昨日に引き続き、海軍少佐、谷川清登氏の講演内容を編集してお送りします。
が、その前に。
先日、旧日本軍のものとみられる不発弾が発見され、自衛隊の処理班が
爆破処理に携わったというニュースがありました。
わたしは運転中で、正午のニュースとして放送されたものを聴いたのですが、
NHKラジオではごく淡々と、爆破処理の様子を伝え、鉄道路線が止まったことなど、
報道としてまっとうに伝えるにとどまりました。
なのでそれ以上の感想を持つこともなかったわけですが、
テレビ報道ではアナウンサー()がまた何か言ったようです。
ある読者がそれに対してこのような感想をお寄せくださいました。
エリス中尉様
交通関係への影響等で比較的大きくテレビで取り上げられておりました。 NHK(・・・まぁ、落ち着いて、話しはこれからです。)の夕方の首都圏ニュースでも、 取り上げられており、トン数の土砂が入る様な、沢山の大きな土嚢袋で防護した中で、 爆破処理される映像が映し出されましたが(見ましたか?)、そのニュースの中で、 女子アナのお姉ちゃんの一言が、グッと来ました。
曰く、 「これらの負の遺産は(それに関する処理の為の影響は)何時までつづくのでしょうか・・」 負の遺産、詰まりそれを生み出した一連の出来事と私、関係有りませーん。
理解する気も有りませ−ん。
私という存在は出自からして、それらのものとは「隔たって」「きれい」 (彼女の見た目の事では有りませんよ)なのでーす。
そんな様に聞こえました。 不発弾は迷惑です。
有り難がる人はいないでしょう。
しかし、お前、お前も日本人なら、その負の遺産を背負えよ。
100%被害者面するのは止せ。そう思う私でした。
この時、コメントするなら、「処理関係者の皆様、お疲れ様でした。」ではないでしょうか? 因みに、以前何かのテレビ番組で、この不発弾処理に当る陸自の隊員達に付く
「危険手当」の金額を見た事があるのですが、
専門の隊員が不発弾の先端の信管を慎重に外す様な、非常に危険な作業をしても、
手当てとしては確か5千円しなかったと思います。 どういう計算に基づいてのものか解りませんが、安過ぎますよね? 多分、「お役所の単価」ですから、今でも殆ど変わらないのでは? お疲れ様な事です。
ありもしなかった「軍による強制連行された慰安婦」という「負の遺産」を捏造し、
それを今の日本に「背負わせたい」民族と、その国に肩入れし彼らの立場で
日本を非難するマスコミ。
そんなマスコミのいうこの場合の「負の遺産」っていったいなんなのかしら。
日本は「負の遺産」を=たとえ捏造であっても負うべきで、
しかし、自分(つまりマスコミ)には何の責任もないと。
皆さまは、この件いかがお感じになりましたか。
さて、遊就館で行われた谷川氏の話に戻りましょう。
ミッドウェイとともに
日米攻守が逆転した転換点となったガダルカナルの戦い。
谷川大尉のいた「嵐」は、この北方輸送作戦に10回参加しています。
艦長として優れた判断力で上層部の信任も厚い
有賀幸作少佐がその腕を見込まれたのでした。
「嵐」は1942年の8月7日、あの坂井三郎が航空戦で負傷し
片目を失ったときの海兵隊のガ島上陸を受けて、
グアムに待機していたあの一木支隊をトラック島に輸送しています。
その後8月21日に一木支隊は包囲殲滅させられる運命です。
世に「一木支隊の幽霊」という有名な話があります。
軍隊の者はみな知っていたのだそうですが、この一木支隊の幽霊が、遠く離れた日本の、
旭川第7師団で8月20日、彼らが激しく戦っている最中目撃されたという話がありました。
抜刀乗馬の将校を先頭にした一団が近づいてきたと思ったら、
かき消すように消えた様子を二日に亘って何人かの歩哨が上に報告しています。
それでは、谷川氏のお話をどうぞ。
■ガ島補給作戦
目に見えて劣勢になってきていました。
補給船もどんどんやられてね。
「嵐」は生き残りました。
10回くらい行きましたが20回は生かされたフネもありましたね。
飛行機も、もうゲタバキ(水上艇)で敵に応戦するしかないんです。
見ているとね、敵の飛行機に向かって、
鈍重なゲタバキ機が果敢にも向かっていくんですよ。
相手は30機くらいなのに一機で向かっていくんです。
目の前でそれらがバタバタ落とされていくんです。
もう可愛そうでね。
なんでこんなくだらん戦闘をやらせるんだ、と腹が立ちました。
有賀さんは輸送艦の艦長として優秀でしたから引っ張りだこでした。
だから「嵐」も何度も攻撃にさらされています。
一度爆弾が当たりましてね。
しかも水雷機関の補給室だったんです。
そこにあった93式魚雷に当って・・・・、
93指式魚雷ってのは酸素魚雷ですから、酸素に引火して
燃えだしたんです。
わたしは水雷長で、艦橋の上から見ていました。
ああ、もう死ぬな、と思って見ていたんですが、
不思議なことに「すっ」と火が消えた。
あそこにはほかに8本魚雷がありましたからね。
その一本が爆発していたらフネは轟沈していたでしょう。
本当に、戦争とはわけのわからないことが多いです。
・・・え?
その時ですか?
だらーっとしていましたね(笑)
(前ログ参照)
死ぬのをこのころには全く怖いとも思わなくなっていた。
■教官着任、そして終戦
「嵐」は帰国してドックに入りました。
私はその後兵学校の教官を江田島で8か月、
岩国でも8か月やりました。
(写真を指されて)ええ、この写真のどこかにいます。
どこにいるかわかりません。
こちらの教官だけの写真も、どこかにいますが、
どこにいるかわかりません。
このとき教えたのは水雷術です。
(会場にはこの時の教え子が3人来ていた)
5月1日、少佐に昇進しましたが、写真は撮っていません。
え?残念?
なんでですか(笑)
4月に第5航空艦隊西海航空隊に配置されて、
航空魚雷の実用実験や整備、調整の指揮をしていました。
そして終戦を迎えました。
8月15日、掩体壕の上に乗せる木を取りに山にいったんです。
すると、別荘の奥さんが
「玉音放送があるらしいから聞きましょう」
と誘ってくれて、そこで放送を聞きました。
でも、何を言っているかわからないんですよ。
わからなかったけど、戦争が継続するならこんな放送するわけないので
たぶん負けたんだろうな、と理解しました。
五航艦の軍紀も士気も低調でしたね。
他部隊から聞こえてくるのは
「大日本帝国は不滅なり」なんて言葉ばかりで、
倉庫に泥棒すら入ったりしたんです。
わたしは「負けたら負けたで敗戦を自覚して立ち直ればいい。
それをいつまでも『負けていない』とは男らしくない」
と考えましてね、それを全部隊に電報で発信しようとしました。
「光輝ある海軍が敗戦で軍規を乱し、
威信を失墜したことは誠に遺憾である
気合を入れなおし、有終の美を飾り再建を目指そう」
こんな文を送ろうとしたら、通信員が
「そんな電文は発信するわけにはいきません」
と拒否するのです。
私は拳銃を突きつけ「発信しなければ撃つ」といいました。
電文を打たなければ本当に撃つつもりだったのです。
あわてて参謀が飛んできて「軍法会議だ」と騒ぎましたが、
私はもし参謀が拳銃を抜いたらこちらも撃つつもりでした。
結局参謀は黙って出て行き、電報は発信されました。
第五航空艦隊といえば宇垣纏司令長官が、
「最後の特攻」を行いました。
基地に帰ると飛行場に艦爆の「彗星」が10機並んでいて、
これから宇垣長官が自ら飛行機に乗って沖縄に特攻する、
というのです。
なぜ長官自らが特攻機に乗るのか理解に苦しみましたが、
その時は「まだ戦争は終わっていないのかな」と思いました。
でも、今から考えるとあれはいけませんよ。
死にたいのなら一人で死ねばよかったんです。
部下を道連れになんて、人間に対して失礼です。
宇垣さんは、ダメですよ。
■アベノミクスは男をあげた
昔もそうですが、日本は今も上がダメですね。
今の政治なんて酷いものです。
民主党なんて、あれ日本の政党だろうか?
って感じでしたからね。
ただ、アベノミクスは男を上げてるみたいですね。
何とか頑張ってほしいと思いますよ。
後、どうしても生きている間に見たいものがあります。
天皇陛下が靖国神社にお参りされる姿です。
77期に陛下のいとこがおられますね。
(久邇宮邦昭王・くにみやくにあきおう)
この方に何とか陛下にお参りを賜れないかお願いしてるんですが、
どうも実力がないということで難しいようなことをおっしゃる。
320万人もの方が国を護るために死んで靖国にいるんです。
なぜ天皇陛下がそれをされないのか、
わたしはもはや棺桶に片足を突っ込んだような人間で、
それを実現するにはもう力がありませんが、
このことが今の一番の心残りですね。
2013年3月16日、靖国神社遊就館における講演を
構成しました。