ノーウォークからもう少しボストンよりのウェストボロに移動する日、
わたしたちはロングアイランドで買い物をするという計画を立てました。
ニューヨークで行ってみた「ニーマンマーカス」のアウトレットである
「ラストコール」が案外良かったので、他のロケーションを探したところ、
ロングビーチの巨大アウトレットモールにあることがわかったのです。
「ロングビーチのドライブがてら行ってみよう!」
ということに決まり、ノーウォークからニューヨークに入る手前で
ロングビーチへの道を選び、文字通り長いビーチ沿いに進んでいきます。
空港まで30分かかるというお知らせ。
JFK、ニューヨークの空港は何度かトランジットなどで利用しましたが、
わたしは恥ずかしながらこのときそれがロングビーチにあることを知りました。
ニューヨークを根元に、本土?沿いに長く突き出している半島、
それがロングビーチです。
アメリカのテレビドラマ「リベンジ」で、主人公とその復讐相手が住んでいたのが
ロングビーチの海岸を臨む家でした。
彼女の復讐のターゲットが大会社のオーナで富豪であったように、ここには
ニューヨークで財をなしたリッチな人々が豪邸を構えているというイメージがあります。
日本とは桁違いの富裕層がしかも多く住んでいる町なら、アウトレットといっても
一味違う商品展開があるに違いない、とわたしは予想したのでした。
アウトレット自体はアメリカのどこにでもある「プレミアム・アウトレット」で、
こういう作りも御殿場などとあまり変わらないのですが、御殿場と違い、
駐車場からのアクセスが簡単で、そもそもあそこほど人が多くありません。
ここでわたしは「昨日入荷したばかり」というモンクレーのコート(冬の海自イベント用)
とプラダの軽くて丈夫なリュック(主に総火演用)を嘘のように安い値段でお買い上げ。
「傷物とかアウトレット用に作られた二級品とかじゃないのよ」
と店員が力説していたので、来た甲斐があったと言えるでしょう。
というわけで、大物収穫の喜びを胸に車に乗り込みました。
さて、わたしたちはこの後ボストン郊外のホテルにチェックインしなければなりません。
もう一度ニューヨークまで戻って、ヘアピンのようなルートを運転していくのも
さすがにしんどいなあ、と考えたとき、ふと思いつきました。
そうだ、ロングアイランドの先端からフェリーに乗ればいいのでは?
この日乗ったフェリーにあった航路図。
下に見えるロングアイランド端っこから本土への最短距離は、
なんと先日訪ねた潜水艦基地とコーストガードアカデミーのある
ニューロンドンのテムズ川河口じゃーありませんか。
我ながらこの思いつきに歓喜し、さっそくモールでの買い物の合間に、
インターネット(モール内に当然のようにフリーWiFiがある)で
フェリーの時間を調べ、予約をすることにしました。(TOが)
すると、スマホを見ながら彼が興奮したようにいいます。
「D-デイに参加した船がフェリーになって就航してるんだって!」
それはすごいねー、さすがアメリカだね。と感心したものの、
まさかその航路に就航しているフェリーのうちのたった一隻である
D-デイの船に乗れる確率なんてほとんどないだろう、と思ったわたしは、
是非乗ってみたいとかそういう強い希望を持つこともしませんでした。
しかし、このあとのTOに言わせると、
「わたしが持っている、”そういうもの”を引きつける何か」
のおかげで、逡巡して選んだ時間にアサインされていたのは、他でもない、
そのDデイ参加船の「ケープ・ヘンローペン」だったのです。
「すごい!なんで?」
それがわかったとき興奮気味だったのはむしろTOの方で、わたしは
なんとなくそうなることが前もってわかっていたような気がしました。
このフェリーでニューロンドンまで帰って来たとき、まちがえて
奇跡のように?偶然コーストガードアカデミーの門の前に出てしまったのを
そんなに驚かなかったのと同じで・・・・。
ネットを検索すれば「ケープ・ヘンローペン スケジュール」という結果が
すぐに出てくるところを見ると、アメリカ人の間でもこの船に乗ってみたいと
わざわざ調べる人がいかに多いかがわかりますが、混乱を避けるためなのか、
フェリー会社では、この船がいつ就航するのかスケジュールで明らかにしていません。
わたしがいつまでも靴を見ていたりして(笑)実は結構時間が押していましたが、
ロングビーチの端っこまで続く道の沿道にワイナリーのあるブドウ畑が続く頃になると、
車の数もこんな感じになり、スイスイと進みます。
フェリー乗り場に着きました。
インターネットから予約したので、ここではその照合を行います。
赤いシャツを着た係員が、並ぶ場所を指示してくれました。
こんなときに節約しても仕方がないので、プライオリティチケットをとりました。
係員はワイパーにこの目印になるタグを挟んでくれます。
並べと言われた場所は、沢山あるラインの一番端。
最終便から一本前のフェリーでした。
時間が少しだけあったので降りてみることにしました。
一つの突堤にフェリー付き場は二つあります。
近所の人なのか、フェリーを待つ人なのか、犬の散歩をさせていました。
ほどなく「ケープ・ヘンローペン」到着。
これがD-デイに参加したという船なのか・・・・。
左に見える歩道は、車に乗らずに乗船する人たちの通路です。
通勤で使っている人も結構いるようでした。
アメリカでは当たり前ですが、車は駐車場に無料で停めておけます。
着岸後、中から車が次々と降りて行く頃、これから乗る車に
全員が乗車を始めました。
船体に「510」というナンバーが書かれています。
これは彼女が揚陸艇だったときの艦番号で、いまでも同じ場所に残されているのです。
ここで唐突に戦車揚陸艦から戦車が降りてくるところを。
なるほど、戦車揚陸艦をフェリーにするというのは大変リーズナブルですよね。
これがかつての「ケープ・ヘンローペン」の勇姿。(一番右)
当時は「バンコム・カウンティ」と言い、名前を持っている唯一の海軍艦船でした。
「バウケーブルがリングの外、船の後方にあり、常に風向計が
風に向かうようになっている」
「ケーブルは空襲の際に収納できるようになっている」
と書かれていますが、 主に下線部分の意味がわかりません。
「戦車揚陸艦」で調べると、戦後多くのこのタイプの船が改造されて
民間船として活躍したと書かれていますが、これもその一つ。
この写真を見ると、どのような改造を施されたかが一目瞭然ですね。
戦車の揚陸というのは艦尾から行われたので、改装の際、船首に乗降用のハッチを穿ちました。
そして、操縦室と客室のために上に構造物を積み上げて、ペイントして出来上がり。
昔のままであるのはほぼ外殻のみという感じです。
揚陸艦というのはその大小を問わず、基本的に前線に参加するわけですから、
勢い戦闘による喪失数も多くなります。
彼女の僚艦も多くが戦地の海の底に消えていったのですが、D-デイに参加し、
その後も濃霧で他の船と衝突して損傷を受けるなどしながら、
彼女は1945年の終戦を迎え、生き残ることができたのです。
彼女が "unfit for further Naval service" (海軍の任務に適さない)として
海軍籍を解かれたのは1958年のことでした。
その2〜3年後、チェサピーク湾のフェリー地区を持つ自治体に売却された彼女は
「MV バージニア・ビーチ」
としてフェリー活用(多分そのままの形で)されていたようですが、
1965年ごろ、別の会社に売られ、現在の
「MV ケープ・ヘンローペン」
となり、大々的に改装されて今の形のフェリーとしてニュージャージーで
航路を結び運行していました。
現在のオーナーである「ケープ・メイ・ルイス・フェリー」という会社が
彼女を手に入れたのは1983年のことになります。
戦後は生き残った揚陸艇がフェリーや貨物船として活動していましたが、
2016年現在、現役で運行されている元戦車揚陸艦は彼女ただ一隻であるということです。
さあ、いよいよ「ケープ・ヘンローペン」、いや、「バンコム・カウンティ」への
乗船が開始されました。
わたしたちの前に並んでいた2台の車に続いて、中へと進んでいきます。
続く。