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朝霞駐屯地訪問記〜地下指揮所

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ヘリのシミュレータを体験し、そのAHコブラの実機を見学したわたしたち。
次にK1佐が提案して下さったのは3Dシアター。
3D眼鏡をかけて、10分前後の映像を鑑賞できるコーナーです。

「何がいいですか」

差し出されたのはいくつかのタイトルが書かれたメニュー。
おお、好きなタイトルを選ばせて下さるのですね。

「えー、じゃこの『精強無比』を」

操作してくれる自衛官(というかずっと同じ人)は、

「他の人に声をかけてきます」

といって、二組の見学者を連れて戻ってきました。
そして上映開始。

見終わって、その映像が、第一空挺団の降下始めのとき、
会場にある大きなスクリーンで開始までの間流されていた

「強くなければ 自衛隊ではない」
「優しくなければ 自衛隊ではない」
「賢くなければ 自衛隊ではない」

というモットーを元に(シャレ?)制作されたのと
同じ作品であることに気がつきました。

K1佐も付き合い良くならんで一緒に観ておられたわけですが、
わたしでも何回目かなのだから、自衛官はおそらく何百回も?観ているでしょう。
「広報」もまた自衛官の重要な任務の一つとはいえ、ご苦労様なことです。 
 



ヘリの横のガラスケースにミリめしが展示してありました。

豚角煮、生姜焼き、鴨肉じゃが、かつおカレー煮、野菜麻婆、さんま蒲焼き。 

いろいろメニューが書かれていますが、どれもこれもパックのままで
これじゃ展示する意味がほとんどないのではないかと・・。
(この写真もこんなに大きくする必要もないですね)

余裕があればロウで見本を作ったりするのでしょうが、
さすがにそれもならず、字の横に写真があって辛うじて
その実態がわかるという状態。 



一つだけアップにしてみました。
ん?

なんだこのお弁当は。

おかずは野菜麻婆と・・・・ドライカレー?

ドライカレーっておかずなんですか?
ドライカレーで白飯食べるんですか?

わざわざ「戦闘糧食」となっているからには、これは自衛隊の活動を
熟知した自衛隊の栄養士が考案したメニューだと思うのですが、
これはあまりにも炭水化物多くないか?

食べてから即体を激しく動かし、エネルギーとして燃える
炭水化物を多く取る、というのが目的だとはわかりますが、
これは、それ以前のメニューとしてどうなのよ、と・・。

でも、驚いてよくよく観ると(笑)、他のメニューも
たとえば鴨肉じゃがでもなんでも、「白飯2個」が基準だし、
「肉団子」は白飯と「焼き飯」のダブルコンボ。
これはどうも、ご飯は二人前、というのが基準だと見た。
糧食だけに生野菜系が食べられないのは当然としても、
こういうのが戦闘糧食の基本形なのね。

せめて白米ではなく玄米だったらビタミンも豊富なんだけどなあ・・。


ところで、この「味ご飯をおかずに白飯を食べる」というノリで、
昔は赤飯も「おかず」としてこの戦闘糧食に採用されていたのですが、
被災地等では被災者に遠慮して赤飯を食べなかった、というニュースがありましたね。
そのことを何気なくK1佐に言ったところ、

「そう、そうなんですよ。
そういう事態が予想されるので、糧食から赤飯は廃止されました」

とおっしゃるではないですか。
わたしはなぜ糧食に赤飯がついているのか、まずそれが不思議だったのですが、
実はこの赤飯は、今知ったところによると「おかず」だったのです。
炭水化物大量摂取を目的とした、「エキストラご飯」としての赤飯だったと。

「被災者のいるところで赤飯は食べられない」

これも実に日本人的な自粛の仕方だという気がしますが、
その前提にはこのミリめしのメニューの特異さがあったのです。

なるほど・・・・。


しかし、前回(お洗濯の匂い付き迷彩服)に続き、この件にも
実に自衛隊らしい「気配り」を感じます。
世界にこれほど国民の公僕としての意識が徹底した軍隊が
他にあるのでしょうか。





などと、主婦らしいお節介なことを考えつつ館内を見回すと、
ひっそりと偵察機がとまっているのが見えました。

丸いシェイプがちょっと可愛らしくて萌えるわけですが、
この偵察機を見たときに、世間話として

「そういえば北朝鮮から偵察機が飛んできて韓国側に落ちたそうですね」

と(どんな世間話だよ)いうと、K1佐と広報館の係の自衛官が

「あれとは違います」
「これは偵察機と言っても着弾観測用で」

と同時に否定に入ったので少しおかしかったです。
なんだか、2人ともが

「いや、北朝鮮と同じにしないでくださいよ」

と言いたげな口調だったので・・・。


ちなみに、この偵察機は可視・赤外線カメラを搭載し、
地上とデータ送受信ができ、車載のためのトラックなど、
計6台の車両が運用に必要です。

因みに、韓国に墜落した北朝鮮からの無人機は、
カメラ等を韓国の通りがかりの人がネコババして、
データを上書きしてしまったため、情報は確認できませんでしたが(笑)
もし万が一、そのような状況になったときにはこの無人偵察機、
自動的に爆発し消滅するようになっています。

2人の自衛官が言下に「違う」といったわけがわかりますね。

違うかな。



天井には開いた状態の落下傘が。
こうして室内で見るとすごい大きさに見えます。

後から気づいたのですが、この広報館、二階もあって、
二階には陸上自衛隊の歴史に付いての資料があったようです。

もしかしたら来たばかりのK1佐はご存じなかったのかもしれません。



室内を一通り見終わってから、外に出ることにしました。
ここでなぜか、

「制服は館内のみの着用となりますので、脱いで返却して下さい」

うーむ・・・・なぜだ。
この庭のような部分も館内なのではないのか。

1、外は係員の目が届かないので、こっそり鞄に入れて持ち帰る輩がいるから

2、柵の外から見えるので、一般人の公道での制服着用禁止の規則に反する

3、雨が降ったりしていた場合汚れるから

4、戦車の前で撮られた一般人の制服姿の写真が出回るとまずいから


たぶん、そのわけはこの中のどれかだと思います。


というわけで、制服を係の隊員にお返しし、まずは

「地下指揮所」

を見学することになりました。




地下指揮所というのは、戦地に臨時に作られる司令部の基地です。
小さいときに裏山で「基地ごっこ」をした覚えのある男子には
もうこれだけで心がワクワクしてくるのを止められないでしょう。(煽り)

K1佐が説明していますが、この壁の部分は土嚢を積んで作られています。
敵の砲弾が飛んできても指揮所だけは被害を受けないように、
かまぼこ型のドームを据え、その上に土嚢をこのように積んで緩衝剤とするのです。

「これを作るのが・・・・大変なんですよ」

お、なんだか真に迫った声音。
さてはK1佐、これを作って酷い目にあったことがおありですね?




お邪魔しまーす。

中に入っていくと、迷彩服の幹部がヘルメットや防弾装備着用でおられます。
後ろのボードには

任務

侵攻する敵を4月6日まで
A山〜B山以北に阻止

地位

師団から先遣され独立的に行動する
増強普通科連隊

役割

師団のC平地への進出を擁護

と書いてあります。 



何かこういう電話、旧軍の映画でも出てきた覚えが・・・。

携帯電話1号、だそうです。
今時、なんで普通の携帯を使わないのかと思ったら、
どうやら電話はいくらでも盗聴が可能なのだそうですね。
おそらくですが、この電話は盗聴されにくいシステムなのでしょう。

ちなみに陸自の使用する無線は全て暗号化されています。



先日シリーズでお伝えした「空挺レンジャー」の反省会でも、
このような地形を模した作戦盤が登場しましたが、
こういう場合は砂で地形を作るようです。

これを「砂盤」といい、こういった指揮所で簡易に作れます。



お好きな方向けに兵棋判例をアップで。
海上自衛隊の兵棋もぜひ見てみたい・・・。



指揮所に予定表が!

敵がどう出て来るかわからないのにどうやって予定が立てられるのか、
と思ったら、そういう予定じゃなくて単なる戦闘訓練の予定表でした。

なーんだ。

しかしこれ、どのように陸自が戦闘訓練を行うのかよくわかります。


まず1日目、

作戦会議・幕僚会議・火力調整会議

2日目、戦闘陣地構築 障害構成 として

0500 戦闘予行(偵察警戒部隊)

0800 連隊長現場指導(第一線地域)

1300 連隊長現場指導(後方地域)

1900〜2400 幕僚・作戦・火力調整会議

3日目、

戦闘陣地構築・後方陣地構築など。


ふーむ、陸自ではこうやって演習場での戦闘訓練を進めるわけですね。
装備や観閲式だけでは決して一般人には目にすることもない
このような活動内容の片鱗を見ることができるこの広報館、
本当に良く考えられた、レンホー的にいうところの「努力」が
隅々まで行き渡った素晴らしい内容だと思います。

何度も何度もいわせてもらうけど、全く何を見ていたんだあの議員は・・。
つくづく、あの仕分けは最初から結論ありきで、

「広報館を実際に見てどうするか決める」

なんてのはしょせんポーズに過ぎなかったってことがよくわかります(呆)


ところで、調べるために広報館のHPを見たところ、この広報館には
「90式戦車触り放題!」としてコブラの横に本物の90式が展示してある、
となっているのですが、わたしにはここでそんなものを見た覚えがないのです。

戦車が室内にあれば当然K1佐も説明してくれるでしょうし、
見逃したとも思えないのですが・・・。

そう思って、もう一回念のために写真を点検してみたところ、



ありました!



・・・・・ってこれじゃないだろこれじゃ。



続く。





「海の記念日」〜笹川良一と「明治丸」

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昔々、「海の日」で休みになることを知ったとき

「海の日って、何の日?」
「だから、海の日でしょ」

と知らない者と分かっていない者同士で
情けない会話を交わした覚えがあります。

別に知らないからといって何の不都合もなかったため、
それっきりその意味を調べることもなく何年かが経ちました。
その間、何回も7月20日はやってきましたが、
いつもその日には日本にいない、ということもあり、一度として
この日のことを調べようという気も起こさなかったのです。

そしてある日、当ブログ記事のために海軍について調べていたとき、
その流れでわたしは初めて「海の日」の何たるかを知ったのでした。
つまり、このブログをやっていなければ、
今でもこの日に関して何も知らなかったでしょう。



驚いたことは「海の日」というのが新たに設定された祭日ではなく
戦前の「海の日」を復活させたものであったことでした。

「海の日」は昭和16年(1941)近衛内閣の逓信大臣村田省蔵の提案によって
終戦までの5年間「海の記念日」とされていた祭日が元になっています。

なぜ逓信大臣が海の記念日を提案したか、ということから説明すると、
この村田省蔵は、議員になる前は大阪商船(商船三井の前身)社長であり、
近衛政権下では、日中戦争勃発に際して海運の戦時体制確立を主張し、
海運自治連盟を結成して、みずから理事長を務めた人物だったからです。

それがなぜ7月20日だったのか。

それは、明治9年(1876)6月2日、明治天皇が東北・北海道を
ご巡幸あらせられたことに端を発します。
御生涯の大半を御所で過ごされた江戸時代の天皇とは対照的に、
明治天皇は各地へ行幸されました。
明治5年から18年にかけて行われた巡行行事を六大巡幸といい、
この北陸・東海道へのご巡幸はその2番目に当たっています。

埼玉、茨城、栃木、福島、宮城、岩手、青森。

この各県をご巡幸のち、7月16日、お召し艦にご乗船され、
函館を経由して横浜にご帰着されたのでした。

そして、横浜にお召し艦が到着したのが7月20日だったというのです。
この昭和16年はそれからちょうど50年目だったということもあるでしょう。

「それはわかった。
しかし、それから50年も経った昭和の世になって、
ご巡幸のお召し艦が、横浜に着いた日をわざわざ祝日にして
国民のお祝いにするのはどういう意味か?」

この説明を読んでそう疑問を持ったあなた、そうですよね?

ご巡幸だけで6回も行われているので、

「天皇陛下が無事ご巡幸からお戻りになった日」

を記念するならそれだけで6日の祝日が必要です。
この横浜帰着の日を海の記念日にした、ということだけは
Wikipediaにも書かれているのですが、このように考えると

「なぜその日を選んだのか」

という疑問がわいてきます。
そして案の定その疑問に明確に答える資料は見つかりませんでした。

しかし、もう少し念入りに検索ワードを変えて探してみると、
まず明治神宮の機関報が引っかかってきました。

この函館から横浜までのお召し艦航行中、海上は荒天で
強風のため「明治丸」はまる3日間というもの時化に煽られ、
お迎えのため横浜港で待ち受ける人々は青くなっていたところ、
予定を大幅に遅れて帰港した「明治丸」からは
端然とした様子の明治天皇が降りて来られ、一同は
胸を撫で下ろした、ということがあったのだそうです。

それがマスコミによってセンセーショナルに報じられ、
明治天皇のご無事を寿ぎ安堵し、少なくとも昭和15年までは
忘れ得ぬ事件として民衆が認識していたということもあるでしょう。

勿論、それは民衆にアピールする理由であり、
この制定には実は政治的な意図がありました。

ここでもう一度「海の記念日」を制定した逓信大臣、
村田省蔵の経歴に目を戻してみましょう。

日中戦争に伴って、海運の戦時体制の確立を主張した人物です。
海の記念日の成立に当たっては、やはり逓信省局長の尾関將玄が

「徹底的なる戦時態勢を必要とし、なによりも国力を充実すべきである。
海の記念日はかやうに、堅実なる国力の充実をはかるための契機たらんとする」

と述べており、これが戦争の遂行上重要となってくる海上輸送において、
船員や船舶の徴用と調達を海運関係に協力要請するとともに、
その認知を国民に対して広く行おうという意図があったわけです。

このときに明治天皇のお召し艦となったのがそれまでの軍艦ではなく
初めて「明治丸」という民間船が使われたということも、

「民間船舶の戦時体制への協力」

という、この記念日のテーマにぴったりだったからともいえます。



その後、民間船が「戦時徴用船」となり、輸送船団が攻撃を受け、
敗戦時には民間の船舶はほとんど壊滅といっていいほど残らず、
徴用された民間の船舶関係者はその多くが戦死することになった、
というのは原爆投下や空襲、あるいは沖縄での犠牲と共に
非戦闘員の命が戦争で失われた悲劇として、わたしたちが
いつまでも忘れてはいけないできごとです。


それにしても、戦後の日本に吹き荒れたGHQの思想統制と
あるいは旧軍パージ を考えるとこのような経緯を持つ
「海の記念日」が戦後復活したこと自体、少々奇異なことにも思われます。

この日を祝日として復活させようと言う動きは昭和30年ごろからあり、
その推進を熱心に進めていたのがあの笹川良一氏でした。

笹川良一、というと「右翼」の一言で片付け、そこで思考停止して
この件に関しても「右翼だから」と単純に納得する人が多いかもしれませんが、
わたしはこの人物は一言では語れない清濁併せ持つ人物だと評価するゆえに、
この件にも何か表に出て来ない「理由」が・・・・・、
たとえば笹川氏が尽力した戦犯救出や戦犯裁判の処刑者の遺族会とか、
戦争に関係した「誰か」との約束とか・・・、
笹川氏が「墓場まで持っていった秘密」にその真の理由があるのではないか、
と若干「判官贔屓」のような気持ちから空想しています。


笹川氏がどのような力を行使したのかはもう知る術はありませんが、
ともあれ1995年(平成18年)の7月20日から、
「海の日」は施行されることになりました。

その初施行を二日後に控えた7月18日、笹川氏は95歳でこの世を去りました。


戦時体制推進に発祥の由来を持ち、しかも世間的には
「右翼の大物」が推進して決めた「海の日」。


こんにち広く説明されている「海の日」の意義とは

「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願い、
海の環境や資源について考えたり、海に親しむ契機にする」

というものですが、それはさておきこの由来に異を唱える人はやはりいて、
今回これを書くために目を通した情報の中には、

「海の日そのものは歓迎だが、戦前の祝日だったのが気に食わない」

として、案の定これを制定した戦前の日本(軍部じゃありませんよみなさん)
に始まって笹川良一の非難からこの件も「黒」とする意見がありました。

あの「赤旗」に至っては明治天皇のご巡幸に対しても

「明治新政府の地租金納制や徴兵制にたいする不満が強かった
東北の民衆の感情を抑えるためだった 」

などと否定的なニュアンスだったりします。

いや・・・・これ、おかしくないですか?

ご巡幸はさっきも書いたように6回行われているんですが?
だいたい民衆の不満をなだめるためだったとして
そのためわざわざ天皇陛下がご行幸されることの、どこがいかんのかね?

ちなみに共産党ですが、「海の日」が7月20日だった頃は
上記の理由によりこの祝日に反対していたのだそうです。

しかし、2003年になって「ハッピーマンデー法」が施行され
(なんちゅう法案名だ)20日ではなく7月の第3月曜日、となり、

「 従来からの党の主張に合致するうえ、連休・3連休の増加は
労働者にとって強い要求であること、
レジャー等の関連団体の合意も得られていることなどの理由で」

反対するのをやめたということです。
労働者のための制定なら由来は見逃す、ってことですか。

それをいうなら明治天皇のご巡行も、
庶民のために行われたんじゃないのかなあ。


さて、取ってつけたように冒頭画像の説明ですが、
これはご巡幸のときにお召し艦となった「明治丸」。
この「明治丸」は灯台巡視船として日本政府がイギリスに発注したものです。

当時の新鋭艦で優れた性能を持っていたため、
お召し艦になりご行幸に採用されました。

写真は、1910年、台風一過のあと岸に打ち上げられた明治丸ですが、
この後補修をし、関東大震災(1923年)や東京大空襲(1945年)において
多くの罹災者を収容するなどの活躍をし、現在は国立海洋大学が保存しています。

それだけに留まらず、この明治丸は歴史的に大変貴重な役割を担った船なのです。
現在の日本の海域(FEZ)はこの明治丸が決めたということをご存知ですか?

明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、
日本政府の調査団を乗せ英国船より早く小笠原諸島に達し
調査を開始したことにより、小笠原諸島領有の基礎を固める役割を果たし、
小笠原諸島はわが国の領土となりました。
明治丸の活躍がその後、日本が世界第6位の排他的経済水域
(EEZ)を持つ海洋大国となる礎となったのです。

(海洋大学HPより)


なお、海洋大学では明治丸の修復費用を

「明治丸海自ミューゼアム事業募金」

として募っていますが、まだ基金が目標に達していないとのこと。
一度はお召し艦にもなり、明治からの歴史を見つめてきた船、
ぜひ未来にこの貴重な遺産を保存していただきたいと思います。


さて「海の日」制定施行を二日後に亡くなった笹川良一氏の話を最後に。

左翼は7月20日が「海の日」施行であることに反対していましたが、
その後、休日法の改正で第3月曜日に変わったことで納得し、
今では反対の立場を取っていない、という話をしました。

この改正法によって毎年「海の日」は日付が変わることになりましたが、
何年に1回かは、笹川氏の命日である18日になるのです。

理由は分からないものの笹川氏に取って悲願ともいうべきこの祝日施行でしたが、
こればかりはご本人も全く考えも付かなかった「ご褒美」かもしれません。

そして「明治丸」ですが、もし笹川氏が生きて権勢を振るっていれば
何らかの方法で、保存のための出資に乗り出してくれたにちがいないと、
—あの二式大艇のときにそうしたように—わたしは考えています。


 
 



 

亜米利加で 日本の車の 良さを知り ついでに日本の良さも知るなり

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アメリカでは車がないと何も出来ないため、旅行者は必ず
空港でレンタカーを借り、 そこから出発します。

それが普通なので非常にレンタカーのシステムも合理化されており、
空港バスでレンタカーセンターに行けば、あらかじめインターネットで
予約しておいたレンタカー会社のカウンターに行き、
クレジットカードと免許証を見せ、あとは車の停まっているロットに行き、
駐車場を出るときにもう一度契約書を照合するだけでおしまい。

さらにわたしがここ何年か利用しているハーツゴールデンクラブは、
前もって全て予約しておいた車がすでにロットに用意されているので、
専用駐車場に行けば大きな電光掲示板で自分の名前を見つけ、
名前の横にあるナンバーが表わすロットに行くだけでOK。

つまり、全く人と会話せず車をゲットすることが出来るのです。

しかし(笑)

システムこそとことん合理的ではあるが、一旦何か問題が起こった場合、
あなたがそれを訴える相手は、アメリカ人のレンタカー会社社員です。
これがいかに恐ろしいことか、あなたはご存知でしょうか。

愛想だけはいいが労働意欲と能力に異常なくらいのバラツキのある
アメリカ労働現場で、いざとなったときに相手がとんでもない愚か者か、
やる気がない奴か、あるいはその両方であるパーセントはほぼ2分の1くらい。

2回に1回は相手の対応にムカつき、間違いに呆れ、要領の悪さに辟易し、
まあつまり日本人であれば滞在中一度は

「アメリカ人ってもしかしたらばか?」

という呪詛の言葉を飲み込む羽目になるのです。

さて、という話をマクラにしたからには、そういう話なのですが、
今回、わたしはアメリカ滞在中にレンタカーを返品交換した数で
今までの最高回数を記録してしまいました。

この10年、一度借りたらそのまま1ヶ月乗って返してきたものなのに、
今回はまず、最初に予約していたプリウスに3日乗ったところで

1、GPS(カーナビ)が付いていないため交換。


プリウスにはGPSは付けられない、という謎の理由で
アップグレードするしかなくなったため、
わたしはボルボを選択しました。
後から考えるとこれが不幸の始まりだったのです。



ここまではお話ししましたよね?

ボルボはなかなかいい車だと思ったのですが、走り出してこれも3日目、

2、フロントパネルにタイヤチェックの警告ランプが付いた

ためまたもや交換する羽目になりました。

一つの滞在地で2台乗ることすら初めてだったのに、なんと3台目です。
交換のため訪れたハーツのカウンターで色々と感慨に耽っていると(笑)
アフリカ系のカウンター係員が、

「何難しい顔してるの。笑って笑って」

笑ってじゃねーよそっちの整備不良ってことじゃねーかよ。
誰のおかげでこんなに何度もハーツに来ないといけないと思ってんだよ。

と思わず心の中で不良になってしまうエリス中尉。
しかし外面のいい穏やかな日本人としては、内心はどうでも
とにかくニッコリと彼に笑ってみせ、さらにこの係員が

「いい靴履いてるね!バレリーナが履いてるやつみたいだね」

とお愛想をいうのにニコニコと相づちを打っておりましたorz
憎い。おのれの日本人のDNAが憎い。



そしてこのときにスィッチした車はキャデラック。
日本ではキャデラックはあまり見ませんね。

アメリカでもあまり見ません(笑い)

昔は歌にも贅沢の象徴としてよく歌われていた車ですが、
今のアメリカでは影の薄いレアな車です。

どうしてアメリカ人はビッグスリーの車を買わないのだろう、
パトリオットならばもう少しアメリカ企業を応援しそうなものだけど。
とわたしは当初思ったものですが、アメリカの道路を毎年コンスタントに走り、
そして時折はこういう「アメ車」に乗ってその理由が今ではわかります。

だって日本車の方が断然いいんだもん。

シートピッチや空調、オーディオシステムやタッチパネル、
そして何よりも燃費と取り回しの良さ。
メンテナンスが少なくて良く、信頼性がある。

一度日本車に乗ったことのある者は、わざわざ大金を出して
アメリカ車を買うことはないでしょう。

愛国とかなんとか以前に、日本車という選択は彼らにとって
最も合理的で適正な判断だってことに過ぎないのです。

おそらく皆さんが思っている以上にアメリカの道は日本車が席巻しています。
小型車も最近は大型車も殆どがトヨタでありニッサンでありホンダであり・・。



この車も決して悪くはないとは思いましたが、もしこれが日本車より
高いのであればわたしは躊躇なく日本車を選ぶでしょう。

わたしが今までここで乗ったクルマで燃費の点でまあまあだと思ったのは
サターンだけですが、そのサターンも日本車に対抗したものの
日本車に打ち勝つことが出来ずに失墜しましたね。



そんなある日、TOがボストンにやってきました。
夜の到着なので迎えにいったときのマスパイクで撮った写真。
向かいに見えるのはプルデンシャルタワーです。

実はこのとき、キャディラックのフロントパネルには

3、エンジンマークの警告ランプが点いていました(笑)

危急性はないものの、これが点いたら点検すべし、と
面倒くさいけど読んだマニュアルに書いてありましたし、
何かあっても嫌だし、TOが来たため空港に帰るのに
トランクが全部乗るだけの大きな車に代える必要があったので
わたしはTOと一緒にまたもや次の日ハーツレンタカーに突撃。


このときのカウンターの係員が、いわゆる

The worst salesclerk in the world

だったのです。まじで。

40台後半(前半かも)のその白人女性は、まず

「どうして交換したいの?」

とため息をつきながら実に不機嫌そうに車のところに行き、
ガソリンタンクの蓋をいきなり締めなおして

「ここが空いているとランプが点くのよ!
(自分で運転席に座ってエンジンをかけ)
ほら、ランプ消えたでしょ!」

と言い放ったそうです。
つまりこのまま乗って帰れという趣旨です。
そうです、というのはわたしはそのとき化粧室に行っていたからで、
このときにもう一度運転手であるわたしがチェックしていたら

ランプは実はまだ消えていなかった

(つまりおばちゃんの勘違い)ことに気がついたはずでした。

運転のことがわからないTOは、しかし

「わたしたちは最終日大人三人でトランクを乗せて
空港に行かないといけないので、大きな車にアップグレードしたい」

と食い下がりました。
彼女は面倒くさそうに

「でもないのよね〜大きな車って。
いっそメルセデスのワゴンはどう?」



メルセデスはいわゆるアップグレード対象車です。
ブースの横にはこの写真のようなアップグレード車
(これはポルシェのオープン)が飾ってあります。

差額は一日150ドル(とおばちゃんは言ったけどこれも後から調べたら間違い)。
さすがに一日1万5000円の差額はもったいないね、と日本語で会話し、

「これしか大きな車が無いのなら元の車でいいです」

と彼女に返事すると、彼女はわざとらしく大きくため息をつき、
そんなら最初からごちゃごちゃ言うんじゃないわよ、
とばかり忌々しそうにパコパコキーボードを叩きます。

しかしここでわたしは嫌な予感がしたので、

「ちょっと待って!
わたし、本当にこのおばちゃんの言うように
警告ランプが消えてるのかどうか見て来る。
だってランプはガソリン入れる前からついてたんだもの」

とキャディラックのイグニッションを入れてみると、
・・・・

警告ランプは全く消えてないじゃないですかーやだー。


というかふざけんなよおばちゃん。

「ランプ消えてないんですけど!♯」

デスクに帰って彼女に告げるとかすかに彼女は狼狽し、
すぐさまキーボードを叩き、

「大きな車ならシェビーのSUVがあるけど・・・」


なぜどうして最初からそれを出さない。



というわけでシェビーのエキノックスに車を交換しました。

「・・・・どうしてこういう不毛な言い合いをしないと
こういう結論に最初からたどり着かないのかねえ」
「アメリカ人ですから」

そんな会話をしつつ息子を迎えにいきました。



ロータリーに並ぶ車はどれも同じような大型車ばかり。



翌日になってTOがハーツの明細を見せてほしいといいだしました。

「なんか昨日の晩寝ながら嫌な予感がしたんだ。
あのおばちゃんにちゃんと料金の切り替え作業なんて
出来るのかと思うと・・」

言われてみればそうです。
我々が車を借りていたのは28日間ですが、そのうち6日だけを
アップグレードの差額プラスで計算するなどというパソコン操作が、
あのいかにも頭の悪そうな、そのくせ舌打ちしたりため息をついたり、
とにかく客の神経を苛立たせることだけは平気でやってのける、
勤労意欲の薄いおばちゃんにできるものか?

限りなく答えはノーです。

そしてTOによると切り替えは全くできていないらしく、
料金が異常に高くチャージされていました。


「よく気がついたね」
「もっと早くあの場で気づくべきだったんだけどね。
おばちゃんがあまりに酷いので疑いが生じたようなもんだ」

確かにもっとテキパキと微笑みを欠かさないような店員ならば、
おそらく間違いを疑わなかったかもしれません。

そしてわたしたちはまたもや空港のハーツレンタカーへ。

昨日のおばちゃんがまたもや座っていたらどうしよう、
とわたしは怯えたのですが、幸運なことに今回は、
至極マトモなアフリカ系男性が対応しました。

どれくらいまともかというと、TOが要点を言っただけで
SUVの料金が全日にカバーされていることに気がついたくらいまともです。

「これが前の料金、これが改正後の料金です」

彼の計算を見てわたしたちは目を丸くしました。
その差額約2000ドル。

何がどうなったのかわかりませんが、あのおばちゃんは
わたしたちのチャージに20万円もの上乗せをしていたのです。

驚き呆れたわたしたちは言葉の通じないのをいいことに、彼の前で

「なんなのあのおばちゃん!もしかしてすごいバカ?」
「しかも態度悪かったしね」
「アメリカの労働現場っていったいどうなってるの?」
「チップの出ないところなんてこんなもんですよ」

と言いたい放題。
普通に対処しただけのその黒人店員がとても優秀に見えました。
最後にわたしが小さく両こぶしを握ってガッツポーズすると、
彼はにやっと笑って同じようなガッツポーズを返してきました。
そして、驚くことに一番最後に

「とにかくすみませんでした」

と謝ったのです。

「アメリカ人でこういうときに謝るなんて珍しいね」

日本なら普通のことでもこの国ではこれだけで評価される。
さても不思議な社会です。


さて、というわけでレンタカーに乗るのもあと5日。
心安らかにカーライフを満喫できるのか?

と思ったら好事魔多し(笑)

このシェビーのSUV、異常に燃費が悪い。
3日目にガソリンケージは半分を指し、試しに
そこから満タンにしてみると8ガロン、30リッターで
ガソリン代は30ドル。

「5〜6日で給油か・・・」
「誰もこんな車借りないし、ましてや買うなんてありえないよ」
「タイヤ半転がりごとにガソリンをまき散らしている感じ?」
「しかも運転し難い。トップヘビーで安定悪いし」
「そりゃ皆大型車ほど日本車に乗るよなあ」

車に乗りながら散々アメ車の悪口が出るにつけ、
比べたくなくても日本車との比較になります。

「アメリカの車会社の人だって乗りたくないんじゃないこんなの」
「全然工夫が足りないよね」

レンタカー会社の係員の質などを見ても、日本っていい国だなあ、
と改めて思わずにはいられません。

「だが待ってほしい(笑)
こんなレベルの低い人間が殆どなのに、こんな社会をつくりあげた、
アメリカのすごい人は本当にすごいんじゃないだろうか」

「ごく一部の頭のいい人がそうでないその他大勢を科学的に
動かすことの出来るマニュアルってものを発明したからね」 

アメリカの車とついでに労働現場に対する非難はとどまるところを知らず。
ついには

 

「エキノックスって名前もイマイチだよね。
エキノコックスみたいで」
「エキノックスって何だっけ」
「春分の日?」
「ほらー。やっぱり変な名前だ」

坊主にくけりゃ、で名前にまで文句をつけるわたしたち。

しかもここでめでたしめでたしとはなりませんでした。
事実は小説よりも奇なりとはよくぞいったものです。
明日はボストンを発つという日、TOとボストン美術館に向かう
高速の道中、このエキノコックスの警告ランプがつき、

4、左後ろのタイヤがパンクしている

らしいことが判明しました。
後は飛行機に乗るだけとはいえ、いやだからこそ何かあっては困ります。
そのまま我々は4度目の交換にまたハーツに向かいました。



選択の余地なく(笑)今度の車はジープ。
もう怒る元気も失せ、力なく我々は

「じーぷのったことなかったしよかったんじゃない〜?」(棒)
「そうだねーいろいろのれておもしろいねー」(棒)

次の日、われわれはそのジープにトランクと大人3人が乗り、
無事に空港に着いてやっとのことで5台目の車を返却しました。
そしてサンフランシスコに飛行機で向かいます。

「サンフランシスコのハーツではどんな苦難が待ち受けているのだろうか」

心配しつつサンフランシスコのハーツに着いたら、驚くことにロットには予約していた

GPS付きのプリウスが

ちゃんと停まっていて(日本では普通のことでもアメリカでは略)
しかもそのプリウスには 、 

大型車でないと積載不可能と思われた大小計10個の荷物と
大人三人がまるで魔法のように余裕で収まったのです。

わたしたちは絶句し、

「ボストンの最初のプリウスにGPSさえついていれば・・・・」

あるいは2台目がもし日本車であったなら、
おそらく5台も車を乗り換えることはならなかったに違いありません。


日本と日本人と日本の技術の素晴らしさをあらためて認識しました。




 





 

集団的自衛権と「国を護ること」について〜ある元自衛官の話

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左翼と呼ぶのもおこがましい、ただの反日売国政党、社民党の

「集団自衛権反対ポスター」。

パパが北のお国に拉致されてしまい、その返還を
社民党があの手この手で邪魔をしたから、ってことでしょうか。

違いますね。

モデルとなった子供は社民党員の息子なのだそうですが、
彼は自衛隊員の息子、という設定です。
集団的自衛権のせいで戦争に行かされ戦死した自衛隊員の息子が、
帰らぬ父を思って泣いているのです。

なんて悲しい・・・・・

・・・・って、あほか〜い!

もしかして社民党って、集団的自衛権がなんなのか未だに理解できてないの?
個別的自衛権行使可能の現在でも,万が一の事態になった場合には

「パパが帰って来なくなる」

可能性はあるんですが。
自衛隊というのは、もともとそういうときに「帰って来られなくなる」
危険も顧みず、ママとボクを守るために日本に存在しているのであり、
そのために日頃厳しい訓練をしているわけなんですが。

そもそも、集団的自衛権を

「同盟国のために戦争しなくてはいけない」

義務、ということばかり強調して、根本の

「他国や兵だけど、守らなければうちの国民や防衛に害があるから守る」

ってところをまるまる無視してますね。
わかっていないのか、分からないふりをして馬鹿な国民を
ミスリードできると思っているのか、さあどっち?

それから、このポスターで最も不愉快なのは、社民党の
自衛隊に対するダブルスタンダードです。

民主党もそうですが、この件を反対するのに自衛隊員をダシにして
いつもは人殺しだの存在そのものをなくせだの、
散々その存在を否定し非難しているとは思えないくらいすりより、
ひどいのになると、自衛隊員のためのホットラインを設けて

「匿名でいいから自衛隊員の不安な気持ちを吐き出せ」

などと、本物かどうかわからない自衛隊員の反対意見を集めて、
それを反対の補強に利用しようと企んだり。

こういう野党の卑怯さに対して、自衛官出身の議員である
宇土隆史氏がこのようなことを言っています。



衆議院の野党、特に民主党の集団的自衛権の質問で
腹が立っていることがあります。
自衛隊員が大変だ、リスクが多くなる、隊員のご家族は不安に思っているなどと
いかにも隊員のことを思っているようなふりをして政争の手段にする。

自衛隊の現場は任務が遂行できるように目的に向かって
持てる範囲の装備品と練度でそれを確実に達成できるように
日々訓練をしています。
現場で

「集団的自衛権だからこれはできない」

とか、

「これは個別的自衛権だからやる」

とか、

「宣誓はしたけど集団的自衛権については適応外だから、
自衛官をやめます」

とか、そんな自衛官はいません。
皆真剣にこの国を愛し、自分たちの護るべき両親、恋人、妻、子供、
に何か起こったそのときには俺がやるんだ、命がけでもやるんだ、
そんな気持ちで現場は頑張っているんです。

給料だっていいわけではない、定年も早くて曹以下は54歳、幹部は56歳、
一番トップの階級に行かないと60歳まで務めることは出来ません。
定年後彼らは民間の職場に務めながら外から自衛隊を支え、応援し、
そうやって絆をつないできたんです。

そこに土足で入り込んできて、いかにも現場の自衛官が可哀想だ、
集団的自衛権には反対だ、なんて勝手なことを言わないでほしい。

我々が現場でいつも歯がゆく、また悔しく思っていたのは・・・、
自民党だってそうだったんです。

現在の防衛に関する法体系では、いざとなったとき国民を護ることができない
抜け穴がたくさんあることを認識していたはずなのに、
選挙に勝って政権を取り、大臣の椅子に座ってしまえば
一日でも長くそこに座っていたい指導者ばっかりだったのです。

でもわたしは初めて見ました。

自衛隊の最高指揮官として、この本質的な問題について、
選挙前からそれを訴え、憲法の改正も、集団的自衛権の行使もできなくては
国が護れないということをちゃんと言って当選し、
総理の椅子に座ってもそれを忘れずにきっちりやろうとしている政治家を。

安倍総理私は稀代のリーダーだと思います。


これとは反対に、こともあろうに現場の自衛官を政争の具にして、
国民の世論を釣るような野党の質疑を腹立たしく聞いていました。

現在集団的自衛権をめぐっていろんな極論が流布しています。

「このままでは戦争になるんじゃないか」?

どうやったら戦争になるんですか。
集団的自衛権を認めたら急に戦争になるんですか。
違いますよね。
我が国への明確な侵害があればそのときは自動的に
自衛のための戦争になるんです。

今回の集団的自衛権を限定的に認めているのは、
それを放置しておいたらそのうちこちらが火の粉を被ることになる、
それから動き出していては大変なことになってしまう、
そういうときに、限定的にでも行えること、たとえば米国の警護とか、
機雷の除去、不審船の立ち入り検査などをするべきなんです。

しかし、これまでこれらは全て集団的自衛権に觝触してしまっていた。

自分たちの国内法でそれを縛ってしまって全く手を出せない状況のまま、
何か攻撃を受けてからでないと何も出来ないのが今の日本です。
それでいいんでしょうか。

専守防衛というのは勿論「日本を守ること」です。

野党の連中は

「集団的自衛権の行使は自衛官が人を殺すということじゃないか。
自衛官が殺されるってことじゃないか」

なんて馬鹿なことをいっていますが、それは個別的自衛権の
行使範囲内でも十分同じことが起こる可能性があるのです。
我が国に対する侵略があれば個別だけしか行使できなかったとしても同じことなんです。

そのときにはどこかが攻撃を受け、誰かが死んでいる、ということです。

わたしたちが現場の自衛官に強要してきたのはこういうことなのです。
反撃する前に何人かの自衛官が死ななければいけない、
反撃する前に必ず何人かの国民が死ななければいけない。
それからでないと自衛隊は動いちゃいけない、なんてことを
言っているのが愚かな日本人なんです。

我が国に火の粉が及ぶ前に状況が不穏になる、あるいは
明確な侵害はないにしても、同盟国が動き出したときに何をするか。
というとそれは備えです。

攻撃をするのではなく、集団的自衛権の範疇の中で備える。
そういうことを今までしなかったのがおかしいのです。

初めてそのことが今国会の中で議論されていることがどうしてマイナスなのか。
どうしてアンケートを取ったら約半数が集団的自衛権に対し
いまだに否定的な答えをするのか。
皮相的な拒否反応からただ反対するのではなく、真剣に考えてほしいのです。

わけのわからない漫画家が国家間の戦争を身内の喧嘩になぞらえて

「そんなものに首を突っ込まず警察に逃げ込む」

なんて馬鹿なことをいったそうです。
国際社会でそれが通用するんでしょうか。
いざ我が国が戦争に巻き込まれたときに、一体どこに逃げるつもりなんですか。
国破れて海外に逃げたらそれは難民です。

自分たちを生み育て育んでくれた国土、祖先、自然、国柄、
そういうものに対する愛着をもって、それらを自分たちの手で
護らなくてはいけないと思えないような人間は、もう海外にでも行けばいい。

日本を護る気概の無い人間に日本国民を名乗る資格は無い。


そのために22万の現職の自衛官は、自分たちが盾になろうとしているんです。
政府の人間が彼らを後押しし護ってやれなくてどうやって国が守れますか。

戦争はある日突然起こるわけではありません。
平和もある日突然なくなるわけではありません。
平和から徐々に事態がエスカレートして戦争になるんです。
今はどの段階ですか。

7年前の平成19年、年間のスクランブル回数はたった300回です。
昨年それは850回を超えました。
事態は進行していると思われませんか。

そういうことが自分に見えないからといって平和だと思っていませんか?

水面下の、わたしたち国民の目の届かないところで実は
いろんな国家間のぶつかり合いがすでに始まっているのです。
軍事だけの話ではありません。
経済的なぶつかり合い、技術に関するぶつかり合い、また
エネルギーをめぐるぶつかり合い、歴史認識をめぐるぶつかり合い、
いろんなところで現実的にぶつかり合いが始まっているじゃないですか。

自分は安全なところにいて、そういう現実からは目を背けたまま
そう言った国とと仲良くしたい、
そんなことをいうような人間はどこかよその星にでも行ってほしい。


他国とも仲良くするためには、国際社会の一員として認められるには、
そのためには努力もしないといけない。
自分たちもまたリスクを負わないといけないんです。

わたしは日本を守りたい。



以上、ビデオレターを聞き書きして分かりやすく構成してみました。


 

朝霞駐屯地見学記〜戦車と自走砲と装甲車

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地下指揮所の見学が終わり、朝霞駐屯地にある広報館、
通称「りっくんランド」の外庭に出ました。

ここには、陸自の現役戦車、榴弾砲、自走砲などが、
所狭しと展示され、しかも触り放題。

基地公開などで装備を見ることはあっても、大抵柵が周りに廻らされて、
それ以上は近づくことができません。
しかしここは、完璧に戦車たちが休業状態で展示されているので、
(動的展示は行うのかもしれません)
ぺたぺた撫でたりさすったりしようが、頬ずりしようが
—どうしてもしたければですが—、あなたの自由なのです。

前々から洞察しているように、多くの男性には、女性からは
理解の範疇を超える戦車と戦車的な装備への強い執着があるようなので、
もしこういうこと(頬ずり)ができるなら、わざわざ来てみよう、と
思う人ももしかしたら中にはいるかもしれません。

それはともかく、わたしたちはこの戦車的な装備群を、
陸自の現役自衛官のゴージャスな案内付きで見学したのでした。




74式自走105mm榴弾砲

「自走式榴弾砲と戦車は、違うってご存知でしたか」

K1佐の問いに、わたしは黙っていましたが、TOは
知りませんでした、と素直に返答しました。


渡米して10日住んでいた町、フラミンガムのタウンホール前に
Howitzerと表記された銘板がついている「大砲」がありましたね。



息子と共に「ハウイッツァー」だと思い込んでいたところの(笑)
「ハウザー砲」であったわけですが、このハウザーとは、
榴弾砲の英語です。


榴弾砲、いう言葉の定義は、

「近いところに高く砲弾を撃ち上げる砲身の短い先込め砲」

となっています。

「しかしどう見てもこれは戦車ですよね」

とTO。
必ず牽引できるように車輪がついているのが榴弾砲だけど、
ただの榴弾砲が「自走」できるようになったものがこれなのだよTO。

自走させようとすると、どうしても形は
「戦車」と同じになってしまうってこと?

「戦車は自分で走り回って砲撃したり、動いている目標を撃ったりできますが、
自走式は遠くの目標に向けて砲弾を撃ちます」

さすがK1佐の説明はわかりやすい。
後方基地から狙うのが自走砲、前線を走り回るのが戦車ってことでいいですか。

しかし、74式は前線の部隊を支援するための小回りの聞く榴弾砲、
という観点で開発されているのだそうですね。

実は戦車と自走式の境界線は限りなく曖昧の模様。


 
中距離多目的誘導弾

このトラックが「誘導弾」つまり「弾」と称されている、
という法則は、つまり「自走砲」と同じで、

「車輪の部分は本体(砲)を動かすためにある補助」

ということから派生しているのだと思われます。
「89式」などの「式」という名前がついていないのは、これが
制式された装備ではなく、部隊承認で採用されるからだそうです。

この装備は「対船艇・戦車ミサイル」ですので、基本的には
自走砲のカテゴリに属するものなのですね。

 

誘導弾発射の瞬間(wiki)

誘導の方式は光波ホーミング誘導で、目標が発する光波を検知し、
その方向に向けて操舵することで目標を捉えるものです。

対船艇・戦車となっていますが、市街地のゲリラ戦も
想定しているので、目標は人間も可、だそうです。 


ところで、この誘導弾の下にある説明プレートには、

「展示物の上に登らないで下さい」

と書いてあります。
当然と言えば当然ですが、逆に言うと、これは

「触っても舐めても頬ずりしてもOK」

ってことです・・・・よね。




87式自走高射機関砲
 
愛称「スカイシューター」と書いてあります。
これを見て わたしはかねがね疑問に思っていたことを
この際K1佐に聞いてみることにしました。

「スカイシューターという公式名称は部隊で使われているんですか?」 
「現場ではガンタンクと呼ばれています」
「どうして名称が一致しないんでしょうね」
「制式と同時に決めたというだけですからね」

やっぱり、愛称というのは最初から決めないで、
自然発生的に現場から生まれるものを採用する方がいいのではないかな。

しかし、この機関砲の場合、部隊でついたもう一つの愛称が

「ハエたたき」
(高射、即ち航空機を撃墜するものだから)

というものになってしまったらしいので、
なんでもかんでも現場主導というのもある程度考えものですが。



94式 水際地雷敷設装置

遠くから説明していたとき、K1佐は最初、

「あれは橋梁架設のための車両で・・・」

とおっしゃるので

「YouTubeでそれが仮設している課程を見ました!(以下略)」

と盛り上がりながら近づいていったら

「あ、すみません、橋梁架設車じゃなくて地雷敷設車でした」

案外陸自の佐官でも専門でなければ間違ったりするのね。

「船みたいですね」
「水陸両用車ですから」

こんなタイヤがついたものが浮かぶとはとても思えないのですが、
実際にも東日本大震災の際には、海上での行方不明者捜索に陸自から投入され、
その際には地雷の代わりにダイバーを乗せて出動したそうです。



後ろのはしご段のような部分に敷設する地雷を仕込むのですが、
この写真に見える黄色い円盤形の物体は地雷で、
沈めて使う水際地雷I型がまだ搭載されているようです。
勿論万が一にも作動しないように展示してあるのでしょうが。

水際への地雷敷設、というのは取りも直さず専守防衛のこの国に

「敵が上陸してきた場合」

というのを想定しています。

国際社会には「対人地雷禁止条約」というものがありまして、これは

「いくら戦争でもターゲットが人間である武器はやめようや」

ということが決められた条約で、じゃあ普通の地雷は
ターゲットを船舶や車両と謳っている限りは人道的にOKなのか?
という矛盾を感じないわけにいかないのですが(笑)
とにかく、敵の着上陸侵攻阻止を防衛ドクトリンの骨子の一つとしている
我が日本においてもこれを粛々と批准したわけです。

問題は、国連参加国192カ国のうち批准国は151カ国で、
条約を拒否している国の中には

中国
韓国
北朝鮮

がきっちり含まれているということです。
因みに

アメリカ・ロシア・インド・ベトナム・インドネシア、

また中東の殆どの国が拒否しています。
対抗するために日本も拒否しろ!などとは全く思いませんが、
取りあえず日本に敵対している三か国が
すべてそういう姿勢でいることだけは認識しておくべきでしょう。 




89式装甲戦車

このフロントにある四角い4つのグリルのため、
機種を判別するのに少し手間取ってしまいました。

前にも書きましたが、これも防衛省の愛称は「ライトタイガー」、
現場では単に「FV」と呼ばれているようです。

よかれと思って決めたかっこいい愛称も、装備として日常的に使う隊員には

「いちいちそんな中2っぽい名前使ってられねー」

みたいな、つまり気恥ずかしさが使ってもらえない原因じゃないでしょうか。
この問題に深く取り組んでいるエリス中尉の私見ですが。

ところでこれは「装甲車」というわけですが、
キャタピラと砲身がついていたらとりあえず戦車、といってしまう
大抵の人間には、自走砲と戦車の違いがわからず、当然

「装甲車と戦車の違い」

も分からない思われます。
ついでに説明すると、「装甲車」はメインが「装甲」つまり
防御の意味が強い、即ち主目的は

「人員輸送」

にあるということだけ押さえればいいかと思います。
兵員輸送車に安全のために装甲したものであり、搭載している武器は
あくまでも自衛のためのもの、というのが基本です。

兵員輸送用ならばタイヤでもいいじゃないかと思われますが、
基本戦車と行動を共にし、一緒に戦地を走り回るので
キャタピラを装着しているわけです。

このFVは「歩兵戦闘車」ともいい、人員輸送だけでなく
積極的な戦闘参加を目的ともしており、搭載火砲も戦闘用です。

主砲である35mm機関砲だけでなく、7.62mm機関砲、そして
対戦車ミサイルも装備しているのです。




96式装輪装甲車

これはわかりやすい。
兵員を運ぶための装甲車で、機銃は自衛用です。


ところで、この装甲車(愛称クーガー、現場名称96)、
 大きな日本の旗がペイントされています。



アラビア語で書かれているのは「日本」。
そう、イラク派遣に使われた装甲車なのです。

こういうのを見ると、日の丸のアイキャッチャーとしての力は、
どんな国旗よりも強烈にアピールすることを実感します。 

ちなみにこの日お会いしたK1佐は、陸幕長の副官時代、
イラクに陸幕長とともに行っておられます。

わたし「ということは、あのときおられたんですね?
 ムバラク大統領に暗いうちにゴルフ場に連れて行かれたとき」
TO「松明を持った人が走っていって、そこに打てといわれて、
 明るくなって見たらコースの両側に銃を持った兵士がずらりと」
K1佐「もちろんあのときわたしも一緒でした。
 焦りましたよ。
 帰国の飛行機の時間がせまって気が気ではなくて」

ムバラク大統領なら飛行機の時間を遅らせることもできたとは思いますけど。



これがイラクに行っていたんだなあ・・・。

「一人でも自衛官がイラク派遣で殉職したら、
わたしは腹を切るつもりでした」

K1佐の上官だった元陸幕長の言葉がよみがえります。

戦車を撫でたりさすったりする趣味はありませんが、
思わず、白地に赤く描かれたあまりにも鮮やかな日の丸を手で触ってみました。

この装甲車に乗った自衛隊員が、この日の丸によって護られたことも
実際にあったのかもしれない、と思いながら。



続く。






 


ヒラー航空博物館〜次世代型航空機

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去年の夏滞米したときに見学したヒラー航空博物館ですが、
あまりにネタを小出しにしすぎて、全部報告し終わらないうちに
またしてもアメリカに来てしまいました。
今はまだ東海岸ですが、西に移動したときにもう一度訪れて、
前回とは違ったアプローチでご報告していこうかなと思っています。



ヒラー博物館はアメリカの航空博物館の中でもそのアプローチが
非常に多角的で勝つユニークなものだというのが、いくつかこの手の
博物館を訪れてわたしが受けた感想です。

やはり科学革新という意味で先端のシリコンバレーを擁し、
航空機に関しても先端の技術が集結してくるせいか、
ただ従来の航空機をメモリアルとして展示するだけに留まらず、
現在進行形の航空技術のあり方を想起するような科学技術の一端を
このような展示で見せてくれていると感じました。



そのヒラー国空博物館の一隅にこのような航空機の模型がありました。 
一見かっこいいのですが、そのコクピットや窓から想像されうる大きさを 考えると、
わたしの場合、先に「キモチ悪い」という言葉が浮かんでしまいます。

これが例えばせめてステルスくらいの大きさなら何とかなるんですが、
どうして大きいとキモいのか。

「巨大な造形物恐怖症」というものがあります。
インターネット社会になって、今までなら人に話すことも憚られる
自分の中の「フォビア」について堂々と(匿名ですが)
語り合うことができるようになったため、
様々な「恐怖症持ち」がそれこそ仲間を求めてスレッドを立てたりしています。
そういうのを見ると決してこれが特殊なものではないと安心するのですが、 
この「大きな飛行機が怖い」というこの性癖を理解できる方はいませんか?

たとえば、わたしはキャッスル航空博物館で見た

 

これとか(ブラックバード)



特にこれとか(B−52)を見ると、かっこいいとかなんとかよりまず
水族館で巨大魚を見たときのような何とも言えない落ち着かなさを感じます。
怖い、とまではいかないのですが、なんというか・・・・・
やっぱり、キモチ悪い、というのが一番近い気持ちではないかと思います。
この冒頭写真の飛行機はどこからどう見ても「エイ」なのですが、
エイやイカ、タコ、マンボウ・・・巨大魚類に対する感覚に通じるものがあります。

というわけで冒頭の飛行体がもし巨大ならこんなキモいものはないのですが、
これは

BWB Blended Wing Body  

という次世代型といわれる航空機なのです。

貼ることはできませんでしたが、ボーイングのHPの映像を見ていただくと
いかにこの飛行体が「エイ」そのものであるかわかります。
スティングレイといわれるあのエイの尻尾までちゃんと再現されているんですよ。

このBWBはボーイング社がNASAとの共同開発を行っているものですが、
NASAは

「環境的責任 航空プロジェクト(Environmentally Responsible Aviation project)」

の一環として、20年後を視野においた航空機の研究をしており、
その具体的なモデルがこのブレンデッド・ウィング・ボディ型なのです。




研究段階なのでいきなり巨大な旅客機を作るわけにもいかなかったらしく、
まずは1:8.5スケールのものを作り、様々な研究が行なわれています。
ちなみにこのサイズが翼幅6mということなので、フルスケールとなると
約50m・・・・・・・・・・やっぱり怖い(笑)


風洞実験中。


バーチャルツアー。

ブレンデッドウィングボディ、
というのは翼と胴体が一体型になっていることをいいます。
バーチャルツァーで内部を見ていただければわかりますが、客室が広いため、
全く窓に面していないコンパートメントが出て来る模様。
外が見えない乗り物、しかも航空機はおそらく受け入れられないと思うがどうか。

それだけが理由ではないと思いますが、
移動を目的とする一般人には、この飛行機、不評のようです。
今のところ旅客機の会社は、ほとんど興味を示していないようですね。

しかし「環境的責任」プロジェクトで、研究の結果この形が採用された、
ということに注目すると、このシェイプが
「省エネルギーの面で大きく意味を持っている」ということですから、
いずれはこういったタイプに航空機は移行していくということのようなんですね。
(やだなあ)

まず、このぬめっとした平たい形は空気抵抗がまず小さいので
省エネルギーであることはもちろん静音性が確保できます。
そして製造は簡単になるのかどうかはわかりませんが、
少なくともメンテナンスも楽そうです。
そして、貨物部が飛躍的に大きくなるので一度に輸送できる人員も増えます。

これは、万が一事故になったとき
それだけ被害も増えるということでもありますが。





OBLIQUE ALL-WING(オブリーク・オール・ウィング)

スタンフォード・テストモデル、と説明があります。
オブリーク、というのは「斜め」という意味で、オブリークウィングは例えば



こういう翼をいいます。
昔「斜め銃」を搭載した日本機がありましたが、あれだと
「オブリーク・ガン」なのかしら。
ついでに、「斜め上」は「Diagonally on」となります。関係ないけど。


All-wingという名称は、機体のすべてがこれ翼だからです。
これが飛ぶとこうなります。



怖いよこれ怖いよ。
だいたい、どっちに向かって飛んでるんですか。



と思ったら、飛んでる方向がわかる画像を見つけました。
斜に構えて進む飛行体だったんですね。
それでオブリーク、と。
なんかいろいろとツッコミどころの多い飛行体であるなあ。
どうやって着陸するの?とか、操縦席はどこ?とか。



ここにはこういった「普通でない形」の航空機のシェイプが
パネルで展示してあります。

ボーイング社のイメージカラーで塗装されているこの相胴の飛行機、
現代版のP−38か?と思ったのですが、これも「大変大きい」のだそうで、
相胴の片側はまるまる液体ガスかオイルのタンクになっていて、それらの
輸送を目的として作られたものです。

1970年のオイルショック後登場して来たコンセプトで、
その後代替燃料を模索する中、こういう輸送法も考案されました。



補助尾翼をつけた近未来的デザイン。
機能は向上すると思いますが、なんかかっこわるい。
なんだかバランスが悪いと思ったら、主翼にその機能を負わせるつもりだと思いますが、
水平尾翼が無いんですね。



ティルトローター式の飛行機。
オスプレイのテクノロジーをベースにしています。

ローターをティルトつまり機体側に傾けることによって垂直上昇が可能になるので、
都市間を結ぶの通勤用に使われることを期待しています。

これからのこのタイプの飛行機は、効率改善のために
翼の形がこのようになっていくだろう、ということです。

 
さて、ここで、わたしはどうしてもあの名前を出して来ざるを得ません。

 米国国防高等研究計画庁(DARPA)

の名前を(笑)

 

この、実にキモい飛行体は

ノースロップ・グラマン・スウィッチブレード

といい、アメリカがノースロップとグラマンに作らせた無人機ですが、
この飛行体のリスク軽減や 予備計画を公募したところ
DARPAの案が「受賞」し、
1030万ドルの「研究費」を獲得しました。

こういう形をしていますが、高速性、航続性、耐久性を求めた結果
このような形に行き着いたそうで、機体の下に付いているエンジン部分が
斜めに稼働し方向を変えるそうです。

斜め翼というのは
主翼全体を中心の一点を軸として斜めにある程度回転させるもので、
左右の片側は後退翼・もう一方は前進翼となるわけですが、
これは翼が回転しているのか、それとも下部が回転しているのか。

なんだか禅問答みたいですけど。


こういった変な、といってはなんですが、普通でないものを開発するとき、
そこに欠かせないのがこのDARPAだということがまた証明されましたね。

しかし途中経過はすべて省略しますが、案の定この計画は、

制御システムの難しさを理由にキャンセルされました。

負けるなDARPA。



これは解説の写真を撮り損ないました。

ボーイング2707SST


アメリカ初の超音速旅客機としてボーイングが1970年代に開発しました。
超音速旅客機といえば有名なのはコンコルドですね。

ところで私事ですが、アメリカにいる頃、ふと、
「コンコルドに乗ってみたいね」という話が出て、
まだその頃就航していたコンコルドの運賃を調べたことがありました。
答えは

「アメリカからパリまで普通運賃片道一人100万円」

ということで、その桁違いの高さに驚いたものですが、
コンコルドは、その非常識な価格と、滑走距離を要することがあだとなって
経営に苦境を来していたさなか、2000年7月5日の
シャルル・ドゴール空港での墜落事故が
きっかけとなって事故の二十日後に運行停止になってしまいました。


コンコルド墜落事故

実はその事故が起こったのはわたしたちがたまたま値段を聞いた直後。
もしうちが家族三人往復600万の運賃がポンと払える富豪であったら、
丁度その日コンコルドに乗っていたかもしれない、くらいのタイミングでした。





さて、コンコルドもそうですが、超音速旅客機が発展しなかった理由の一つは、
ソニックブーム(超音速突破のときの衝撃)です。

なぜ次世代型航空機の話をしていてこの、少し古い話をするかというと、
このソニックブームの低減の技術は現在でも研究され続けており、
その研究を主導で行っているのが、DARPAでもあるからです。

わたしはこの組織を甘く見ていたかもしれない。
ちゃんとした研究もやっていたんですね。って失礼?

ちなみに日本でこのソニックブーム低減の研究をしているのはJAXAで、

低ソニックブーム設計概念実証プロジェクト(D-SENDプロジェクト)

と称するプロジェクトを持っているそうです。 


さて、20年後、世界の空にはどんな飛行機が舞っているのでしょう。

ブレンデッド・ウィングボディの実用化はおそらく疑いないところでしょう。
もしかしたらその20年後には葉巻のようなオールウィングの飛行体が
主流になる日が来るかもしれません。

ところで、この「葉巻型」でふと思ったのですが、UFOのシェイプって、
わりと今地球で開発されている次世代型航空機に通じるものがありますよね?

もし他の惑星から地球を訪ねて来るくらいの高い文明を持った生物がいるのなら、
彼らの乗っている飛行体はそのまま人類が将来的に持つはずの航空機と
そっくりであったとしても全く不思議はないわけですが・・。



 

 

アメリカ食生活その1〜ヒスパニック寿司

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アメリカの食、というとほとんどの方は
ハンバーガーにピザ、ディナーはワラジのような肉、
皆夜は電子レンジで冷凍食品を暖めたカウチフード、
といった雑駁な、日本人にはとても受け入れられないものを
味覚の後進国民アメリカ人は量重視で食べまくっている、というのが
現状であると思われるかもしれません。

勿論、日本人の中にコンビニ総菜やインスタントラーメンばかり
食べている人がいるように、アメリカ人にもそういう人はかなりの数
いるわけですが、そうではない人だって実はかなりたくさんいるのです。

そしてアメリカの食は決して絶望的ではありません。
特に食材に関しては日本などよりよほど安く新鮮で素性のはっきりした
生鮮食品や加工品が手に入ります。


食材はオーガニック、ローカルフードを自分で料理して食べるといった
超こだわりの食生活を送っている人はおそらく日本以上にいますし、
厳格なベジタリアン、ビーガン(アニマルフードを取らない)は
徹底的にそれを厳守し、わたしは実は行ったことがありますが、
マクロヴィオティック道場を兼ねた宿泊施設なんてのもアメリカにはあるのです。

つまり、アメリカの食べ物は全てまずい、などと決めつけるのは偏見です。

もっとも外食になるとかなり美味しい店はその数が限られてきます。
そしてそんな中でも、なかなかマトモなものに巡り会えないのが、日本食、
特にスシというジャンル。

そもそも、本物の日本人がやっているスシ屋自体が稀少なのです。
本場のここ日本でさえ、たいしたことのない店やまずい店はいくらでもありますし、
多くの回転寿しは大抵美味しくないのですから、ましてやチャイニーズやコリアンが
アメリカで売られている「スシ・ハンドブック」を見て作ったようなスシが、
本物とは光年の彼我にまで隔絶した別のものになってしまうのは当然のことなのです。

しかし、わたしはここボストンに3年前オープンした、

「アメリカで非日本人が経営しているモールの回転寿し」

という、数え役満(麻雀しないんであまり意味わかってないんですが)
みたいなインチキ寿司屋に、アメリカのスシ現場の生の声をお送りするべく
体を張って毎年特攻をかけています。

2年連続でそのレポートをここにアップしてきたので、さすがにもう今年はいいかな、
と思っていた今年、日本からやってきたTOが俄然興味を示し、是非行きたいと
所望したため、第三次攻撃となる今回の突入を試みることにしたのでした。



この地域で比較的高級とされるこのモールには、アップルストアがあり、
ニーマンマーカスなどの高級デパート、一流ブランド品のショップが並びます。
写真は日本でも珍しいスタンウェイピアノの専門店。



この秋にユニクロがオープンするようで、日本人らしい社員が
パンフを配り説明するためにテーブルを出していました。



お店の名前は「ワサビ」。
こういう名前を付けるとき、アメリカ人は日本の
実際の寿司屋などをチェックするのかもしれません。
先日、

「シェフが推薦する世界のお店」

という本の日本のページを立ち読みしたら、大阪に
「わさび」という寿司屋があることが判明しました。
因みに、この本には他にいろいろ「アメリカ人のシェフが推薦している店」
がありましたが、どれもこれも聞いたことのない店ばかりでした。



日本ではあまり見ないタイプのコンベア。
ベルトに皿を乗せるのではなく、スリットから突き出た
短いバーに皿を乗せるオレンジのステーションがセットされています。



炙りのサーモンを一つ取ってみました。
上にかかっているのは何やら辛い、唐辛子ベースのソース。

そんなものが乗っていたらワサビと喧嘩しないか、って?

ご安心下さい。当店のスシにはワサビは一切入っておりません。
店名はワサビですが。

飲み物は、と聞かれたので「グリーンティー」というと、
伊藤園のおーいお茶のボトルがそのまま出てきました。
せめてグラスに入れようよ。

そして一口。

「うーん。やっぱりすし飯は酢の味がしない」
「ほんと?」

目を丸くするTO。

いや、厳密にいうと入っていないのではなく、
日本の寿司の10分の1くらいの量であろうと思われる
酢の匂いは時々しないでもないのです。

つまり、だしを全く使わず炊いたご飯に、いきなり
酢をちょろっと入れて混ぜただけのすし飯なので、
味がまだらについているんですね。どんなだよ。



「ほんとだ。酢の味がしない」

というわけで、結局わたしたちが取った寿司はこれだけ。
あとはテリヤキボウル状のものを頼み、寿司ではないものを取りました。

写真のクロウフィッシュ、というのはザリガニのことですが、
日本ではザリガニを寿司にすることはあまりありません。

てか全くありえねーよ。ザリガニ寿司。 

「伊勢エビのことかな」
「伊勢エビならロブスターっていうでしょ。
それに、わざわざロブスターをこんな店が使用するわけがない」
「じゃ本当にザリガニ・・・?」
「試してみる?」
「いいです」

最も無難であろうと思われるサーモン炙りがあれなのだから、
それ以上に素性の怪しいネタのものなど怖くて口に出来ません。 



こういう、外側ではなく内側にノリを巻き込む形の巻き寿司は
カリフォルニアロールの流れだと思うのですが、ノリで巻いて手でつかむ、
という巻き寿司の根本的な機能を全く理解していない構造です。

細巻きとか不格好な軍艦巻きはあるので、おそらくこれは不器用なアメリカ人が
太巻きを作れないからではないかとわたしはにらんでいます。

しかも、何でもかんでも「スパイシー」と称して唐辛子味をつけてしまう。
上質のネタにあっさりと少しだけ醤油とワサビをつけて食べるのが最高、
と考えている日本人にはありえないセンスです。

おそらく、彼らの使用するネタはろくなものではないため、
そのような食べ方では生臭いネタの味がごまかせないのだろうと思われます。



エビ天を巻き込んでいるそうです。
さすがに外側がご飯というのは見てくれが悪い、
という美意識くらいは持ち合わせているのか、いちいち外側に
わけのわからないソースをかける傾向にあります。

それがかえって見た目の悪さになってしまっています。



この「カズヨロール」というのも創業当時からの謎の一つ。
なんでもいいから日本人の名前をつけてみたのか。

ロールの上部にさらにネタを乗せる豪華版。
もう、日本のオリジナル寿司とは縁もゆかりもない別の食べ物と化しています。

寿司の内部にはお約束のアボカドが必ず混入。
前にも書きましたが、アメリカ人は寿司には必ずアボカドを使います。
きっと日本の寿司にもアボカドが入っていると信じているのでしょう。



ロールの上にエビを乗せ、マヨネーズをかけたもの。
なんのつもりか天かすをトッピングにしております。
見た目も汚いですね。



いなり寿司のことをアメリカ人は「イナリポット」というのですが、
これは「シーウィード・イナリ」。
ご飯ではなく和布蕪と人参を詰めてみました。
ヘルシーなアイデアですね。(棒)



TOが頼んだミソスープ。
緑のものが浮かんでいると思ったら、メキシコ料理によく使う
シアントロが浮いていました。

「みそ汁にこんな香りの強いものを入れるなんて・・・」

絶句するTO。
シラントロは、タイ料理にもよく使われ、タイでは「パクチー」、
中国では「香菜(シャンツァイ)」英語ではコリアンダー、
日本では「中国パセリ」といったりもするようです・

香りが独特で強いので、猛烈に嫌い、という人は世の中にたくさんいて、
息子などは「頭が痛くなる」そうです。
わたしは嫌いではなく、むしろメキシカンのときにはないと寂しい、
という程度に好きなのですが、さすがにみそ汁にはどうかと思いました。



寿司は回っているのを写真に撮るだけに留め(笑)、
あきらめたわたしは何か食べられるものはないかと
コンベアを流れてきた「そば」を取ってみることにしました。

確かにそばですが、ごま油の味がします。
いわゆる「そばサラダ」という位置づけのものではないかと思われます。

日本食と思わなければ許せる一品でした。



他に食べられるものはないのか、と思ったところに
枝豆が流れてきたので取ってみました。
いくらなんでも枝豆なら日本のそれと変わるところはないだろう。

と思ったら・・・・、

塩味がしない。

ゆでただけのシンプルな調理法です。
枝豆には必ず塩をふって食べるもの、という感覚の我々には
塩がないだけでかなり異様な味に思えました。

「僕の行きつけの小料理屋さんは枝豆の皮の毛も
こすり合わせて取ってくれるんだけど・・・。
まあ、でも塩抜き案外美味しいじゃない」

どうして食べるわけでもない枝豆の毛を取るのか、おそらく
この人たちには全く理解できないに違いありません。



日本の回転寿しのようにデザートの類いも回っています。
これは中にピーナツの入った豆だと思われます。

 

スポンジケーキにクリーム乗せただけの

「マウント富士ケーキ」。

 

オイシイケーキ。ってなんなんだよ。
だいたい見本と現物が違いすぎないか。



でたー。
キャタピラー・ロール。
カリフォルニアロールの中身にアボカドの薄切りをのせ、
人参で触角を付けて芋虫のできあがり。

食べ物を虫に喩えると言うセンスがもう終わっとる。



マグロの刺身をこれまた唐辛子で和えたものと思われます。



「あんな人が作っているんだからしかたないね」

オープンキッチンの寿司職人、とも呼びたくない従業員の
このような人相風体を見ながらひそひそ言い合うわたしたち。



決して美味しいわけでも感心したわけでもないけど、
ある意味日本人に取ってこういう店はネタの宝庫です。

ここがまずいことを知り抜いているわたしが、初回のTOを連れて
三度目の来店をしたのも、全ては本来のレストラン選びとは
全く方向性の違う、この理由によるものです。


ところで、かねがねここのオーナーは

「中国人ではない、韓国人でもない、日本人では勿論無い、
それじゃどこの国の出身か」

と思っていたのですが、写真を見ても分かるように従業員が全員ヒスパニック。
アメリカの寿司屋では従業員を東洋系にしているのがほとんどです。



ちなみにアボカドのロールの上に割いたカニかまと、
なぜかハムをのせ和布蕪をトッピングしたのが

「タイソンズ・ロール」

2年前からあるネーミングなので、もしかしたら
タイソン・ドミンゲスとかいうのがオーナーなのかもしれません。
それならメキシカンに使うおなじみの食材が入っている理由も納得ですね。

・・じゃなくて、みそ汁にシアントロ入れんじゃねえ!(怒)




 

アメリカ食生活その2〜ボストン美術館のレストラン

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アメリカの食は決して悪くない、と常々このブログで書いていますが、
旅行者としてアメリカを訪れ、高くてまずいだけのホテルのレストランで
美味しくもないのにウェイターが

「エブリシングイズグッド?」

とか聞いて来るとグッド、とかイエスとか答えてしまい、
チップも置くはめになって忌々しい思いをし、
街中のジャンクなファストフードや空港のサンドイッチで空腹を満たして

「やっぱりアメリカは飯がまずい」

と決めつけて帰ってくる日本人は多いと思われます。
アメリカには美味しいものもたくさんあるのですが、それは
実際ここに長期間住んで、地元の人々の評価するレストランや、
ローカルフードを自分で調理するということでもないとわかりにくいものです。



アメリカの便利な点は、食材を自分の好きな量買えること。
スーパーに行くと、あらゆる食材、調味料やスナックがこのように
「バルク」という量り売りをしています。
写真はナッツなどのコーナーですが、レーズンやカシューなどの他に、
調理に使う豆や米(玄米、胚芽米、白米、ジャスミンライス、その他たくさん)、
カレーパウダーや蜂蜜、紅茶の葉、ピーナツバター、オリーブの身・・・、
これらも全て少しだけ買うことが可能。



さらに、ほとんどのオーガニックスーパー「ホールフーズ」には、
野菜や総菜をバッフェのように好きなだけ取り、その場で食べる
イートインテーブルがかならずこのようにあります。



このホールフーズは、イートインのためにダイニングがあり、
時々はここのキッチンで料理教室も行われています。
掲示板にはヨガ教室などのお知らせも貼られ、大抵は
ちょっとしたコミュニュティとなっているのです。



この日お昼ごはんに買ってみたのは、息子の持っているのがラップ、
わたしはニューイングランド・ターキーサンドウィッチ。

右側の白い飲料は、2年前新発売になったシリーズで、
カシューナッツミルクにアガベシロップでわずかに味を整えたもの。
アメリカには代替ミルクとしての飲み物がたくさんあり、
豆乳以外にもゴートミルク、シープミルク(無茶苦茶まずい)

ライス
ライススプラウト
アーモンド
カシューナッツ

などの種類豊富なドリンクがよりどりみどりです。



何度かこのブログではターキーを話題にしてきましたが、この、
脂肪が少なくあっさりとしてしかも味わいのあるターキーが、
わたしはチキンよりも好きで、とくにターキーハムを、
クランベリーとクルミの入った胚芽パンに挟んだ、このサンドイッチは大好物。

ターキーはどこでも手軽に手に入る肉なのですが、



これではありません。
これはワイルドターキー。
食用の足の短いターキーです。
ワイルドの方が食べられるのかどうかはわかりません。



ターキーを見た日、前にもお伝えしましたが、
学校の近くのアイスクリーム屋に行きました。

持ち帰りが出来ない、その場で食べる昔ながらのアイスクリームショップ。
種類は豊富で、おそらく100種のフレーバーがあるでしょう。



隣の牧場にはニュージャージ種の牛が放牧されています。
去年3頭しかいなかったのですが、今年は増えて8頭になっていました。



遠くにここの子供と牧場主らしい男性が車から降りて来るのが見えています。




向こうに見えているのは芝刈り機で、放牧場以外のところを刈ります。
牧場の方は牛が食べてくれます。

牛も団体行動をするのか、このとき一頭が水を飲みに向かうと、
皆ぞろぞろとついてきて一斉に水を飲み出しました。



牧場主の自宅は、放牧場と同じところにあります。
アイスクリームを食べに来る客のために、このような
ホルスタインの親子を飾っていますが、長年の観察によると、
この牧場主とアイスクリーム屋のウルマンさんは別の人である模様。
アイスクリーム用のミルクはここから購入しているのかもしれません。



ニュージャージー種と同じ柄のセントバーナード。
この犬は牛をバックに何枚も飼い主が写真を撮ってあげていました。
老夫婦の子供がわりのように見えます。



どうも老犬らしく、自力で車に乗ることがなかなか出来ません。
飼い主も巨体の犬を抱えることもままならず、
長い時間かけてやっとのことで座席に上げていました。

夫婦と共に犬も年を取ってきたのでしょう。



さて、今年はボストンにTOが来たので、わたしの恒例である
ボストン美術館見学に二人で行きました。

このカフェは新しく併設された部分で、元々は外でした。
奥に見えているのがかつての外壁です。
明るく天井の高いスペースにある、ちょっとした食事もできるカフェです。

一人で来たときに軽くサラダを食べたことがありますが、
二人なのでちゃんとしたランチを取ることにしました。



前菜とメイン、デザートがついて来るコースを取ってみました。
それぞれいくつかから選べます。
まず冷たいガスパッチョ。



メインはアーティチョークのキッシュ。
アーティチョークも日本ではあまり見ませんが、
こちらではサラダの具やスープに多用されます。

キッシュは絶妙の柔らかさで、しかも暖かく、
外側のパイはサックリとしていながら口の中で
ほろほろとほどけるような食感。

TOの頼んだのはサーモンですが、赤いビーツとレモンの
ストリングのようなトッピング、そしてピスタチオの
ソースが単調なサーモンに味わいを加えてこれも秀逸です。





デザートは「エンジェルケーキ」。
エンジェルケーキとは、たまごの黄身を使わず、
泡立てた白身だけで作ったふわふわのケーキのことで、
大抵はリング型に流し込んで焼くのですが、ここでは一人分ずつ
カップケーキ型で焼いています。
ソースはラズベリーで、ピーチの煮込んだものが添えられています。

さて、ボストン美術館の素晴らしいところは、一度訪れたら
10日以内にもう一度同じ入場券で再入場できることです。

一日目に食事に時間を使ってしまったので、わたしたちはその翌日、
こんどはしっかり鑑賞するつもりで再訪しました。

すると入り口で

「今日はオープンハウスで、入場料無料です。
このチケットは10日以内にもう一度使えますから
取っておいて下さい」

と言われました。
どれくらいの割合かは知りませんが、当美術館では
こうやって時々、全ての人々に開放されるのです。
しかも週末は9時45分まで美術館は開いています。

あまりにも広大で、膨大なコレクションを誇るこの美術館、
いつ来ても全部見られたことはないのですが、
9時半までどう時間を使ってもいいのなら、ゆっくりと
(それでも全部は無理ですが)見て回ることが出来ます。

そして、そんな楽しみに食を提供するため、館内には
先ほどのカフェを含めて4つのレストランが併設されているのです。

この日、TOと、ここで一番グレードの高いレストランを予約し、
鑑賞の合間に夕食を頂くことにしました。



ブラボーというレストラン。
ミュージアムの中なのだから、もう少し凝ればいいのに、
なんだか直球みたいなネーミングですね。




テラス席があったので迷わずそこにテーブルを取ってもらいました。



手すりから下を見ると、美術館の中庭が広がっています。






皆思い思いにテーブルに座って、鑑賞の合間のひとときを楽しんでいます。
手前のお母さんと息子は、キャッチボールをしていました。

こういう時間と空間に余裕のある美術館で、一日過ごす楽しみ。
別に「勉強」のつもりで肩肘はって来る必要などないのです。
鑑賞に飽きたり、疲れたら、ここでずっと座っていてもいいのです。
極端な話、別に鑑賞しなくたっていいのですから。 




中庭を囲んでいるので、夕日を受けた背の高い木々から
吹き渡る風が夕方の空気を運んでくれます。
ボストンの夏は夕焼けのときがとても美しいのです。
 

床にこぼれているパン屑を目当てに、スズメも多数出張。



昨日のお昼、ガスパッチョが美味しかったので、ここでは
別の味が楽しめるかと思って頼んでみました。

どれもガスパッチョですが、違うベースで味が違います。
右からトマト、真ん中はおそらくパプリカ、左はズッキーニ。

日本のレストランのように運んで来るたびに料理の説明をしないので
何か分かりませんでした。

会話しているのを遮ってまで、メニューの説明を何としてでもしようとする
日本のあのサービスも時によりけりだとは思いますが、
こういうところでは少しくらい説明してくれてもいいかなと思います。



わたしの頼んだメインディッシュ。
カモのローストです。
ターキーもそうですが、わたしは日本で食べられないカモのような家禽が好きです。
日本では鴨南蛮とフレンチレストランで食べられるくらいで、
そもそも肉を買うことが出来ないのですが、アメリカでは
このカモのステーキというのもポピュラーです。

ところで皆さん、このカモの下にあるヌードル、何だと思います?
これ、うどんだったんですよ。
ジャパニーズ・ウドン・ヌードル。

ウドン、エダマメ、 ポンズ、フジアップルなど、日本の食材で
そのまま英語になっているものは結構あります。
大根は「ダイコンラディッシュ」。日本のカボチャは「カボチャパンプキン」。

白菜のことは「ナッパキャベッジ」といいます。
この「ナッパ」が「菜っ葉」から来ているのは明白ですが、
それが気に入らないらしい韓国政府が、これを「キムチキャベッジ」
と言う名称にするために頑張っているそうです。(なにを?)
しかし、あまり功を奏していないらしく未だに「キムチキャベッジ」になっていません。

日本海の名称もそうだけど、長年そう言うことになっている名称を
政府や一国が主導したからと言って、そんな簡単には変えられないと思うがどうか。



それはともかく、このうどんですが、オイリーなカモの下に敷いてあり、
どうもホースラディッシュにミソを混ぜたソースで和えているようでした。
添え物としては日本人には思いつかないアイディアですが、
これはこれでなかなか美味しかったです。

シソを乗せたカモの素晴らしかったことはいうまでもありません。



TOはマスを頼みました。
こういう場合、日本の料理人は顔を落とすと思うのですが、
あえておかしら付き(頭だけ)です。
しかも外側を黒こげのように焼いているので、我々日本人には
いまひとつの見かけに思われましたが、これが意外や意外!
マスのお腹をスライスして,中にポテトとリーキのソテー
(うちわのような育ち方をする太いネギの一種)が詰めてあり、
これもマスが淡白であるのを巧くカバーしていました。

さすがはボストン美術館、レストランのシェフも一流のようです。

「美味しいねえ」
「さすがは世界に名だたる美術館だけのことはあるね」

ルーブル美術館がそうであるように、美術館での観覧、
というのをただのお勉強の時間だけに終わらせず、
大人も子供も楽しく過ごせる時間にするための最も効果的な方法は、
美味しい食事を提供することなのです。

そう言えば、ある世界的なジャズミュージシャンが

「いいライブハウス?それはいいキッチンがあるところだよ」

と言ったという話がありました。
見る、聴くという楽しみを最大限に高めるには、「食べる喜び」
が大きな演出となるのです。

五感を全て刺激する美術館、しかも全ての人が訪れることの出来る施設。
こういうのが本当の「文化」だと思うのですが、皆さんどう思われますか。

わたしは、こんなときアメリカ人を心から羨ましく思うのです。 





 


ボストン探訪〜学生街ボストン

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昨日の閲覧元URL記録を見ていて、ふとUK並びに
ドイツのグーグルからヒットがあったらしいことに気づきました。
台湾のwikiに当ブログのページが貼られていて、ときどき
そこからの閲覧があるのは知っていましたが、ドイツとは・・・。

で、同日の閲覧ページに久々に上がってきていたのが
「秋水くんとコメートくん」
という4コマ漫画のエントリで・・・・。
まさか、これをドイツ人に見られたんじゃないだろうな。

と心配しているところのアメリカ滞在中であるエリス中尉です。 
いやー、世界は狭くなったものですねえ(棒)


さて、毎年わたしたちがアメリカにいる時期、一度は家長である
TOが夏休みを取って遊びにきます。
大抵は西海岸にいるときなのですが、今回はボストンにやってきました。

その理由はわたしが落馬事故で右手首を骨折し、
8月の再手術で骨を固定している金具を取るまでは
決して多い荷物を持たないようにと医師から言い渡されているため、
大量のトランクを持って東から西海岸に移動するのに不安が
(わたしじゃなくてTOが)あったからです。

息子ももう大きいので重いものは任せてもいいのですが、
心配性でかつ愛妻家のTOはやはり自分が行かなくては!
と張り切って自分が出動してきたというわけです。

彼に取っては東海岸は実に久しぶりなので、滞在中、
普段はわたしも行かないような昔住んでいた地域やお気に入りの店、
ボストン美術館などを毎日見て回りました。

そして、この日、わたしたちはTOが留学していたボストンの
大学キャンパスを久しぶりに訪ねることにしたのです。



ボストンには大学がたくさんあります。
この大学はその中でも特に古い歴史を誇ります。



大学最大の図書館。
何本も立ち並ぶ立派な柱と石段が有名です。

この図書館は、ここの学生だった息子を海難事故で失くした
資産家の両親が、息子の思い出のために寄付したお金で作られました。

 

彼女が寄付をするとき、大学関係者にこんな注文をつけたそうです。

図書館内にいつでも花を絶やさないこと。

当大学の学生には水泳を習うことを義務とすること。

図書館内でアイスクリームが食べられるようにすること。

花は当然として、「水泳」は、彼女の息子が海難事故で死んだのは
彼が泳げなかったせいだと彼女はそのことを悔やんでいたためであり、
アイスクリームは息子の好物だったからです。



水泳を習わせることは学生が多くなると不可能になり、
アイスクリームもなかなか難しいものになってしまい、
現在では花を飾ること以外は廃止されました。

廃止に当たっては寄贈者がとうに故人となっていたため、
遺族にその許可を得たそうです。


ところでこの海難事故ですが、彼らの息子が乗っていたのは、
あのタイタニック号でした。
突っ込むわけではありませんが、もし彼が泳ぎができたとしても
助かる可能性はあまりなかったという気がするのですが、
それでも親なら「もし泳げたら助かったかも」と
わずかな可能性を思いこころをいためるものなのでしょう。



寄贈によって大学の建物に自分の名前を遺す、というのは
アメリカの名門大学の出身者にとって名誉なことです。

「ある愛の詩」で、主人公の学生が恋人になる女学生に
父親が寄贈した建物の名前と同じであることを聞かれて

「あれは親父がやったことで僕とは関係ない」

とふてくされるシーンがありましたね。

あるいは、夫の遺産を、夫の出身校に寄付する未亡人もいます。
ある日、大学の事務局に老婦人が訪れてこういいました。

「当大学出身の夫が亡くなりましたので、
ほんの少しですが寄付をさせていただければと思うのですけど」
「それはそれは。お志だけでも大歓迎ですよ」
「本当に少なくて申し訳ないんですけど」

彼女がそう言いながら出した小切手には50億円が書かれていたそうです。

どこの大学でもそうですが、特にこの大学は、寄付金などを蓄積してきた、
米国内はもとより、全世界でも飛び抜けて巨大な大学基金によって支えられています。
年間の寄付金(エンダウメント)は、約800億円。

ちなみに日本の21世紀COEプログラムは年間全予算が約370億円です。

 

ツタが絡まるれんが造りの校舎はかなり昔からバリアフリーです。



ゲートをくぐっているのは警備員。
アメリカの大きな大学は警察を持っていて、
パトカーで学内を警邏しています。


広大なキャンパスはあちらこちらが区切られ、門が区画を区別します。



学校の敷地の中に教会もありますが、TOに聞くと
これは学校とは一応関係ないとのこと。

警備員の写真の右上に教会の塔が見えていますが、
これは大学の設備?でメモリアルホールといい、
戦没した出身者の名前(南北戦争)が壁に刻まれていた記憶があります。

ここでときどきコンサートが行われたので何度か行きましたが、
ここがイグノーベル賞の授賞式会場でもあることは当時知りませんでした。



「ああ〜久しぶりだなあ!」

感極まったTOが嘆声を漏らします。
彼はここで勉強していたのです。



円柱の上にはラテン語で何やら書かれております。
因みにこの学校の卒業式には、卒業生代表がラテン語で卒業の辞を
述べるのが慣例になっています。
TOのときには確か女子学生が総代でした。



その偉容に圧倒されそうになる学舎。
アメリカの大学って本当に威厳に満ちていて、
歴史の重さを肌で感じることが出来ます。

このような環境で勉強する学生は嫌でも誇りと挟持を持って
大学名に相応しい学問の徒であろうとするでしょう。



「あれ〜!こんなものができてる!」

彼がしばらく来ないうちに、大学は新しい学生センターを完成させていました。

「そう言えば、これこれを造るから寄付をよろしく、ってきてたなあ」
「寄付したの」
「してますよー。毎年少しずつコンスタントにしているのもあるし」
「それがランプの傘とか花瓶代くらいにはなってるわけね」

新しいホールに入ってみました。



TOの恩師その1。



TOの恩師その2。

「気難しい先生でものすごく怖かった」

そうです。
確かにそんな感じですね。



毎日ここから入っていったそうです。



無駄に多い柱に支えられたアーチ。



この学校で最初に造られた図書館。

昔、この図書館はタバコの火の不始末で全焼したことがあるのだそうです。
しかし不幸中の幸い、最も貴重な初版本の何冊かを、不始末をした学生が
家に借りて持っていたため、焼失を免れました。

本来ならばその学生は退学処分になるはずだったのですが、
ここで学生は学校に取引を申し出ました。

「わたしを退学にしたら、これらの本は返さない」

それは取引ではなくて脅迫ではないのかと思ったあなた、あなたは正しい。
どう見ても立派な脅迫ですありがとうございます。 


しかしこの辺りがこの大学の面白いところで、
引っ捕らえて脅迫罪とか器物損壊で訴えてしまうことなく、
彼の申し出の通り彼の学籍の確保の保証と引き換えに
貴重な本を取り戻し、双方ハッピーとなったそうです。



大学創始者と皆が思っている人物の銅像の周りには
いつも観光客や、ここで行われているサマーキャンプの生徒で一杯です。
本物の学生は今の時期ここにはおりません。

この銅像の人物は創始者ではなく、遺言で蔵書と所有不動産の半分をカレッジに遺贈した、
最初の寄付者で清教徒派の牧師です。

しかも本物はこの銅像のようにハンサムではなく、モデルは
全く別人だということです。



学内を歩いて反対側の門までたどり着きました。



1794年の卒業生、ジョセフ・マッキーンを記念した
「マッキーン・ゲート」であると書いてあります。
なぜマッキーンを記念しているのかまでわかりません。



「入学するまではこの門が高く見えたもんなんだよ」

・・なんか最近どこかで聞いたな同じセリフを。

「全然高く見えないんですがこれは」
「高くじゃないな。立派すぎるというか権威の象徴と言うか」
「確かに古くて趣はあるけどそんなに立派かなあ」
「これから入ろうとする人にはそう見えるんです」



さて、懐かしの母校を出て、次の目的地に向かいますと・・。



道沿いに東部工学系の雄、マサチューセッツ工科大学が見えてきました。
MIT、通称ミット。
ここを出ている知り合いはわたしの交友範囲では一人だけです。

今は某携帯会社で働いていますが、昔はBOSEにいました。
同居している彼のパートナーいわく、あのウェーブシステムは

「彼が内部のどこかを造ったはずよ」

だそうです。



かっこいいなあ。
言っては何だけど、なんだかTOの大学よりMIT出身、という響きに
心の底から「すげー!」と思ってしまうわたしです。

通りがかりに見えるキャンパスのオブジェ。
割と最近出来たものらしく、見るのは初めてです。
全部数字で出来た人形は、いかにもMITらしい。



さらに進んでいくと、わたしのお買い物エリアである
ニューベリーストリートを横切るのですが、この地域に
あの有名なバークリー音楽大学があります。

そのせいでこの道の反対側は全て楽器店。



この辺りを歩いているのは殆どがここの学生であるため、
殆どが何らかの楽器を携えています。
髪をちょんまげにした東洋人は、まず間違いなく全員日本人です。

わたしの仕事仲間のベーシストもここに留学しましたが、
入学するなり見も知らない他の学生からセッションの電話がかかってきたそうです。

ちなみに彼女は日本でやはりミュージシャンの彼氏と付き合っていて、
お別れの原因というのが彼の「ドメバイ」だったというのですが、
バークリー在学中に付き合い出した男性も「殴る男」だったそうです。
わざわざアメリカに行ってまで殴る男と付き合わなくても・・・。

わたしはこの人生で殴る男性を一度も身近に見たことがないのですが、
その手の人とばかり付き合ってしまう女性っているんだなあ、
と妙に感心したのを思い出しました。




向かいに見えているのはシンフォニーホール。
ボストン交響楽団の本拠地です。
わたしたちがいたころ、まだ小沢征爾がボストン響にいたので、
演奏を何度か聴きにいったものです。

「オザワはボストンの人々にとても愛されているよ」

ボストン在住の知人はこう言っていました。


このようにボストンはカレッジを含む古い大学がたくさんあり、かつ
学校自体が歴史的史跡でもあるので、街全体が美術館のようです。

TOが「入る前は門が高く見えた」と言った日本の出身大学は京都にあるのですが、
このボストンと京都とは偶然姉妹都市です。

いずれにしてもどちらの門もくぐれてよかったね。








 


 

三井造船資料室〜呂号44と橋本以行中佐

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呂号潜水艦というのは大日本帝国海軍の潜水艦型のなかで
艦体の規模で3つにわけた等級の2番目にあたります。

一等潜水艦はご存知「伊号」潜水艦で「海軍大型」を意味する「海大型」である

「伊号第51潜水艦」 全長91.44m、基準排水量1390トン

に対し、呂型は冒頭写真の

「呂号44潜」で全長80.50m、基準排水量960トン

というものです。

等級の3番目は日露戦争の際ロシアに対抗して作られた「ホランド型」潜水艦、
1909年にヴィッカースから輸入したものとそれをひな形にして日本で作った「波型」で、

ホランド型 全長20.42m、103.25トン

波型 全長38.48m、排水量304トン

という可愛らしさです。
可愛らしいと云えば(笑)ついでにわれらが陸軍潜水艦、「ゆ」「まるゆ」も比較しておくと、

全長 41.41m 排水量 274トン

ですから、小さい小さいと言われていても「まるゆ」は日本が最初に作った
(技術がないのでアメリカの潜水艦を買ってきてばらして組み立てた)
ホランド型の2倍はあったということになり、波型よりも3mも大きかった、
ということですね。
あまり「まるゆ」を馬鹿にしないようにね。

余談ですが、これを書くために実に久しぶりにwikiの「三式潜行輸送艇」の記述を見たら、
わたしが最初に見たときの2倍に記事が増えており、当時はなかった

「汝は何者なるや?」「潜水可能なるや?」

と海軍艦にディスられた話もちゃんと掲載されてるうえ、お披露目の際

「すぽーんと潜っていったのを見て海軍は『沈んだ』と大騒ぎ、陸軍は万歳三唱」

というあのシーンにもちゃんと追加説明がなされているのに驚きました。

やはり「艦これ」のブームはこういうところにも影響しているのね。

「萌え化」というのは必要悪とでも言うのでしょうか、調子に乗って何でも
「そちらの方」に持っていこうとする不逞の輩が後を絶たないため(オタクのヤオイ系?)、
顰蹙と、それゆえ支持する方にも一種の「疾しさ」がつきものの現象だと思うのですが、
「艦これ」が既に愛好者の一般化による「皆でやれば怖くない」状態に突入しているのは
先日のカレーグランプリイベントの人出を見ても明らかなところです。

功罪だけで語ればこういう知識の普及拡大という功績もあるわけですしね。
これも時代だし目くじらを立てるほどではないのではないかと思っています。

ただ、実際に軍艦に乗っていた軍人たちが生きてこれを見たらどう感じるのか、
ということをわたしとしては正直考えないわけではありませんが(笑)


さて、呂号潜水艦に付いてはこのブログで一度だけ、

「潜水艦ろ号未だ浮上せず」

という藤田進主演の映画について書いたときお話ししています。
最後に描いた「俊足芸者幸子」がごくごく一部の読者に受けたエントリですが、
この映画が伊潜ではなく呂号をテーマにした理由はなんでしょうか。

「潜水艦ろ号未だ浮上せず」のエピソードの中に、この呂潜が

「原子爆弾を積んで航行中のインディアナポリスを沈めた」

というフィクションがあるのですが、実際に原子爆弾をテニアンに輸送後
航行中の「インディアナポリス」を撃沈した伊58潜の艦長であった

橋本以行(はしもと・もちつら)海軍中佐(海兵59)

が、実際に呂号潜水艦の艦長をしていたこともある、という関係で
その著書から映画のエピソードを拾ったからではないかと思われます。

玉野の造船所で「ふゆづき」の自衛艦旗授与式があったと報告したとき、
ここで建造された呂号44に関連してある読者から橋本中佐の著書

「伊58帰投せり」

をご紹介いただきました。
橋本中佐はやはり中型の「呂31潜」を始めに、「伊158」を経て
冒頭写真の「呂44号」ができたときの艦長を務めています。

まだこの紹介していただいた本を手に入れていないので、
いただいたお便りからの引用になりますが、橋本中佐が偽装から係った潜水艦、

「伊24」「呂44」「伊58」

のうち、この「呂44」が

「 最も無駄が少なく整然と建造された」

と書かれているのだそうです。
無駄がなく整然と、というのはどういうことかというと、
橋本艤装艦長にとって「伊24」(佐世保)「伊58」(横須賀)は 

 いわゆる「親方日の丸」の言葉のもとに物資や時間の浪費が平気で行われ

その点三井造船はそうでもなかった、という意味らしいのです。
それでは民間工場はどうであったかというと、今度は反対に、 
杓子定規に契約したことだけを工期内にやることを第一義としていたようで、

やり直しを頼めば「ボーナスが減る」と返答する有様である。
無断で操作でもしたら、損害賠償といい兼ねまじい有様であった。

というような状態。


こういう建造側の態度がではどう現場に悪影響を及ぼすかと云うと、

完成して引渡しがすむまではなに一つ練習させることも研究させることもできず、
急速訓練上には大いに支障があった。

と橋本艦長は嘆き節です。
 


橋本以行が冒頭写真の呂44潜に着任したのはインディアナポリスを撃沈した
伊58潜に艦長就任するその前で、当時橋本は33歳。(一ヶ月後に34歳)

ここからもメールで頂いた著書からの内容になりますが、橋本は艦長着任にあたって
艤装が済んだ艦に電探を装備するように、呉工廠等の各部署に要請をしたのですが、
結局電探は装備されることがないまま昭和19年ラバウルの前線に出ることになってしまいました。

その理由というのが内部の工事分担の縄張り争いなどのためだというのです。
橋本にとって他の海軍工廠よりも「無駄なく整然と建造された」と評価した
この三井造船においてもやはり 所謂お役所仕事の弊害があった、ということでしょうか。

 戦争と云う国家の一大事に直面しようかというのに、とても現場では
己の主張ばかりが強く、とても「挙国一致」とは言いがたいのが実情だったというのは
後世の我々にしても、組織というものが陥りがちな事態というのは
たとえ非常時であってもいつの世も同じであるということの証左に思えます。

さて、呂型潜水艦のことを「海軍大型」の海大に対し「海中」型というのもあります。
海中型で戦線に投入されたのは最終型であった海中型6号の2隻だけでした。
44号の「35型」はいわゆる戦時量産タイプで、文献によっては

海中VII型二等潜水艦

と呼んでいるものもあります。
ここ三井造船では

呂号44、46、49、50、55、56

を建造しています。
特に橋本中佐が艦長であった呂号44については特に三井造船が

「技術の粋を集めて建造した当社の潜水艦1番艦です」

と記述をしているように、最初の潜水艦建造であったからこそ、
橋本のいうところの「縄張り争い」も起きたのかなという理解もできます。

この呂号は三井玉野にとって最初で最後の潜水艦建造となりました。
しかし量産効果で手際が良くなり、最後の呂56は1年弱で完成しています。




三井造船はこの頃、潜水艦だけでなく掃海艇や
この画像のような規格型戦時標準船の大量建造も行っていました。


量産型であれば何かと手抜きや不備も多かったのではないかと言う気もしますが、
案外この呂型は、大きさが手頃だったせいで運動性能にも優れ、
現場からの評判は悪くなかったということです。

ただし、潜水艦というものの宿命として、戦時中の頻繁な喪失は避けられませんでした。

ここ三井で建造された呂型の退役年と艦長名を記してみましょう。

呂44号・・・・1943年建造、1944年マーシャルで米護衛駆逐艦の攻撃を受け戦没。
      艦長 上杉貞夫 大尉:6月16日戦死 運用期間9ヶ月

呂46号・・・・1944年竣工、1945年沖縄で艦載機の攻撃を受け戦没。
      艦長 木村正男 少佐:4月25日戦死 運用期間1年2ヶ月

呂49号・・・・ 1944年竣工、1945年沖縄方面で沈没と認定。
      艦長 郷康夫 大尉:4月15日戦死認定 運用期間1年1ヶ月

呂50号・・・・ 1944年竣工、1946年4月1日 五島列島沖で海没処分。
      最終艦長 今井梅一 大尉:  

呂55号・・・・1944年竣工、1945年ルソン島西方で米護衛駆逐艦の攻撃を受け戦没。
      艦長 諏訪幸一郎 大尉:1945年2月7日戦死 運用期間4ヶ月

呂56号・・・・1944年竣工、1945年、沖縄南東で米護衛駆逐艦らの攻撃を受け戦没。
      艦長 永松正輝 大尉:1945年4月9日戦死 運用期間5ヶ月

 
橋本中佐が艤装艦長を務めた三井造船最初の潜水艦呂44ですが、
橋本が伊58潜の艦長に転勤して上杉大尉が艦長になって一ヶ月後、戦没しています。

このように、潜水艦の寿命は大変短いもので、 内海で訓練の後に第一線に投入し
初陣で戦没、あるいは竣工から数ヶ月で喪失という例も多かったということです。


橋本中佐がインディアナポリスを撃沈したのは有名ですが、これは
後にも先にも橋本が艦長としてあげた唯一の戦果でもあり、
呂号全体の戦果でも駆逐艦、輸送艦など数隻を撃沈したに留まります。

これに対し、最後の海中型である呂33、34型、
海軍小型である呂100型の18隻、
そしてこの呂50号を除く35型の17隻。

大戦中投入された計37隻の「呂型潜水艦」は、一隻を残して全て戦没しています。

 




 

ウェルズリー大学の「ノバリケン」〜東部アメリカの生き物

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「あるくうた」でもお話ししたように、アメリカでは
地域の観光を兼ねて毎日あちらこちらを歩いています。

息子からかねてから

「学校に大きな池があってそこを皆走ったりしてるよ」

と聞いていたので、TOが来たとき、息子のキャンプが行われている
ウェルズリー大学の構内を探検がてら歩いてみることにしました。



夏休みであるせいで構内には人影はありません。
1870年代にできたカレッジなので、構内の建物は
どれも歴史を感じるものばかり。
先日見学したTOの母校と違うところは、郊外にあるので
キャンパスそのものが広大な自然であることです。



広々とした緑地に通路がありますが、ランプのデザインもお洒落。
この同じデザインのランプが学校の外の道にも設置されています。



息子はこの奥の校舎でキャンプをしているはず。

週ごとに自分がメインでやりたいコースを決められるほか、
体験的なイベントも数多くあります。
息子はフェンシングや手品、音楽(ドラム)を選択していました。
手品は、ただネタを習うのではなく、心理学の授業もあるそうです。
「魔法」なんていうのも探せばありそうだなあ。



どうもこのタワーが学校のメインタワーというか時計台?
もしかしたら教会かもしれません。



階段を上がっていくと教会の内部に入っていけますが、
このときも緑のドアは開いていました。

「いつでも入っていって懺悔できそうだね」



残念ながらわたしたちには学内の建物について何の知識もありません。
いずれにせよ100年以上経っているものばかりで、
しかも今現在も現役で使い続けています。



ボストンは何処に行っても百合が咲いているのですが、
野生のものではなく、かつて植えた球根が増殖しているものが多いです。
ところでここに立っている杭ですが、



この文言、日本でも町のあちこちで見ますね。
これはどこの宗教団体のものなのでしょう?



ステンドグラスのように見えますが、材質がどうも薄い石のようです。

さらに歩いていくと、池のほとりに着きました。



グースが草をついばみに上陸してきています。
と、そのとき・・・。



変わった鳥が変わった泳ぎ方をしながらまっすぐ
岸に向かっています。
首を激しく前後にこぐように振り、ピントが合いません(笑)



岸に上がりました。
やはり激しく首を振っています。
なんだなんだ。



なにをそんなに急いで岸に上がる必要があるのだろう、
と二人で立ち止まってみていたら・・・



陸に上がっても激しく首を振りながら近づいてきます。

「こっち来たよ〜!」
「なにこれこわい」



この鳥さんの威嚇のポーズなんですね。
しかし、こんな鳥を見るのは初めてです。
どの程度の攻撃力を持っているかは知りませんが、
とにかく我々を水上から見とがめ、わざわざ上陸して
追っ払おうとしているらしいことはわかりました。



わたしではなくTOに向かっていきます。
赤い靴ひもが目立ったからかもしれません。



突入直前に立ち止まってこちらを確認。
なんでやねん。



こちらをにらんでいるので初めて顔のアップが撮れました。
顔の部分が全部トサカ状です。
こわいよ君の顔こわいよ。

彼はそのままTOの靴に向かって直進し、
靴をつつきました。

「靴つつかれた〜」
「痛かった?」
「全然」



顔は怖いけどあまり攻撃力はないとみた。
でもこんなのに向かって来られたら大抵の動物は怯えるよね。
子供なら泣いちゃうかも。

このあと彼はTOの靴に2度目の攻撃を加え、




鼻息も荒く引きあげて・・・・
と思ったら、今度はわたし?わたしなの?

「やだー」

脚を振り上げると



ふんっ!今日はこのくらいにしといたるわ!

とばかりに池に戻っていきます。
なんだったんだ・・・・。



通り過ぎるそのご尊顔をバッチリカメラに収めさせていただきました。
なんだこれ・・・。

家に帰ってからいろいろと調べたのですが、この鳥は
カモ科の鳥で、

ノバリケン(Cairina moschata)

という種類であることが分かりました。
ノバリケン・・・?
いったい日本語か外国語か、どちらなの?

英語では

Muscovy duck

といい、カモの種類であることがわかる名前ですが、
ノバリケンって、全くその方向性も分からない名前だなあ。

ノバリケンのノは「野」で、「野バリケン」、つまり
野生のバリケン。
家畜化されたのはただのバリケンというそうです。
変な語感だと思ったら南米の産で、日本には家禽用の「バリケン」が
輸入されたこともあるようなのですが(てことは食べられるんですね)
全く普及しませんでした。

ただ、このバリケンは飛べるので、逃げ出して全国に生息しているそうです。
首都圏ではつくば市の洞峰公園に、白いバリケンがいるようです。



散々威嚇して、気がすんだのか水に戻るノバリケンくん。
グースの群れを突っ切るときにグースにむかって

「何を見てんねんコラ」


とばかりに威嚇していきました。



この池の周辺は一切護岸工事の類いをしていないので、
水辺から岸まで段差なく上がって来られます。
水際は湿地のようになっていて、このような池の端を
わたしたち日本人はもはや見ることはありません。

ノバリケンくん、泳いでいってしまうのか?



なんか泳ぎながらこっちを見ているような・・・。



グースの群れごしにこちらを監視している模様。
威嚇したのに一向に立ち去らないのでムカついてる?



も ど っ て き た (笑)



「ちょっと兄さんすまんな」



「な、なんなのこの人相の悪い人」
「悪かったなあ生まれつきこんな顔なんや。
そこのいてんか。わしあそこの人間に一言いうたるさかい」 



ずんずんずんずんずんずんずんずん
(BGMジョーズのテーマ)



なんともう一度ガン付けに来たのでした。
世界の平和を守るために大変ですね。



近くに来てひとにらみして

「これ以上立っとったらしょうちせーへんでー」

と言い捨てていってしまいました。



「面白い鳥だったね」
「なんていう鳥だろう」

話しながら石造りの古い橋をわたり、ふと下を見下ろすと



お い か け て き て る (笑)

「すごい勢い」
「さすがに橋の上にはつつきに来れないよな」
「駆逐艦みたいだね」

 

そのまま泳いでいってしまいました。
ノバリケンは樹上生活をする鳥だそうです。
おそらくこの先に彼の愛の巣があるのでしょう。
基本的に一夫多妻の団体生活をする習性があるらしいのですが、
一羽で哨戒していたところをみると間違いなくオスだったようです。



湖にそって歩いていくことにしました。
立派な石柱をあしらった手すりがここにだけありますが、
ここは私有地、つまり誰かの「庭」だそうです。
土地の余っているアメリカ郊外の家は、庭に柵を設けず、
隣との境も曖昧でそのままフィールドにつながっていたりしますが、
この所有者は湖のほとりまでを所有地にしたのに、
ウェルズリーを訪れる人たちが湖を一周できるように
柵で仕切って通行止めにするようなことをせずオープンにしているのです。



その所有者のお宅はこのような豪邸。
ベッドルームが軽く10室はありそうです。

 

所有地内の樹木は全てこのように変なカットされています。



しばらく歩いていくと、前庭部分の木だけを切り、
自分の家から湖が眺められるようにした家発見。
それほどの豪邸ではありませんが、何しろ贅沢です。

そしてよく見ると・・



庭に鹿がいるようです。



向こうに見えるのはウェルズリー大学のボートハウス。
なんとここのボート部は、学校内に練習用の池をもっているのです。
ハーバード大学のボート部がチャールズリバーで練習しているのは
有名な話ですが、彼らはチャールズリバー沿いにボートハウスを持っています。



こめんのところどころに白い花が咲いているので何かと思ったら
蓮の花でした。

細い山道のようなところをさらに歩いていくと・・・



蛇が道を横切っていました。



「蛇って顔可愛いよね」
「目が可愛いね」

立ち止まって眺めていると、蛇は慌てて逃げ出しました。
手も脚もないのに、飛ぶようにどこかにいってしまいました。



湿地帯の上には桟橋のような通路が造られ、
ところどころになんのためなのかベンチまであります。

「尾瀬が貧相に見えるなあ」
「あそこほど人もいないしね」



ボートハウスのところまでくると、白鳥が三羽たむろしていました。



そして道を横切るウサギ。



とりあえず草むらに逃げます。



土の上で擬態してじっとしています。
写真を撮ったら手前の花にピントがあってしまいました。



もう一度。
この辺ならうさぎも美味しい草や実をたくさん食べられるでしょう。



元の位置に戻ってきました。
話しながら、時々写真を撮るために立ち止まったりして歩いたので
一周するのに約1時間ほどかかりましたが、
わたしのウォーキングとしてはちょうどいい感じです。

「気持ちよかったね」
「ここ、来年も歩こうね」

息子のサマーキャンプはもう今年でこのウェルズリーは終了なので、
来年からはまた別の学校になるわけですが、
この地域に来たら必ず一度は訪れたい場所がまた一つ増えました。



ところで、この建物の正面に聖者の像があるのですが、
何やら落書きが・・・



ピンクのペンキかチョークで、口紅を塗られてます。

アメリカにもこんなことする奴がいるんだなあ(呆)




 

パシフィックコースト航空博物館〜「911・ファーストレスポンダー」

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今年はどんなところを見学しようか、西海岸にいるときから
ネットで調べていたのですが、まずは着いて1週間経った今日、
サンフランシスコ郊外にある

The Pacific Coast Air Museum

に行ってみることにしました。
ぐぐるマップによると、2時間かかるとのこと。
息子をドロップオフしたあと、直接現地に向かうことにしました。

 

おそらく現地に着いたら昼ご飯どころではないでしょう。
わたしはいつも水とお茶だけ飲んで家を出、運動してから
帰って来るまで何も食べない習慣なのですが、
2時間のドライブに備え、ちゃんと朝ご飯を食べて行くことにしました。


というわけでスタンフォード大学の前にあるモールのベーカリーカフェ、
「メイフィールド・カフェ」へ。



オムレツを注文しました。
付け合わせの野菜はチャービルを炒めたもの。
全粒粉パンかサワドーか選べるトーストは全粒粉を選んで完璧。



さあ、出発です。
ナビによると、101でサンフランシスコ市内からベイブリッジを渡り
オークランド経由で博物館のあるサンタローザに行く模様。 

しかしナビを無視して(笑)I-280を走ります。
この高速道路沿いに、ベテランのための国立墓地があります。
車を走らせながらそちらを見ずに撮ってみました。
門の正面には星条旗の立つ小高い山があり、時々半旗になっていて、
今日誰か戦死か殉職した軍人のお葬式があるのだと良く思ったものです。

イラク侵攻の後はまさにしょっちゅう行われていた気がします。

こういうのや民家の庭に黄色いリボンが掛けられていたりするのを見ると、
この国では戦争をしているのだという感慨を持ったものです。



画像に写っているのはごくわずかの部分で、気の遠くなるほど広い敷地に
それこそ気が遠くなるほどたくさんの墓標が立てられていて、
これが全てアメリカのために命を捧げた軍人のものなのだとあらためて思います。

慰霊の方法は違いますが、日本の場合はそれが靖国神社であるわけで、
たとえどの地で身を朽ち果てさせてもその魂は靖国神社に戻るもの、
と日本人は信じてきたのですから、アメリカのこのような戦士の墓のように
当然のことながら靖国神社は彼らが命を捧げた国家が管理するべきだと
わたしは思うのですが・・。



墓地の横を通り過ぎたとたんこのような空になりました。
ここは我が家がかつて住んでいた地域なのですが、ほぼいつも、
特に朝は確実にこんな風に曇っていて気温も寒いのです。
これはこの辺だけに霧がかかりやすいからです。

今にして思えばなぜわざわざこんな地域に住んだかって感じですが、
(別に賃貸料も安くはないし)ある意味最もサンフランシスコらしい気候を
体験できたという気もします。



曇りの地域を1分で過ぎ(笑)ベイブリッジを渡ります。
となりのピンク色のバンはスシレストランのロゴが書いてありました。
ベイブリッジは1989年の地震のとき一部崩落し、その後大々的な工事で
どんな震度にも耐えられるような仕様に作り替えられ、
2013年にようやく完成しましたが、それがこれ。
SFから外に出る場合には無料ですが、市内に入るのには6ドル必要となります。

わたしはこの日、

サンフランシスコ→ベイブリッジ→オークランド→サンタローザ→
ゴールデンゲートブリッジ→サンフランシスコ

というルートを選んだので、6ドルは払わなかったのですが、その代わり?

 

オークランドからサンタローザに行く途中のこの長い橋の手前で
やはり5ドル徴収されました。
今、なぜかGGブリッジは無料になっているのですが、いずれにしても
どこかで橋代を払わなくては帰って来ることは出来ないようです。



ワイナリーで有名なナパバレーのブドウ畑が見えて来ると
もうそこはソノマ郡サンタローザ市です。
我が家はお酒を飲めないのですが、在住中何度かナパに行きました。
ワイナリーはテイスティングとワインのおつまみを試食でき、
外でサンドイッチなどが食べられるので、別に買わなくても楽しめます。

ここにある高級ワイン、オーパスワンのワイナリーは他のと少し格が違うというか、
さすがに高級感あふれる佇まいで敷居が高い感じがしました。

自宅にセラーを持っている友人が日本から来たとき、ここに連れて行ったのですが、
オーパスワンを木箱買いして日本に送らせていたのでびっくりしました。

ワイン好きのワインにかける情熱の一端を見た気がしたものです。



という航空博物館とは全く関係ない話をしているうちに到着。
破棄する航空機の尾翼を廃物利用して目印に使っています。

ここソノマには空港があります。
その名称は

チャールズ・M・シュルツ・ソノマカウンティ空港

と言います。
だれだそのチャールズは、と思われた方、これですよ。



こういうイラストが、このエアミュージアムの案内板にも多用されていて、
このときなぜかには思いが至らなかったのですが、実はここサンタローザは
スヌーピーの生みの親、ピーナッツの作者であるシュルツの出身地。



かつてサンタローザ陸軍航空フィールドであったこの飛行場は、
終戦後の1946年に「戦争の遺跡」の一つとして市民空港となり、
その後地元に30年以上住んで名作を生み出したシュルツの名が冠されました。



エアポートのマークはしっかりスヌーピー。
スヌーピーのいでたち(といっても犬なのでゴーグルとマフラー)は
第一次世界大戦の「フライング・エース」のもので、
飛行機はソッピース・キャメル。(のつもりの犬小屋)

わたしはシュルツという名前からてっきり作者はヨーロッパ在住だと
思っていたのですが、父親がドイツ系のアメリカ人だったんですね。



映画「おかしなおかしなおかしな世界」にはこの空港が
登場しています。
5人の男たちが宝を追い求めて上を下へのドタバタ活劇、
という映画で、航空機を使用するシーンもあったようです。

駐車場に車を停めようとして、向かいのエプロン脇に
こんな飛行機が停められているのに気づきました。



あれー、どこかで見たことあるな。
この船底は二式大艇、じゃなくてU−2、でもなくて・・・

アルバトロス?

展示飛行機ではなく説明がないので推測ですが、これは見た目間違いなく
アメリカの救難飛行艇

HU-16 

でしょう。
昔、これがまだUFであった頃、海上自衛隊がUF−2の供与を受け、
その後US−1の開発を経て配備されるまでの間、日本でも使用されていました。

機体に911と書いてあるところを見ると、緊急発動用の救難艇ですね。

などと感心しながらいざ入って行こうとしたら、はて。
入り口らしきゲート状のものがない。
駐車場の前に建物があって、ドアは閉まっているし。
しかしよく見たら、ドアに「ここからお入り下さい」とあります。

どうやらここも、ヒラーなどのように特殊な財団となって
基金を持っている博物館とは違い、細々と企業の寄付を募って
退役軍人などが中心になって作った組織が維持している、
アメリカ特有の航空博物館である模様。

去年訪れたオークランド空港の

ウェスタン・エアロスペース航空博物館
Western Aerospace Musium

と同じような感じの博物館(というかそっくり)です。
小さなドアを開けて入って行くと、案の定そこはギフトショップと
料金徴収カウンターのある小さな部屋で、そこに座って
元男前みたいなアメリカンじーちゃんがサンドイッチを食べてました。

「こんちは。大人一枚お願いします」

じいちゃんはサンドイッチを置いて立ち上がり、無言で口を指差し

(今食ってるからちょっとまってくれ)

とわたしの脳内に語りかけました。
日本では口にものを入れたまま

「おいひー!」

と叫ぶCMがあったやに伺っておりますが、
これは欧米文化圏では大変行儀の悪いことなのです。
勿論日本でもそうなんですけどね。

立ったままもぐもぐしている人を眺める
何とも言えない気まずい時間の後、やっとのことで

「すまんかったね。大人一枚ね」

とじいちゃんからわたしはチケットとマップを受け取りました。
そしてシャキーン!とカメラを構え、飛行機の並ぶ展示場に。

 

・・・・向かう前に、まずはその辺に転がしてある展示から(笑)

ここサンタローザにあった陸軍航空基地の主力攻撃機は
P−38、あのめざしのような双胴の戦闘機でした。

P−38といえば、第2次世界大戦中、陸軍の撃墜王であった



リチャード・ボング(1920〜1945)

が乗って、ラバウルで我が海軍航空隊に恐れられた機です、
これはそのP−38が搭載していた20mm機関銃とエンジン。

この部品はサンタローザで事故を起こしたP−38の部品で、
パイロットはパラシュートで脱出したものの、高度が低く
助からなかったとのことでした。

ところで、ボングのwikiページを見ると、かれが

ゴールデンゲートブリッジを僚機と共に低空飛行でくぐり、
通行人や車から多数の苦情を受け、上から叱られた

という話があるのですが、ボングが所属していたのって、
どうやらサンタローザ、つまりここだったみたいですね。

ついでに、ボングは若干25歳で、しかも1945年8月6日に亡くなっていますが、
これは戦争とは関係なく、シューティングスターのテストパイロットとしての
任務中の殉職でした。

彼は第一線を外されたのが不満で戦地に戻せと言っていたそうですが、
とにかく美人の婚約者マージと結婚もし、幸せの絶頂でのできごとです。

本人にしかわからないことですが、どうせ飛行機で死ぬのなら
戦線で華々しく散りたかった、などとは思わなかったでしょうか。



PITTS SPECIAL N17J

聞いたことも見たこともないと思ったら手作りです。
元NASAリサーチセンターのテストパイロットだったジョン・M・マンケ氏の作品。



なぜか月面探査機と同型のものが。
ちょうどこの日、この設備のメンテナンスの日だったらしく
いろいろと道具が周りに散らかしてありました。
ちょうどカウンターの人がそうだったように、お昼を食べていたようです。

スケールモデル、ということなので同じ大きさのものを
NASAのブループリントから起こした設計図で作った、とありました。
自由に座って写真を撮って頂けますのでどうぞ、とのことでしたが、
ごらんのようにお取り込み中だったので遠慮しました。

っていうか、一人で来てるから写真撮れないし。



slickというのは戦時中の俗語で「イケてる」みたいな感じでしょうか。
chickも「ひよこ」ではなくこの頃の俗語で「女の子」の意味です。
今はこういう言い方はしません。

日本で現在「ナウいギャル」とか「手荒くナイスなメッチェン」
とかいってもほとんど通じないのと同じようなものですね。

今回の訪問でまたわたしの「ノーズアートコレクション」が増えましたが、
未だに「む、これはやりおるな」と感心するほどのアートには
お目にかかったことがありません。

これなどは離れて見ているのでまあましな方ですが、
細部はともかくデッサンがかなり狂っているのが惜しい。



9月20、21日に航空ショーがあるというお知らせ。
この航空博物館が満を持してお送りする?エアーショー

・・・ん?

このポスターはオスプレイではないか!

イベント案内を見たところ、このショーはマリーンコーアから
オスプレイが飛来するほか、退役した戦闘機が「たくさん」、そして
ヘリコプターのアクロバットで有名なパイロットのソロ、
脚が不自由なハングライダーのショーマン、ダン・ブキャナンなど、
アメリカの航空界ではおなじみのメンバーによるショーが行われるようです。

アメリカにいたら見に行きたかったなあ・・・特にオスプレイ(笑) 



さて・・。

なんだかすごく見慣れたヘリコプターなんかもありますが、
後はおおむね久しぶり、というか一年ぶりのアメリカンな飛行機たち。

ざっと見回しても、その姿形にほとんど見覚えがあるぞ。

去年エアーミュージアムを、空母ホーネットも含めて散々見て回り、
後から調べたりした関係上、大抵の航空機は初見ではなくなったと、
そういうことなんですね。

継続は力なり、をこのとき実感したエリス中尉でございます。



さて、冒頭写真はご存知F−15イーグルですが、当ミュージアムでは
あの911のとき、最初に現場に到着したのと同型のイーグルを
911の犠牲者たちに弔意を表する意味で展示してあると書いてあります。



これによると、あの同時多発テロで175便(とされる航空機)がサウスタワーに
突っ込むのとほとんど同時刻に、超音速で15分飛んで現場にいたのですが、

そのポイントでは飛行機を止める権限がなかったため

そのポイントでは飛行機を止める権限がなかったため

そのポイントでは飛行機を止める権限がなかったため

何もしなかった、と書いてあるのです。
サウスタワーは最初に飛行機がヒットした方ですよね。
つまりこのデュフィー少佐とナッシュ曹長は、その後、

ノースタワーに飛行機がヒットするのも止めなかった

ことになるのですが・・。
なんで?

そこで世間に流布しているアメリカ陰謀説を信じたくなるんだな。
先日も、墜落した飛行機と共にこのF−15が目撃されていて
93便はF−15が撃墜したと言う仮説を証拠をあげて立てている文章を読みました。

そして、1年後の2002年9月11日に、

ある空軍パイロットが理由も明らかにされないまま叙勲された

というニュースを、これと関連づけています。
同時多発テロの様々な検証は、すでにあの事件を
ずさんすぎて証拠を残しまくりの自作自演と思わせるに十分なくらい
多角的かつ多面的にいろんな人々が行っていますが、
このF−15の「不思議な行動」もまた、それを疑わせるのに十分です。



「ワシントンDCを守った」とされるF−16。
彼らが93便を撃墜した、という説を唱えている弁護士もいますね。
この弁護士はブッシュ元大統領を訴えている訴訟団の弁護士です。


「ファーストレスポンダー」

は、実は現場に到着したとたん、無線連絡でもしかしたら
ビルにヒットする航空機を攻撃することを制止されたのかもしれません。

飛行機を撃墜することでもしそれが市街地に落ちたとしたら
被害は計り知れないものになるという理由で・・・?

もしあれが陰謀で、最初からビルには爆薬が仕掛けてあったとしたら
飛行機は何が何でもWTCビルに突っ込まなくてはいけなかったのですから。


そういうことがあって、このイーグルドライバーたちはあまり
世間的には「ヒーロー」として騒がれたりインタビューされたり
しなかったのではないかとわたしには思えます。

アメリカと言う国の底知れなさと言うか怖さというのは、
あの事件に限らず「何かを知っている」人たち、
墓場まで持って行く秘密を持たされている人たちがいて、
普通の一般市民として普通の生活を送っているということです。 


この「ファーストレスポンダー」や9月11日に叙勲されたパイロット、
まだ倒壊していないビルを「倒壊した」とフライングしてしまった
BBCのキャスターや、機内からかけられた(かかるはずのない携帯から)
電話の「通話記録」を隠蔽した携帯会社数社の責任者・・・・。

もしかしたら家族にも言えない「闇」を心に抱えたまま、今日もまた
仕事に行ったり、帰ってきて子供たちとディナーを囲んだり、
休みには裏庭でバーベキューをしているのかもしれません。

それはもしかしたらアメリカに限ったことではないのかもしれませんが。



見学しているのはわたしを入れて3組。
そのうち一組は、ちょうど

「グランパ!」

とこのおじいちゃんに呼びかけて帰るのを促していました。 
おじいちゃんは足元が覚束ない感じでしたが、それでも
誰よりも熱心に飛行機を見て歩いていたようです。



もう一組がこの2人組。
やはりかなりのお歳らしいじいちゃんと、東洋系の若い男性。
通りすがりに会話を聞くと、若い男性が説明をしてあげているようでした。
もしかしたら解説のボランティアなのかもしれません。

どちらにしても、スタッフの方が客より多い状態で、さらには
わたし以外は全員男性でした。
こんなマイナーな航空博物館に平日の昼間、東洋人の女性が一人でやってきて
熱心に写真を撮り、解説ももれなく読んだりしている・・・・

どうみても世界基準で「変わってますね」の一言により片付けられそうです。


しかしそんな視線を今更気にするエリス中尉ではありません。
そのうち二組の客は帰ってしまい、ソノマの強烈な陽射しの下、
たった一人でわたしは愛しの航空機たちと触れ合いまくったのでした(笑)


勿論続きます。 






 

シリコンバレーのカリフォルニアジリス

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お待たせしました。
もしかしたら当ブログ読者で、毎年夏になるとわたしが熱心に写真を撮り、
わざわざそのためにエントリを立ち上げるほどファンであるところの
カリフォルニアジリスの写真を待っていて下さった方がいるかもしれない、
と信じて、今年も画像をアップします。

今年は降下始めのために買った300mm望遠でまずリスさんたちの
大アップを狙ってみました。



撮影は恒例のスタンフォード・ディッシュトレイル。
なだらかな丘陵地帯のごく一部に作られたこのトレイルは、
1周歩いて約1時間10〜20分のウォーキングコースで、
このように皆がウォーキングやランニングを楽しんでいます。
ただし、コースは日陰がほとんどなく、日中強烈な陽射しのこの地では、
陽が高くなるととたんに人が減ります。

リスにとっても日向は苦痛らしく、わたしが一周し終わるころには
皆日陰や穴に戻ってしまってほとんど姿を見なくなってしまいます。



歩き出す8時半はまだごはん中のリスが多くいて、
写真を撮るのには絶好のタイミング。



眼をつぶったリスは土下座してるみたい。



望遠レンズを持ってきて良かったと思うのがこんな写真が撮れたとき。

この鳥は

アメリカカケス  Western scrub jay

といい、西部アメリカからメキシコにかけて生息します。
サンフランシスコでもよく見ましたが、wikiの体長27〜30cmというのより
実際は小さいように感じました。



望遠レンズを最大限に利用。
お食事中のリスさん大アップ。
やっぱりトウブハイイロリスより可愛いと思います。
口から食べている植物が見えていますが、枯れた藁のようにみえる
この辺り特有の草で、枯れているわけではないようです。

カリフォルニアの山々は表面がこれで覆われていることが多いため、
まるで草一本ない禿げ山が続いているように見えるのですが、
そうではなく、この枯れ草状の植物の色なのです。

これが緑になることはなく、従ってカリフォルニアは
いつ見ても山がはげて見えます。





基本的にリスは両手で食べ物を持ちますが、
それは左右対称の動きが癖になっているからで、
この写真のように実は片方にだけ持っている場合も多いようです。
一生懸命食べている感じが可愛らしいですね。





仔リスも大人リスもあまり頭の大きさは変わりません。
こんな小さな体が、大人になると太って大きくなります。
カリフォルニアジリスは冬眠ではなく夏眠すると去年書いたのですが、
あらためて調べたところ、夏眠はわずか数日間だそうです。



走るリス。



去年、「夏眠するリスはオスだけ」とどこかで読んで、
「それでは今ここにいるリスは全部雌なのか?」
と書いたことがありますが、数日しか夏眠しないのであれば
オスがいなくなってしまうことはありえませんね。

なんかおかしいと思ったんですよ。



うう。可愛い。
サイズは両掌に収まるくらいですが(シマリスより大きい)
手のひらに乗せてダンゴみたいに転がしてもふもふしたい〜!



今年もリスのケンカシーンが撮れないかなと思い、
リス同士の様子を注意深く見ながら歩いていると、
しばしにらみあうリス2匹発見。

今日は望遠レンズで連写できないけどどうしよう、
とドキドキしながらシャッターを半押ししながら構えていると、
このあと何ということもなくすれ違いました。

にらみ合っただけだったようです。



ところで冒頭写真のリスの口元を見ると・・・、



舌を長く伸ばして草を食べているらしいことが分かります。



トレイルのコースは起伏が多く、ゆっくり歩くのも大変です。
おしゃべりしながら歩くと苦にならないのか、
女性はよく2〜3人で歩いています。

わたしはカメラを持っていない日も必ず
Bluetooth搭載のサングラスで音楽を聴きながら歩きます。
iPhoneに代える前はiPodにトゥースを刺さないといけませんでしたが、
今はサングラスに直接同期できます。



カリフォルニアジリスは「ジリス」という名の通り、地面に穴を掘って
そこに巣を作ります。
穴は中で繋がっていることも多いそうですが、
「自分専用の穴」を掘ってそこから出入りするリスも多いのだとか。

「こだわり派」リスですね。



ここら一帯にはリス穴がたくさんあり、
もしかしたら地下帝国ができているのではないかと思われます。
なぜかこのとき、皆が出てきてこのようにじっとしていました。



プレーリードッグみたいです。

リスは時々「警告音」を発します。
「きっ・・・・・きっ・・・・きっ」
と間欠的に鋭い音を出すのですが、見ていると
「キッ」と同時に尻尾を立てて前方に振っていました。

これが聞こえると周りのリスはとたんに警戒に入り、
取りあえずじっとして動かなくなるのですが、
この尻尾を振る動作は、去年も書いたことのある

「天敵であるガラガラヘビに、尻尾の先から熱を出して
振ることによって何かを警告している」

という動きではないかと思われます。
このとき一斉にリスたちが警戒態勢に入ったので、
まずチャンス!とこの写真を撮っていたら、
向かいから歩いてきていた女性二人がわたしに向かって

「Look at the deer!」

と叫びました。
(deerは複数形を取らない単語ですよ皆さん)



後ろを振り向くと、わたしの真後ろをシカの親子が横切っていましたorz

リスに気を取られて実はこういう「大物」を今まで
かなり見逃していたのかもしれません。
わたしは取りあえずすぐにシャッターを切り、彼女らに
教えてくれたお礼を言いました。

この日、ニコン1に300mm望遠レンズ、さらにバヨネットフード
という重装備のカメラでバシャバシャやっていたので、
何人かのアメリカ人に物珍しそうに見られたのですが、
こういうのを持っていたからこそ教えてくれたんですね。

これだけでなく、この日望遠レンズを装着していったことで、
今までに撮れなかった距離にある被写体を撮ることができました。

 

たとえばこれ。
100mくらい先の立ち入れない場所を走っていたリス。







こういった動きまで遠くにもかかわらず捉えられているので感心しました。



以前は遠景にしか捉えることが出来なかったスタンフォード大学の
フーバータワーも、このとおり。

シリコンバレーのリス写真、後何回かお付き合い下さい。

 





 

シリコンバレーの動物〜DNAスープ

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今日は少し手抜き、じゃなくて息抜きです。
 主に動物の写真でなごんで下さい。


300mm望遠レンズを装着したカメラを携え、
リスの顔の大アップなどを撮った次は、
レンズを元に戻して彼らの動きを中心に撮ることにしました。

あわよくばファイトが今年も見られないかと期待したのですが 、
結論から言うと今年はまだ見たことがありません。

最初の年に連続して見たので、リスというものは
しょっちゅうケンカしていると思っていたのですが、案外そうでもないようです。

 

車道を入った小道は全面駐車可で、ここに歩きに来る人は
全員路上駐車します。
公園にはどこも駐車スペースが設けてありますし、
アメリカのいいところはほとんどの施設は駐車が無料で出来ること。

トレイルに入るといきなり上り坂となります。
この傾斜は下りは勢いがつきすぎて怖いくらいなので
当然登るときにはここだけで息が切れそうです。



わたしは歩きながらもリスを探すのに余念がありません。
さっそく体を掻いているリスさん発見。



猫や犬のようにやはり後足を使います。



それでも足りないところは噛むのも犬猫と一緒。



掻きながらこちらに気づいているのですが、
取りあえず体が痒いので先に掻きます。



一通り掻き終わるや否や・・・



逃げました。



次のリスはお食事中。
全体的に枯れ草っぽい植物が中心の食事ですが、
やはり青いものを体が欲する模様。



いいサラダ見つけた!とばかり物色に入ります。



手頃な長さに噛み切って・・・



茎から食べます。
うーん、美味しそうに食べるなあ。
冒頭写真は大きく口を開けたところ。



リスにも食べ物の好みがあって、緑の草好きとか、
俺はよく乾いた干し草しか食べん!とかいるんでしょうか。

このリスは体長の割に尻尾が小さいので、
もしかしたら雌かもしれません。
リスもやっぱり女の子はサラダ好きが多いとか。



このリスはわたしが真横に立って写真を撮りまくっても
平然と草をぱくついていました。
性格もあるでしょうが、それだけ緑が彼らにとって貴重なのかもしれません。



一斉に逃げて行くリスたち。



ロックオンされたと知って固まっています。
それではこのリスの走りを分解写真でどうぞ。







ひとしきり走るとなぜか・・・



急に立ち止まってお願いポーズをしながら固まりました。
謎の行動です。



前を歩いていた女の人が、いきなり

「きゃっ」

といって立ち止まりました。
道を横切ってきた蛇を蹴っ飛ばしてしまいそうになったのです。

先日買い物中にふとしたことからトルコ人のおじいちゃん
(といっても衛星放送の打ち上げをしている現役の技術者とか)
と話がはずんだということがありましたが、そのとき

「あのディッシュトレイルは危ない。
実はしょっちゅう蛇が出て来るから気をつけないと」

とトルコ爺は言っていましたっけ。
危ないと言ってもせいぜい体長20センチ足らずの子供のようですが、
やっぱり蛇を踏んづけたくはないですよね。



顔は可愛いし。(実は蛇好き)



続いてトカゲハケーン。
これもこう見えて体長せいぜい4センチ弱という感じです。



しかしニコン1の実力を見よ。
4センチのトカゲもここまで細部を描写できるため
アップにしてみると巨大トカゲみたいです。

彼はじっとしていましたが、近づいて撮っていると面倒くさそうに
こちらを見ました。

道路脇に座り込んで一体何を撮っているのだろう、
と歩いて行く何人かの人たちが珍しげに見て行きます。

大抵のリスはカメラを向けられていることを知ると
取りあえず走って逃げます。

今日はむしろその様子を撮ることを目標としたので、
彼らが走り出してくれるのは大歓迎。
このリスはあまり必死さの感じられないタルい走りだったので
良い連続写真が撮れました。













しかし、このリスもひとしきり走ったら・・・、



急に立ち止まりました。
どうもリスにはこういう習性があるようです。
そして・・・・、



「うわっ・・、私の年収低すぎ・・・?」

のポーズを。
これもどうやら一つの習性のようです。ほんまかいな。

逃げるために走っている最中なのに。

人間からは命乞いのポーズに見えてしまいます。



お願い終わって脱力するリス。
こういう動物は長時間走り続けることができない、
と聞いたことがありますが・・・。



続いてこのリス。
左手を熱心に舐めていましたが、



「はっ・・・・」



見られていると知ってダッシュ。
の瞬間。



なんかこんなスポーツメーカーのロゴがあったなあ・・・。




さて、比較的人で賑わうディッシュトレイルばかりでなく、
たまには新しい公園を開拓してみよう、と地図を頼りに来てみた公園。
一本道をくねくね上がってきました。
前にも書いたのですが、アメリカの公道というのは基本的に
全てが自己責任なので、急峻な谷添いの山道であっても
よほど危ない箇所でなければガードレールをつけません。
もちろん下手したら谷底に真っ逆さま、というところでも。

谷川の道など恐ろしくてそのためスピードなど出せたものではありません。

住宅街には信号がなく、交差点では来た車が時計回りに
順番に通過して行くというルールも出来ていて、
かえってこんな仕組みのほうが人は運転が慎重になるのではないか、
とわたしはかねがね思っています。



公園につくと入り口の駐車場のバンから中学生くらいで
おなじTシャツを着た一団が降りてきて、木陰で何か始めました。
おそらく息子が行っているようなサマーキャンプの生徒でしょう。



こちらは小学生の団体。
球技でも始めるつもりでしょうか。
カメラマンが彼らの写真を撮っていました。

キャンプではその日の写真をHPに挙げて、親にどんなことをしているのか
報告するところが多いです。 




公園の入り口で一応注意書きを見ることにしました。
なになに?

「車の中に貴重品は置かないで下さい」

まあ当然ですね。

「虫に刺されることがあります」

そうなの?ちょっといやかも。

「マウンテンライオンが出ることがありますので、
もし遭遇したら急に動かず、絶対に戦わないこと」

頼まれても戦いませんが、これは怖いな。

「一人でトレイルを歩かないこと」

・・・・どうしよう。



そんなこといわれてもね。
まあ朝だしライオンは寝てるんじゃないかな。

ちょっと心配になったけどここまで来たのだから歩くことにします。



公園内には何種類ものトレイルが作られていて、
立て札には何マイルあるというような案内が書かれています。



一つのトレイルに入ってみました。
しかしそのとたん、高所恐怖症のわたしはむずむずと
落ち着かない気分になってきました。

トレイルと言っても山の斜面を切っただけのもので、
勿論柵なんぞありません。
そんなものを作ったら野生の動物の生態に影響を及ぼすからです。



この部分など、脚を踏み外したが最後谷底まで真っ逆さま。



ずっとこんな調子です。
なぜ入り口の注意書きになぜ一人で歩かないように、
と書いてあったか、このときに初めてその理由が分かりました。

たった一人で訪れて一人で谷底に落ちた場合、
おそらく発見されることなく動けないまま夜になり、
マウンテンライオンの夜食になってしまう可能性があるからです。

「ひえええ」

とたんにこわくなったわたしは、トレイルを行くのをやめて
入り口に向かうことにしました。

サマーキャンプの団体や、釣りをしている人が一人、そして
公園の管理局のパトロールカーが通り過ぎましたが、
なにしろ余りに広すぎて、一人で歩くのはそれだけでも怖いくらいです。

駐車場の方向を目指して茂みの横を歩いていると、一斉に
ガサガサ、と何かが枯れ葉を踏んで移動する音が見えました。 



なんと、ワイルドターキーの群れです。



人間を警戒していて、わたしが一歩踏み込むとむこうは三歩、
という感じで、しかし決して慌てず焦らず移動して行きます。

群れには見るからに小さな子供などもいましたが、外側には
最も大きな体の鳥が立ち、威嚇のつもりなのかときどき
こうやって羽をばさばさっと広げてみせます。





そしてどんどんと木の茂みの奥に行ってしまいました。
こんなチャンスなのに、ちゃんとした写真が一枚も撮れなかったのは
彼らがこちらに先に気づいてしまったからです。



ボストンではつがいのワイルドターキーを都合3回見ましたが、
こんな群れ(おそらく20羽くらいはいた)を見るのは初めてです。



この日、帰りに前を走っていた車。

アメリカではどうも車のナンバープレートを
どちらか片方だけ登録のものにしていればいいらしく、
観光地の、たとえば

「EMPIRE STATE」

などという文字が自由の女神の絵と共に描かれたものなど
好みのものを使用しているのをときどき見ます。
そして、その登録も自分の好きな番号や文字列にすることができるようで、
この車のナンバーは

DNA SOUP

でした。
DNAスープ。
なんかシュールでいいなあ。

 




パシフィックコースト航空博物館〜「ファイナルカウントダウン」と「スコシ作戦」

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サンフランシスコを北上、ワインカントリーであるナパ、ソノマ地域に
ある民間空港、チャールズ・M・シュルツ・ソノマカウンティ空港。

その一角にこの航空博物館はあります。

外に置きっぱなしの展示といい、寄付だけで賄われている感じといい、
いかにも退職老人の再就職先になっていそうな感じといい、
空港の片隅にある博物館にありがちな手作り感満載の小さなものですが、
いずれにせよわたしはキャリー・ブラッドショーが(今テレビでやってる)
マノロ・ブラニクのバーゲン会場を目の前にしたような気持ちで
この宝の山に脚を踏み入れたのでした。



マクドネルダグラス F−15 イーグル

前回911現場であるNY上空に航空機突入の時間駆けつけていたとして

「彼らは英雄かもしれないが、却ってこれは陰謀説を裏付けないか」

と書いてみたのですが、まあ、この話は軽く受け流して下さい(笑)
それより、このイーグルがどこから飛んで来たかと言うと、
バージニア州のラングレー空軍基地。
約600キロで、ちょうど東京大阪間くらいです。

確かに車なら7時間の距離ですが超音速戦闘機なら15分で来れますよね(棒)
2機目の突入のときだって、たぶん軍は捕捉していたはずですよね(棒)

それはともかく。


F−15はその後退役が進んでおり、現在軍使用されているのは
ネバダ州のネリス空軍基地のみです。

そもそも高価すぎてサウジとか日本とか、お金持ちの国にしか
買ってもらえなかったという戦闘機なんですね。



元々のペイントがうっすらと透けて見えています。
「ケープコッド」とあるのですが、F−15イーグルの名前としては
あまりイメージが合っていないような・・・。

パイロットがボストンのこのペニンシュラ出身でしょうか。



 コクピット下にはパイロットの名前を書く慣習がありますが、
ここに書かれた名前には軍階級がありません。

F−15は過去の空戦で撃墜されたという記録がなく、
現地の説明によると「100以上の空戦に勝利している」そうです。 



実はこの航空機には案内板がありませんでした。
展示マップにも該当場所には何も書かれていないので、
おそらく最近導入した展示ではないでしょうか。

しかし、今のわたしにはたちどころに機種がわかってしまうのだった(笑)

まずこの無理矢理な翼のたたみ方。
これは間違いなく艦載機の特徴ですね。



海軍所属で、おまけにホーネットの艦載機、と書いてあります。
これは

Grumman S-2 TRACKER

だと思われます。
去年の夏空母「ホーネット」を見学し、ハンガーデッキにこのトラッカーが
非常に肩身の狭そうな様子で展示されていたのを思い出しました。

そのときも書いたのですが、空母艦載機として運用することを大前提にしすぎて、
装備を小さな機体になんでもかんでも詰め込んで居住性を犠牲にしたため、
このトラッカー、搭乗員たちからは不満続出だったということです。

ところでたった今画像を見て気づいたのですが、このトラッカー、

MADブームがついていません。



お尻の部分を拡大してみると取り外されたように見えないこともありません。
このトラッカーは対潜用に作られたので電子戦の装備があり、
必ずブームをつけているのだと思っていたのですが・・・。

(追記:
その後読者諸氏のご指摘によりこれは

S−2 の機体を改造したC−1トレーダー

で、 共通の機体として 他に

E−1トレーサー 

と言う早期警戒機が製作されているらしいことがわかりました。


ここにあらためて訂正します。
ちょーっとわかったつもりで調子こいたらこれ。
まだまだ修行が足りませんorz) 



Sikorski H-34 CHOCTAW

アメリカ陸軍のカーキーグリーンは、自衛隊のOD色よりも
かなり明度が高いように自称「絶対音感と絶対色感」
を持っているところのエリス中尉には思われました。

このチョクトというのは何度も同じボケですみませんが、
菅直人のことではなく、北米ネイティブアメリカンの部族名です。

日本でも現地生産して調達されていた機種で、
世界的には2261機が生産され、この台数を以て
この業界ではベストセラーとされているようです。

というか、軍用ヘリってこの程度生産されればベストセラーなんですね。




こういう説明のボードが全ての展示に付けられているとは限りません。

が、このヘリに関してはスポンサーが大物(ヒルトンホテルとソノマワイン組合)
のせいか、ちゃんとした説明板があります。
このように、この博物館、地元企業が何社かで一機を受け持ち、
そのメンテナンスのお金をスポンサードして、企業イメージ
と共にこういうところで宣伝をするわけです。

これ、いいシステムだと思いませんか?

これも何度もしつこいですが、鹿屋の二式大艇、それからこの間お話しした
海洋大学の明治丸も、企業のスポンサーを募ればいいのでは?
その代わり、そのことを現地の案内やHPに明記するというのは?
匿名の篤志を募るより、効率がいいと思うんですが、いかがなものでしょう。



陸軍ヘリのチョクトー部隊のマークは凶悪面のブルドッグ。
ご丁寧にイガイガの首輪までつけています。
頭と尻尾になにやらついているのですが、これは画力が残念なため
何かは分かり難いながら、どうやらヘリのローターのつもりらしいですね。

たしかにこのチョクトーはずんぐりしていてブルドッグのようなシェイプ。
機体のイメージから「ブルドッグ」を自称しているいるのです。



ここはテールが持ち上がる部分。
排気のためにメッシュの窓がはめ込まれています。


自衛隊にも17機が導入され、そのうち1機は海保に移譲されて
南極観測船「宗谷」の艦載機として昭和基地と宗谷の間の
輸送に活躍したそうです。




使われることがなかった爆薬の類いが、ケースごと。
手前のは完璧にさびています。



 NORTHROP F−5E "FREEDOM FIGHTER " TIGER II

トルコ空軍の曲技飛行隊はこの機種を使っています。
小型軽量で大変運用しやすかったので、このトルコ始め
発展途上国に大量に輸出されたそうです。


もともとアメリカ空軍では使用する予定がなかったのですが、
供与された国が

「困るなーアメリカ空軍でも使ってその実績を教えてくれなきゃー。
あんたんとこ、今戦争してるじゃん?
それともなに?
自分とこで使わないような商品を売りつけようっての?」

とごもっともな要求をしてくるようになったため、(たぶん)
アメリカはこれをベトナム戦争に対地攻撃用として投入しました。

この際、F−5が参加する作戦は

「スコシ・タイガー・オペレーション」

と名付けられています。
「スコシ」って何だと思います?
そう、日本語の「少し」なんですよ。
なんだかすごく間抜けな響きがするような気がするのはわたしが日本人だから?


なぜわざわざ日本語を投入したかと言うと、外国空軍への供与、
並びにその実績説明というのがその第1目的だったため、
何となく雰囲気で外国語を使ってみたようです。
しかも「ガチ投入」ではありませんよ〜、というのがこの
「少し」に現れている、と・・・。

供与先が日本ではなかったのが逆に日本語使用の理由かもしれません。
(日本相手だとふざけてんのかと思われるから・・・たぶん) 



そうと知ってみると、とたんに親近感が湧いて来るではないの。
やたら羽が短くて、こんなので大丈夫か、って気もしますが、
アクロバットに使われるくらいですからきっと制動性もいいのでしょう。



これはどこ海軍所属なんですか?
この赤い星・・共産系国のマークのような気もするのですが、
これがスコシタイガー参加機なんでしょうか。



グラマン F−14A トムキャット

グラマンの猫戦闘機、トムキャット。
冒頭の写真は正面から撮ったものですが、ウィングが可動式で
肩をすくめた状態になっているので、あまりかっこよくありません。
(感想には個人差があります)

なんだか変な色にペイントされてしまっていますが、これは
メインテナンスの途中なのだと思います。

・・・・途中ですよね・・・?

毎日必ずどこかを補修しても、航空機が多いので一巡することには
最初の航空機はもうすでに補修が必要になっています。

サンタローザは夏の暑さは強烈ですし、雨も降りますから
外に置きっぱなしの展示は劣化しやすそうです。



オークランドのエアミュージアムではこの部分が旭日模様の

「サンダウナー仕様」

つまり「日本をやっつけ隊マーク」になっていたわけですが、
このトムキャットは第84戦闘機隊の所属マークがつけられています。



海軍第84戦闘機隊は、このスカル&クロスボーンのマークと共に、
1980年の映画

「ファイナル・カウントダウン」

に原子力空母「ニミッツ」と共にに出演したことで知名度の高い航空隊です。
航空隊のニックネームは

「ジョリーロジャース」。

英語圏では一般的に海賊旗をこう称することからです。



翼の下の配線もこのように展示してくれています。
ここの展示も手で触れることを禁止していません。


ところで映画「ファイナル・カウントダウン」はこういう話です。

1980年、真珠湾を航行していた「ニミッツ」が竜巻に遭い、
それが去った後、偵察に出た艦載機トムキャットが発見したのは
日本海軍の零戦だった。
「ニミッツ」がタイムスリップしたのは1942年12月6日、
つまり真珠湾攻撃の前日であったー。




ちょっと待て、それはまるで「ジパング」ではないのか、
と思ったあなた、あなたは正しい。
残念ながらこの映画は「ジパング」に先立つこと20年前に
すでに公開されており、この「タイムスリップ戦史もしも物」の
原型においてはこちらがオリジナル、つまり「ジパング」は
アイデアにおいてはこちらの二番煎じだったんですねー。

おまけに、このテーマソング、聴いて頂けます?


The Final Countdown 1980 theme John Scott

お時間のない方は4分20秒からだけで結構です。

「こりゃー”あれ”じゃん!」

と思った方、その通り。
業界では有名なパクリなんですね。
映画公開の2年後にヒットした曲なので、言い逃れできません。
今この曲のクレジットを見ると「ジョン・スコット」という名前が
作曲者「大森某」の名と共に併記されています。

これは、なんとファイナルカウントダウンの音楽担当、
ジョン・スコットが、わざわざ盗作を指摘するために来日し
さらに大森某も盗作であったと素直に認めたため、
作曲者として名前を連ねることにしたのでした。

うーん。恥ずかしい。
これは恥ずかしいぞ日本。

パクリがどうのこうのと某国や某国を日夜馬鹿にしていても、
実はわずか3〜40年前にこんなことがあったというのは恥ずかしい。
まあ、しらばっくれずに盗作を認めて対処した、というところに
潔さと言うか日本人らしい気の弱さを見て少し安心しますが。

このころはインターネットは勿論ビデオさえ一般的でなく、
従って映画は映画館かテレビで放映された物を見るしかなかったんですね。
ましてや映画音楽は、よほどヒットした場合を除き、
一般の耳にほとんど触れることなく終わってしまったのですから、
ばれないだろうと思ってつい盗作に走ってしまったのでしょう。

「ジパング」の方はアイデアをパクりながらも色々と展開させているので
著作権的にはセーフなのかもしれませんが・・。

音楽といいストーリーといい、このファイナルカウントダウン、
日本人の「これをやってみたい!」という琴線に触れるもの満載だったようです。
そこそこ無名だったのがパクられる原因だったとも言えますが、
それにしてもこれはどちらもアウトだろっていう。






何の説明もなく展示されていたエンジン。
せめて包装を外してほしいと思ったエリス中尉でした。


ところで大森さんを庇うつもりはありませんが、
メロディが既存の曲に似てしまうということは
音楽家の立場から言っても、特に「歌もの」ではよくあることです。
音列に限りがあり、コード進行もパターンがある限り
これはある意味避けられないことなんですね。

以前お話しした「ライトスタッフ」のテーマがチャイコフスキーの
バイオリンコンチェルトに瓜二つ、という件に関しては

「宇宙開発でロシアと張り合っていたという映画の内容に合わせたシャレではないか」

と、1000歩譲って理解しようとしてみたわけですが、
もしそうであればこれは「故意犯」しかもそれを隠していないパターン。

たまたま知らずに似せてしまった、という確信犯と違い
「ララバイ」は完全に故意犯だったのがアイタタタでした。

世の中には

「青い影」(プロコル・ハルム)と「青春の影」(チューリップ)

の関係のように、聴く人が聴けばああパクったな、と思えても
コード進行が全く同じという程度では一般にはお咎めもなし、
という実例があります。

しかもこの件では「青春の影」はどこからも非難されておりません。
わたしの知る限り。
これは「ジパング」のシチュエーション類似と共に

「スコシ・パクリ作戦」

の成功例といえましょう。







続きます。
 


パシフィックコースト航空博物館〜ブラックバード乗員の憂鬱

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ワイナリーの集中するここサンタローザは、ワイン製造に適した気候で
ワイン好きにも評価の高いワイナリーを生み出しています。
どういう気候がそれでは適しているのかと言うと、地中海性気候、
年間の降雨量が多すぎず日照量が十分であること。

たしかにカリフォルニアは夏の間雨が降りませんし、日照量に関しては
外を歩くだけで火傷しそうな暑さからも十分だと思われます。

湿度は少ない方が良し。
なぜならワインに適した土壌はそこそこ痩せているものだからです。
この辺りは湿度が低く昼間の暑さとは打って変わって夜になると
温度ががっくりと落ち、外では火のそばにいたいくらいになります。

湿度を「不快指数」ともいうように、夏は特に湿度が低い方が
人間にとって体は楽に感じますし、わたしもここでは
その気候を楽しんではいますが、あるとき

「日本人の肌の美しさはその湿度の多い気候にある」

と聴いて、悪いことばかりではないのかなと思った次第です。
湿度だけではなく水質も要因なのでこれも一概には言えませんが。


さて、そんな気候のもと、ちゃんと帽子で日よけをして
わたしはミュージアムフィールドを回って行きました。

ちょうどお昼の時間で、機体のメンテをしていた人たちは
(5人くらい)日陰でサンドイッチなどを食べ出し、わたし一人です。


そこで冒頭の航空機ですが、

Grumman A-6 IINTRUDER

これは説明を見なくてもこの触角ですぐ分かってしまいますね。



イントルーダーのスポンサーは「クローバー」という乳業。
カリフォルニアではこの牛のイラストと共に有名な企業です。
特にこのメーカーを選んだつもりはなくても、冷蔵庫には
一つはこの牛さんのパッケージが入っている、という感じ。

因みに今部屋の冷蔵庫にはクローバーのカッテージチーズがあります。



海兵隊もイントルーダーを装備していました。
海軍においてイントルーダーはベトナム戦争、湾岸戦争など、艦載機として
アメリカのかかわった戦争ほとんど全てに投入された、とされますが、
海兵隊の実戦投入については説明がないのでわかりません。



お腹の部分に突き出ていた透明のケースのなかの物体。

これはなんでしょうかね。
目標探知攻撃複合センサー、TRAMというものではないかと思ってみたのですが、
どこを探してもこのトラムの画像が見つかりません。

ところで、モデルメーカーのハセガワは1:72スケールのこのイントルーダーを
10000円(消費税別)で販売しています。
いまどきのプラモデルってこんなにするんですか!
それはともかく、その説明に

「A-6Eは、A-6Aの電子機器の能力向上型で、
レーダーも強力なものに換装されています。
なかでもA-6E TRAMは、目標探知攻撃複合センサーを
機首下面に装備して、
攻撃精度の向上がなされています」

とあったりするのを見ても、おそらくこれがTRAMではないかと思われます。
が、ハセガワのモデルイラストを見たところ、この部分には
レドームのようなこぶができているだけなのです。

この透明の部分がTRAM本体なのかどうか、どなたかご存じないですか。



スコードロンマークはバイキングと剣、そして稲妻。



Mk82にたくさんサインがあります。
AM2(AW)とか書いている人が多いのですが、これで検索すると
どうやら階級で、

 Petty Officer Second Class AD2 (AW)

などと表記するようです。
AWとは

Aviation Warfare System Operators

のことのようなのですが、いまいち確信がありません。





飛行時に必ず取り外さなくてはいけない部分には、このような
赤いタグ(ストリーマーというらしい)をつけますが、
栓?を外さなければ作動しない爆弾なのでしょうか。

ストリーマーが新しく最近つけられたようなのでただの安全対策?



翼の下に抱え込まれているので先端が危険という感じはしませんが、
何しろここの特色として、航空機にはどんな近くで見ても、
翼や機体の下にもぐりこんでもOKという展示方法なので、
(そのため翼の下部ハッチなどを開けっ放しにしてある)
やはり万が一のことを考えて安全対策をとっているのでしょう。





足元は舗装していないしこういう危険物もありますが、
アメリカらしく全ての危険回避は自己責任でお願いしているようです。

くねくねした山中の道路も、自然公園の山の斜面のトレイルも、
ほとんどの池や湖、河に至るまで、自然環境を破壊してまで
安全のための無粋な柵など作らないのがアメリカ人。
航空機も「触って減るもんでなし、好きにやってくれ」という態度です。

しかしさすがにこの針のようなドローンのノーズは、
そのままにしておくと転倒などでとんでもない事故になりかねないので
先端にアクリルの板を設置してあります。
それでも触ろうと思えばその恐ろしいほど尖った先端に触れます。

どうしてこの先端がここまで偏執狂的に鋭くないといけないのか、
それに関しては全く説明がないのでわかりませんでした。



Dー21 DRONE SPECIFICATIONS

こちらの度ローンの先端にはゴムのカバーがつけられています。
ロッキード製のマッハ+3偵察無人機です。

この無人機、A−12の背面からの射出が想定されてCIAの要請で開発されました。
高解像度のカメラを1台搭載しており、あらかじめプログラミングされた
地点での撮影後、洋上にカメラモジュールごと投下するシステムです。



翼の下に牽引されているドローン2機。

実戦では、中国の核実験場の偵察を目的に1969年から2年の間、
4次に亘る偵察作戦、

「シニアボウル作戦」

に投入されましたが、4度とも違った理由で失敗しています。

いずれも行方不明になったり帰ってきても回収できなかったり。
後で分かったのですがそのうち1機はシベリアに落ちており、
4機のうち2機は旧ソ連が鹵獲してそれをもとに似たような物を
作ろうとしたが失敗したとか何とか。

そうこうしているうちに写真偵察衛星が開発され、またニクソンが
中国に歩み寄り政策を取るようになったため、計画は白紙撤回されました。

全部で38機のDー21を含むドローンが製造され、そのうち21機が使用されています。
作戦中止後、残りは全て博物館の展示用に譲渡されましたが、
ここにあるのもその一つというわけです。



この内部にもありますね。すっかり色褪せたストリーマーが。
これ、何の輪切りだと思います?



このまるでエイのようなぬめっとした感じは・・・。

 

 LOCKHEED SR−71 BLACKBIRD 

そこで即座にヒラー航空博物館の写真を出して来る。

沖縄の嘉手納基地に最初に配備され、ベトナムでの偵察を行いました。
沖縄の人々はこれをその形状から

「ハブ」

と呼んでいたそうです。
夜しか出撃しないし、さぞ気味悪がられたんだろうな(笑) 

こんな凶悪な?風体をしていますが、こう見えて偵察機。
ステルス性もマッハ3の高速も、ブレンデッドウイングボディも、
ミサイル攻撃を回避することに目的が置かれています。

与圧が十分でなかったため高高度飛行に備えて乗員は
まるで宇宙服のような与圧スーツを着用しましたが、これは
自分でシートベルトを締めることも出来ず、そもそも脱げないので
なんと、常に紙おむつを着用していたそうです。

黒光りする異様な威容を湛える最新式のステルス偵察機。
実は乗員全員ダイアパー着用、という現実が泣かせます。 


これ・・・・搭乗員の士気が落ちる原因にならなかったんでしょうか。




VOUGHT F−8U CRUSADER

このクルセイダーについては、

ラスト・チャンス、ラスト・ザ・ガンファイター」

というエントリでかなり入れこんで?お話ししましたが、
そのとき書きそびれたのは、この「ラストチャンス」、つまり
ダメダメ航空機カットラスの後に社運をかけて開発したこの飛行機のあだ名は
文字通りの「ラストチャンス」であったとともに、ヴォート社の創始者
Chance M.Vought の名前に引っ掛けてあったということです。

ヴォート社の当時の正式社名は「チャンス・ヴォート」だったんですね。

ここにあるクルセイダーは、20年もの間サンフランシスコ市内の
児童公園で遊具となっていたそうです。

まじか。
戦闘機を玩具に払い下げてしまうとはさすがアメリカ。




しかしながらそんなところにあるゆえに落書きだらけにされ、
近所の人々から目障りだと文句が出る始末。
写真はそのときのおいたわしい様子です。
これは酷い。

そこで当博物館が引き取り、レストアして展示することにしました。



19thストリートの公園からやってきた経緯が
写真で説明されています。
この塗装も内装も、当博物館の修復チームの渾身の仕事。

だから、シャークの眼の位置が少し変だとかいうツッコミはなしね。



実は、このときクルセイダー、修復中だったのです。
何をしているのかさっぱり分かりませんでしたが、
機体脇にはいろいろな装備が置かれ、しかもモーターは
ブイーンという音をさせたままでした。



わたしがちょうどこの近辺の写真を撮りつつ歩いていたとき、
修復作業をしていたらしい何人かのアメリカおじさんたち(60代かな)
がお昼休憩を取ることにしたのか、クルセイダーの作業をやめて
引き揚げて行くところでした。

その中の一人がわたしに

「熱心に写真撮ってるね!」

とニコニコしながら声をかけてきたのですが、何と返事していいか分からず
ジャパニーズスマイルを返しておきました。



S−2TRACKER

トラッカーの説明をするのは2度目だったような気が・・。



いや、入り口近くに置いてあったこれはトラッカーではなかったんですね。
でも似てるなあ。



スコードロンマーク・・と思いきや、このトラッカーは
カリフォルニアの森林管理局が運用していたようです。
こちらにくるとしょっちゅう森林火災のニュースが流れますが、
昼間のまるで着火しそうな暑さに加え、植物がまるで干し藁のようなので
火事が起こりやすいようです。

実は昨日、ミルピタスというところに行ったのですが、その帰り、
サンノゼに向かう高速の脇の草地が事故でもないのに燃えていました。
その直前に追突でほとんど車体がくの字に曲がってしまう事故があり、
ただでさえ酷い週末渋滞で5車線の道路が酷いことになっていたのに、
さらにこの火事で追い討ちをかけるように・・・。

関係ありませんでしたね。

とにかく、そんな感じで専門の部署を設けなければならないほど、
カリフォルニアに取って森林火災は深刻な問題なのです。

トラッカーがどんな運用をされていたのかわかりませんが、おそらくこれは
軍から引き渡され、偵察機として二時利用されていたのではないかと思われます。

 

さて、この日、そこここで見たストリーマー、
ギフトショップでミュージアム名をプリントしたものを見つけたので
記念に買って帰りました。

とりあえず、家の中の危険箇所に使ってみようっと。ってどこだよそれ。




続く。


 

ゴールデンゲートブリッジカーキイ紛失事件〜「Good luck! 」

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「やっちゃった」

エントリのジャンルにこんなタグがあるのに気がつきました。
この際なので使ってみます。

「やっちゃった」というこのタグとタイトルを読めばもう

「ゴールデンゲートブリッジを見に行って車のキーを失くしたのね」

と分かられてしまうというのも情けないですが、まあそう言う話です。



今住んでいるパロアルトからゴールデンゲートブリッジを臨む
クリッシーフィールドまで、車では50分くらいでしょうか。
サンフランシスコに滞在し、息子がこの近くのキャンプに行っていたときには
送って行ったあと必ずここでウォーキングをしたものですが、
今では滞在中1〜2度歩きに行くくらいです。



GGBの出来る前、これはちょうど橋の下にあたりますが、
ご覧のような建物がありました。
太平洋に面した防衛の拠点としてフォートが作られたのです。

この建物は勿論現在のものと同じで、時々公開されています。
中にはキャノンやガンパウダーの倉庫などが残されています。



陸軍の基地が置かれ、この草地はバイプレーンの頃滑走路でした。
4機の複葉機の前に全員集合!していますが、後ろの建物をよく見てください。



はいもう一度。

全く同じ建物が並んでいますね。
アメリカはどこでもそうですが、建物をそのまま使い続けるので、
150年前の写真と同じ景色が今も見られるんですね。

最近ですが、この建物をトランポリンやロッククライミング、
自転車の貸し出しセンターとして使うことになったようです。



スミス中尉というのは知りませんが、この

「ハップ・アーノルド少佐」

は知ってるぞ。
この人が少将だったとき、女子飛行隊の結成に難色を示したり、
今から大西洋を渡ろうとしていたナンシー・ラブに禁止命令を出したり、
とにかくあまりいい印象はなかったような。



ママさん飛行隊。
プロペラの上に乗っているのがうちのおじいちゃん、
なんて家もサンフランシスコにはありそうです。



崖に登ったら落ちますよ、って当たり前だが。
今から落ちて行く人の図案が秀逸です。



今日は珍しく、霧がかからない朝です。
晴れて、かつ全くブリッジが隠れていません。



フィールドの向こうはここ何年か続いている高速道路の工事。
今年は開通しているかと思ったのですが、アメリカは日本より
工事に時間がかかります。
この調子では来年の夏も完成しているのを見ることはなさそうです。
ベイブリッジの工事が終わったので、こちらが本格的に始まりました。
これが出来ると帰りが楽になるので早く出来てほしいのですが。



望遠レンズ装着ニコン1とソニーのRX−100を持ってきました。
ブリッジの近くにある国立墓地、つまり戦没者墓地が
こんなにここからはっきりと撮れたのは初めてです。



アルカトラズ島は少しぼやけていますが、
ここは朝来るといつもこんな感じです。



ここは犬をつながなくても良いので、思う存分走らせるために
わざわざ連れて来る犬のオーナーが多いです。



ここには犬の散歩業者が専用のバンで犬を集めてきて、
多い業者で7匹くらい引き連れて(というか引っ張られて)
歩いています。

そんな業者は逃げたら困るので綱を外すことをしませんが、
自分の犬には思いっきり走らせて楽しませます。



特に大はしゃぎしていた3匹。



左の茶色い犬の表情が・・・(笑)
砂が眼に入ったんですかね。



シギの類いもおります。



カモメとテリムクドリモドキは干渉し合いません。



ところで、お母さんが乳幼児と一緒に座っているところに
このムクドリが飛んできて近くに止まったのですが、
母親がまるでハエでも払うように手を振り回し、
叩かんばかりに追い払っていたのを見て、驚きました。

赤ちゃん(しかも女の子)を育てている母親、
特にアメリカの母親と言うのはみんな

「見てご覧なさい、鳥さんが来たわよ〜」

みたいな感じだと思っていたので・・。



望遠レンズならではのこんな写真。
この黒人男性はずっとこのブイの上に立って、
「決まったぜ!」みたいな感じで静止ポーズを決めていました。

バスケットボールを持っている人が彼女だと思うのですが、
何の意図で(しかも長時間)やっていたのかは謎です。



カモメの向こうに見えているのが、
原子爆弾を開発したオッペンハイマーの基金で作られた
科学博物館、エクスプロラトリウム。

息子は小学生のときは後半ここのキャンプに行っていました。

さて(笑)

写真を撮りつつ歩くこと約50分。
ブリッジに向かう途中で引き返し、車まで帰ってきたわたしは
ウェストベルトを探って愕然としました。

鍵 が な い 。

見れば車の鍵はちゃんと閉まっています。
取りあえずiPhoneは音楽を聴くために持っていたので、
止めてあったデータのローミングをしてハーツの非常コールセンターを
インターネットで検索。
検索したページから直接電話がかけられます。

いやー、便利便利。
iPhoneに代えて(観閲式で雨に濡れて前の携帯が壊れたので)
良かった、とこのときほど思ったことはありません。

「あのー、ロックアウトされたようなのですが」
「まず車のナンバーを教えて下さい」

ナンバーから即座に白のプリウスを借りたエリス中尉様、
と向こうが探し出し、またもや便利な世の中になったものだと
当たり前のことにいまさら感謝するわたくし。

「それでは今から60分以内に鍵を開ける人を向かわせます」
「車の中にキーがやっぱりなかったらどうするんですか」
「そしたらそのときはレッカー車で空港のハーツまで行き、
新しい車に乗り換えて頂くことになります」

もしかして7台目?・・・・orz

今年に限ってどうしてこう車関係が波瀾万丈なんでしょう。
今まで約10年間もの間、一度もなかったことが次々と。

いや、一度あったな。

5年前、ゴールデンゲートブリッジの途中でタイヤがパンクし、
煙を吹き出しゴムの焼ける匂いを振りまきながら
なんとかエクスプロラトリウムの駐車場までたどりついて
そこでレッカーを待ったことが。

あのときといい今回といい、GGBはわたしと車の鬼門なのかしら。

しかしまだ車の中にキーがある可能性も捨てられず、
わたしはまずロックを解除してもらうことにしました。

ちなみにお値段は84ドル也。

30分ほどでやってきたメキシコ系の係はわたしを見るなり

「ハウアーユー?」

ファインなわけないだろこの状況で。
彼はすぐにドアの端に金具を入れて1センチくらいの隙間を作り、
素早く長い金具を差し込んでドアのロックを解除しました。

うわーなんて手際がいいの。
こんな技を持っていたら、車上荒しなんてお茶の子いやなんでもない。

そして取りあえず中のバッグや車内を点検。
やっぱりありません。
まああるわけないよね外から鍵かかってるんだから。

「うーん・・・」

レッカーを呼ぶ前に、わたしはもう一度フィールドを
歩いて往復してみることにしました。
歩きながら首を常時40度くらい左右に動かし、
地面に落ちているかもしれないキーを見逃すまいと眼を凝らしましたが、
全くそれらしい影さえありません。

絶対にフィールドのどこかで落としたのにはもう間違いないのに・・。
そして問題は人が多過ぎることです。
歩いている人は知っている人自転車に乗っている人、
一瞬たりとも途切れること無くトレイルを行き来する状況。

「こんなに人がいるなら誰かがすぐ見つけたかもしれないなあ」

誰かがカフェに届けてくれたかもしれない、と思い、
まず一つ目のカフェに。

「ロストアンドファウンドあります?」
「何をなくしたんですか」
「カーキイです」(車の鍵をこういいます)
「ありますが」

なにっ!

お店の人が出してくれたキイを見てがっくし。
キーチガイじゃなくてキイ違いでした。 

Uターンして次は公園事務所に。

「鍵はとどいてないわ」

またしてもがっくしするわたしに

「Good luck! 」

こういうときグッドラック、というのは実に相手をほっとさせる
いい言葉だなあ、とわたしは感心しました。

ずいぶんのんきなようですが、実際のところわたしは
そう大変な気もせず、これも一つのイベント、
と言う感じでどこか楽しんでいたフシがあります。

まあそれもこれもブロガー根性とでもいうんでしょうか、
どんなことでも命に関わることでもない限りそれをネタに
またエントリ書いたる!みたいなことを考えていると、 
あまり悲壮感は感じないものなのかもしれません。

最後にもう一つのカフェに行ってみました。
そういえば朝ご飯を食べずに出てきて50分歩き、
外で立ったまま30分待って、そのあとまた同じコースをもう一回歩いて
時間は現在1時。
そりゃお腹もすきますわ。

カフェでサンドイッチでも買ってそれからレッカーを呼ぼう。
レジでカーキイが届いていないかと聞くと、店長らしい男性が

「あ、一つありますけど」

なにっ!

しかしこれが自分のキイだったなんて奇跡が起こることを
いまのわたしは全く信じる気になれません。
もう今回は車関係何をやってもだめ、と諦めきっているわたしには。 

案の定それもキーチガイで、ガックシしつつも

「・・・・ターキーサンドハーフとスープのセット」

力なくお昼を注文したら、レジの中国系の女の子が控えめに

「Good luck・・・鍵が見つかるようにお祈りしてます」 

とおつりを渡すときに言ってくれました。
ありがとうね。




レッカーが来るのにきっかり1時間かかり、時間は2時。
この時間になると霧がかかってブリッジの上が見えなくなりました。

そしてレッカー車登場。
この係員もメキシコ系です。
さっきの人のようにハウアーユーはありません。

わたしの身分証明を確認し、サインを取ったら
さくさくと作業にかかりました。



もうこのころになるとネタにするつもり満点だったので
作業の様子を写真に撮ってしまうわたし。

アメリカではバック駐車は誰もしませんから、まず車の向きを
買える必要があります。
ロックされているのは前輪だからですね。

レッカー車の前からアームが出てきました。



後輪が回転しないようにバンドで固定して、そのまま
ずるずると引きずり出します。
前輪が動かないので地面とこすれてものすごい音がしました。



幸い向かいには車が停まっていなかったので
ここで作業をします。



何をしているのかと思ったら、アームの先の金具が
プリウスの車体に引っかかって出て来なかった模様。



プリウスの前に出て、バックで近づき、



車体の下にアームが伸びて行くと、
不思議なことに後輪にもがっちりバーがはまります。



そして車体を持ち上げ・・



天井に警告ランプを乗っけて出来上がり。

わたしはレッカー車の助手席に乗って行きます。
道中二言しかしゃべりませんでしたが、この人が無口というより
こういうときには職務として黙っているのがデフォルトのようです。

わたしがカメラの画像を点検していたら

「フォトグラファーですか?」

と聞いてきたので勿論違うといいました。
彼は作業をいちいち写真に撮っているわたしを怪訝そうに見ていましたが、
そんなことをするのはカメラマンに違いないと思ったのでしょう。




そしてハーツに到着。
空港のではなく、修理工場を併設する営業所です。

電話をしたとき最初にオペレーターは二回とも電話がつながるなり

「Are you safe? 」

と聞いてきましたが、レンタカーでも事故を起こす人は起こすらしく、
ここにはどうやったらこんなぐしゃぐしゃに、と背筋が寒くなるくらい
破壊された車体が三台並べておいてありました。



待つことしばし、アップグレード代をディスカウントしてくれたので
借りることに決めたのはダッジ。

「これはいい車ですよ」

と係員が言った通り、加速もパワーもなかなかで
今回乗った車の中で最も走り心地のいい車だと思いました。

・・・・たぶん燃費はすごく悪いと思いますけど。


最後のカフェでサンドイッチを食べていたとき、
コーナーにに店長がやってきて声をかけました。

「見つからなかったの?」
「ブリッジまで2往復したんですが・・だめでした。
レンタカーなので今会社に電話してトウイング頼んでるんですよ」
「ああそりゃお気の毒に。でも、まあそれだけで良かったよ。
またいいことあるから気を落とさないでね」

そして彼も最後に「グッドラック」と。
皆がこうやって心配したり慰めたりしてくれたため、
逆になんだかいいことがあったような気分にすらなってきました。

キーを紛失したことに対しては保険に入っているので
賠償の必要はありませんでした。
ロック解除代84ドル、レッカー代を120ドルは痛かったですが、
お金で全てが済むならありがたいと思わなければ。


まあ最初から鍵を失くさないにこしたことはありませんけど。

 

 





 

キャッスル航空博物館〜B−24リベレーター「ロンサムボーイ」の乗員

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キャッスル航空博物館に到着して車を停めると、駐車場に向けて
フェンス越しにノーズを向けているので最初に目につくのがこのリベレーターです。

B−24リベレーター LIBERATOR

このリベレータ―とは、最初のLIBERが自由の意である「Liberty」からきていることから
分かるように、「解放者」という意味を持っています。
「(自由に向けて)解き放ってくれる人」というところですか。


前回キャッスル航空爆物官のB‐17からご紹介を始めたのですが、実はこの博物館、
展示コースの一番初めがこのリベレーターからになっています。

米国コンソリデーテッド社による開発で、B‐17の後継のような形で1939年に初飛行をしました。

もともと、コンソリデーテッドには、B‐17のライセンス生産が持ち込まれたのですが、
コンソリ社が「だが断る」として、新型の爆撃機開発にこだわった結果、
このリベレーターが生産されることになりました。

B‐17が航続距離が短いという欠点を補う仕様にしたため、後継機として
オーストラリアなどから投入され始め、日本軍とはその後ニューギニアで運用されるようになってから
交戦され始めています。

以前「パンツ一枚で初撃墜」というエントリで、海軍搭乗員の小高登貫氏が
このコンソリデーテッドを撃墜したという話を書いたことがあります。 
小高飛曹が照準を向けたそのコンソリデーテッドB−24は

「シルバーの機体に、赤、白、青の米軍のマークが浮き出ていた。
こんなにきれいな機体に機銃を打ち込んでいいものか迷った」

というものだったようです。
この「シルバーの機体」というのは、どうやらここにある陸軍の運用していたカーキとは
違う塗装のされた、 PB4Y-1リベレーターだったのでしょうか。

さて、当ブログではほかにもリベレーターが登場しているエントリがありまして、

 「敵機に帽を振れ」より

この機体を見たときに、「あれ、どこかですごく見たことがあるぞ」
と思ったのは、この時に漫画に描いたからだったんですね〜。

しかし、このときにまるでパイロットが一人であるかのように

敵機に帽を振れ」より

こんな操縦桿で描いてしまったのですが、もしリベレーターだとしたら



操縦席これですからね。
この場合、板倉艦長以下伊潜の乗員に帽子を振られて爆撃を中止したのは
操縦員ではなく、爆撃手だったということになりますね。
だって10人も乗っているわけですから。

この厳然たる事実を突き付けられて、この時の様子が
このように訂正されなければならないことがわかりました。

機長「ジャップノサブダ!バクゲキシュ、ダンヤクソウトビラアケ!」
爆撃手「イエッサー!」
機長「 ジャップメッ!パールハーバーノカタキヲトッテヤル!」(ここ一緒)

機長「ッテ・・・・アレ?」
コパイ「キャプテン!テヲフッテマス!」
機長「デイブ!ストップ!ストーーーップ!バクゲキチュウシ!」
デイブ「イエッサー!・・・・テカアレジャップデスガ、サー」

機長「ワ・・・・・・ワット?」
デイブ「ジャップガボウシフッテルンデアリマス、サー」

機長、副機長「・・・・・テヘペロ」

デイブ 「テヘペロジャネエ!サッサトUターンセンカイ!サー!」

こうだったんですね。ええ。
マンガがややこしくなるので訂正はしませんが。

・・・・・・・・・・・・・・・。

さて。

ここにあるバージョンは、コンソリデーテッドが最後に作った機体だそうです。
わたしのブログでさえもこれだけ活躍しているくらいですから(笑)
実際にもこのB−24は第二次世界大戦のいろんな場面で使われました。

生産された台数も膨大なもので、アメリカ陸軍航空隊向けとしては最多の
18,431機が終戦直前まで生産され、これに海軍向けの1,000機近くが加わります。

ちなみに先ほどのB-17は約13,000機で、B-29の生産機数は約4,000機。
第二次世界大戦中に生産された米国爆撃機の中で最多ととなっています。


この量産体制に大きく寄与したのが自動車会社のフォード社。

当時、普通の航空機会社がこれを一日に一機作れるところを、
フォード社は一時間に一機のペース、しかも24時間体制でB−24の生産に当たりました。
全生産数のうち半分弱の8000機以上がウィロー・ラムのフォード社で作られています。



この無茶な体制で工場を稼働させたせいで、
フォード社社長であったヘンリー・フォードの息子、エドセル・フォードは、
心労のため胃をやられ、せっかく大企業の御曹司に生まれたイケメンだというのに、
わずか49歳の若さで胃癌のため急逝しています。
これも一種の戦死、というやつでしょうか。

合掌。



機体に爆弾を積むときに牽引する車まで展示されていて親切です。

さて、コンソリデーテッドはもともと水上機を研究していた会社なので、
このフォルムがなんとなく飛行艇のように見えてしまうのですが、
どういうわけか、水上に不時着したリベレーターの様子を撮影した映像が
残されているのを発見しました。




模型実験

コンソリが作ったせいか、不時着水がごく自然に・・・・・。
しかしそれでも微妙に後ろから着水した結果、機首が上を向き、
次の瞬間それが水面に叩きつけられて機首部分、つまりコクピットのところが
ぽっきりと折れてしまっています。

しかし、二人のパイロットはそこから全くぬれずに出てきて、
しかもそのうちのスカした一人はポケットから櫛を出して髪の毛を撫でつけているのが見物です。
(4分05秒の部分)

二つ目のは模型で実験しているのですが、模型の着水の様子と
実際の着水の様子が寸分違わず同じで、ノーズが折れるところまで予測できていたということです。

うーん。

この実験はもしかしたら、
「実験の結果は信用できる」
ということを証明するための実験?

 


ノーズが折れるところまで予測しているなら、
折れないようにしてからフルスケールで実験しろよっちう。 






爆撃のミッションが19回。
撃沈した敵艦船、2隻、
そしてハーケンクロイツが4つというのは撃墜したルフトバッフェの機体数でしょうか。

当初は航続距離が短いので日本の本土空襲には使えなかったとされるB‐24ですが、
硫黄島で日本軍が玉砕して以降、この機体でも本土に空襲することが可能になりました。

昭和20年7月28日には、沖縄から飛び立ったB−24リベレーターのうち2機、
「ロンサム・ボーイ」と「タロア」は、戦艦「榛名」を攻撃中に被弾して墜落、
乗組員は捕虜になりました。

彼らが収監されていたのは、一週間後には原子爆弾が落とされた広島でした。


そして今日からちょうど69年前の1945年8月6日。

広島に彼らの同僚であるアメリカ軍のパイロットによって原子爆弾が落とされます。
たまたま尋問のため東京に移送されていた隊長はじめ三人以外は、全員が死亡しました。


実はアメリカは原爆投下前にイギリス軍から「広島には米軍捕虜がいる」という報告を受けていましたが、
投下予定をそれで変えることは全く考えなかったようです。




あと、リベレーターが高射砲によって翼がやられ撃墜される瞬間の映像を見つけました。



B−24が日本軍の高射砲で撃墜される瞬間


このような瞬間を見るとどこの国の飛行機であっても胸が詰まります。



上記の広島での被爆した米軍兵ですが、なぜか橋のたもとに、
死体が全裸で放置されていたという証言があります。

それをみた通りがかりの人が棍棒を振り上げて殴ろうとしたのですが、
最後の瞬間でひるんでしまってどうしても強く叩けなかったそうです。

自国の容赦ない爆弾によって殺されてしまった米兵に対し、
ただ敵として憎むには忍びない「憐れ」がさせたことだったのでしょうか。


本日は8月9日。
広島と長崎に原子爆弾が投下されてから69年が経ちます。







ボストン美術館

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毎年一度は訪れるボストン美術館ですが、未だに
初めて見る作品がたくさんあります。

勿論、何度見ても厭きることなく新しい感動を与えてくれる作品、
たとえば冒頭のジョン・シンガー・サージャント作

「エドワード・ダーレイ・ボイトの娘たち」

14歳のフィレンツェ、12歳のジェーン、8歳のメアリールイザ、そして
4歳のジュリア。
肖像画らしくない謎の人物配置と、少女たちの愛らしさが魅力的です。

前に見たときにはその素性について深く考えなかったのですが、
この絵に見える背の高い花瓶は、まぎれもない日本製。
先日訪れ、創業者の孫から直接説明を受けた有田の深川製磁製であることは
ほぼ間違いないでしょう。

ボストン美術館のHPによると

「19世紀後半に主に西洋への輸出のために有田で造られた花瓶」

とあります。
この頃まだ深川忠次の深川製磁はなく、その前身の香蘭社が
1876年、フィラデルフィアで行われた万博に壷を出品し、
その後78年にパリ万博で金賞を受賞しています。

この絵が描かれたのはその4年後の1882年。
ハーバード出の弁護士で、娘たちの父親であるネッド・ボイトの家庭は
裕福な地域に住み、当時は高価でステイタスであった有田の花瓶を
家に飾るほどの財力を持っていたということがわかります。

ここにある花瓶も勿論有田製で、模様が全く同じであることから
ボイト家の持ち物であろうと思うのですが、
不思議なことにそれについて述べられている資料はありません。



さて、今日は美術解説はこれくらいにして、この日観た
「気になる作品」を淡々とアップしていきます。

この日の美術館訪問は、TOと二人で行きました。



わたしたちはこのとき知らなかったのですが、
この日は「オープンハウス」で、無料開放日。
周辺が混雑するくらい車が駐車場に並んでいたので、
迷わずバレーを利用しました。
友の会の会員でなければ27ドルと高いですが、
入り口で車をピックアップしてくれ、帰りには持ってきてくれます。



取りあえずまず休憩を(笑)
おやつにカフェラテと果物、ムースを頼んでみました。
コーヒーはスターバックスからとメニューにはあったのに、
見た目からしてスターバックスのラテらしくありません。

この日は息子のキャンプが最終日でセレモニーのため、
お迎えはなんと9時半です。
しかし、驚くことに美術館の閉館はそれより遅い9時45分。

今日が特別なのではなく、毎週水木金はこの時間なのです。
これなら仕事が終わった後のデートにも使えますね。



休憩が終わって早速歩き出しました。

コンソールの脚が人形です。
家具や壁面に人間をあしらうの、好きですよね。西欧人。



マンドリンとオーボエ(ダモーレ)。
オーボエという楽器は今日とあまり変わりません。



日本語の音声ガイドを借りてみました。

「ほんの少ししか解説がありませんがいいですか」

それでもないよりはましです。
そのガイドの順番に従って歩くことにしました。

写真は古代アメリカのコーナー。



謎の動物と不思議な服を来た人。



ネズミの上にネズミ。
前のネズミの口から中身が注げるポット。



1800年代?のアメリカの民家。



マグナカルタというコーナーにあった帆船の模型。
マグナカルタ憲章のコピーが壁に大写しされたコーナーでは
多くのアメリカ人が立ち止まって文言を読んでいましたが、
わたしたちは通過(笑)

「マグナカルタ、ありましたねえそういえば」
「なんだっけ。大憲章とか」
「うーん、なんだっけ」

後からwikiをみたら、1215年に制定されたイギリス国王の権利の保障とか。
前文だけは現在でも残されて現行だそうです。



(イギリス系)アメリカ人にすれば、こういう船に乗って
大航海時代にアメリカ大陸にやってきた自分たちの先祖ですから、
興味があるのも当然かもしれません。

 

近代アメリカ美術のコーナーにあった石像。
天使が抱きかかえているのは労働者のようです。
石碑の足元には、

その命を故国に捧げた1288人のペンシルバニア鉄道の男たちへ

と書いてあります、
ペンシルバニア鉄道は1846年に設立された鉄道ですが、
工事の際にこれだけの殉職者を出したということなのでしょうか。



最初の解説はこの抽象画でした。
黒い部分は絵の具ではないとか、従来の絵画とは違う作者の視点が
画期的だとか、解説音声はいろいろと言っておりました。
しかし正直こういう抽象画の良し悪しはわたしには全く理解できません。

家に飾るのにはいいデザインだとは思うんですが。



空虚な光景に既視感を感じる作風が好きです。
エドワード・ホッパー。



テキスタイルやファッション芸術の展示もところどころに。



現代美術のコーナーは外光を高い天井から取り入れています。

 

機能的デザインの展示もありました、
この細長いものは1943年にデザインされた脚用の添え木。
紙に包んであるのは開封前。



ジョージア・オキーフ。
生涯を通じて花と動物の頭蓋骨を描き続けた女流画家です。



先生むっちゃ怒ってます。
額に寄せたシワが怖い。



いかなる状況かはわかりませんが、このお姉さんは
何かを聞きながら走っている模様。
そういえばあの話題になった西宮市議が記者会見で耳の前に手を当てて、

「それで聞こえるんかい!」

と突っ込まれていましたが、この人も変わった手の当て方ですね。
音を聞くためにわざわざこんなポーズをする人っているのかしら。

しかしそんなことはどうでもよろしい。

この後ろに面白い絵を見つけました。



あれー、これはボストン美術館の、この部屋の絵?
それでは、全く同じ角度から写真を撮ってみましょう。



こんな感じ。
ボストン美術館は所蔵が膨大なのでしょっちゅう展示が変わります。
したがって、後ろの展示作品も少し違っていますが。



何となく撮ってしまいました。
おまわりさんに尋問されているらしき人は知的障害者の模様。



あら素敵な軍人さんだこと。
これは、ウィリアム・ハントというマサチューセッツ出身の画家の作で、

ハンティントン・フロッシンガム・ウォルコット中尉

という絵です。
ウォルコット中尉は南北戦争のベテランであったようです。



わたしがここの所蔵で最も好きな絵の一つ。
ハッサンの

夕暮れのボストン・コモン

ボストン・コモンは観光地の一つで、古い公園(画面の右手)
が今でも同じようにある地域ですが、
画面左手に見える路面電車の道に面した建物は、
今でもそっくりそのままに残っています。

この画面を西に向かって少し行くとニューベリーストリート。
わたしのお買い物スポットです。



いきなり趣の違う絵ですが、南米大陸の画家だったかと。
こんな絵でよければわたしが描いてあげてもいいと思わされますが、
座っている馬だかロバの脚に計算のなさがあって、
まあこの辺りがゲージツなのかなと思ってみたり。

ぜったいこの馬、中に人が入ってるだろっていう。



細いウェストにきりりと締めたエプロンの質感と、
バラ色の肌の透明感がとても魅力的な若い女中の像。
この絵も好きな作品の一つです。



まるで教会のようなステンドグラスをはめ込んだ窓の石室。
全ての展示品は最大限の効果をあげるような工夫が凝らされています。



いつの間にかヨーロッパ絵画のコーナーに来ました。
宗教画には決まったテーマがあります。
誰もが知っているシーンを切り取って画家は
自分なりの解釈をカンバスに展開するのです。

これはごぞんじサロメがヨハネの首をヘロデ王に所望し、
銀の盆にそれを受け取る瞬間。

この後サロメはヨハネに接吻し、それを見た王は
サロメを殺せと兵に命ずるというのが新約聖書を元にした
オスカーワイルドの戯曲の結末です。

しかし、この画家の解釈は面白いですね。
サロメには何の高揚も興奮も感じられず、
首を受け取っているというのに目をあらぬ方向にそらし、
まるで他人事のようなしれっとした顔をしています。

ヨハネに恋し受け入れられなかったがための
復讐をなしとげた女の顔にしては淡々としすぎているというか。

サロメが罪悪感に苛まれた一瞬を描いたのでしょうか。



最後の晩餐のセラミック作品。
全員朗らかに笑っていてどれがイエスかどれがユダかさっぱり分からず。

まあこれで表情の描き分けをするのは至難の業だとは思いますが。



アウグストゥス頭像。
初代ローマ皇帝ですので、たくさん彫像が残されていますが、
驚くことに(ってほどでもないか)どの彫像も同じ顔をしています、
本当にこんな顔の人だったんだなあと納得します。

文献に寄るとアウグストゥスは身長は170センチ、均整の取れた
立派な体格で、まれに見る美男子であったということですが、
それで皆がこぞって皇帝の彫像を造ったのでしょうか。

アウグストゥスの最大の功績は「パクス・ロマーナ」(ローマの平和)
を実現したことです。
しかしながらその平和の期間にローマの伝統であった対外拡張政策を止め、
防衛体制の整備に努めるにあたって、

「市民=戦士」

という伝統を復活させています。
備えによる平和を実現させたというところかもしれません。



美術館のドーム天井。
ボストン美術館は1870年、地元の有志によって設立され、
独立戦争100周年にあたる1876年にオープンしました。

本日ご紹介した北米芸術が展示されているウィングは
2010年に増設が完成した部分です。

わたしたちがボストンに住んでいたときには工事中で
観覧する場所に制限があった記憶があります。

所蔵は50万点を超え、一度に展示しきれないため、
いつ行っても少しずつ展示内容が変わっています。
たとえ一度の訪問で全部観たとしても、実は
観ていない所蔵作品はその何倍もあるということなのですね。


だからこそ毎年でも行く価値があるとわたしは思っています。






 

パシフィックコースト航空博物館〜デルタダートとサンダーチーフ

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昨日、テレビのHDチャンネルをつけていたら、

「ウルヴァリン SAMURAI」

が始まりました。
今年の公開で日本が舞台であるため劇場に見に行った映画ですが、
導入部は、ウルヴァリンが1945年の長崎に生きていた当時、
陸軍の青年将校であったヤシダを身を挺して原爆の爆風から守る、
というものです。

そのことから息子に長崎に投下された原爆の話をしているとき、
ふと、その日が8月9日であることに気がつきました。

この日この放映を見た人のうち、どれくらいがそれに気づいたか
わかりませんが、そういうことを意図して企画した「中のアメリカ人」
もいるのだなあと、小さなことですがなぜか少し安心しました。 


さて、先日訪れたサンタローザのパシフィックコースト博物館見学記、
続きと参ります。
 

Convair F-106 Delta Dart


1950年初頭、空軍がコンベア社に開発を依頼した要撃機は
計画が遅れ、1954年の期限までに納入される見込みはないということから、
空軍は同社から暫定的な要撃機を導入することにしました。
それが

F−102A デルタダガー

といいますが、これが最終的にF-106 デルタ・ダート
と命名されました。

空軍のこの機体への要求性能は 

最大速度マッハ2以上、
上昇限度2万1300m以上、
戦闘行動半径378nm以上

というたいへん厳しいものでした。

しかし最初のプロトタイプはたいへん残念なパフォーマンスで、
速度はマッハ1.9、上昇限度1万7370m。

しかもマッハ1を超えてから最高速度にたどりつくのに
4分30秒もかかることが判明したのです。
これではとても要撃機の役目を果たすことはできません。

というわけで、その後継続的なエアインテークの開発を重ねたのち、
完成した277機の単座、63機の複座の機体が空軍に調達されました。



少しこの写真では分かり難いですが、翼の前縁には

コニカル・キャンパー

といわれるわずかな垂れ下がりがつけられています。
これは迎え角の大きいときに飛行機の失速を防ぐ仕組みです。

このコニカル・キャンパーを大きくした高揚力装置を
スラット(英語ではslats)といいます。

スラットといえば、ここスタンフォードにはコメント欄で少しだけ話題にした
Linear Accelerator研究所がありましたね。



わざわざ写真を出してきてまでボケてみる。
それスラット違うスラックや。
しかしボケついでに少し余談をしておきます。

この入り口の表示には

NATIONAL ACCELERATOR LAVORATORY

OPARATED BY STANFORD UNIVERCITY FOR THE
U.S. DEPARTMENT OF ENERGY

とあります。
SLACというのは

Stanford Linear Accelerator Center

という最初の名称の略なのですが、名称が変わった今も
最初のこの略称が使われているそうです。

で、雷蔵さんのコメント後、あらためて気がついたのですが、
何と、いつも使っていた高速道路の出口付近には何カ所にも

「SLACは次の出口」
「SLACは次を左」「SLACは→」

というような案内が緑に白地の表示(大学や野球場など、
人がたくさん集まるようなところの案内)でされていたんですよ。



今まで何回もそこを通ってきているのに、SLACを意識したとたん
今まで全く見えてなかったそれが急に見えてきたんですね。


これは認識と知覚のメカニズムについての面白い実験結果です。
人はいかに自分の関心事以外には認知する働きを停止しているか、
ということを表わしているのではないかと思った次第です。

そこで俄然我田引水です。

A−6とEA−6Bの機種判定が問題になったとき、

「パンフ等で展示機の(せめても)機名・型式名を
確認してきてくれさえすれば、毎年繰り返されずに済む
喜劇もとい悲劇(^^)ではなかろうか」

と「うろうろするあれあれさん」に言われてしまったわけですが、
わたし、どちらもちゃんとやっているつもりなんですよ。

ただ、現地にいるときにはだいたい時間が限られているので、
とにかく確認より何より写真を的確に分かりやすい順番で撮ることだけ
心がけ、照合は後で写真を見て行う、ということにしているのです。

まあ、「うろうろするあれあれさん」のおっしゃるとおり、
現物を見る時点で機種がわかっていれば避けられる間違いなんですが、
案外いい加減な現地のパンフやHPに判定を惑わされてしまうと、
間違いを認識するのに大変困難を要するということなんですね。



と、こじつけの余談でいいわけをするエリス中尉でしたが次に参ります。

先が尖っているので赤いカバー(のようなもの)
を付けたノーズは、地上管制システムとデータリンクするための仕組み。
ドローンの先が親の敵のように尖っていたのと同じような理由です。



なぜ「デルタ」「ダート」なのか、上から見ると分かりやすいですね。
これはどう見てもダーツです(笑)
ちなみに、当機を改良後、さらに戦術航法装置などを書き換えるなどの
手直し作戦を

「ダートボード作戦」

と言ったそうです。
こういう作戦の名前には中の人が楽しんでつけたような
シャレの効いたものが時々ありますね。 


胴体の真ん中にくびれがあるのがお分かりですか。
これを

「エリア・ルール」

といい、音速を超えて飛ぶ飛行機の抵抗を軽減する仕組みです。
ちょうど翼があるところで断面積が急増することによって空気の抵抗が生まれるため、
これを緩和するのが目的です。

そしてコクピットの風防をご覧下さい。
完璧に三角です。



横から見ると窓が三角形。
しかしこれは・・・もしかしたらコクピットに座ったら

正面が見られないのではないだろうか。

三角形のフレームがちょうど前にあるわけですから。
いやー、現地では全く不思議に思わなかったけど、こうして見ると
実に不可思議な構造の風防ですね。
座席に座ってどんな風に外界が見えるのか、是非「コクピットデー」
には試してみたいものです。アメリカに住んでないと無理ですが。

スプリッターベーンの無数の穴といい、黎明期の超音速機というのは
今にしてみればとんでもない仕様をあれこれと工夫している様子がよくわかります。
技術革新と共に素材の発明でそれらは全て解決されていったわけですが、
こんなところに先人の努力の跡が窺えます。



ARMAMENTとは軍装や装備のことですが、何も描かれていません。
この角を生やした毛むくじゃらの部隊マスコットの装備を
乗員がいろいろと面白がって書く欄だったのではないでしょうか。

ところで、この機体の説明板には、

IN HONOR OF AND REMEMBRANCE OF
Major General Jimmy J. Jumper

と書かれています。
メイジャー・ジェネラルは米陸軍における少将で、海軍では
少将をリア・アドミラルといいます。
ついでに、海軍では上から

アドミラル・オブ・ザ・フリート(元帥)のもとに
アドミラル(大将)
バイス・アドミラル(中将)
リア・アドミラル(少将)

となります。
海自はアドミラルが幕僚長に相当するので元帥のカウンターはありません。
陸軍でも元帥はなく、

ジェネラル(大将)
ルテナン・ジェネラル(中将)

そしてジミー・ジャンパーのメイジャー・ジェネラルとなります。
ジャンパー少将は統合任務功績章を授与された軍人で、
その息子のジミー・ジャンパー少将は現在統合参謀本部のチーフ。

おそらく、とう博物館にも深く関与しているのだと思われます。

当機は、ラングレー空軍基地にあったジャンパー少将の要撃隊、
第405飛行隊に敬意を表しています。




この隣には次に説明するF−105サンダーチーフが置いてあります。
実はデルタダートとサンダーチーフは同じエンジンを積んでいるのですが、
デルタダートの翼面積はサンダーチーフの2倍くらい大きなものです。

にもかかわらず、重量は若干こちらの方が軽かったそうで、従って
格闘能力は当初の予想を上回るほど優秀。
MiG-21 と同じような特性を持ち、ベトナムに派遣されていた
ファントムIIの仮想敵機として訓練に使用されたほどでした。

wikiによると

”F-106 の加速力と低翼面荷重による高空での高い運動性能は
F-4 パイロットをてこずらせたといわれている”

とのことです。



デルタ・ダートは冷戦時代の防衛を目的に生まれ、
20年間その任に当たり、1988年に退役しました。
翌年の1989年、ゴルバチョフとブッシュ両大統領の間で
冷戦終結の宣言が採択されています。

冷戦時代を象徴するような戦闘機と言えましょう。




REPUBLIC F-105 THUNDERCHIEF

先ほどお話ししたようにF−106とは同じエンジンを積んでいますが、
翼の形や全体のシェイプが全く異なります。
見た目は全く戦闘機=ファイターですが、軽爆撃機仕様で
この細い機体に爆弾槽を備えており、

「FとB(爆撃機)を付け間違えたのでは」

という軽口が奉られたりした、マルチロールのさきがけ的存在です。



サンダーチーフ、というのは雷の部隊の大将という意味なので、
いわば雷王ということにでもなりましょうか。
どうもチーフという言葉のイメージが軽い気がする日本ではイマイチの
ネーミングである気がしますが、それはともかく、このサンダーチーフ、
あまりにもニックネームが多いことでも有名です。

Thud 「どさっ」 “雷が轟音を立てて落ちる”(大量の爆弾を投下することから)
Thunderthud  「落雷」(同じ)
Hyper-Hog ”地面を掘り返すもの”(“凄い豚(猪)”)
Ultra-Hog (同じ)
Squash Bomber ”握りつぶす(ように爆撃する)爆撃機”
Iron Butterfly ”鉄の蝶”
The Nickel ”5セント硬貨”(機体の平たいこととセンチュリーシリーズの5番目だから)
One-Man Air Force ”一人(で全部やってしまう)空軍”
Triple Threat ”3つの脅威”(戦闘、爆撃、核攻撃をこなす多用途性から)
Republic Iron ”リパブリック社製鉄鋼製品”“リパブリック鉄工所”(頑丈だから)

どれもこれもこの飛行機に対する敬意と驚嘆が含まれているものばかりです。
いかにパイロットたちに評価が高かったのかがわかりますね。




ベトナム戦争に投入されたしょっぱなに、たまたまMiG-17に撃墜されたため、
これはだめかもわからんね、と思われてF−100(マッハ1)に護衛される、
という屈辱的な時期もありましたが、その後その雪辱を果たすという気概に燃え
彼らは果敢にMiG−17に立ち向かい、撃墜記録をあげることに成功しました。 

しかし空戦のときには爆弾を棄てねばならなかったため、
撃墜記録にこだわって爆撃を二の次にしたきらいがないでもありません。

北ベトナム空軍は結果として米軍の空爆を阻止することが出来たわけで、
むしろそれが目的で出撃していたという話もあります。 

先日お話しした陸上自衛隊の広報館には、ヘリや戦車、自走砲
などの装備が展示してあって、これはおそらくどれも動的展示ですが、
歴史的な航空機、特に戦闘機でまだ飛行が可能であるものがあるのは
アメリカならではかもしれません。

このサンダーチーフは、2011年の航空ショーのときに動的展示され、
ワインカントリーの上空にその翼を翻し飛翔しています。



レッドリバーショウボート。
レッドリバーバレーなんて曲がありましたね。
キャプテンがテキサス出身なのでしょう。



otter(カワウソ)1とA Mean Bear(意地悪クマー)。
かつてこのサンダーチーフに乗ってベトナム戦争を生き抜いた
パイロットたちのタックネームでしょうか。


サンダーチーフは北爆の主力として使用されたD/F型総生産数751機のうち、
385機、つまり半分が戦闘や作戦中のトラブルで失われています。

まさに、ベトナム戦争に殉じた戦闘機といっていいでしょう。



 

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