カリフォルニアに来てしばらくして、息子がニューヘイブンで参加していた
キャンプが全米ネットのニュースで紹介されていました。
息子が「あ、誰それだ!」というので画面を見ると、キャンプのオーナーが、
去年キャンプの行われたボストンのウェルズリー大学の校舎をバックに
インタビューを受けていました。
キャンプが行われていることを表すバナーが窓に掲げられています。
キャンプには全米からはもちろん、デュバイからも来ている、とキャスター。
どうやらこの女の子たちはデュバイからの参加者である模様。
このキャンパスはジュニア・ハイスクールまでの参加者のためのキャンプが
行われているので、去年は息子もここだったのですが、
「惜しかったね。去年ならネイションワイドで映ったかもしれないのに」
「日本からっていうのは確かに少ないけど珍しがられないからなあ」
キャンプ出身者の「起業家」のインタビューも有りました。
息子が今西海岸で行っているITキャンプにも、ウェブデザインの会社を立ち上げている
息子と同い年の少年がいるそうで、
「アメックスのビジネスカード持ってた」
とのことです。
「そんな子が今更何を習いに来るの」
「わからないことを習いに来るんじゃない?」
そりゃそうなんでしょうけど、そういう子供がビジネスを立ち上げてしまうっていうのが・・。
さて、息子をこのキャンプに送り込んだ後、私たち夫婦はイエール大学美術館を見学し、
そのあと、ピーボディ博物館の特別展「SAMURAI」を見るために、歩いて行ったのですが、
車では一瞬に思えたのにその遠いことといったら・・・。
大学構内といっても街全体が大学なもんで、行けども行けども着かないのです。
しかし、300年経過した大学の建物はどれも重厚で美しい。
これはイエール美術館のガーゴイル。
イエール全体のガーゴイルについてそのいわれを説明する本などもあるようです。
ガーゴイルというのはこの写真のものもそうであるように「雨樋」。
雨樋の機能を持たないものは残念ながら単なる彫刻でガーゴイルと言わないそうです。
ゲーム業界では「ガーゴイル降臨」などといって、それ自体が悪魔の名称のようになっていますが、
それはあくまでも日本だけのお話なんだそうです。
イエール大学のオールドキャンパスの向かいにあったゴシック風の門。
門の取っ手によく見ると落し物らしいベージュの帽子が掛けてあります。
わたしは昨日、ランドリールームで、洗濯機が回っているわずか30分の間に
洗濯物入れのプラ袋に入れて隠しておいたTUIMIIのポーチを盗られました。
中は何のことはない”ランドレス”の携帯用洗剤セットでしたが、
一応一泊200ドル以上とるホテルの宿泊客でも、目の前に小銭らしいものがあると
(ポーチは外から見ると小銭入れに見える)脊髄反射で盗る手癖の悪い人間が
確率的に多い国なんだなと改めて思ったものです。
このベージュのキャップを拾った人は、持ち主にわかりやすいようにノブに掛けたわけですが、
2時間後くらいに前をもう一度通ったら次は無くなっていました。
わたしなどてっきりこのときは落とし主が探しに来て確保したと思い込んだのですが、
よく考えたら、別の人間がひょいっと取っていっただけかもしれません。
ちなみに、美術館の前で大きなお腹を見せながら物乞いをしてきた女性は、
(とてもおめでたの可能そうな年齢には見えなかったけど)
2ドル渡してやると「もう1ドルくれ」と食い下がりました。
厚かましすぎ。
いずれも日本以外では当たり前、日本ではあまり見ないことばかりです。
ハーバード大学の建物もそうでしたが、アメリカの古い建物は、
何百年越えの建築でさえ「バリアフリー」であるのに驚きます。
今ではもちろんどうにかなっていると信じたいですが、何年か前までは
新幹線のモノレール乗換駅である浜松町は階段が多く、
カートを持っていると大変つらかったものですが。
あと、概してフランスの地下鉄には階段しかなかった覚えがあります。
キャンパスの建物と建物の間はこのように芝生が敷き詰められていて、日陰などで
学生が昼寝をしたり本を読んだりしている姿がそちこちにみられます。
ベンチもありますし、カリフォルニアほどではありませんが、日本よりは
かなり湿気もましなので、日陰に入ると快適に過ごしやすいのです。
イエールは圧倒的に白人の教授が多く、マイノリティが少ないので有名ですが、
女子学生を学部が受け入れたのですら1969年になってからのことだそうです。
そういう意味では大変旧式な体質を持っていると言えるかと思いますが、
つい最近、国立シンガポール大学と提携してYale-NUS College
(イエール大学シンガポール校)を開設したそうです。
アジアでの大学総合ランキングの最上位 (学者からの評価では東大が最上位)
大学なので、イエールもこの提携となったのでしょう。
いきなり現れたアーチの門に大学の紋章。
書物の下の大学モットーは、
"Lux et Veritas"(ラテン語で「光と真実」)
ハーバード大学がではVeritas(「真実」)一言を採用していたのに対し、
イエールはハーバードの世俗化を批判して創設されたという関係上、
Lux(「光」)を付け加えたということです。
さて、オールドキャンパスを歩き出してすぐ、冒頭の壮麗な柱を持つ建物が有りました。
道らしい道がないので、アメリカの大学だから中を通り抜けられるだろうと思い、
とりあえず突入してみることにしました。
写真の建物がドームのように見えるのは、ワイドモードで撮ったからです。
建物の前に置かれた棺のような石碑には、このような文言が。
彼女(イエールのこと)の伝統に殉じて、その命を、
決してこの地上から消え去ることのない自由のために捧げた、
イエールの男たちの思い出のために
1914 ANNO DOMINI 1918
「彼女」とはこの建物に併設されたウルジーホールのアテナのことかもしれません。
アンノ・ドミニとは西暦のA.Dのことですが、年号は第一次世界大戦を意味します。
南北戦争ではイエール大学出身者のほとんどは北軍として戦ったわけですが、
第一次世界大戦というのはアメリカにとっての最初の大規模な世界大戦であり、
(アメリカの参戦理由というのもわたしにはイマイチよくわかりません)
ここで初めて当大学も「彼らは自由のために命を捧げた」と標榜することができたのでしょう。
底意地の悪い言い方ですが、実際南北戦争の時、同じ大学を出ていながら
南北に分かれて戦うことになった同窓生なんかもいたはずで、さらには
彼らの戦いはどちらにとっても「自由のため」であったということなのです。
中に入ってみてびっくり。
なんと大学のダイニングホールでした。
わたしなど真っ先に思い出したのが「炎のランナー」で、
オックスフォードに入学した学生たちが全員タキシードを着込み、
学長主催の晩餐会に出席するシーンです。
ずらりと並んだテーブルのこちら側には、ビュッフェ台があり、
様々な食べ物がもうすでにスタンバイしていて、夕食の準備が整っていました。
「誰が今日ここで食事するんだろう」
といいながらふと目に留めたこの看板。
あらら、息子さんのキャンプじゃないですか。
誰が食事って、うちの息子が食事する場所だったのね。
「わーいいなあ、MKってこんなところで食事してんだ」
「イエールの学生になった気分だよねー」
「あー、俺、うちの息子に生まれたかった」
そのまま、ダイニングを通り抜けると、ホールがありました。
床に埋め込まれた様々な種類の石材がつくる模様がまるで太陽のよう。
先日、100年近くも前に作られた大学の建物にあるステンドグラスが、
たまたま旭日の模様をしていたからといって、韓国からの留学生が大学側と面談、
問題のステンドグラス撤去を申し入れたという事件がペンシルバニア大学で起こりました。
「韓国人だったら見ただけで吐き気を催す「戦犯旗」だ。
そんな旗が世界でも有数の最高学府にあるとは驚きだった」
結果、当然のことですが大学からはその訴えも体良く退けられ、
一般学生からは「頭を冷やせ」「呆れた民族」と呆れられたそうな。
1923年に作られたステンドグラスも一国民の民族意識(というか劣等感)の配慮のため
撤去せよと言えるくらい愛国心のある国民としては、ここはもうひと頑張りして
「このホールで戦犯旗を見ると、今食べたばかりなのに吐き気を催してしまう」
とイエール大学に対し、200年前の床を撤去せよというべきではないでしょうか。
というか、彼らはそれくらい馬鹿げたことをペンシルバニア大に要求したってことなんですが、
よく見るとドームの内部の飾り一つ一つに電球が埋め込まれています。
これも「炎のランナー」で主人公が入学手続きをしていたような窓口が。
ここでふと周囲の壁に膨大な人数分の名前が彫り込まれているのに気付きました。
第二次世界大戦の戦没したイエール大学卒業生の名簿でした。
卒業年次、戦死した年月日、戦没場所の後には、軍での所属階級が記されています。
表にも慰霊碑のあった第一次世界大戦での戦死者です。
ここに書かれているのは1914年卒業クラス。
第1次世界大戦は1914年に始まっていますから、卒業してから訓練などの時期を経て
戦地に投入され戦死したということになります。
彼らのほとんどはフランスで行われた戦闘などで戦死したようですが、
中にはコーストガードの大尉として出征して「海で死んだ」ということしかわからない者、
少尉候補生のまま国内で亡くなった(おそらく訓練中の殉職)者もいます。
中には終戦のわずか20日前に戦死した人も・・・。
彼らは全員1942年の卒業生ということがわかります。
ホーヴェイ・セイモア、海軍少尉 1945年1月、太平洋で戦没
ウィリアム・バートン・シモンズ、陸軍歩兵中尉、45年3月8日、ドイツ、マインツで戦没
ロバート・エメット・スティーブンソン、海兵隊中尉、44年7月1日、サイパンで戦没
ジェイムス・ニール・ソーン、ロイヤルエアフォース航空将校、44年9月10日、オランダ上空で戦没
ベンジャミン・ラッシュ・トーランド、海兵隊中尉、45年2月1日、硫黄島で戦没
ウィリアム・ガードナー・ホワイト、海軍航空中尉、44年9月2日、父島付近で戦没
42年にイエール大学を卒業したばかりの彼らは、すぐに戦地に赴き、
そこで遅くても3年以内に命を散らせていくことになったのでした。
第一次世界大戦の時より戦場に出るのが異常に早いような気がするのですが、
アメリカも若い大学生をすぐに戦地に送るようなことをしていたということでしょうか。
名簿はまだまだ続きます。
写真の、壁に刻まれたこの部分の戦没者名簿は1950年卒業生のものです。
ご存知のようにアメリカの大学の卒業は6月なのですが、この年の6月25日、
つまり彼らが卒業して何日か後に朝鮮戦争が勃発しました。
アメリカはベトナム戦争の和平と同時に徴兵制を廃止しましたが、
未だに徴兵制を復活させるべきという意見の基本となる理由は、
志願制だと、就職先または除隊後の大学奨学金を求めて、
経済的に貧しい階層の志願率が高くなるので、経済的階層に関わらず
軍務を国民全員に機会平等に配分するという考えからきています。
例えばハーバードやイエールのような、最難関の名門校を出て国の基幹を
将来担う可能性のある人材であっても、「そうでない」国民と同じように
戦争に行くべきだ、という考えは、「イコーリティ」の点からはもっともでも、
国の存立の点からは「非効率的」であるという考えが主流になったため、
アメリカではこれからもおそらく徴兵制は復活しないであろうと言われています。
確かに、比較的入るのだけは簡単なアメリカの大学の中で(それでも出るのは大変ですが)
入学すること自体難しいこのイエール大学の卒業生が、このように大勢、
水漬く屍草生す屍となって失われていったということを目の当たりにすると、
不謹慎な言い方かもしれませんが、
「なんと勿体無い」
といったような気持ちが湧き上がらずにはいられません。
先般から日本でもおかしな人たちがただ現政権への反対をするためだけに
「徴兵制になる」
ということを煽り、脅かして先導しようとしたということがありました。(現在形?)
国を守るということにおいて国民の責任に多寡はないはずですから、
その意味だけでいうと、徴兵制は徴兵賛成派の言うように公平なシステムです。
しかし、いつの頃からか、戦争も「専門職化」してきて、誰でも彼でも役に立つかというと
そんなことはないわけでして、やはり大学、特に名門大学を出た人は
国家指導者を目指し、あるいは科学や医学で国のために尽くすべき、という
「適材適所説」が現代の主流となっているということなんですね。
アメリカみたいなしょっちゅう戦争している国でも
「国難における国民の責任は公平であるべきだから皆が戦場にいくべきである」
なんていう精神主義的な国防論は今や全く受け入れられていないわけですから、
ましてや日本みたいな国で、どんな事態になろうと(ていうかその事態に必ずなるというのが
反対の大前提っていうのがもうね)徴兵制だけにはなりっこないのですが。
さて、彼らはイエール大学という全米でもナンバー2に位置する難関大学を
たまたま卒業した年に、アメリカが戦争に突入したという人たちでした。
卒業するや否や徴兵によって出征した彼らは、全米最高の学歴を持ちながら、
ほとんどがそれから数年以内に、銃を撃つこと以外の貢献をすることなく
この世を去ったということになります。
日本人であれ、アメリカ人であれ、有為の若者があたら若い命を散らしたということを物語る
このような痕跡の前には、わたしは粛然と頭を垂れるのが常ですが、特にここでは、
彼らの死によって失われた未来の可能性の大きさをただ惜しまずにはいられませんでした。
そして戦争とはまさに人類にとって愚挙の最たるものであり、
人類滅亡の日を早めるものがあるとしたら、それは
「国家」という枠組みそのものの存在ではないか、ということまでつい考えてしまったのです。
ー8月15日、アメリカにてー