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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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「宗谷」~巡視船「宗谷」最後の戦い

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映画「南極料理人」では、もともと南極観測隊に加わることになっていた隊員が
事故に遭ったため、主人公の西村(堺雅人)が代わりに行かされることになったという設定です。
無表情で西村に辞令を出す海保船の船長(嶋田久作、帝都物語のあの人)。

有無を言わせず了解を取ろうとする船長(いい味出してます)に、西村は引きつった顔で
「家族に相談させてください」と唯繰り返すのですが、肝心の家族は彼の報告になぜか爆笑しながら、

「ペンギンいるの?」「アザラシいるの?」

憮然としながら「いない」と答える西村にまたしても家族は爆笑するのでした。

また、劇中、衛星がつながってリアルタイムで子供が観測隊に質問するシーンがあります。

「ペンギンはいますかー」

「ペンギンさんはいませんよ~。
僕たちがいるのは南極でもペンギンさんたちのいる昭和基地から
ずっと遠く離れたドームふじ基地です。
寒すぎてペンギンさん凍っちゃうかな~」

「じゃー、アザラシはいますかー」「アザラシもいないよ~」

「じゃ~、何がいますか」「ここには僕たちがいまーす」

「可愛い動物は~?・・・可愛い動物は~?」「・・・・・」

南極大陸といっても、ずいぶん気温差があって、「昭和基地」の周りには
いるペンギンが、ドームふじ基地にはいないということなんですね。



地図を見ていただければわかりますがドームふじ基地は内陸にあります。
雪原ばかりで海がないので、ペンギンやアザラシがいないのは当たり前です。 



その点昭和基地はまわりにはペンギンがふんだんにいます。
ドームふじ基地は今は結構施設が充実しているということですが、この映画の頃、
何もない雪原で1年間生活していた観測隊員たちは、それこそせめてペンギンでもいたら
目の保養にもなったに違いありません。



家族が昭和基地の隊員に向けて送った手紙。
宛先は海上保安庁となっており、スタンプは昭和基地となっています。
記念切手も発売され、日本中が「南極ブーム」であったことがうかがい知れます。



わたしたちがこの展示のある船室に入っていくと、男性が二人いました。
質問とかをしたら答えてくれたのに違いありませんが、黙って見ていたら
すぐにわたしの「招き猫体質効果」が発動したのか、人がいっぱい入ってきてしまいました。

おじさんたちは後から知ったのですが、元「宗谷」乗員だったそうです。

後から入ってきた子供たちに話しかけて説明してあげていましたが、
子供たちのノリが悪いので少し気の毒な気がしました。
中でも小学校高学年くらいの女の子は、ペンギンを見るなり、

「ペンギン、剥製になんかされちゃってかわいそー」

おじさん、

「・・・・・・」

映画の「可愛い動物はいますか~」を思い出してしまいました(T . T)

ちなみに左の「オオトウゾクカモメ」が、昭和基地の皆さんが焼き鳥にしていたあれです。
南極にはウィルスがいないので、凍傷になることはあっても風邪はひかないそうですが、
カモメなんか食べて寄生虫とか大丈夫だったんだろうか・・。



なんと!
今から数千年前にできた氷がここにあります!

南極大陸を覆う氷の厚さは平均2500メートル。
分厚いところは4kmも(厚さが)あります。
これは地球上にある陸の氷の90パーセントを占め、
さらに降雪によっていつも新しい雪が補給されて積み重なっていきます。

そして、凍ったそれは内陸からゆっくりと(1年間に数m~10数mの速さで)
押し出されていって、海に落ちた時に氷山となるというわけ。


ここにある氷は「しらせ」が持って帰ってきたものらしく、提供は

海上自衛隊南極観測支援室

となっています。
そういえば去年、横須賀の海自基地で行われたカレーグランプリの会場で、
南極の氷を豪勢にも溶けていくがままに展示していましたが、そのとき

「耳を近づけてみてください。プチプチ音がするでしょう」

と言われて耳をすますと、たしかに空気の弾ける音がしました。
この泡は氷が生成された当時、つまり数千年前の空気なのです。

この空気や氷の成分を調べることによって地球の成り立ちなど知ることができます。



南極観測船の航路は船が変わるごとに変えられてきたようです。

この赤い航路が「宗谷」のもの。
シンガポールからアフリカのケープタウンまで行き、そこから南下しています。



1965年から84年までの間就役した「ふじ」の航路。
1963年に一旦中止されていた南極観測を再開することが決まり、
このときから輸送(つまり南極観測船のオペレーション)が防衛庁の管轄になり、
同時に自衛隊法を改正して自衛隊が運用することになったのです。

「ふじ」の航路は往路がオーストラリア経由、復路はポートルイス(モーリシャス共和国)、
シンガポール、東京というものです。



「しらせ」となってからは、「ふじ」と同じオーストラリアのフリーマントル経由で行き、
帰りにはシドニーに帰港してから帰国となっています。

航路が船によって違う理由はよくわかりませんでしたが、観測隊員は
海上自衛隊が海路でオーストラリアに到着してから、飛行機で日本から追いつき、
そこで初めて砕氷艦に乗艦するということになっているようです。



最初に日本が南極観測隊を送ってから60年以上が経ったわけですが、
この間に科学が発達して、南極観測の実態も随分変わりました。

この写真は現在の南極大陸で使われている大型雪上車ですが、
「宗谷」のころと最も変わったのがこの輸送方法です。
なにしろ宗谷の頃は、



動力は犬ぞりに大きく依存していたのですから。
犬ぞりは、優れた方向感覚を持つとされる樺太犬にソリを引かせるもので、
これで偵察や観測が行われ、犬たちは隊員と共に越冬しました。

あのタロとジロもこの役目を担っていた樺太犬でした。

現代の雪上車は物資を積載したソリを最大で7基引くことができます。
いろんな意味で犬たちにも過酷なこの任務は、こういう機器の導入で必要がなくなったため、
今では南極大陸に、犬はもちろんのこと生き物を持ち込むこと自体が禁止されています。



第7士官寝室のドアは閉ざされていました。
もしかしたら現在はボランティアの居室などに使われているのかもしれません。



第8士官寝室は、

「南極観測当時と居室の区画が変わっている」

と説明に書かれています。
「宗谷」は南極観測で生涯を終えたはずなのに、
その後区画を移設する意味があったのか?と思ったのですが、あったんですね^^。

1962年、「宗谷」は計6回の南極観測船としての役目を終えました。
先ほど書いたように、南極観測にはこれ以降海上自衛隊が関わることになり、
「ふじ」が建造されて、引退が決まったとき、彼女はすでに建造されて24年が経っていました。


(砕氷船としての役目を終え、巡視船になった宗谷)





普通ならこれだけでも波乱万丈すぎるくらい色々あったその生涯を、
南極への6回の往復を素晴らしい花道として引退しても良かったのですが、

そうや問屋がおろさなかったのです。(もうええちゅうに)

 彼女が南極観測船の道を「ふじ」に譲ったころ、海上保安庁では、
北方での海難事故の対応に苦慮していました。
海保の当時の巡視船の中で流氷の中での作業ができるのは、
6回も南極に行き、砕氷機能を持つ「宗谷」だけ。 


そう、「宗谷」はまだ身分上は海上保安庁の巡視船だったんですね。
引退する間も無く、彼女は北方のパトロールのために北に派遣されました。
その後、三宅島の噴火の際に千葉県に疎開していた子供たちを島に送り届ける仕事や、
船上での急病人を搬送する任務を次々とこなしました。

そして実に16年もの間、巡視船としてパトロールと人命救助の任に就き、
漁師や船員たちからは

「北の海の守り神」

と呼ばれ畏敬されていました。 
建造からすでに40年が経ち、普通の船の2倍生き、普通の船の2倍以上の働きをしてきた
「宗谷」にも老いが目立ち、そろそろ引退がささやかれていました。



1978年2月。
北海道の稚内に流れ込んだ流氷が凍結し、多くの船が港内に閉じ込められました。
漁に出ることはもちろん、物資を運ぶ船も入ってくることができません。 

稚内から目と鼻の先にある利尻島、礼文島を結ぶフェリーは結構し、
島民は完全に孤立してしまいます。 

そして稚内市からの指名により、海上保安庁は引退寸前の「宗谷」を投入することになったのです。

その6年前、「宗谷」は稚内の流氷破砕に出動して、このときには失敗していました。
しかし、彼女は再び敢然と、困難な任務に立ち向かうため、母港の函館を後にしたのです。

他の船も救出を試みたものの、その氷の厚さに撤退を余儀なくされ、いわば宗谷は
最後の切り札、最後の望みの綱でした。

現地を絶望が襲いつつある中、「宗谷」はゆっくりとで稚内の納沙布岬に到着しました。
そして、海上保安庁の航空機が調査を中止するほどの悪天候の中、
「宗谷」船長有安金一は、単独での稚内港への突入を命じました。 




「宗谷」は厚さ1.5メートルの氷に突進し、稚内港に向かい始めました。
全力を振り絞る彼女の煙突からは、激しく火の粉が吹き上がりました。
1時間かけて、ようやく稚内港の北防波堤付近までたどり着いた彼女は、
さらに氷に向かって突進、後ろに下がりまた突進を何度もなんども繰り返し、
少しずつ、少しずつ氷を割りながら稚内港へ侵入していったのです。

そうやってついに彼女は1時間後、稚内港に侵入を果たし、さらに30分かけて、
まず、閉じ込められていたフェリーを脱出させることに成功します。

その後、地元の漁船たちが閉じ込められている船だまりへと向かった宗谷は、
またしても何度も何度も突進と後退を繰り返しながら、彼らの元にたどりつき、
12日間もの間流氷に閉じ込められていた41隻の漁船を進路嚮導して、
稚内港の外に導き出したのでした。

これが「宗谷」が巡視船として行った、流氷海域における最後の救助活動となりました。


冒頭の科員寝室に残された元「宗谷」乗務員の言葉に添えられた日付は昭和53年10月2日。
稚内での流氷との激しい戦いが行われた同じ年のこの日に、「宗谷」は現役を退いています。

「偉大な宗谷よ、さようなら 又いつの日か逢いに来る」

これを船室の壁に記した乗組員は、おそらく稚内で彼女と共にに戦い、
その偉大な業績の目撃者となったことを、その船乗り人生の最大の誇りとして、
この日「宗谷」を永遠に降りたのでしょう。

この活躍の2ヶ月後に行われた海上保安庁の観艦式に参加した「宗谷」には、観閲艦として、
海上保安庁長官と運輸大臣が坐乗するという最高の名誉が与えられました。


この時「宗谷」は建造からちょうど40年目を迎えていました。



続く。

 


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