冷戦期に建造され、アメリカ海軍初の艦対地ミサイル「レギュラス」を
を搭載していた、潜水艦「グラウラー」について、イントレピッド博物館で
見学した関係からずっとお話ししてきたのですが、すこし寄り道です。
この「Growler」、日本語表記では「グロウラー」となっていますが、実際の発音に忠実に
ここでは「グラウラー」で通しています。
先日このグラウラーを航空機の「うろうろする人」のプラウラーと韻を踏んで?
「ガミガミ言う人」ではないかと仮定してみたのですが、どうやら魚の
「オオクチバス」の通名であるらしいことが各種調べにより判明しました。
そういえばガトー級の潜水艦というのはガトー(トラザメ)がそうであるように、
例外なく魚類の名前を付けられていたんでしたっけね。
というわけで、「グラウラー」という名前の米艦艇は全部で4隻存在します。
今日お話ししたい3代目の潜水艦「グラウラー」は、1942年に就役して日米戦争に従事しました。
「グラウラー」は1941年2月に発注され、11月には進水式を行い、
翌年3月に艤装艦長であったウォルター・ギルモア少佐の指揮下、就役しました。
すでにヨーロッパでは戦争が始まっていたため、発注から就役までの時間が短く、
就役した途端、「グラウラー」は太平洋戦線に投入されます。
「グラウラー」が第一回目の哨戒に出たのは1942年の6月。
早々に6月5日から始まったミッドウェー海戦において、
総勢19隻からなる潜水艦隊のうちの1隻として出撃しています。
その後、「グラウラー」はアリューシャンに向かいました。
キスカ島付近で哨戒中駆逐艦「霰」(あられ)と「不知火」を
それぞれ、沈没・大破せしめ、これが「グラウラー」にとっての初戦果となります。
「霰」も「不知火」も復旧させることに成功していますが、この時の被害の責任を負って
第十八駆逐隊司令は自決しています。
逆に、「グラウラー」艦長であるギルモア少佐は、この戦功に対し、
海軍十字章を授けられました。
冒頭の絵でギルモア少佐が胸につけているのは、このときの勲章か、
あるいはこのあとに授与された金星章であると思われます。
(十字勲章の色はブルーと白であるのに調べずに描いたので赤と白ですorz)
27日の任務を終えて7月、真珠湾に帰還した「グラウラー」は、
8月に出航した第2回哨戒で対潜掃討中の千洋丸(東洋汽船)、輸送船「栄福丸」、
特務艦「樫野」、輸送船「大華丸」をそれぞれ撃沈しました。
彼我両方の潜水艦の使命は、当時通商破壊活動、つまり商船、輸送船を鎮めることでした。
この哨戒中、「グラウラー」は「氷川丸」を発見していますが、攻撃していません。
「氷川丸」は病院船であったにもかかわらず、戦時中なんども敵の攻撃を受けています。
緑の十字がついていても、偽装を言い訳の理由に攻撃する米艦がいたということですが、
少なくとも「グラウラー」は国際法に反することはしなかったのです。
これが艦長の指示であることは明らかで、この件からもギルモア艦長が
「海の武士道」を(アメリカだから騎士道?)重んじる武人だったことが窺い知れます。
第3回目の哨戒において、ソロモン諸島付近に派遣された49日間、
「グラウラー」には不気味なくらい何も起こりませんでした。
敵に発見されることも敵と交戦することもないまま、帰投したのです。
まるで次回の哨戒における悲劇のまえの静けさのように。
第4回目の哨戒作戦は、1943年1月1日から始まりました。
前回と同じく、ソロモン諸島が哨戒する海域です。
1月16日、トラック島付近の交通を警戒監視していた「グラウラー」は、
船団を発見し、輸送船「智福丸」を攻撃しています。
「智福丸」は陸軍の輸送船で、もしかしたら陸軍の師団を乗せていたのかもしれません。
土井全二郎著「撃沈された船員たちの記録―戦争の底辺で働いた輸送船の戦い」という
戦記本で、一度読んで強烈さに今でも忘れられない一節があります。
「船が攻撃されて沈むということになった時、四角くくり抜かれた穴から
船底にいる陸軍の軍人たちの一団が一斉にこちらを見て、
”まるで豚が絞め殺されるような”叫び声をあげていたのを見た」
という生き残った船員の話です。
このときの「グラウラー」の攻撃によるものだったかどうかはわかりませんが、
いずれにしても航行中の輸送船の沈没によって、多くの軍人の命が、徴用された
船員たちと同じように失われていったのでしょう。
そして運命の2月7日がやってきました。
「グラウラー」が輸送船団を発見し、水上攻撃を仕掛けるため接近していったところ、
彼らより早く「グラウラー」に気づいた別の船が、まっすぐ突っ込んできていました。
このときに遭遇した相手は特務艦「早埼」(はやさき)でした。
給糧艦であった「早埼」は、船団を攻撃しようとしている敵潜水艦を
見つけるなり、まともに戦っても勝ち目はないと思ってか、体当たりを敢行したのです。
「グラウラー」は敵船団に近づきながら海上で蓄電を行っていました。
しかも実際には「グラウラー」の方が先に「早埼」を発見しており、
その行動をレーダーにより察知していたにもかかわらず、艦橋にいたギルモア艦長以下
当直見張り員は「早埼」の動きに気づきませんでした。
どうしてレーダー室の方から艦橋に伝達しなかったのかも不思議ですが、
いずれにせよ、これが「グラウラー」にとって不幸な結果となります。
ギルモア艦長はこちらに突っ込んでくる「早埼」を認めるなり、
「いっぱいに取り舵!」“Left full rudder!“
と命じました。
「グラウラー」はそのとき17ノットの速力で航行しており、(最大速度は20ノット)
おそらく艦長は「早埼」の右舷側をすり抜けようとしたのだと思いますが、
転舵は間に合わず、艦体が「早埼」の中央部に衝突し、艦首部は5~6mにわたって折れ曲がり、
艦首発射管はこの衝撃で潰れ、衝突の衝撃で艦は50度も傾きました。
その後、「グラウラー」の艦橋に向かって「早埼」からは機銃が乱射され、
また高角砲も次々と撃ち込まれてきます。
艦橋に上がっていた当直見張り員のうち士官と水兵の計2名は即死。
生き残ったギルモア艦長以下全員も今や負傷していました。
重傷を負ったらしいギルモア艦長は、艦橋の手すりに身をもたせたまま、
生き残った艦橋の乗組員に対して
「艦橋から去れ!」“Clear the bridge!“
と命じました。
副長のアーノルド・F・シャーデ少佐は、そのとき一緒に艦橋にいましたが、
軽い脳震盪から回復して艦長が艦内へ退避してくるのを待っていました。
ギルモア艦長も続いて避退しようとしましたが、ハッチにたどり着く直前、
機銃で撃たれて再び昏倒します。
次の瞬間、副長と艦内の多くはギルモア艦長の最後の命令を耳にします。
「潜航せよ!」“Take her down!“
副長は驚愕し、一瞬は逡巡も感じたと思われますが、彼がそれを選択するより早く、
ギルモア艦長は外からハッチを閉めてしまいました。
シャーデ副長はギルモア少佐の意図をすぐさま理解し、絶対である命令通り、
艦を急速潜行させて「早埼」の攻撃から脱出して危機を逃れました。
ギルモア艦長は、おそらく重傷である自分がハッチを降りることは
一人では不可能であり、一刻を争うこの時間に自分が助かることは、
「グラウラー」の全乗組員の命と引き換えであることを悟ったのでしょう。
彼は艦長として、自分の命を棄てて艦を救うことを選んだのです。
それにしても、外からハッチを閉めるくらいの力がのこっていたのなら、
とりあえず中に飛び込むくらいはできたのではないのかとも思うのですが・・。
戦死したギルモア少佐には、潜水艦隊の艦長として、初めての名誉勲章が与えられました。
副長のシャーデ少佐は、ギルモア少佐戦死後すぐさま艦長心得(代理?)となり、
この4回目の哨戒作戦となる航海をとりあえず終えます。
この写真は第6次哨戒のときのものだそうですが、真ん中がおそらく
シャーデ少佐であろうと思われます。
この後も哨戒に何度も出撃した「グラウラー」ですが、第10回目の哨戒時、
わたしがここでお話しした「パンパニト」と「シーライオン」とで
"Ben's Busters"(ベンの退治人たち)と称する潜水艦隊を組み、東シナ海に出ました。
この時の哨戒で「グラウラー」は択捉型海防艦「平戸」、そして対潜掃討中の
駆逐艦「敷浪」を撃沈しています。
第11回の哨戒活動が「グラウラー」にとって最後の任務となりました。
哨戒中ルソン島近海で待ち合わせていた僚艦の前に、「グラウラー」はついに現れず、
海軍は「グラウラー」の沈没は原因不明のまま、ということで処理したのでした。
軍の記録の常として「撃沈された」とは認めたくない心理が働いたのでしょうか。
僚艦の潜水艦「ヘイク」は、避退行動中に、グラウラーのいるあたりから
150もの爆雷の爆発音も聴取したという報告を上げていたというのに。
同日の日本側の記録によると、
「マニラ入港前夜、雷撃を受け万栄丸沈没。
対潜掃蕩を行うも、戦果不明。即日反転、ミリ(ボルネオの港)に回航」
(第19号海防艦)
「マニラ入港前夜、マニラ湾入口にて敵潜水艦の雷撃を受け、万栄丸沈没。
対潜掃蕩後即日反転、ミリに回航」(千振)
とどちらもが対潜掃討攻撃を行っているので、「グラウラー」がこのどちらかの
対潜爆弾(あるいはどちらもの)によって戦没したことは間違いないことに思われます。
現在、アメリカのサイトを検索すると、皆一様にギルモア少佐のことを
「ヒーロー」という言葉で称えているのがわかるかと思います。
自らの生命の危険を顧みず、他を生かそうとする自己犠牲の精神。
それをアメリカ人もまた、「英雄的行為」として賞賛するのです。