日向灘沖で行われている海上自衛隊掃海隊訓練。
我々メディア(わたし以外)を乗せた「えのしま」は、沖に投錨している
掃海母艦「うらが」に今接舷を果たしました。
いや、完璧に接舷をすることが、互いをラッタルでつなぐことであれば、
まだそれはこれからの作業です。
入港作業は何度となく見てきましたが、船同士の接舷作業は初めてです。
一体どうなるのか。
「うらが」には掃海隊の水中処分員が多数乗艦しています。
EODと呼ばれる彼らは、掃海母艦からヘリコプターでヘロキャスティングと呼ばれる
海中での機雷処分訓練を行うために、ここに待機しているのです。
おそらく、もう訓練を済ませ、帰艦している EODもいるでしょう。
そんな EODの一人が、舷側に立って接舷作業を眺めていました。
このウェットスーツは風を防いで艦上では快適そうですが、
水に濡れたあとはやはり辛そう。
この下には水着を着用しているのでしょうか。
いよいよ掃海艇に向かってラッタルが降ろされることになりました。
「うらが」と「えのしま」では甲板の高さが違うので、ラッタルは
「うらが」から下に向かって架けられることになります。
双方の作業にあたる隊員が両舷に集まりました。
ラッタルの先端には索が取り付けてあり、両側から索を緩めながら
こちらの舷にかけ、それをこちら側の隊員が固定するようです。
ロープはどうやらラッタルの真ん中、折りたたんでいるところに付けられています。
ロープを下すのは手作業ではありませんが、
後ろの滑車のようなところを作動させているのは人間です。
手前の作業員が手で合図を送りながらラッタルを伸張させていきます。
ラッタルは山に降りた畳まれており、半分は階段でなくストレートです。
向こうからは途中まで真っ直ぐで、それからこちらに向かって階段を降りてくる形です。
わたしは信号機の置き場越しに作業を眺めていました。
ここなら作業の真正面だし、一応旗置き場が緩衝材となって
万が一の時も安心していられるような気がしたのです。
ラッタルの「山」がこちらに届いたら、赤いヘルメットの二人がそれを確保し、
こちら側に設置するという構え。
しかし作業は遅々としてはかどりません。
一つ上の写真とこれを比べていただければわかるとおもいますが、
この日の波のうねりのせいで、お互いの舷が2m、ひどいときには3mくらい
揺れてなかなかラッタルを捕まえることができないのです。
こちらの揺れが一番高くなったときでないと、ラッタルに手が届きません。
動揺により互いの舷がちょうどいい高さになる瞬間を待って
波を見送るだけの、もどかしい時間が過ぎていきます。
そのうちなんとかラッタルを捕まえることができました。
向こう側の作業員がラッタルに登り、固定作業に入ります。
その後手すりを立ててロープを張るのでしょう。
・・・・・と、そのときです。
ひときわ強い縦揺れが「えのしま」を襲い、舷側からラッタルの端が外れました。
がたーん!とすごい音がしたかと思ったら、ラッタルの端は大きく跳ね、
わたしが寄りかかるようにして立っていた信号旗の収納ラックにぶち当たったのです。
途端にその辺にいた乗組員が、
「ここは危ないから下がってください!」
と血相変えてこちらに向かって怒鳴り、真っ青になったわたしは・・・・
ここまで退避(笑)
作業は最初からやり直しです。
しかしわたしはこの辺りから思い始めました。
こんなに強いうねりの中、2隻の船を、ラッタルだけで接舷できるのか?
それに万が一、ラッタルを渡るときに今のような波が来たら?と・・。
さらに思いっきり後ろに下がってみました(笑)
実は「うらが」に異動が決まったとき、わたしたちは
「荷物は皆持って行ってください。こちらに荷物は残さないでください」
と言われていました。
「うらが」でお昼ご飯(わたしたちのカレーが用意してあるという噂あり)
を食べ、さらにはヘリの着艦と離艦を見学するという予定のあと、
もう一度「えのしま」に戻って帰港することになっていたためではないかと思います。
しかし、ラッタルが暴れてもう一度やりなおし、ということになったとき、
息を飲んで作業を見守っているメディアの皆さんに対し、
「向こうに移るときには大きな荷物は持たないでください。
三脚などは皆置いて行ってください!」
と注意勧告がなされ、たちまち甲板には報道陣の荷物が山積みされました。
「ハシゴを渡るときには両手を開けるようにしてください!」
うーん、なんかすごい大事みたいになってきてるんですけど。
まるで飛行機が不時着水したみたいな・・・って縁起でもない!
(時間の経過を表す捨てゴマ)
それからしばらく、乗員たちは奮闘していましたが、ラッタルをかけることはできません。
皆がどうなることかと息を飲んで見守っていると、「うらが」の甲板上に突如、
掃海隊群司令が姿を現しました。
(BGM:「亡国のイージス」より”A Nation's Pride )
掃海隊群司令は海将補をもってこれにあたる、つまり掃海隊の一番”偉い人”です。
司令自ら、この接舷は不可能であることを判断し、中止を決め、
そしてこうやって自ら説明とお詫びをメガホンで行うことにされたようです。
呆然とそれを聞く「えのしま」甲板の人々。
ちなみにこちらにいる制服は広報の隊員で、メディアツァーのエスコートのために
わざわざどこかからか出張してきて、この日乗り込んできたようでした。
司令に状況報告している第41掃海隊司令。
説明が終わった後、海を挟んであちらとこちらで、知り合い同士が挨拶を交わします。
実は今回、わたしがこの訓練を見学させていただくことになったのも、
この掃海隊司令に話を通していただいたという事情がございました。
当然お目にかかるのは初めてで、本来ならば向こうに移乗してからあらためて
ご挨拶させていただくつもりをしていたのですが、それも叶わず、
こちらから声をかけて海越しにお礼を申し上げることになってしまいました。
しかしこれは賢明な判断だったというべきでしょう。
さっきの写真とこの写真を比べても、いかに動揺が激しかったかお分かりだと思います。
こんな状態で、万が一、一般人に何かあったら・・・・・。
まあ、もし海に落ちるようなことがあったとしても、即座にEOD一個連隊が飛び込んで
寄ってたかって助けてくれそうですが。
近くにいた乗組員に、
「(移乗が)中止になったのはわたしたちが一般人だからですか」
と尋ねてみると、
「はい、自衛官だけなら、どんな方法であってもなんとか行きます」
とのことでした。
どうしても必要なら、ボートで後部ハッチから上がるという方法をとったりするようです。
人員移乗用のクレーンという手もあるそうですが、さすがの自衛官も、
こちらはあまりいい気持ちがしないのではと思われます。
司令が去った後は、こちらが「出向用意」を行う番です。
向こうのクレーンを作業している人、何をしているのだろう。
サングラスの水中作業員たちがかっこよす。
こういう人たちのサバイバルでチャレンジングなお話も聞けたかもしれないのに(T_T)
出航はまたもやあっと言う間でした。
艦首同士を繋いでいたもやいも、あっというまに外され、「うらが」の舷側が遠ざかります。
ミカさんが知り合いの水中処分員さんたちに手を振って、彼らも・・、
「どうもっすー」
そのとき、遠ざかる(っていうか、こっちが離れて行っているんですが)
「うらが」の総員が「帽振れ」している姿が見えました。
(BGM:「亡国のイージス」より「The Courage To Survive」
艦橋の艦長(一番右)始め操舵室の皆さん方も。
下されることのなかったラッタルの横で、接舷作業に奮闘してくれた乗員も。
ヘルメットの下に布のキャップをかぶる人がいるんですね。
しかしこんなに早く「うらが」に「帽触れ」で送られることになろうとは、
夢にも思っていませんでした。
移乗が中止になって、カレーが食べられなかったこと、
「うらが」の内部やヘリ離着艦が見られなかったこと、そして
群司令にちゃんとご挨拶ができなかったことはとても残念でした。
しかし、それより何より、このとき「うらが」に移乗することができていたら、
安定性のある大きな掃海母艦、しかも投錨中であることで、おそらく
このあと見舞われることになった船酔いとは、無縁でいられたはずだったのです。
・・・・が、それはまたこのあとのお話になります。
赤ヘルの軍団を乗せて「うらが」から遠ざかる「えのしま」。
これから、わたしたちはどうやって過ごすのでしょうか。
そして、肝心のお昼ご飯は一体どうなるの?
「今ちょっと考えます」
と隊司令。
隊司令の危機管理能力並びに応用力が問われる瞬間?
護衛艦畑から掃群司令に配置されてやってくる自衛官は、一様に、
まず洋上で揺れて振れ回る錨泊した母艦に掃海艇が横づける、
今日のような作業を見て、びっくりするのだそうです。
つまり今日わたしが体験した、掃海隊がいかに特殊な現場であるかということを
象徴する作業というのも、掃海屋にとっては「よくあること」であったということです。
宮崎から戻り、訓練見学参加の労をお取りくださった”偉い人”に
後日、この日の報告とともに移乗できなかったという話をしたところ、
「それは大変すみませんでした」
と全くその方には責任もないのに謝られてしまいました。
しかしわたしは、これは、最も掃海隊の掃海隊らしい一面を目の当たりにできた、
望んでも得られない貴重な体験であったと今にして考えています。
続く。