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女流パイロット列伝~西崎キク「雲のじゅうたん」

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昨日女性軍人の権利拡大についてお話ししたばかりですが、
今日もまた女性の社会進出もの?として女流パイロットを取り上げます。 


最近のNHK連続テレビ小説は、ある特定の職業を志す女性の生き方や
その頑張る姿がテーマとなっていて、これまでの主人公の職業となったのは

美容家、弁護士、医師、和菓子職人、棋士、落語家、パン屋、
脚本家、ダンサー、編集者、教師、アイドル、蕎麦屋。

放映が始まってしばらくは「女の一代記」がテーマとなっており、
一人の女優が子役から交代して以降老婆になるまでを演じる、
という形態になっていましたが、このような「職業女性」を主人公とする形態の
嚆矢となったのが、女流飛行家がヒロインとなった、
「雲のじゅうたん」(1976年放映)だったといいます。


「雲のじゅうたん」は、飛行機黎明期の女性飛行家何人かがモデルですが、
その一人が、本日ご紹介する

西崎キク(旧姓松本キク)でした。



今まで何人もの、主に日米の女性パイロットについてお話ししましたが、
飛行機が発明されたのとほとんど同時に

「男もすなる飛行というものを女もしてみたいと」

思い、空を志す女性が表れた「女性の人権先進国」アメリカにおいてさえ、
例えば「おてんば令嬢」ブランシュ・スコットは、
傍目には堂々と航空界で名を挙げながら、
実は航空界の女性に対する扱いに絶望したというのが理由で引退しています。

1930年代の日本では、女性が自分のやりたいことを叶えることすら
ままならなかったのですから、ましてや飛行機で空を飛ぶというのは
さぞ困難なことであったでしょう。

逆に言えば、そんな時代に自分の夢を叶えることが出来た女性は、
それだけで賞賛されるにふさわしいと言えるかもしれません。


本日主人公の西崎キクも、「飛びたい」という空への憧れをそれで終わらせず、
実際に形にするだけの強さを持っていましたが、その「強さ」
はただ彼女が自分のやりたいことをやりきった、という結果だけに留まっていません。

飛ぶことを止めたその後の人生は、順風満帆どころか、むしろ
逆風の吹き荒れる苦境であったにもかかわらず、彼女は過去の栄光にこだわることも、
ましてや自棄になることもなく、それらを持ち前の明るさで乗り切りました。

戦後、人々がかつての偉業をテレビドラマで改めて知るようになるまでは
社会貢献につくす市井の人として、ひっそりと生きていた彼女ですが、
ある日突然、まるで雲の彼方に飛び去るようにあっさりと逝ったのでした。


彼女は航空功労者としてハーモントロフィーを受けた唯一の日本女性です。



松本キクは、1912年(大正元年)、埼玉県に生まれました。

地元の埼玉女子師範学校を卒業後、尋常小学校で2年生を担任していました。
ある日子供たちを連れて出た課外授業の帰り道、尾島飛行場に立ち寄ったところ、
ちょうどそこでは新型飛行機のテスト飛行が行われていました。

それが彼女の人生を変えた瞬間でした。
飛行機に魅せられた彼女は、空を飛びたいと熱望するようになります。


新聞広告で見つけた「飛行機講義録」を取り寄せて独学で勉強しながら、
彼女は毎日のように尾島飛行場通いを続けたようです。
そのうち、顔なじみになったテストパイロットの一人が、
彼女を東京立川飛行場で行われた新型飛行機のテスト飛行に誘ってくれました。
そこで彼女は生まれて初めて飛行機に乗ることが出来たのです。

風を切り、雲に向かって自分をどこまでも運ぶ飛行機。
遥かに見下ろす下界は、もし自分が鳥であったらこう見えるであろうと
今まで想像していた世界より遥かに広大で、
天の高みにすら手が届くかに思われたでしょう。



その日以来自分の人生を飛ぶことに賭ける決心をしたキクは、昭和6年、
両親の猛反対を押し切って、東京深川の第一飛行学校へ入学しました。

教師の仕事は、その入学のための費用を稼ぐための手段として、
ぎりぎりまで続けていたようです。

当時の日本もまた航空という新たな世界が開けてのち、
雨後の筍のようにあちらこちらに飛行士を養成する学校が出来つつありました。
やはり黎明期の飛行家であった小栗常太郎が洲崎に作った小栗飛行学校をを経て、
昭和7年、キクは愛知県新舞子にある安藤飛行機研究所の練習生になります。


安藤飛行機研究所は、大正末期に安藤孝三によって作られたもので、
航空局海軍委託練習生の課程を終えた水上機操縦士たちが入所し、
定期航空の経験を積む場ともなっていました。
キクは1933年(昭和8年)、第一飛行学校で二等飛行操縦士試験に合格し、
日本初の女性水上飛行機操縦士の資格を取ったため、ここに入所できたのです。




安藤飛行機研究所で他の男性パイロットと一緒に写した彼女の写真を見ると、
前列の男たちはいずれも当時流行の長髪に飛行服の腕を組んで、
いずれもカメラのレンズから目を逸らす当時の「イケてるポーズ」が、
いかにも気負いとプライドに満ち、彼らなりの挟持のようなものを感じさせます。

後列に並んでいるのは見た目の年齢や服装などから「若輩」でしょう。
キクはその中でも一番端に、まるで女学生のようなお下げ髪でかしこまっており、
まるでちょっと遊びに来たパイロットの姉妹のような雰囲気ですが、
実は後年、この中で最も名前が人に知られるようになったのは彼女でした。


研究所在所中に、彼女は飛行免許を取り「郷土訪問旅行」を果たします。


当時の日本の航空界での女性に対する扱いは男性飛行士のそれとは違い、
一等から三等まである操縦免許で、女性が取れるのは二等まで。
商業操縦士の資格を得るための一等操縦士免許は、
女性には受験資格すらありませんでした。

しかし、やはり物珍しさで人々が耳目を集める女性のパイロットには、
飛行そのものがニュースとなるようなイベントが結構な頻度で用意されたようです。

つまり女性だから注目され、話題になる、それゆえチャンスも訪れる、
という「女性ならではのメリット」も確かにあったのです。



さて、その郷土訪問旅行では、彼女は一三式水上機に乗って
新舞子の研究所を出発、根岸飛行場(静岡)、羽田水上飛行場で給油。
その後出迎えの群衆数万人余の群衆の上を三度旋回し、鮮やかな着水を決めました。

新舞子から郷里の埼玉県本庄市の利根川までは7時間の飛行です。

その後、式典や歓迎会で人々に熱狂的な賛辞を受け、
かつての教え子である子供たちから賞状による激励の言葉を受けて感激したキクは、
三日後、今一度離水して、今度は母校の女子師範がある浦和市、川口、所沢を飛び、
そのとき上空からこのようなビラを三万枚散布しました。


”ふるさとの川は野は麗しく ふるさとの山はこよなく美しい

只感激!!只感謝!!    二等飛行士 松本きく子”


きく子というのはキクの通称です。
当時はカタカナよりひらかな、そして子がついている方が「今風」だったので、
どうもこれは彼女が「芸名」として自分でそう名乗っていた名前のようです。

「女性飛行士第一号」

として華々しい場に出ることの多くなったキクをさらに有名にし、
その名が世界的にも知られたきっかけは、あるパーティからやってきました。

当時愛知県の知事であった遠藤柳作が満州国国務長官に赴任することになり、
その送別会の式場に招待されていたキクは、遠藤からの直々の誘いを受け、
満州まで飛行機で飛ぶことをその場で依頼されたのです。
そして、本格的に

満州国祝賀親善旅行

へのプロジェクトが動き出しました。

これまで水上機に乗っていたキクですが、渡満には陸上飛行機の免許が必要です。
水上機では機体が重く速度も出ないので(羽田から埼玉まで7時間もかかっている)
とてもではありませんが日本海を越えることは出来ません。

そのため彼女は早速亜細亜航空学校に入学し、機種変更のための訓練に入りました。
彼女が乗ることになったサルムソン2A2型への機種転換教育です。
このサルムソンは「白菊号」と名付けられました。

その傍らキクは積極的に後援会や映画会に参加し全国を回るようにもなります。
その目的は、この大飛行にかかる資金調達で、また

「日満親善、皇軍慰問」

の目標のもとに満州に運ぶ慰問品をひろく募集するためでもありました。

そしてさらにもう一つ。
彼女はこのとき飛行機の訓練だけでなく、拳銃射撃訓練を受けています。

当時の満州国は治安が悪く匪賊が跳梁跋扈していました。
万が一途中航路で飛行機が不時着して襲われたとき、相手を撃ち、
最後に自分の誇りを守り通すための拳銃でした。

彼女は海外に飛行機で渡航した最初の女性ともなりましたが、
当時女性が一人で日本を出て満州まで飛ぶことは、
それくらい覚悟のいることでもあったのです。



残された写真を見ると、キクは小柄で目のぱっちりとした可愛らしい女性です。
若い奇麗な女性が飛行家として持て囃されるということになると、
そこにはマスコミの興味や関心が必要以上に寄せられたでしょう。

以前ここで書いたことのあるパク・キョンヒョン(朴敬元)は、
銀座を真っ赤なドレスで闊歩し、衆目を集めるような華やかで派手なタイプで、
大物政治家のパトロンがいる(勿論日本人の)などという噂もありましたが、
少なくともキクには、そのような浮いた話のようなものはなかったようです。

しかし彼女にはこの頃、密かに思いを寄せている男性がいたようです。
それは彼女の飛行学校の教官で、彼はキクの飛行学校でのあだ名である
「めり」という愛称で彼女を呼んでいました。

「めり、絶対に無理はするなよ。
これは記録飛行でもレースでもないのだから。
満州から持って帰る土産は、めりの命だけでいい」

それが訪満飛行に望むキクへの教官からのはなむけの言葉でした。
教官は渡満飛行の国内給油の際、大阪で彼女と会い勇気づけたそうです。



昭和9年10月、新調した飛行服に身を包み、羽田を飛び立った彼女は、
大刀洗陸軍飛行場までまず飛び、その後玄界灘を超えて蔚山(韓国)に到着、
そのあと京城に向かいますが、中央山脈を越えるときに強い向かい風を受け、
燃料がどんどん消費されていくようになりました。

最後の手段として補助燃料タンクに切り替えたものの、排気管から火を噴いたため、
深夜で真っ暗であったのにもかかわらず彼女は大胆にも不時着を試みます。

機体は土手に不時着し彼女は無事でしたが、翌朝見ると、
後3メートル着陸が遅かったら、川に墜落していたことがわかりました。

彼女が飛来して来たとき、京城駅の手前の駅の駅員が飛行機を見つけ、
その後エンジン音と排気焔をたよりに追跡して捜索してくれたため、
彼女はすぐに救出され、飛行機も分解して京城まで運ばれたのです。

(ちなみにこの駅員は、当時”日本人”でもあった朝鮮人でした)


その後満州国の奉天まで、出発してから14日で2440キロメートルの飛行に成功。 
この訪満飛行の功績に対し、パリの国際航空連盟よりハーモントロフィー賞が授与されました。


ハーモン・トロフィーは、その年航空界に功績のあった飛行家に送られる賞で、
アメリア・イアハートは勿論、今までお話しした中では、
ジャクリーン・コクラン、ルイーズ・セイデン、 エイミー・ジョンソン、
そしてマリーズ・イルスなどが受賞しています。

冒頭にも言いましたが、1926年から2006年までの80年にわたる
ハーモントロフィーの歴史で、日本女性の受賞は松本キクひとりです。

ちなみに彼女の受賞順位は31番ですが、
30番はあの、チャールズ・リンドバーグでした。



二年後の昭和12年、キクは樺太のある市の市制祝賀記念飛行に飛び立ちましたが、
このとき彼女は九死に一生を得る経験をしています。

彼女の「第二白菊号」が津軽海峡間でさしかかったところ濃霧と暴風雨に見舞われ、
さらに霧のため気化器が凍結してしまったのでした。
キクが不時着水を覚悟したとき、海面に丁度貨物船「稲荷丸」が航行するのが見えました。


「第二白菊号」を貨物船の至近距離に着水させる前、彼女は船員に向かって

「いま降りますからお願いします」

と叫んでいます。
さすが大和撫子、冷静沈着な上、実に礼儀正しいですね(笑)

もともと水上機の出身であったことがこのとき役立ったと言えるかもしれません。



その年、昭和12年7月というのは、ある意味象徴的な出来事が起こっています。
7月2日には、女性飛行家アメリア・イアハートが飛行中行方不明になり、
そしてその5日後、盧溝橋事件が起こり、満州に火の手があがりました。
29日には通州事件によって日本人居留民が惨殺されたのをきっかけに、
30日にはついに日本軍が天津を攻撃するに至っています。

最も有名な女流飛行家の死、そして戦争・・・・。


キクは陸軍省に従軍志願書を提出しました。

「第一線の戦傷病兵を後方に空輸する操縦士として従軍させてください」

しかし、その申し出は却下されました。

アメリカ軍における女子飛行隊の扱いにも全く同じことが言えましたが、
もし女性が輸送任務の途中で撃墜されまた捕虜になるようなことになったら、
その非難は必ずそれをさせた軍に向かうことになります。

さらに日本では、

「女まで戦争に駆り出すようなことになったと敵に言われては
この上ない軍に取っての恥辱となる」

という理由がそれに加わりました。
まさに「婦女子の出る幕ではない」といったところです。

その年には女性が飛行機を操縦することも禁じられ、キクの飛行家人生は終わりました。


彼女はその後、満州はハルピンの開拓団に新婚の夫とともに入植しました。
そこで国民学校の教師などしていましたが、匪賊の来襲、ホームシック、
そして極寒の地での夫と息子を病気で失う、などといった苦難の日々を過ごします。

満州で再婚し西崎姓となりましたがすぐに新婚の夫は招集され、行方不明になってしまいました。

絶望のうちに終戦を迎えたキクでしたが、戦後しばらくして、
なんと夫は生きていたということがわかりました。
彼女は夫の復員を待って、戦後の生活に乗り出します。

その後、教育指導員として地域に貢献し、航空界においては
日本婦人協会の理事としても活躍していたキクでしたが、
昭和51年に放映された「雲のじゅうたん」のモデルの一人になったことで
航空界のみならず一般社会でも一躍注目されることになったのです。


世間の関心と賞賛のまだ消えやらぬ昭和54年、彼女は脳溢血で倒れ、
そのまま帰らぬ人となりました。

享年66歳。

”生まれ変わっても、わたしは
またこの道を歩むであろうという道を、今日も歩み続けたい”


彼女が生前残した言葉です。
 







 


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