山崎豊子著「二つの祖国」をお読みになったことがあるでしょうか。
今のNHKからは信じられませんが、この、日系二世として生まれた主人公が
二つの祖国の狭間で翻弄されたあの戦争について、東京裁判の不条理とともに描いた
この小説は「山河燃ゆ」というタイトルで大河ドラマになったことがあったのです。
原作の「二つの祖国」は、何人かの二世たちの経験を元に書かれたものですが、
中心となるモデルは二人いて、ハリー・フクハラはその一人です。
以前日系アメリカ人博物館についてエントリを上げた時にも掲載した写真。
「いかにも切れ者そうな二世」
と書いたその時は知らなかったのですが、このメガネの人物がフクハラだったのです。
フクハラは1920年ワシントン州シアトルに生まれました。
日本名は福原克治といい、「カツジ」とする記述と「カツハル」とする文献があります。
フクハラの両親は広島出身で、アメリカで職業紹介所を経営していましたが、
その父が亡くなって、英語の苦手だった母の希望で一時日本に帰っていました。
日本での生活に馴染めなかったフクハラは、18歳で学校を終えると単身アメリカに帰り、
白人夫婦の家庭に居候しながら、皿洗いやボーイをして学費を捻出し、大学に通いました。
アメリカに来て3年目に日米戦争が起こります。
大統領命令による軍事施設近くからの日系人の追放令が出され、
フクハラはヒラリバー収容所に収容されることになりました。
わたしはこのエントリのためにもう一度、昔読んだことのある「二つの祖国」を、
Kindleで読んでみたのですが、当時のわたしの興味が東京裁判に集中していたせいか()
前半の日系人収容所での悲惨な生活の描写に、全くおぼえがありませんでした。
読み直してあらためて、そこでの生活の辛さは、たとえ写真を見ても公的な資料を見ても、
伝わるものはごくごくわずかであるということがわかったのです。
日系人青年たちが軍に志願した動機の動機の少なくない部分が、
「収容所から外に出たい」
でもあったことは間違いないことに思われました。
1942年11月、軍の通訳募集に応募し合格したのち、ミネソタのサベージにある
MISで情報部の基礎を学んだフクハラは、日本での学歴が長かったこともあって
優秀な成績をおさめ、 6 カ月間のMISLSでの訓練の予定を省略して、
いきなりフィリピン、 ニューギニア、南太平洋にただ一人の二世として投入されました。
最初は同僚の兵士たちから「なぜジャップがいるんだ」と疎まれたそうですが、
戦況が進むにつれ、日本軍から奪取した機密書類の翻訳や日本人捕虜の尋問に成功し、
それが戦況に功を奏するようになってくると、日本人語学兵の必要性とともに、
次第に同僚達からの理解を得ることができるようになったのでした。
そののち投入されるようになった日系兵士たちは、仲間からの誤った攻撃を避けるために、
つねに白人兵士のボディーガードに保護されて移動していました。
戦地での日系兵士の任務は、押収した日本軍の書類、日記、地図などの翻訳、
密林内での日本兵の会話の盗聴、日本軍の通信の傍受などでした。
フクハラに限ったことではありませんが、日系二世たちにとって戦地で、
日本人と「再会」することは一種の恐怖でもありました。
ある二世は密林の中で旧友に銃を向けなくてすむようにと毎晩祈ったと語りました。
一方で、二世は捕虜と なった日本人から激しい憎悪を向けられることが多々あり、
「非国民」と呼ばれることもあったそうです。
そんなとき、昂然と「自分はアメリカ人である」と撥ね付けるのですが、
ほどんどの者が内心は複雑な思いに苛まれることになりました。
たしかに戦場で直接撃ち合うことは少なかったかもしれませんが、
諜報活動によって米軍が戦果をあげれば、それは間接的に日本人を殺したということです。
欧州戦線に投入された442部隊は、対日戦線に送られたMISの二世たちより、
このようなジレンマを感じなかっただけ幸福だったといえましょう。
日本兵が捕虜になることを潔しとせず自決しようとするので、
それを説得するのも日系兵士たちの重要な役目でした。
「戦陣訓」などが、あまねくその行動原理に染み渡った兵士たちは、
生きて捕虜になったことが日本側にわかると、戦死よりずっと恐ろしいことが起こる
という強迫観念もあって、皆が死のうとしました。
ある二世兵は戦後、
「日本兵はジュネーブ協定の知識がないから」
と言ったそうですが、それより以前に、日本軍ではその精神論から、
捕虜になるなら死ぬべきだと骨の髄まで刷り込まれていたことを
もしかしたらよく知らなかったのではないかと思われる発言です。
フクハラにも、ニューギニアの捕虜収容所で、同郷の知り合いが軍曹として
収監されているのに遭遇したことがあり、彼が自決しようと懊悩するのを
必死になって押しとどめたという話が残されています。
わたしは終戦直前になって陸士を卒業し、「ポツダム少尉」になった方から、
「捕虜になって帰ってきた人は、戦後もそれを世間にひた隠しにしていた。
何かのきっかけでその話になると、本当に申し訳なさそうな苦悩の様子を見せた」
という話を聞いたことがあります。
このことは、戦争が終わって戦前とは価値観が逆転し、かつての軍人を
誰でも彼でも戦争に行ったという理由だけで「戦犯」と罵る風潮と、
「生きて虜囚の辱めを受けた」者を詰る風潮がどちらも空気としてあり、
戦争に負けた怨嗟と鬱屈とした恨みをを誰彼構わずぶつけ合うような空気が
敗戦後の日本にはあったという不幸を物語っています。
「捕虜第1号」、真珠湾特殊潜航艇の酒巻和男少尉が捕虜収監中に残した写真は、
頰の彼方此方にあばたのような跡が生々しく残っています。
「アメリカ兵に拷問された跡」
などと伝播する媒体もありますが、実はこれは、酒巻少尉自身が煙草を押し付けた跡で、
写真が日本に伝わったときに、せめて自分だとわからなくするためにしたと言われます。
日本側は真珠湾攻撃の一人が捕虜になったことを早々に感知し、
酒巻少尉をいなかったことにして、戦死した潜行艇の他の乗組員を
「真珠湾の九軍神」
として世間にアピール真っ最中でしたから、その懸念は杞憂に過ぎなかったのですが。
さて、フクハラの話に戻りましょう。
彼はフィリピンにいるとき、故郷広島に原子爆弾が落とされたことを知ります。
アメリカ移民には広島出身者が大変多かったというのは有名な話ですが、
原爆投下という「大量虐殺」が祖国の手で行われたことで、
広島出身の二世たちは「二つの祖国」の相克の狭間で激しく懊悩することになるのです。
小説「二つの祖国」主人公の天羽がMISを志願するとき、審問官に
「あなたは戦地で日本にいる弟と会ったときに彼を撃ち殺すことができますか」
と聞かれ、なんという残酷なことを聞くのかと愕然とするシーンがあります。
日本と戦争に突入したアメリカは、日系人を隔離するという政策をとりつつ同時に
国際社会からの非難をかわすため、その日系人たちに、アメリカに忠誠を誓い、
日本に銃を向けるならば市民として認める、という踏み絵を踏ませたのです。
「今わたしはアメリカに裏切られたというショックを感じている。
この軍キャンプで毎日捕虜として星条旗を見上げる気持ちはわかってはもらえないだろう。
忠誠を疑われたり、試されたりすることなく、一つの旗、一つの国家に
忠誠をつくすことができたらどんなに幸せかと思う」
という天羽の言葉に、審問官たちはしんと静まり返った、とされています。
南方でフクハラは、自分の部隊が九州への上陸に投入されることを聞き、
知人、特に広島に残した兄弟たちと戦うことになるのではないかと怯えました。
実際、日本の降伏がなければ、彼は実弟のいた小倉の部隊と戦うことになっていました。
戦地で広島原爆の報を知ったフクハラは、
「なぜ広島なのか?
自分がアメリカ軍に志願したからこんなことになったのではないか?」
と悔やんだといいます。
そして終戦。
師団長の通訳として来日し神戸にいたフクハラは、家族の安否確認に広島入りし、
母と弟二人が無事であることを知りましたが、広島の陸軍にいた兄は至近距離で被爆し、
手当の甲斐もなく半年後に死亡しました。
彼は戦争が終わったらアメリカの大学に戻るつもりでしたが、
広島の家族を自分が養うことを決心し、軍籍にとどまります。
占領政策期間以降も日本駐在の職に就いて日本の官公庁・警察などと
米軍間の連絡係として働きつつ、敗戦後の日本復興に尽力しました。
1971年に八重山諸島軍政長官を51歳で退官しましたが、軍籍には91年まであり、
ブロンズスターメダルや、レジオン・オブ・メリットなどの勲章を授与され、引退後も
連邦政府から民間サービスに携わった功績を讃えられて叙勲されています。
最終階級は大佐でした。
フクハラの日本滞在期間は合計で48年にも登りました。
晩年はカリフォルニア州サンノゼで過ごし、
2015年の4月にハワイ州のホノルルで96歳の生涯を閉じています。
さて、「二つの祖国」主人公天羽賢治は、戦争が起こるまで
「加州新聞」の記者をしていたという設定でした。
もう一人の天羽のモデル、デイビッド・アキラ・イタミ、伊丹明の経歴がまさにその通りで、
さらに天羽賢治と同じ、鹿児島県加治木町の出身でした。
加治木町には、「二つの祖国」伊丹明の出身地、という立て札と、
いわゆる東京裁判、極東国際軍事裁判において通訳モニターを務めた伊丹の、
イヤフォンをつけた横顔のブロンズ板がいまでもあります。
伊丹は1950年、39歳の若さで、ピストル自殺を遂げました。
その理由について遺書など明らかにするようなものは残していません。
後世はその自殺と、彼が東京裁判を目撃したことをただ漠然と結びつけるのみです。
イタミは戦時中、(1943年)日本へ寄贈される2隻の独潜水艦のうちの1隻、
U-511の通信を解読しています。
軍事代表委員の野村直邦中将が便乗していて薩摩方言で通信を行ったため、
米海軍情報局が全く聞き取れなかったこの通信を彼が解読できたのでした。
外務省と駐独日本大使館の間で帰朝のスケジュールの打合せをするのに
米軍に盗聴されるのを覚悟の上で国際電話を使用したのですが、その際
鹿児島出身の外交官同士で会話をさせたというものです。
盗聴した米軍にはそもそも日本語かどうかすら判別ができなかったそうです。
米軍自身が暗号にインディアンのナバホ族同士の会話を使用していたので、
アジアの諸言語まで検証しました。
2ヶ月後、米陸軍情報部に勤める鹿児島出身の日系人が「翻訳」できた、
というのが「艦これ攻略」にも載っているのですが(笑)
これがデイビッド・イタミだったのです。
ちなみにこの方法による最初の通信は、野村中将が出発する1週間前のことで、
東京からの「モ タタケナー」(もう発ったかな)という問い合わせに対し
ドイツからは「モ イッキタツモス」(もうすぐ発ちます)と答えたとか。
このU-511は日本で「呂号第五百潜水艇」として警備艦となりました。
輸送されるとき、まだそれはドイツ海軍籍であったので、艦長はドイツ人であり、
しかもこの航行中に民間船2隻、リバティ船2隻を撃沈しています。
二世といってもその数だけ祖国に対する考え方もあるので、
例えば登場人物のチャーリー田宮(NHK大河では沢田研二が演じた)のように、
日本人の部分を自分から取り去ってしまいたい、
アメリカ人としてのみ生きていきたいと願い、日本を蔑む人間だっていたわけです。
二世の日本人に対する態度は、しばしば差別的で専横であったといわれます。
軍政府内の住民用尋問室では、日系人通訳による暴力的な尋問が行われることがあり、
また、沖縄戦と進駐軍MISLSの日系2世米兵のなかには、
「米軍が今もっとも必要とする人間」
として認められた現実に満足して日本人を見下す者もいました。
当時の日本政府機関や民間の団体がなにかの許可申請や陳情を行うのには、
まずこの窓口の二世の担当官に媚を売る必要があったため、その置かれた地位に
特権階級のように傲慢に振舞う二世も決して少なくなかったのです。
「二つの祖国」の天羽賢治は、東京裁判に関わりながら、
それが報復のためのものであることに対する不満を漏らし、また、
戦犯の遺骨を細かく砕き、誰のものかわからなくして共同骨捨て場に捨てることを
「あまりにも非情で人道に悖る」
と述べたことから、CIC当局に目をつけられ「反米思想」を糾弾されます。
ラストシーンで、絶望した彼は東京裁判の行われた法廷に忍び込み、
自分がかつて仕事を務めたガラスのブースに座ってこんなことを考えます。
ここでイヤホーンを通じて流れてくる日英両後を一語一語、
神経を研ぎ澄まして聞き取り、チェックしたのだ。
二年半、その一字一句が被告の生命に関わるという思いで、
公正なモニターに心血を注いだ。
だが、そこで願い、期待した法の尊厳は、ついに得られなかった。
一体、日米開戦の日から、今日までの自分の苦悩と戦いは何であったのだろうか。
日本語の死刑宣告を、賢治は、二人の被告に告げねばならなかった。
国際法を遵守せず、裁いたものの手は汚れていたが、
それを日本語で被告に言い渡したモニター自身も、
否応なく、手を汚してしまったように思える。
賢治にとっては、ガラス張りのこのブースが、
自分の死を永遠に封じ込める棺のように思えた。
銃口をこめかみに当てた。銃は冷たく重い。手が震えた。
重さのためではなく、引金を引くことへの恐怖と躊躇いであった。
父さん、母さん、
僕は勇や忠のように自分自身の国を見つけることが出来ませんでした。
お別れを申し上げに行かねばなりませんが、もう一歩も歩けない・・・・。
最後の瞬間が本当にこのようなもので、こういう心情が彼に自殺を選ばせたのかは、
本人が語ることもなく死んでしまった今となっては、永久にわかりません。
しかし、もし彼の「二つの祖国」が戦火を交えることさえなければ
デイビッド・イタミこと伊丹明は自死せずに済んだということだけは確かです。