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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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ノルマンジー上陸作戦とUSS「バンコム・カウンティ」LST-510

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さて、偶然D-デイに参加した戦車揚陸艦を改装したフェリーで
ロングアイランドからニューロンドンに渡ることになりました。
所要時間は約1時間半(だったかな)の船旅です。



この社員の一番左に見えるのがわたしたちの車です。
乗艦したとき、「中央の左側のラインに進んでください」と言われたので
進んでいったところ、係員が一番左で手招きするのでそっちに停めたら、
後から別の人がやってきて

「なんでここに停めたんですか」

などとわけのわからないことをいうので面食らいました。
あんたらがここに停めろと言ったからですがなにか。

車を停めたら、皆自由に降りて上のデッキに向かいます。



ふと駐車場の上を見ると、誇らしげにこのようなものが。
1944年の6月にオマハビーチに上陸したことが書かれています。



ところで、わたしはこの後、先日お伝えしたように、
ボストンのバトルシップ・コーブで戦艦「マサチューセッツ」を見学しました。
アラメダの「ホーネット」のように、広い艦内は博物館としても機能しており、
そのなかに「D-デイ侵攻記念室」がありました。



ノルマンジー侵攻作戦のとき、連合軍はこのように分散しましたという図。
これでいうと、赤いフォークの左から2番目がオマハビーチに上陸したグループです。
ちなみに、フォークの5本の歯の一番右からイギリス軍、カナダ軍、イギリス軍、
そして残りがアメリカ軍ということになります。

「バンコム・カウンティ」もこの船団に加わっていたということですね。



ついでに、このときにイギリスのどの部分から侵攻したかの図。
しかし、あらためてwikiの「ノルマンジー上陸作戦」を見ると、米英カナダと中心に
連合国は「自由フランス」とか「自由ベルギー軍」と「自由」を頭につけた
支配下の国を入れて全部で12カ国。
それに対して当然ですが、相手はナチス・ドイツただ一国だけ。
これもまた勝てる戦いではなかった(ドイツから見れば)というしかありません。

ところで皆さん、「プライベート・ライアン」でもそうだったように、12連合国が
このように数カ所から上陸しながら、どうしてアメリカ軍だけがこの作戦を
ことさらヒロイックに、大変だったことを後世まで強調しているのかというと、
なんといってもオマハビーチの戦死者が結果として一番多かったからです。

まず、ここに配置されたドイツ軍が、予想と違って既に激戦を経験していた師団で、
その猛烈な抵抗にあい、第1波の上陸部隊は上陸10分以内に全指揮官を失いました。
指揮をとる士官、および下士官が戦死または負傷して統率系統が無力化したところに
第二波以降の部隊が次々に詰め掛けたため、海岸線はパニック状態になりました。
オマハ・ビーチはさながら地獄絵図の様相を呈したといわれます。

当然死傷率が一番高く、オマハ侵攻は「ブラディ(血まみれの)・オマハ」となりました。



という話はおいおいしていくとして、「ケープ・ヘンローペン」号に乗ったところから。
通勤にも利用されているフェリーなので、乗艦から出航まではもうあっという間でした。
なんというか、定期バスのような気軽さです。



車から降りた人々は室内に向かいます。

救命ブイには艦名とともに母港である「ニューロンドン」の記載が。



これが客用キャビン。
窓際に沿ってコンパートメントのようなテーブル付きの席が並びます。
最終便から一つ手前の便であることもあってか、人はまばらです。



全員が窓際に席を取っても、まだいっぱい空きがあるという状態。



日本のフェリーとは圧倒的に違うのが船室のゆとり。
作り付けの椅子とテーブルは大人が6人ゆったり座ることができ、
長い椅子はちょっと横になって仮眠を取ることもできます。

わたしはずっと運転しっぱなしのうえ、さらにこの後ニューロンドンから
ボストン西部のウェストボロまで運転しなければならなかったので、
この貴重な時間に少し仮眠をとりました。
脳が休まったのか、おかげで下船後のドライブは全く眠気なしでした。



昼はアウトレットモールのメキシカンファストフードでしたが、
晩御飯も結局この船上で食べなければ後がないことに気づき、
船のデリでサンドイッチとサラダを注文しました。

写真ではそうでもないかもしれませんが、これが美味しかったのよ。

サラダのチキンはよくある冷たくて硬いものではなく、ふわっとして暖かく、
さらにサンドイッチは作り置きではなくパンは焼きたて。

「え。これ美味しくない?」

「いやー、侮れませんなあ。フェリーの売店なのに」

 見れば、朝の「モーニングメニュー」も容易されており、通勤通学用に
1時間半を利用して食事を取る人に配慮しているらしいことがわかりました。



この日の夕焼けは素晴らしくドラマチックな色をしていました。
穏やかな内海の水平線に沈む前の太陽が、空を朱に染めて
雲間からは今日最後の光が漏れています。 



港を後にする船からロングアイランドのビーチが見えました。
ここは半島先端に道一本でつながっている小さな島、
いわば「半島の半島」みたいな部分です。



とても絵になる灯台は無人式のようです。



砂浜の先の岩場では釣りをしている人がいました。

ここは一応ニューヨーク州で、サフォーク郡の「オリエント」という街です。
国勢調査によると、だいたい人口は700人あまりだということです。



そのとき、今出航したばかりのロングビーチ側の港にやってきたジェット艇?
「ケープ・ヘンローペン」を所有している「クロスサウンド・フェリー」は
全部で8隻の船を所有しているのですが、そのうちフェリーではない、
人だけを載せる高速艇はこの一隻だけだということです。

またも偶然ながら、「シージェット” I"」というその船を見ることができたのでした。
ジェット艇というだけあってすごいスピードです。
所要時間が短く、コミューターの利用が多いのでしょう。



そのとき、砂浜の高いところに一人で立っていた少年が、
ぴょんぴょん飛び跳ねて艇に向かって手を振りました。
望遠レンズで撮ってみて初めてわかったのですが、携帯で話しながらです。
おそらくシージェットに彼の父親か母親が乗っているのでしょう。



屋上デッキに出ている男性がそうでしょうか。
シージェットのニューロンドンまでの時間は40分。
フェリーの約半分です。
同社のメンバーシップがあれば最安で往復12ドル60だそうですから、
きっと通勤定期みたいなのもあるのに違いありません。



さて、我々の乗ったフェリーは出航して5分後ぐらいで海峡のようなところを通過。
と思ったら、このライトハウスのあるのは「プラム・アイランド」という
可愛らしい名前島の先端でした。

このライトハウスも歴史的な建造物で、「プラムアイランド・ライト」といいます。
1869年に建てられた花崗岩の建物で、アメリカの歴史遺産に指定されています。

プラムアイランドは最長で4.7kmしかない小さな島で、一般人の立ち入りは許可されていません。
昔は軍のフォートがあったようですが、現在は

「プラムアイランド・アニマル・ディジーズ・センター」(動物疾病センター)

といって、家畜の罹患する疾病を研究するセンターでした。
しかし、911以降、ここでの目的は「生物兵器の研究」に切り替えられているそうです。

そのせいなのか何なのか、2008年に逮捕されたアルカイダの女性神経学者は、
アメリカ国内の攻撃目標のリストを所持していましたが、そのリストには
「プラムアイランド動物疾病センター」がふくまれていたということです。



すっかり太陽は西の海に姿を消しました。



客室キャビンにはかつての「バンコム・カウンティ」に関する写真が掲示されています。
珍しそうに写真を撮ったりしていたのはわたしたちだけ。
地元の人々には今更、というか周知の事実で珍しくもないのに違いありません。

この全体写真の日付が1945年の4月4日であることにご注意ください。
「バンコム・カウンティ」は、この直前、霧、みぞれ、大波、氷山と極限までの寒さ、
そして最大の恐怖であるU-boatの攻撃への不安と戦いながら、
大西洋の13日間の航行を終えたばかりでした。

同じ船団のうち4隻が、U-boatの攻撃を受けて戦没しています。



「ブラック・ギャング」が何を意味するのかわかりませんが、艦長らしき
中央の士官以外は全員が若年の水兵です。
彼らのうち何人かは、左袖にオナーのような袖章を付けています。



彼らの袖章は右肩にあります。
ガナー、ということなので、砲手のグループ。



「コミニュケーション・ディヴィジョン」とは通信関係の部署でしょうか。


さて、彼ら「バンコム・カウンティ」のD-デイはどのようなものだったかというと。
6月1日には70の車両と第29師団200名の兵士を乗せて錨を下ろしていました。
しかし上陸許可はどこからも出されることなく、ずっと待機していたというのです。

そこで一旦プリマスに戻り、もう一度出直してきたのですが、オマハビーチに
接近したときには、すでに侵攻作戦が始まって8時間が経過していました。

しかも、着岸することもままならなかったので、彼女は「ライノ」など、
他の船に、戦闘員たちを移乗させポンツーンまで送り込みました。


その夜、「バンコム・カウンティ」、LST-510は初めての空襲に遭いますが、
犠牲になったのは「睡眠時間だけ」で被害はありませんでした。
彼女自身はその後他の船の負傷者を収容し、
乗船していた三人の医師は艦上で夜を徹して手術を行ったといいます。

もしかしたら乗員たちには不本意だったかもしれませんが、とにかくも彼女は
このような形で、彼女なりのD-デイにおける任務を果たしたのでした。


続く。









 


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