるものである