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「宗谷」~戦後復興の象徴

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「船の科学館」横に繋留されている「宗谷」見学記、終わりに近づいてきました。 

艦内は「宗谷」が南極観測船のときの仕様が展示されていました。
観測船のあと海保の巡視船として活躍した期間も結構あるのですが、
やはり彼女は南極観測船としてこそ有名になったからです。

 

船室の一つを使って外から見られるこのコーナーは、どうやら
バンダイがスポンサーとなって「大人の超合金」というのシリーズを宣伝しています。
この「宗谷」はその商品ラインナップの一つなのですが、超合金素材で
どこが組み立てでどこが完成部分なのかさっぱりわかりません。

大人の超合金シリーズ「南極観測船宗谷」

これによると、この「宗谷」は第一次観測隊の仕様だそうで、
プレートは二種類、氷海プレートと海面プレートがあります。
隊員のフィギュアは30体、樺太犬は実際より多くて22匹分。

この模型は特別なディスプレイスタンドを使用することで ケープタウン沖の暴風圏で
最高片舷62度に及ぶ横揺れに見舞われる「宗谷」を再現することもできます。
62度。
これ実際に見てみるといかにすごかったかわかります。



さて、大人の超合金シリーズ「宗谷」、気になるお値段ですが、4万9千350円。
この大きさと超合金素材の美しさと、精巧さを考えると決して高くはありません。
じゃ買うか?と言われるとやっぱり高すぎて買えませんが(笑)


バンダイのホームページにはこのような始まりで「宗谷」の説明をしています。


「日本戦後復興の象徴となった奇跡の船」

ー日本が一つになった、あの日。

「もはや戦後ではない」とのフレーズが『経済白書』を飾ったのは昭和31年のこと。
焼け野原の戦後復興期から、科学技術の時代に入った日本が、
国際社会復帰の初舞台としてプライドを賭け挑戦したのが、
世界各国で進められた「国際地球観測年」の南極観測事業だった。


国民が「宗谷」の南極派遣に熱狂し、子供たちが競って自分のお小遣いを
「宗谷」のために寄付し、各企業が争うように自社の開発品を提供したのも、
全ては「宗谷」が戦後復興の象徴と捉えられていたからでした。

「宗谷」は敗戦から立ちあがろうとしている日本人の希望だったのです。



黒地に白の設計図。
このネガポジでわたしは「タイタニック」と「大和」の設計図を持っていますが、
あれは「装飾用に」黒地に仕上げられているのだと思っていました。
こういうバージョンの設計図もあるんですね。

この設計が、「大和」の牧野技師が行った改装かどうかはわかりませんでした。



そんな栄光の過去も今は昔。
後から出入りのために取り付けられたらしいラッタルすらこの有様。



甲板の一階下のデッキ部分には、雑然と改修用の資材などが
埃をかぶったまま置かれています。
床に置かれたロープがきっちりと船のしきたりどおりに置かれているのがせめてもでしょうか。



ダクトの工事をこれからするのか、それとも工事が滞っているのか。

パイプが乱雑に詰め込まれた「動物サブレー」の段ボールは、
かなり日にちが経っているらしく型崩れを起こしています。



メインエンジンは2サイクル8気筒、2400馬力。
かつてはこれで氷海をたくましく進んでいったのです。

2サイクルは4サイクルに比べ2倍の出力を持つというのですが、
どうして数字が増えるのに出力が減るのかいまひとつわかりません。



窓が一つしかないこの部屋は、初期の南極観測では暗室となり、
第三次観測からは「生物観測室」の仕様となっています。
説明不足でこの意味がよくわからなかったのですが、南極に接岸し、
この部屋から氷原の南極の生物(ったらペンギンとか)を観察したのでしょう。



通信室。
特に第一次南極探検の時、無線が唯一の通信手段でしたから、
通信はそのまま隊員たちの生命の維持を意味していました。

左から、短波受信機、救難信号受信機、方位測定機、FM受信機。



時計の上に書かれたJDOXは「宗谷」のコールサインです。



おそらく当時から使われていたのであろう日本地図はもうボロボロです。


 
JOF、KDDなどチョーク文字はずっと描かれていたため跡が残っています。
それにしても、この、中国人の名前は何?ムカつくんですけど。



かつてはこの一本一本全てが生きていて、船の機能を動かしていました。
めまいがしそうなくらいの数のコード。



さて、この辺で航海艦橋に登ってみたいと思います。
護衛艦などの艦橋と比べるとずいぶん低い位置にあり、気密性もほとんどありません。
写真を見ると「自領丸」のころから同じような仕様だったようですが、
こんな艦橋で敵の襲来があった時にはさぞかし恐ろしい思いをしたのに違いありません。



信号旗の格納箱がここにもありました。
「宗谷」がよく使用していた旗旒信号が三種類描かれています。
左から、「宗谷」を表すJODX、「後安航を祈る」の「WAY」、そして
「ありがとう」を意味する「OVG」。



艦橋から艦首を望む。
護衛艦を見慣れた目にはこういった民間船のデッキが珍しく見えます。
あらためての前甲板を見て、偉大な宗谷があまりに小さいことに驚きます。



艦橋に入りました。
エンジンテレグラフです。
ブリッジから機関室に指令をおくるための通信機であり、
これで何かを動かすわけではありません。
(わたしは実は割と最近までそう思っていましたが)


 
部分だけ写真を撮ったのでなんだかわからなくなってしまいました(; ̄ー ̄A
スイッチがパチパチ式で()時代を感じさせます。



昔は通信ひとつとっても大変だったなあとつくづく思うこの電話の列。
一台の電話で内線を切り替えるという技術がなかったころは、
必要な部屋への直通電話は一台ずつ備えないといけなかったのです。

コードが壁を埋め尽くすほど必要になったのもこういうことからなんでしょうね。

パネルの各スイッチの文字盤は、擦り切れてしまってもう文字の痕跡すらなくなっています。



舵輪の前にあった計器いろいろ。



真鍮はどの部分のもピカピカでした。
稼働していた時代には毎日磨き上げていたせいか、文字が薄くなっています。
取扱注意の文言はカタカナで、戦後に改装された時に付けられたものと思われます。



この長野日本無線株式会社は今でも同名で存在する通信無線の会社です。
1957年にトランジスタ型の電源装置を開発し、電源装置の分野に進出、とありますので、
その最新式の装置を「宗谷」に導入したものと思われます。



レーダー。



風向風力計。皆そのように書いてあるのでわかりました(笑)



舵角指示計。



このころになると、またしてもわたしの「招き猫体質」(一人で店などにふらりと入っていくと、
どういうわけかその直後から人がどんどん入ってくる)が発動して、
どういうわけか狭いブリッジに人多すぎの状態になってしまいました。
TOが「また発動したね」と囁いたので気付いた次第です。

自分自身には何のメリットもないどころか、行くところ行くところ混雑するので
まったく嬉しくない体質なんですが。

って全然関係なかったですね。



終わりに近づいてきたと言いながらも続く。








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