谷川清澄(たにがわきよすみ)
大正5年 福岡県大牟田市出身
昭和9年4月、海軍兵学校に入校
昭和11年4月、病気療養のため66期生として卒業
重巡「三隅」「筑摩」、戦艦「陸奥」乗り組みを経て
昭和16年駆逐艦「雷」に航海長として着任
同年4月駆逐艦「嵐」に水雷長として着任
海軍大尉に昇進
同年6月ミッドウェイ海戦、
8月ガダルカナルに先遺隊を輸送
昭和18年海軍兵学校教官
昭和20年横須賀航空隊教官で終戦を迎える
同年5月少佐に昇進
戦後は復員輸送に従事後、
海上自衛隊に入隊
昭和48年佐世保地方総監で退職
最終階級は海将
今日はミッドウェー海戦71周年記念企画として、元海将、元海軍少佐、
そして元「雷」航海長である谷川清澄氏のお話を聞いてまいりました。
ミッドウェー海戦のこと、「敵兵を救助せよ!」で有名となった「雷」のこと、
そして戦後のことを二日に亘ってこの講演のお話からまとめてみました。
谷川氏はいまだに矍鑠とした元海軍軍人らしい佇まいの老紳士で、
冒頭画像における若き日の超美青年の面影を残し、
「美しく老いた」
という言葉がまさにぴったりとあてはまる素敵な方です。
インタビューは「女ひとり玉砕の島を行く」の著者である笹幸恵氏によって
対談形式で行われました。
以下、エリス中尉の聞き書きによる構成でお送りします。
■チェリーマークの海兵時代
私のいた66期は200名いましたがそのうち6割が戦死しました。
「軍人半額25年」だと自分でも言ってきたのですが、
どういうわけかその四倍生きています。
今年で95歳になります。
生まれは佐賀でしてね。
佐賀と言うのは「尚武の国」で「軍人に非ずば人に非ず」
みたいな気風があり、また海が好きだったので
兵学校を受験しました。
祖父は私を東大に入れて裁判官にしたかったようです。
その祖父が受験中に亡くなったり、病気をしたりして、
結局兵学校は三回受験することになりました。
兵学校時代に楽しかったこと、ですか?
羊羹食ったことくらいかな(笑)
私が4号生徒のときの1号はあの62期でしてね。
獰猛(ネーモー)クラスだったのでそりゃ殴られました。
入校して日記に「正」の字で殴られた数を数えていたんですが、
夏休みに数えてみたら2千発殴られてました。
馬鹿馬鹿しくなってそれから数えるのをやめたんですが、
一号時代だけで少なくとも5千発は殴られてるでしょうね。
辛いとは思いませんでした。
「日本のために尽くす」と決めていたので。
・・・・・・・・え?
ハンサムだなんて、私、初めて言われましたけど(笑)
もしそうなら、この時期殴られ過ぎて顔面が「修正」されたんでしょうかね。
ここの宮司(徳川泰久氏)のおじさんの徳川 熙(ひかる)は
同級生でした。
(15代将軍・徳川慶喜の九男。
呂101潜水艦先任将校(水雷長)として戦死した)
数学はできなかったですけど、気宇壮大な人物でした。
我々が身の回りのことを考えているときに、
世界のことを考えている、といったような。
この写真(兵学校時代のもの、優等生のマークである
桜の襟章をつけている)チェリーマークですが、まあ
そういうときもあった
ということです。
勿論、そうでないときの方が多かったですよ。
■イケイケドンドンの初陣
昭和16年の12月8日、開戦は「雷」航海長で迎えました。
その時香港沖にいたんですが、皆逸っていてね。
そのときイギリスかアメリカのフネを見つけたので
「あいつをやっつけて戦果第一号だ!」
と追い掛け回しました。
でも、着弾しても沈まないんですよ。
木造の船だったので。
でももう、皆イケイケドンドンになってまして、
目の色変えて追いかけているうちに、
有効弾着距離の4000以内に入り込んでしまった。
はっと気が付いたら敵の三隻の「三角形」のど真ん中に
いて、敵は三発撃ってきました。
慌てて煙幕を張ってのた打ち回りながら逃げ何とか生還しましたが、
今から考えてもよく助かったなと思いますよ。
今日は目の前にもきれいな女性がいらっしゃるので
少し言いにくい話なんですが・・・・。
上海に行って上海陸戦隊の戦闘を経験した先輩と話したとき、
「大砲の音は物凄いぞ。
あれを聞くとタマがどこにいったかわからなくなるんだ」
と言っていたのを思い出して、そのとき探してみたのですが
ありませんでした。
思うんですが、戦争をするときには
必ず生死を超越した、「覚めた」人間が一人いないと危ない。
わたしは自分がそうなりたいと思っていましたが、
このときはそれどころじゃありませんでした。
当時23歳の航海長です。
■敵兵を救助せよ
私は酒は呑みませんが煙草を嗜みます。
一度飲んでみたい煙草がありましてね。
「ウェストミンスター」といって煙が本当に紫なんです。
「香港攻略が終わったら買えるな」
と本当に楽しみにしていたのに、そのまま上陸せずに
ジャワに移動になってしまいました。
ウェストミンスターを味わう機会も煙と消えました。
(このジャワ、スラバヤ沖で、「雷」は撃沈され漂流中の
英海軍の乗員を救助し、そのエピソードは、近年
助けられた乗員が広めたこともあって有名になった)
工藤俊作艦長は180センチ、体重100キロくらいの巨漢でね。
普段は黙っているときの方が多い、落ち着いた人物でした。
しかし、決断が鮮やかでしたね。
いける、と思ったらぱっとやる。
あのときも心配ない、と思ったからあの指令が出せた。
はっきりしておきたいのはあの時敵兵を救助したのは
「雷」だけではなかったんです。
「電」「山嵐」「江風」
皆同じように敵兵を救助しているんです。
向こうも一生懸命戦ったのですから、たとえ敵兵でも
まだ浮いている生存者を救助するのは当たり前のことであって、
特別なことをしたわけではないのです。
すっかり美談のようになってしまっていますが、
当時の日本海軍では普通の行為だったと思います。
(工藤艦長は甲板の敵将兵に向かって
『只今から諸子は帝国海軍の名誉あるゲストである』
と語りかけた)
私はそれを聞いていません。
この間血眼で見張りをしていましたからね。
もし何か見落としていて起こったらハラキリものですよ(笑)
■ミッドウェイ海戦
駆逐艦嵐乗り組み時代、横須賀に停泊していたときです。
見慣れない飛行機が飛んでくるのを見ました。
B−25の編隊が東京に向かっていました。
聯合艦隊は「追いかけろ」と慌てて指令を出したらしいんですが、
それがドゥーリトル隊だったんですね。
この東京空襲を受けて聯合艦隊はミッドウェイ海戦を決意するんですが。
聯合艦隊と機動部隊が呉に集結させられたので我々も行きました。
するとね、制服を着て歩いていると、一般の人が
「海軍さん、今度ミッドウェイでするそうですね。勝ってください」
と声をかけるんですよ。
もうびっくりしてしまいました。
道行く人が知ってるなんて、この作戦大丈夫なのか?
と本当に不安になりましたよ。
(このエピソードは、映画『聯合艦隊』で、芸者が『ミッドウェーミッドウェー』
と言うのを主人公が聞いて愕然とするというシーンに採用されていました)
今にして思うんですが、この頃聯合艦隊は
機動部隊が出て行けば勝っていたので慢心していたんじゃないか。
やるべきこと、情報収集を潜水艦でするとか、
そういうことを全くしないで突入してますからね。
艦隊が北西からミッドウェイに向かった進路を
「13度に取れ」と言うんです。
13とは縁起の悪い数字だな、と思いました。
聯合艦隊の動向は皆偵察されていましたね。
「嵐」のとき、艦長は有賀幸作でした。
カタリナ飛行艇が偵察に来ていたので、
「落とすんでしょうね」と聞いたら「もちろんだよ」
と言うんですが、結局見逃した。
なんか、こういうのも「慢心」の表れかなと。
ミッドウェイでいつ負けると思ったかって?
負けてからですよ(笑)
このとき、私は一介の水雷長でしたが、
「何してるんだ」
と非常に疑問に思ったことがありましたね。
空母というのは甲板に一つでも穴が開けば機能は停止しますから、
航空機で爆弾を落とせばいいのに、
わざわざ爆装を雷装に変えさせたんですよ。
「虚しい」
こんな言葉がよぎりましたな。
馬鹿みたいな攻撃をしているうちにやられてしまった。
本当に上層部が馬鹿に見えました。
なんでこんなことやるんだろうって。
私は平凡な、平均的な人間で決して人より図抜けた眼力を
持っているわけでもなんでもないと思っていますが、
その私ですら「お粗末な作戦」だと思った。
目の前の飛行甲板に一発落とせばいいのに、
あんなに簡単にやられるはずないのに、って。
悔しかったですよ。
有賀艦長は腕利きでしたから。上層部の信頼があってね、
例えば南雲長官なんか「有賀がトンボ釣りしてくれなきゃやだ」
っていつもご指名でした。
トンボ釣りというのは空母にくっついて海に落ちた飛行機を拾う
駆逐艦のことです。
海戦のときには駆逐艦なんて見向きもされませんからね。
この海戦のときは赤城の後ろにトンボ釣りとして待機していた。
甲板の整備員が目の前で爆撃にやられるんですよ。
片手や片足が吹っ飛ぶのがこちらからも見えました。
もう・・・・涙もでませんでしたよ。
「嵐」は小さいフネだから見向きもされません。
だから食事なんか取るんですが、出された握り飯が
全く喉を通らないんです。
悔しくて、かわいそうで。
もう、地獄絵でしたね。
■白い服の人
翌日、赤城を魚雷処分することになりました。
3000メートルの距離から撃つんですが、
涙が出てもう止まりませんでした。
不思議なことに真っ直ぐ進んでいた魚雷が
あと500メートル、と言うところで海面に顔を出しました。
2秒くらい遅れて、また海中に沈んで命中しました。
「魚雷はさようならの挨拶をするために顔を出したんだろうな」
皆で言い合いましたよ。
一発目は命中しましたが沈む様子がない。
よっぽど堅牢にできていたんだなと思いました。
二発目を撃ち込む前に双眼鏡で見ていたら、
艦橋から一人、白い作業服がでてきて
ポカーンという感じでこちらを見ているんです。
昨日乗員の移送作業をしたんですが、
何かの理由で乗れなかったんでしょうか。
2発目を撃ち込んだら赤城は沈みだしました。
以来30年、あの時の白い作業服がしょっちゅう夢に出てきました。
30年経った頃から見なくなりましたが・・・・。
■90歳から話すことにした
私はもう95歳です。
全く、なぜ私だけがこんなに生きているのかわかりません。
亡くなったクラスメートは靖国に祀られていますが、
その壁のあたりから今こちらを見ながら
「谷川の奴、全く話が下手だなあ」
と笑っているかもしれません。
私は戦後、80歳くらいまでは海軍の先輩のことを
かれこれ批判するのは畏れ多いし間違いだと思って
控えていたんです。
でも、そういうことを避けていると、たとえば自衛隊や、
幹部候補生に講話してもあまり感動してもらえない。
90歳になったときにはっきりなんでも言うことにしました。
思ったことを言わなかったら死んでも死にきれませんから。
南雲さんはね、愚将で、悪将だったと思います。
山本さんも・・・悪将は少し言いすぎかな、でも愚将でしたね。
当時の幕僚たちはやるべきことをなにもやらなかったんです。
海戦のイロハというべき「二度索敵」なんかもやらせなかったですから。
本当に参謀は馬鹿揃いとしか言いようがないです。
あんなので勝てるわけがないんです。
お粗末な計画で優秀で立派な搭乗員の命が多く失われた。
全く無駄遣いとしか言いようのない愚挙でしたよ。
アメリカの参謀なんかとはものを考える次元すら違っていた。
例えば、何の意味もなく人事を動かしてしまう。
組織ってのは、特にフネの組織なんてそんなに動かすもんじゃない。
レベルの低い水雷長が来てしまう。
皆が「今だ」って思う瞬間に、行かないんです。
それを見て皆「違う」と思う。
うまく言えないが、空気が悪くなるんです。
士気が落ちるとでも言うんですかな。
もし私が指揮官だったら、ですか?
私が指揮を執ることになったら、いつも日露戦争のときの
加藤参謀や秋山参謀がどうしたか、生きていたらどうされたか、
こんなことを指針にしたでしょうね。
真珠湾攻撃も、もし空母が無いということがわかったら
その時点で引き下がって空母を見るまで待ったかもしれない。
だいたい明らかに空母が避退していなかったんですから、
「戦艦やっつけた!バンザイ」じゃ子供ですよ。
日露戦争からこの戦争の間に何かが「劣化した」としたら、
それは「人心」じゃないかと思います。
軍縮で300人クラスが50人になったりして、
人数の変動が多かったころが指揮官になってますからね。
それと大正デモクラシーなんかも原因じゃないでしょうか。
そういう「変な変化」があると、軍隊は弱くなるような気がします。
負けたことを隠したり、あれもダメですね。
中央と艦隊、さらに艦隊と軍令部の関係が悪かった。
これも勝てなかった原因だと思います。
陸軍と海軍が仲が悪かったこともそうですよ。
名古屋の飛行機工場ですが、道を隔てて
「海軍工廠」「陸軍工廠」が分かれてるんです。
なんで一緒にやらなかったんですかね。
道一本向かいにいるのに技師同士の付き合いすらなかったって。
意見交換なんかも勿論しなかったですよ。
こんなのを見ても勝てるわけなかったって思います。
有賀さん、あと木村晶福さんは名将でしたね。
ピカイチでした。
有賀さんは、いつも水虫の手入れなんてしてるんですよ。
煙草をふかしてばかりでね。
でもいざとなるとぱっと変わりました。
その指示が全てにおいて的確で当を得ていました。
私だけでなく「男に男が惚れる」とでも言うのか、
「この指揮官のためなら死んでもいい」と思っておりましたよ。
大和の艦長などにしてわざわざ死なせるなんて、
本当にもったいなかったとしか言いようがありません。
後半に続きます。
(2013年3月16日、靖国神社遊就館での講演をもとに構成しました)