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その後の「愚直タレ」〜呉地方総監部訪問記

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前回、呉新総監のモットー「愚直たれ」を具現化した、その名も
「愚直タレ」について書いたところ、なかなかの反響がありました。

というわけでわたくし、そんな皆様のためにも、再び呉総監に会うからには、
愚直タレの誕生秘話とか、その後の顛末などを聞きたい、いや、
聞かねばならぬと意気込んで呉地方総監部庁舎に足を踏み入れたのでございます。


ところが、こちらが意気込むまでもなく、庁舎の玄関に一歩入った途端、
そこには💥(どーん!)と、このような大々的な
「愚直たれポスター」が飾られていました。
呉地方総監を訪ねる全ての生きとし生けるものが、
これを見ながらなお「愚直たれ」について総監に何もツッコまない
質問しないというのは、むしろ失礼にあたるのではないか?
と思われるくらい、それは存在感を放っていたのです。


ということで、聞きましたよー。愚直タレ誕生の経緯。

「愚直たれ」

海将がこの座右の銘を提げて呉に着任したのは7月1日のことです。
その言葉はそのまま総監の呉地方隊における指導方針ともなったわけですが、
それを周知徹底させるためのイベントとして
「愚直たれ」という名のタレを実際に製作し、
ポスターとともにコンテストを行うことになりました。

海将の名誉のために?言っておきますが、これはご本人が言い出したのではなく
あくまでも自然発生的に、地方総監部のどこからか生まれてきた話だそうです。

コンテストは「タレ部門」「ラベル部門」で「愚直大賞」を競うというもので、
呉警備区所属の隊員に応募を募ったところ、たれ部門には28作品、
ポスター部門には18作品もの応募があったということです。

冒頭写真はポスター部門の「愚直大賞」作品ですが、

燃えるような愚直さを

炎で直接的に表現した

センスとインパクトが

評価されたということです。
あまりにも直接的すぎて、総監が炎でメラメラと燃え盛っとります。

特にタレ部門は、愚直コンテスト執行部の予想を超えた応募数であったため、
外部からも広く審査してくれる人を集め(全部食べるわけにいかないので)
手分けして味見をし、大賞を決定しました。

さて、その後、ローカルテレビがこのネタを扱ったところ、
TBSがこれを全国にほのぼのニュースとして(たぶん)放映したため、
「横須賀の知るところとなった」そうです。
(具体的にどこのどなたあたりのことだったのかまでは追求しませんでした)

その後海将にもあれは何なんだ、とお問い合わせがあったそうですが、
さすがは海軍伝統のユーモアを継承すると自負する海上自衛隊だけあって、
それ以上のことは何もなく、むしろ良き哉で済ませられたようで
実に喜ばしい限りです。


自衛艦内や基地内を歩くと、司令官の指導方針というのが標語として
隊員食堂などに貼り出されているのを見ます。

「精強」「強さ」「即応」などというお決まりの文言に、「米軍と仲良く」
などというのもあって、学校時代を思い出さずにいられないのですが、
自衛隊の偉い人も毎年こういう標語を考え出すのは大変だろうなと思います。

が、「愚直たれ」。
これはインパクトありますよ。

一貫して池海将はこの言葉を使い続け、今や「愚直たれ」が海将か、
海将が「愚直たれ」かというくらいのトレードマークとなった上、
この度のコンテストで、もはや新総監の指導方針を知らぬ隊員は
呉警備区にはないというくらいの周知度となったわけです。



さて、表敬訪問における会談はあっという間に終わり、
応接室を出たところで総監とは挨拶してお別れしました。

この後TOは呉駅、わたしは知人と待ち合わせしている
入船山の国立病院(元海軍病院)スターバックスまで
車で送り届けていただくだけになったのですが、広報の三佐が
最後に、元御真影室だった応接室を見せてくださったのです。

かつてこのドアから入室を許されていたのは天皇陛下だけでした。
(おそらく皇族の方々も可だったと思いますが、聞きそびれました)
たとえ鎮守府長官であっても、ここをくぐることは許されなかったのです。

それでは平民はこの部屋にどうやって入ったかというと、
かつてはこのドアを中心に、両脇に平民用ドアがあったのだそうです。

天皇陛下専用と平民用を分けるだけなら、ドアももう一つ作るだけでいいのに、
とも思いますが、おそらく陛下専用ドアは

「平民用の右であっても左であってもいけない」

ということでこうなったのでしょう。 


現在では両脇のドアがなくなったのはもちろん、内装は全て新しくなり、
当時からのものは何も残されていません。

(ドア左側のじゅうたんに大きな黒いシミが・・・・)

そして、ドアの左には旧海軍時代の鎮守府長官、右には自衛隊の
呉地方総監の名前が金のプレートに刻まれて掲げられています。

呉鎮守府は全部で32名の長官を戴いたことになります。
中牟田倉之助、伊地知季珍、鈴木貫太郎、野村吉三郎・・・。

旧軍の司令官の名前と、自衛隊のそれをまるで同じものであるかのように
こうやって並べるなど、明らかに海自でしか行われないやり方でしょう。


ここで、三佐がちょっとしたトリビアを教えてくれました。

第14代長官の鈴木貫太郎が離任した日は大正13年1月27日です。
そして、第15代竹下勇の着任日を見てください。(黒くて見えないけど)

同日の1月27日となっています。

当時は呉鎮守府長官はその職を天皇陛下によって信任されたため、
新旧の長官が離任と着任を同日に行わなければならなかったのです。

つまり、まず旧長官が離任し、その後新長官が着任する。
これを天皇陛下ご来臨の元で相次いで行うことになっていました。

長官が同時に二人いるという瞬間は実際にはないのですが、
日付の上では一日重なっているように見えるというわけです。

現代の人事ではこのようなことは決して行われません。

これでいうと、第42代総監の池田海将は、平成28年6月30日が終わるまで
その任にあり、第43代の池海将は、7月1日午前0時になった瞬間に
総監に着任した、ということになります。

トリビアというのは「くだらないこと、瑣末なこと、雑学的な知識」
という意味がありますが、このトリビアは、海軍と海自の事なら
どんな瑣末なことも知りたいわたしに取ってはお宝情報でした。 

ドアの上には東郷元帥の揮毫した額が掲げられていました。
天皇陛下専用のドアの上に死後自分の額が飾られることになると知ったら、
おそらく東郷元帥は真っ青になって恐懼したことでしょう。

「柔 能 制 剛」

柔よく剛を制す、これって柔道家の嘉納治五郎先生の言葉だったのでは。

日露戦争で、誰も勝つと思っていなかった小国の日本が、
「剛」の国ロシアを制すことができたのも、「柔」の精神
のおかげ、というところでこの揮毫となったのかもしれません。

応接室内部。
実に重厚感のある内装、調度です。
真紅の絨毯は鎮守府時代からの伝統でしょうか。 

 

タンスの上に置かれた片目のダルマが、鮮やかな唯一の色彩を放っています。
ダルマには「呉地方隊」と書かれており、何か目標を達成した暁には
両目が入れられるのだろうと思いますが、その目標がなんなのかは、
タンスの中身に気を取られていて聞きそびれました。

応接室を出た廊下にあった油絵。

この菊の御紋をつけた戦艦は・・・・!

解説によると、この絵は第20代呉地方総監であった内富男海将が、
呉海軍工廠で建造された戦艦「大和」を主体とした作品を
依頼して描かれたもので、昭和19年10月24日、ミンドロの南を
シブヤンに向かって進む聯合艦隊がレーダーで敵機を捕捉し、
総員戦闘配置が完了した各艦がまさに発砲せんとする瞬間だそうです。

写真を失敗して解説が写らなかったのですが、これもおそらく
同じ画家による作品であろうと思われます。

左は護衛艦「ゆきかぜ」、そして後ろに続くのは「はるかぜ」。

「はるかぜ」型護衛艦の2番艦と1番艦で、この光景はおそらく
依頼した内海将が観艦式で実際に目の当たりにしたことでしょう。

調べてみると、内海将の呉地方総監任期中の1985年、この二隻の
戦後初の国産であった護衛艦姉妹はほぼ同時に退役しています。

今となってはその経緯を知る由もありませんが、内海将が引退に当たって
彼女らの在りし日の勇姿を絵に残してもらったのではないでしょうか。


さて、いよいよ呉地方総監部庁舎を去る時がやってきました。
わたしは「愚直たれ」ポスターの前に今一度立ち、写真に収め、
これで皆さんにご報告ができると心から満足してここを後にしたのです。

というわけで、噂の「愚直たれ」については、わたしが色々申さずとも、
このポスターにある文言を読んでいただければ、
その全貌がお分かりいただけるかと思います。

下手したら、新総監を戴いた呉地方総監部の「今」も解るかもしれません。


脳天を突き抜ける旨さと辛さ!

激辛

(総)愚直たれ

この辛さを「あ」などるな!


名称:愚直たれ(激辛)

原材料名:精強・即応・愚直(純度100%)

内容量:90(くれ)ml

賞味期限:総監在任期間中

保存方法:暑くても寒くても常温

製造者:呉地方総監 海将 池太郎

製造国:安芸国


(使用上の注意)

・何にかけてもあいますが、辛いものが苦手な方は
ご使用をご遠慮ください

・迷ったら、まずかけてみましょう

・お子様の手の届かないところで保管してください

・急に熱くなることがござますが、品質異常ではありません

・異常を感じた場合は、速やかに呉地方総監部まで返送ください


お客様とのお約束

・旨さの追求を「あ」きらめない

・お客様の味覚を「あ」などらない

・お客様を「あ」ざむかない


「あ」は諦める、侮る、欺くというネガティブワードの
「あ」たまであるというのが何やらツッコミどころですが、
それはともかく、この愚直たれ、呉地元の業者が大乗り気で
実際にすでに製品化していると総監がおっしゃっていたので、
もしどこかでこのタレを見つけた方は、ぜひ購入して、
もしなんでしたらご報告していただけると助かります。


というわけで、しばらく語ってきた呉地方総監部訪問シリーズ、
これを持ちまして終了です。

訪問に際してお世話になりました呉地方総監部広報の方々、
そうりゅう型潜水艦乗員の皆さん、そして呉地方総監、
全ての皆様方に熱く、じゃなくて厚く御礼を申し上げます。

どうもありがとうございました。 

 




 

 


平成28年度 年忘れ映画ギャラリー

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イベントなどへの参加が増えたため、一時ほど頻繁でなくなりましたが、
時間が出来たときには楽しみ半分で映画紹介をしています。

今年もわずかながらそんなエントリのために書いた絵を紹介して
恒例の年忘れといきたいと思います。

まず、年明け早々にご紹介した「亡国のイージス」

この映画はハマりましたねー。
どうしてもっと早く見なかったんだろうと悔しくなるレベルでした。

去年の年忘れギャラリーでは、

「本来より戦争映画は思想的色付けを避けることはできない」

とした上で、

「WGPを植え付けられた戦後レジームのおかげで持たされた
今日の日本のいびつな国家観が、一人の自衛官の反乱によって露呈される、
という内容が、いよいよ映画という娯楽作品上で語られる時代になった」

とこの映画を位置付けてみました。

日本の戦争映画というのはこれはもう贖罪と反省と、
「やりたくないけど戦争をやった」ということになっている軍人の
葛藤物語に成り果てているので(例:聯合艦隊司令長官山本五十六以下略)、
このようなテーマを語れるのは、もはや仮想戦記という方法しかないのかもしれません。

亡国のイージス後編 

この映画の魅力は絶妙なるキャスティングだと言い切ってしまいます。
主人公とも言える先任海曹の仙谷が真田広之というのは
「男前すぎる」という声もありますが、(原作では”鬼がわらのような顔”)
映画的イメージでは、もうこの人しかいないんじゃないかって気がしました。 

個人的にはヨンファ一味に殺されてしまう「いそかぜ」艦長の
衣笠一佐を演じた橋爪淳とか、反乱部隊に加わるも
途中でビビって弱気になる水雷士(谷原章介)なんかがよかったです。 

単なるキャラクターの好みですが。

原作を読んでいないと理解できないのが

『ヨンファの妹ジョンヒと如月行の海中での格闘シーンで、
なぜジョンヒは行にキスしたか』

だと思います。

原作映画共にどちらも熟読熟視?し、深ーくその事情を理解したわたしは、
おせっかいにも当ブログ上においてこの理由を蕩々と説明してみました。 

というわけで冒頭の絵はこのシーンを選んだわけですが、
この構図は最初の案でボツにしたバージョンです。

ヨンファの妹であり拷問で喉を潰されて聾唖となっている兵士
ジョンヒを演じたのは、韓国のチェ・ミンソという女優ですが、
この人、気の毒なことに日本の自衛隊映画などに出たというので、
帰国してからずいぶん韓国人から非難されたそうです。

本人は映画のスタッフは皆とてもよくしてくれたし、中井貴一に
ディズニーランドに連れて行ってもらったりしてすごく楽しかった、
などとと言ってたんですが・・・。

 

この後半のエントリの中で、わたしが

海上警備行動の趣旨は先制攻撃を受けた後も艦艇が生残することを
前提に成り立っていますが、現代戦では最初の一撃が全てを決してしまう、
つまり、「専守防衛」では勝てないという絶対的真理があります。

「その至極当然の理屈を野蛮だ、好戦的だと蔑み、
省みないで済ます甘えが許されたのが日本という国家」

であり、宮津が海幕長に

「なぜ無抵抗のうらかぜを沈めた!」

と罵られた時に返した、

「撃たれる前に撃つ、それが戦争の勝敗を決し、
軍人は戦いに勝つために国家に雇われている。
それができない自衛隊に武器を扱う資格はなく、
それを認められない日本に国家を名乗る資格はない」

という言葉は、日本の防衛の現場が縛られている絶対の矛盾を突いています。

と書いています。
今更自分で言うのもなんですが、本当、その通りなんですよね。

 

太平洋戦争 謎の戦艦「陸奥」

タイトルでいきなり「太平洋戦争」って喧嘩売ってんのかおい、
と「大東亜戦争派」の人たちが言いそうです。

太平洋戦争という言い方は、戦後GHQの統制下で生まれてきたもので、
アメリカにしてみると

ドイツ・イタリアと戦った大西洋戦争
日本と戦った太平洋戦争

であり、対日戦は「パシフィックウォー」だからですね。
しかし、この言い方だと中国はもちろんインド洋の戦闘は含まれなくなり、
セイロン沖の海戦はどうなる、という矛盾が生じてきます。

我が日本の主張からいうと大東亜戦争ということになり、当ブログにおいても
日本対連合国の状況においてはこの名称を使い、アメリカ側から観た場合には
世界大戦という名称を採用しています。

日本政府が閣議でこの名称を決定したとき、その定義は

 昭和12年7月7日の中国大陸における戦闘以降の戦争

であり、その名称は

「大東亜新秩序を打ち立てる」(つまり五族協和、西洋支配の排除)
 
に由来していました。
そういった理念のために戦うことを目的とした戦争だったのだから、 
それがそのまま名称でいいじゃないか、とわたしなど思うんですけど、
案の定これが戦後のGHQの統制で

「軍国的・国粋主義的」

であるという理由による使用禁止の処置を受けてしまい、
代わりにアメリカ側からの視点による「太平洋戦争」が押し付けられ、
新聞などの媒体を通じていつのまにか浸透してきています。

こういう経緯があるため、わたしの周囲の防衛団体関係者の中には
放送で「太平洋戦争」と聞いただけで

「何が太平洋戦争だ!」

と青筋立てる人がいたりするわけです。

余談ですが、先月ある防衛団体の会議で、太平洋戦争という呼称、
あれはいかん、という話題がでたその直後の講演で、演者の海将補が

「太平洋戦争において・・・」

と講演中言った瞬間、会場の空気が一瞬凍りました(笑)
まあ、普通の自衛官はこういうことまで意識していないものです。
いかなる政治思想も持たず、というのを宣誓していますしね。 

 

さて、タイトルの一言で大幅に紙?幅を費やしてしまいましたが、
この映画の「太平洋戦争」も深い意味があってのことではなく、
さらに右左思想はおそらくまったく関係ありません。

なぜならこの映画で語られる史実というのは戦艦「陸奥」の爆破だけで、
あとはそのシチュエーションを利用しただけのスパイ映画もどきだからです。

このタイトル絵で採用した彼らのセリフ、どれひとつとっても、
心ある人には突っ込みどころ満載、というものであることからも
この映画のトンデモ度がお分かりいただけるかと思います。

特に宇津井健のセリフ、

「海軍は陸奥を国民の戦意高揚のために使っている」

って、現職の海軍軍人はこんなこと絶対言わないよね。

謎の戦艦陸奥 後半 

戦後のこういうB級スパイ映画には怪しい外人がつきもの。
というわけで、この映画にはドイツ人でありながら連合国の
スパイもやっちゃってるルードリッヒという駐在武官が登場します。

ウィリアム・ロスというアメリカ人と思しきこの俳優、
全くドイツ人に見えないし、一言もドイツ語を喋らないのですが、
アメリカ映画に出てくる日本人って、真田広之、渡辺謙、田村英里子以前は
大概中国系か韓国系に妙な日本語喋らせてたからまあお互い様か。
(例:ファイナル・ カウントダウン)

だから、むしろ下手にドイツ語なんて喋らせないほうが、
実際のドイツ人からは反発されないかもしれません。

ドイツ人がこの映画を観た、あるいは観る可能性はほぼゼロだと思いますが。 

 

桃太郎「海の神兵」シリーズ

 

 

伝説的な戦時の日本アニメ、「桃太郎 空の神兵」を取り上げました。
最初は全部キャプチャしたタイトルだったのですが、しばらく寝かせるうちに、

「これは登場人物を人間に描き直したら面白いかも」

と考えて、やってみました。
この桃太郎隊長は、降下部隊指揮官なので、実際の指揮官であった
堀内豊秋大佐の当時の年齢が41歳だったことを考えると若すぎますが。

海軍水兵たちの帰郷

アニメの背景に自分で描いた絵をはめ込んでみました。
本編ではこの部分、手前から猿、熊、犬、雉と並んでお辞儀しています。 

アイウエオの歌

猿野くんが南方の子供たちに子供を教えるために「アイウエオの歌」を歌うシーン。
手塚治虫の作品「ジャングル大帝」は、明らかにこの映画をベースにしており、
本人もこの映画へのオマージュとして同じ状況(動物に言葉を教える)で
「アイウエオマンボ」を主人公に歌わせています。

ということは、「ライオンキング」は元をたどればこの映画がネタってこと?

この猿野くんは「普通のちょっと猿っぽい男の子」で描いてみました。

搭乗員の小鳥 

小鳥を飼っている搭乗員が出撃し、戦死するというシークェンスは、今の映画なら
使い古されていてもはや「パターン」ですが、このころにはそんなものありません。
手塚治虫はこのシーンに涙し、製作者の平和への希求を読み取り、その感動は
そのまま「こんなアニメを作りたい」という願望につながっていくのです。

原作の通り、うさぎっぽい(ってどんなだ)優しい顔のキャラを創ってみました。 

降下降下降下!

いよいよメナド降下作戦が遂行されることになりました。
一式陸攻に乗り込む隊員たちですが、重量級の熊が、猿と犬の間に
肩身狭そうに座り込むシーンを描いてみました。

この機内シーンとこれに続く降下シーンはこの映画の白眉です。

突撃と残酷表現 

アニメのキャラが敵にズブズブとナイフを突き刺す、というのが、
この映画が戦時の戦意高揚映画であるということに改めて気付かされます。

残されたこれだけでも十分過激なのに、海軍の検閲では残酷する部分が
カットされたというショックな事実を受けて、この項では
当時のアメリカにおけるポパイ、ディズニー、バックスバニーなどのアニメが
嫌日、侮日表現にまみれた作品を作っていたことを紹介しました。

どのアニメも、戦後の日本人はテレビで観ていた人気番組だったんですよね・・。

本シリーズでは最終章に

イエスかノーか!

というタイトルで、桃太郎というキャラが負わされた降伏調印のときの
山下奉文大将のイメージについて書いてみました。

「桃太郎 海の神兵」、わたしにとっても大変意味深い映画でした。

 

来年もこういった映画をご紹介していきたいと思います。

 

 

 

平成28年度 年忘れ人物ギャラリー

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今年も最後の日になりました。
恒例の人物ギャラリーで締めくくりたいと思います。
まずはブログタイトル通り、ネイビーギャラリーから。 

酒巻和男海軍少尉

真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇に乗り込んでハワイに突入した
10人の士官と下士官のうちの唯一の生存者でしたが、
その数奇な運命を世間の目に曝すことを望まず、ブラジルに移住して
ひっそりとその一生を終えた「捕虜第1号」酒巻和男海軍少尉。

説明のために自ら「捕虜第一号」を執筆したあとは沈黙を守り、
自らについて語ることも、媒体に露出することもしませんでしたが、
ジャングルから帰国してのちやはりブラジルに住んでいた小野田寛郎氏と
現地で対談をしていたことがわかりました。

その本をベースに氏の海軍への、あの戦争への、そして戦後日本への
考えや提言をこのシリーズではまとめてみました。

酒巻和男少尉の見た大東亜戦争

ハワード・ギルモア海軍中佐

対日戦で4回目の哨戒において、特務艦早埼と対決した潜水艦「グラウラー」艦長。
負傷した自分がハッチから退避している間に全員の命が危ないと判断し、
ハッチを占める命令を下して自らを犠牲に部下の命を救いました。

この時海軍から彼に出された感状です。

名誉勲章感状

アメリカ合衆国大統領は議会の名において、1943年1月10日から2月7日までの
グラウラーの第4の哨戒におけるハワード・ウォルター・ギルモア中佐の
際立った勇敢さと義務をも超越した勇気に対して、名誉勲章を追贈する。

絶え間ない敵の脅威と対潜哨戒の中をかいくぐり、
ギルモア中佐は果敢な攻撃によって日本貨物船を1隻撃沈し、
その火災によって他にも被害を与え、執拗な爆雷攻撃を回避した。

2月7日の暗闇の中、敵の砲艦はグロウラーへの体当たりを試みて接近してきた。
ギルモア中佐は衝突を避けるために左に舵を切り、
11ノットの速力で敵砲艦に突っ込んで外板を切り裂いた。

沈みゆく砲艦からの機関銃弾を浴びたギルモア中佐は、部下に対して冷静に
艦橋から去るよう命令し、自らは危険を顧みず艦橋に残った。
敵の一斉射撃に屈しながらも最大限の努力を行ったギルモア中佐は、
最後の瞬間に「潜航せよ!」と当直将校に対して最後の命令を下した。

グラウラーは甚大な被害を受けたが、戦死した中佐に闘志をかきたてられた、
よく訓練された乗組員によって母港に無事生還した。

今年の夏、コネチカットのグロトンで原子力潜水艦「ノーチラス」を
見学してきたのですが、「潜水艦のふるさと」でもある
グロトンの海軍潜水艦基地が直接運営しているものなので、
大変充実した潜水艦博物館が併設されています。

その展示の中にギルモア中佐の写真を見つけて盛り上がったのですが、
そんな知識を持ってここを訪ねる人は、アメリカ人にも
滅多にいないのではないかと内心自負しています。 

1943年に建造されたフルトン級潜水艦には「ハワード・W・ギルモア」と
名付けられましたが、魚の名前をつけるのが慣例の潜水艦にしては
これは異例のネーミングだとされています。

リチャード・E・バード・Jr.海軍少将

海軍軍人でありながら冒険家として有名だったバードJr.少将。
アメリカの「ハイジャンプ作戦」には謎が多く、これらについて調べるのは
まるで冒険ミステリー小説を読んでいる気分でした。

戦艦「フィリピン・シー」について調べていたら、これがハイジャンプ作戦に
加わっていたことを知り、芋づる式にバードJr.少将までたどり着きました。

でも、わざわざ取り上げる気になったのは男前の少将が若い時の
ボウタイ姿の写真を見つけてしまったからです(爆) 

 

さて、ここからは陸軍関係となります。

小野田寛郎陸軍少尉

酒巻和男氏との対談をまとめた3編のうちの「小野田さん編」。

小野田少尉の終戦

ただ一人ジャングルで終戦を知らずに過ごした「最後の軍人」
小野田さんは、日本帰国後、他の誰も経験したことがない
不思議な世界に身を置かねばなりませんでした。

世間の人間が小野田さんを見る目は、良くも悪しくも偏見に満ちており、
その半生は、世間が求める「小野田さん像」への抗議と
戦いの日々だったと言えばいいでしょうか。

このころの小野田さんは、実に開けっぴろげにルバング島での
ことを語っており、まだそれほど世論に対して
警戒していなかったのではないかと思わされます。 

遥かに祖国を語る

二人の対談から、二人が帰国したとき、日本は彼らをどう迎えたか、
そして戦後の自虐する世代を二人がどう見ていたかを書きました。

酒巻氏は本当に写真が少なく、参考にできるのが晩年のはこれだけでした。

 

北本正路陸軍少尉 

呉にある海軍墓地で善本野戦高射砲中隊の慰霊碑を見たことから、
日本軍が、ニューギニアの北岸で標高4000mの山越えをしていたことを知りました。

人呼んで「死のサラワケット越え」。

その牽引力として過酷な山越えを偵察を含めて何往復も行った
「マラソン部隊」の隊長は、オリンピックに出場したこともあるアスリートの
北本正路という陸軍軍人であったことを知り、シリーズ化したのが本編です。

栄光マラソン部隊〜北本工作隊かく駆けり

戦後は市井の人として慎ましい余生を送ったようですが、今ほどテレビが
思想的に偏っていない時期、

「私は誰でしょう」

という人気番組に出演したこともあったようです。

氏がおそらくその生涯に書いた一冊の自伝には、マラソン部隊の隊長として
選んだ現地人の部下、ラボとの魂の交流が生き生きと描かれています。

ハリー・カツジ・フクハラ陸軍大佐 

日系アメリカ人として「二つの祖国」を持ち、対日戦に参加した
軍人は数多くいました。

「二つの祖国」〜ハリー・フクハラとアキラ・イタミ

その通り「二つの祖国」のモデルになったハリー・フクハラ大佐。
やはり小説のモデルになったアキラ・イタミと共に、
日系二世たちの苦悩についてお話ししてみました。 

舩坂弘陸軍軍曹

インターネット界隈では「チート」と言われて有名な(笑)
超人舩坂弘軍曹のチートぶりを扱いました。

舩坂弘陸軍軍曹の戦い その超人伝説 

わたしとしてはその超人ぶりもさることながら、彼の生存の
大きな原因となった、アメリカ海兵隊伍長クレンショーの存在、
そして彼と船坂軍曹の友誼にいたく感銘を受けてこちらを漫画にしてみました。

ロシアン・スナイパー(ただし女子に限る)

スナイパーに男性と伍して太刀打ちできる女性をバンバン投入したソ連。
その中からは何人かの英雄が生まれました。

中でも有名なリュドミラ・パブリチェンコ、ローザ・シャニーナ、
クラウディア・カルディナ・エフレモブナ、アーリャ・ モロダグロワ。
この4人を取り上げました。

2000人投入された女性スナイパーのうち戦後生きていたのはその4分の1、
という数字もさることながら、生き残った女性たちもあのクリス・カイルのような
戦闘トラウマに生涯苦しめられたという話もあります。

キャサリン・スティンソン

ここからは女性パイロット列伝シリーズから。
彼女の顔をことさら漫画風に描いたのは、当時のキャサリンが
「ス嬢」という略称で日本におけるアイドルとなっていたからです。

「ス嬢はアイドル〜キャサリン・スティンソン」

飛行家としての彼女そのものより、日本における、特に女学生の
彼女への熱狂ぶりが気になりました。

それから、横須賀鎮守で、海軍が彼女に献呈した壺が
その後どうなったかがわたしとしては気になります(笑) 

エイミー・ジョンソンCBE

栄光に包まれた英国の高名な女性パイロットの墜落死。
彼女は暗号を間違えたため、祖国の軍隊によって撃墜されていた、
というのが最近明らかになったという話を書いてみました。

誰が彼女を撃ったのか〜エイミー・ジョンソン

エイミー・ジョンソンの存在はアメリカではとても有名らしく、
子供向けの飛行家シリーズ本などにはイアハートと並んで登場します。

わたしはこの話で、雪の降りしきる1月5日に、墜落した彼女を
助けるために、軍艦の甲板から単身海に飛び込んで死亡した
海軍軍人の「海の男」魂に何よりも感銘を受けました。

名前のあとに「CBE 」とついているのは、彼女が

 大英帝国勲章(Order of the British Empire)

のコマンダー位を授与されたからです。
この勲章を与えられた有名人には、ローワン・アトキンソン、
指揮者の尾高忠明、佐々淳行、スティング、蜷川幸雄がいます。

マリ-アントワネット・イルズ

フランスの飛行家ということで、結婚という形にとらわれない
フランス人気質というものを絡めながら、彼女の
不倫の恋などを語ってみました。

「恋に生き、空に生き」

このタイトルがトスカのアリアをもじっていることに
気付いて下さると嬉しいです。

来年も訪問記の合間にこういった人物を紹介していくつもりですので
よろしくお付き合いください。

それではみなさま、よいお年を。

 

 

 

横須賀のカウントダウン 2017年

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みなさま、明けましておめでとうございます。

2010年4月20日から始まった「ネイ恋」も、気づけば今年で
7年目に突入しようとしております。
海軍に興味を持つとほぼ同時に、何もわからないままブログを始めた、
ということは、わたしの「海軍歴」はほぼ7年。
少し遅れて海自に興味を持ち出し、海自歴はほぼ6年というところです。

日記のようにほぼ毎日エントリを重ねてきて、その間、ブログを通じて
様々な人に出会い、様々な土地を訪ねて見たものや感じたことを
心の赴くままに語ってきましたが、「ネイ恋以前」と「ネイ恋以降」では
明らかにわたし自身のものの見方、考え方は変わってきたと思います。

もし「ネイ恋」なしで7年歳をとっていたとしたら・・・?

そのわたしがどんな人間だったのかは確かめる術もありませんが、
もし両者を比べることができたとしたなら、
今の自分の方が少しは人間的にマシで、かつ満たされていることでしょう。

そうであれば、それはブログ上で知り合い、様々なご意見を頂き、
刺激を受け、時にはチャンスをくださった皆さま方のおかげに他なりません。

今年も真摯に精進してまいりますので、どうぞよろしく願い申し上げます。

 

さて、今横須賀メルキュールホテルの16階でこれを作成しています。
先ほどここでのカウントダウンによって無事に年越しを迎えました。

2日前、偶然車を運転していてふりかけさんことミカさんを目撃、
すぐに車を止めて久しぶりに(掃海隊慰霊式以来)話をしたところ、
横須賀のカウントダウンにお誘いいただいたのです。

せっかくなので家族で行こうと思い、TOパワーで前日にホテルを取りました。
が、息子が急遽鎌倉の友達のうちに泊まりに行くことになり、
ディナー付きの部屋をミカさんに供出し、一緒に年越しをすることに。

縁は異なものと言いますが、3日前までは思いもよらなかった展開です。

まずはメルキュールホテルの年越しディナーから始まりました。
最初に出てきたハマグリの上に泡が乗ったアミューズ。

マグロが乗っているのは餃子の皮ではなく、カリフラワーのペースト。
緑色のドットは職人芸の細かさですが、ブロッコリーペーストで描いたもの。

コースの中で一番美味しいと思ったカモのフォアグラ。
フォアグラは苦手な方ですが、絶妙の焼き加減と、
緑野菜をメレンゲにして粉砕した粉とのマッチングが最高な一品でした。

部屋では何年振りかに紅白を見ながら準備をし、
9時過ぎにヴェルニー公園に出ました。

苦手だった夜景の撮影ですが、本日はプロのカメラマンと一緒です。
アドバイスを受けた後の写真はこの通り。 

確か手前は「やえしお」だと通りがかりのミカさんの知り合いが
教えてくれました。
潜水艦のセイルに「2016」と電光で書いてあります。

隣の「ステザム」さんは、アメリカの国旗の色、
赤白青を使っておしゃれしています。

 

横須賀基地の方に向かって歩いて行きました。
「いずも」も艦番号107の「いかづち」も電飾が美しく光っています。
 

いずもの艦腹が見えるところまで歩いてきました。

JMSDFの電飾もこの日だけの特別だそうです。

午前0時1分前に全ての明かりが消えて真っ暗になりました。
港に泊めた船から花火が打ち上がります。

花火は約5分続きました。

わたしはレリーズを持っていなかったので、アドバイスに従って
写真を撮ることをハナから諦め、動画を撮っていました。

そして、先ほどの潜水艦を見てみると、年が明けて
「2017年」に変わっていた(冒頭写真)というわけです。

 

さて、あと4時間で夜が明けるわけですが、今から寝て
(現在午前3時)初日の出は見られるかな?

 

 

 


瀬戸内に浮かぶアートの島、直島

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さて、年明け早々の話題に、年末の旅行記をお届けします。

今回の旅行はわたしは全く計画に参与することなく、
TOとMKがごにょごにょと相談し、いつの間にか決まっていました。
MKは基本旅行が嫌いなのですが、今回は乗り気。
それというのも旅行のテーマが

「瀬戸内に浮かぶ島の現代建築作品でもあるホテルに泊まる」

というもので、建築に興味のある彼のツボだったからです。

まず、羽田から飛行機で向かったのは岡山空港。
はて、つい最近もこの空港に降り立ったような気が・・・。

空港で車を借りて、家内で唯一の免許保持者であるわたしが
ドライブして島まで行くことになっておりました。

空港から、これも先日進水式で行ったばかりの玉野の宇野港に向かう途中、
両備交通の路線バスが走っているのに気づきました。

 

これもネタで取り上げたばかりですが、貴志駅の初代猫駅長、
故たまを大々的にキャラクターにしているのが両備グループ。

なぜ和歌山の駅の駅長猫を岡山の会社が?というと、
もともと経営難だった貴志線を、南海電鉄から経営を引き継いだのが
両備グループであり、岡山電気軌道の子会社である「和歌山電鐵」だったからです。

この路線バスは「スーパー駅長たま」「たまバス」
とペイントされております。

わたしは運転していたので、家族に頼んで写真を撮ってもらいました。

あのー、バスに耳とヒゲがついてるんですけど・・・。

両備グループではこのほかにも関連車両として「たま電車」、
車体を三毛にペイントした「TAMA-VAN」なども走らせています。

自分が計画したわけではないので、時間のことなど何も気にせず、
ちんたら運転していたらフェリー乗り場に到着しました。
船着き場にちょうどフェリーがいて、係の人が

「乗りますか?」

と声をかけてきました。
予定より一本早い便の出航にギリギリ間に合ったようです。

 

宇野港から直島までフェリーでわずか15分。
通勤や仕事らしい車の人は乗ったままでした。

直島に行く観光客は意外なくらい多く、中国人観光客もたくさんいました。


 
あとで地図を確認したら名前のついていない無人島でした。
地元の人は「亀島」などと呼んでいるに違いありません。 

 

熊本船籍の貨物船、新益栄という船です。

こちらはパナマ船籍の TTM HARMONY。 
バルクキャリアー、ばら積み船だそうです。

ここはもう直島の先端の「獅子渡ノ鼻」。
航空写真を見ると、手前が土壌の整備中のようなので、
ここに必要な土か何かを運んできたのかもしれません。 

このあと船はすぐ直島に到着しました。

お昼を食べるところも、TOが前もって決めていました。

島にはコインパーキングなどというものはなさそうですが、
邪魔にならなければどこに停めてもおk、という感じ。
駐車場所を探して少し走ると、巨大なオブジェが出現しました。

頭から煙が出ていてドアがあるので中は飲食店のようです。 

「何このぶどう」

「島全体がアートなんですよ」

あまりに何の予備知識もなくやってきたわたし、ここで初めて

「島全体をアートにしてそれで町おこしをしている」

らしいことに気づいたのです。

道の脇にはかつての防空壕らしき痕跡が。

その「アート」とはこの島のありのままの姿でもあり、
従って古くからの建物も取り壊したりせず残しています。

巨大なオブジェがあるかと思ったら、焼杉の壁に
塩小売所の鉄看板が昔のままに残されていたり。

TOが選んだお昼ご飯のお店も、古い民家そのものです。
手前にあるのは使われていない(多分)井戸。

圧力鍋で炊いたらしい弾力のある噛み応えの玄米と甘い味噌汁、
豆腐に付け合わせと、実に滋味深いお昼ご飯です。

食後にミルクティーを頼んだら、牛乳はないと言われました。
ヴィーガン(アニマルフード禁止)のお店だったのです。

わたしは昔マクロビオティックもやってみたことがありますが、
色々実践している人を見てきた結果必ずしも完璧がいいわけではない
という考えに至ったので、今は菜食寄りの普通食をしています。

紅茶にはミルクを入れるし卵も魚も、外では牛豚も食べます。 

昼ごはんがすんで、いよいよホテルにチェックイン。
ゲートではバックミラーにI.D.タグをつけてもらいます。

本日の宿泊所である「ベネッセハウス」は、
無人だった島の海岸線の広範囲そのものがゲートで囲まれたホテル敷地で、
また全体が美術館でもあるのです。

内部の地図をもらって車を走らせて行くと、
ものすごく見覚えのあるデザインのカボチャが突堤に見えてきました。

当ブログで MOMA、ニューヨーク近代美術館を扱ったとき、
その数奇な半生についてお話ししたこともある草間彌生の作品で、
ベネッセハウスのシンボル的存在でもあります。

皆がこの前に立って写真を撮るので、繁忙期には

「カボチャの前に長蛇の列ができることもある」

ということでした。

ベネッセハウスはいくつかのゾーンに分かれていますが、
ここが初日の宿泊施設のある「パーク」棟です。

わたしは全くその存在をこの日まで知らなかったベネッセハウスですが、
もうオープンして26年になるのだそうです。

ロビー前のエントランスもまるで美術館のよう。

宿泊客に欧米系の外国人客が多いのには驚きました。
彼らが喋っている言葉も英語、ロシア語、ドイツ語・・・・。
実に世界中から観光客が訪れているようです。

著名な世界の旅行雑誌の「次に見るべき世界の七か所」特集で取り上げられ、
それ以降世界各地の新聞や雑誌で紹介されており、
海外での注目度も高い施設であることがよくわかりました。

この打ち込みコンクリートの丸い「打ち跡」ですら、
ここではアートの一環なんだそうです。
熟練の職人が手がけた打ち跡なのでここまで整然と同じ大きさなのだとか。 

初日の部屋は、「パーク」棟のコーナースイートです。

ベランダで朝食をいただきたいところですが、このホテル、
ルームサービスがありません。 

パーク棟には、10部屋がこのように並んでいます。
TOがいうには、本当は三泊のうち一日は「ビーチ棟」という
海沿いの部屋を取りたかったのだけど、空いていなかったそうです。 

ベッドボードの後ろはウォークインクローゼットでした。
うちのクローゼットより大きいかも。

不自然なくらい?大きなお風呂は明かり取りの窓が切ってあります。
ガラス戸のこちら側は洗面所です。

 

この宿泊棟にはいたるところに現代アートが展示されていて
「美術館に宿泊」できるというのが謳い文句です。

部屋に向かう廊下はまるで美術館の回廊。

廊下の窓ガラスの外にも作品。

これらは宿泊客しか鑑賞できません。

部屋からは別の角度からこの作品が見えます。

客室の前には海が広がっています。
自転車が走り回っていますが、中で借りることができるようです。

敷地のそこここにも作品。

夕食の時間まで、部屋から海を眺めたりしてのんびり過ごしました。
八幡丸という漁船らしき船が往き過ぎます。

クレーンを積んだ船と貨物船。
瀬戸内は波がなく、海面は穏やかです。
船の往来は多く、ここが「幹線航路」なのでしょう。 

レストランは「テラス」という別棟にありますが、そこには
このようなそれ自身が芸術作品である渡り廊下を通って行きます。

 

この日のディナーの内容までTOが選んでくれていました。

アミューズとして出てきたのは小さな小さなチーズクロワッサンとパン。
小さきことは可愛いこと哉。

コースの魚はタイ。盛り付けがすでにアートです。
ソースは確かケールだったかな。 

メインディッシュは煮込んだビーフの頬肉。
手前の黄色いのはポレンタです。
日本でポレンタはあまり見ませんが、すりつぶしたコーンで、
これをこのようにまとめて揚げたりして食します。

青梗菜は、わざわざ細いものを選んでいたのですが、
なぜか葉っぱの部分を固結びしてあって、しかもこれが
ナイフで切れず、食べるのに大変苦労しました。

アートを優先して食べやすさが犠牲になった例。

翌日の朝ごはんも同じレストランでいただきました。

レストランの前には砂浜が広がっているのですが、海岸線まで
一色に見えるように、デッキが全て灰色に塗装されていました。

「瀬戸内のエーゲ海」と称してギリシャ風の柱を立て白いヨットを浮かべた
バブル時代のホテルが岡山のどこやらにあったと記憶しますが、
どう頑張ってみてもエーゲ海とは全く違う瀬戸内海のくすんだ海の色が
その光景を一層寒々しいものにしていたことを思い出すと、
この海の色を熟知した色選びのセンスは大したものだと感心しました。

「どこそこのエーゲ海」「どこそこの銀座」「どこそこのハワイ」

こういう二番煎じ根性ではなく、そこが「どこそこ」であることを認め、
それから出発しないことには、そこは永遠に「本物」にはなりえません。 

世界中から観光客がこの小さな島を目指してやってくるのは、
ここが「瀬戸内のMOMA」(仮称)だからではなく「NAOSHIMA」だからなのです。

朝の光が作る窓枠の影も作品です。

パーク棟には無料のラウンジがあり、グランドピアノが置いてありました。
アメリカのホテルではよく廊下の隅にピアノが置いてあって、
練習したりしたものですが、日本で鍵をかけずに置いてあるのはまれです。 

わたしはここを通るたびに中を覗き込んで、人がいない時だけ
思う存分ピアノの練習をさせてもらいました。

左手を動かすための練習曲としてショパンのエチュード「革命」、
右を動かすために同じく「幻想即興曲」を弾きながら、
この海の色には合わないなあと感じたので、最後はジャズで締めて。 

わたしにとっては何よりの娯楽となりました。

 

さあ、明日はいよいよ本命の部屋に移動です。

 

 

 

 

「オーバル」に宿泊〜瀬戸内海・直島

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今回の旅行のハイライトは二日目に安藤忠雄氏設計の
「ベネッセハウス」内でも最も有名な「オーバル」に泊まることでした。

わたしは全く計画に関わっていないので後から聞いたのですが、
どうして3泊4日の旅行の中日に一番いい部屋にしたかというと、
最終日の朝、仕事の関係で午前中には東京に帰らないといけなかったからです。

まずは昨日泊まった「パーク」から引っ越しです。
とはいえ、荷物は部屋に置いておけば次の部屋に入れて置いてもらえます。

この棟は「ミュージアム」と言い、本当にここには美術館があります。
最終日にはここに泊まることになっています。

フロントからはこんな吹き抜けの回廊付き広場が見渡せます。
中央にあるものもアートで、電光掲示板にいろんな言葉が現れるというもの。

下のスペースに降りて作品を間近で見ることも可能です。

オーバルと言われるゾーンに行くには、特設モノレールに乗ります。
ミュージアム棟からルームキーを入れると、モノレール乗り場に入ることができ、
そこで可愛らしいモノレールを呼んでやってくるのを待ちます。

モノレールのドアは自分で開け閉めします。
トーンを落としたセージ色にペイントされています。

モノレールが斜面をちんたらと(本当に遅い)登って行くと、
眼下には島の端の小さな半島が見えてきます。

上の駅に到着。
走行時間は約5分といったところでしょうか。
モノレール脇には山道があって、ホテルの人はそこを上り下りしていました。

「ふおおおお」

「はええええ」

エレベーターから降りるなり声にならない声を上げるわたくしども。
文字通りオーバルに切り込まれた空間の中央には水が湛えられ、
その周りのスカイブルーの壁とひっそり同化して、各部屋のドアがありました。 

ベネッセハウスのシンボルのようになっているオーバルですが、
ここにはたった6部屋しかありません。

今回泊まる部屋は、大きなテラスのついた2部屋のうちの一つ。
壁にある三重丸もアート作品ですが、これを見ることができるのは
この部屋に泊まった人だけです。

部屋には支配人からプレゼントされたシャンパンのボトル有り。

絶景をテラスから見ながらシャンパンを開けてください、
というホテル側からのお心遣いなのですが、
残念なことに誰もお酒が飲めないわたしたちには猫に小判。

ちなみにこれは持って帰ってきて未だにうちにあります。

設計者の意図を反映してドアはなく、テラスに出るためには、
壁のボタンを押すとウィーンとガラスそのものが下がっていき、
そのままその部分が全開きになる仕組み。

全部ガラスを開けないと外に出られないというのもびっくりです。

「すご〜い」「おもしろ〜い」

モノレールからはしゃぎまくっていたわたしたち、ボタンを押しつつ
「サンダーバードのテーマ」を歌ったりしてもう絶好調です。

ベッドに寝ていても海が見えるように、周りの木は低く刈り込まれています。

テラスに出てみる。
テラスの外には柵はなく、断崖のように見えますが、
万が一テラスから落ちても下に転がることはないようになっています。

隣の小さな島は「柏島」と言って、ここも直島町です。

直島町の面積は14.22㎢、人口はわずか3126名(2016年10月現在)。
こんな小さな島が、世界中のツーリストの知るところとなっています。 

ここには人が立ち入ることはできません(物理的に)。
「オカメノハナ」という岬です。

部屋から海岸線を見ていて、こんなテント村を発見しました。
モンゴルのテント「パオ」とか「ゲル」みたいですが、ここも
素泊まり3000円台で泊まることができる施設なんだとか。

もちろんお風呂なんてないしテントだから冬はやってないと思います。

ここから眺めると至る所にアート作品。
これもおそらく井戸と洗面器ではなく、アート。 

「オーバル」の、テラス付きスイート宿泊者だけの特権。
テラスから前庭に降りて前を歩き回ることができます。 

宿泊者の特権?「オーバル」を上から見てみることにしました。

一旦外に出て、オーバル沿いの階段を上っていきます。
オカメヅタが茂って階段を半分隠してしまっています。

ここ屋上庭園もオーバルの宿泊者だけが立ち入りを許された場所。

縦に入ったスリット状のものが、各部屋のドアです。
わたしたちの部屋のドアは右から三番目。

6部屋の宿泊客のために朝食用のラウンジがあります。
ルームサービスがないので、さすがに朝ごはんは
簡単にここで食べられるようにしてあるのです。

そのほかにも、部屋には夜食のおにぎりが差し入れられました。

オーバルの周りにはこのように滝が注ぎ込み・・・、

 

建物の下を流れていくという設計になっています。

下界に降りるときには」、上からボタンを押して呼ぶと、
5分かけてゆっくりとモノレールが上ってきます。

6部屋の宿泊客のためだけにモノレールまで作ってしまうという・・・。

下のミュージアム塔に、「オーバル」建築中の写真がありました。
右から2枚目の写真は、わたしたちが泊まっている部屋のテラスです。

これが安藤忠雄による「オーバル」建築模型。

オーバルの中央の水溜りは、その日の天気によって様々な形を映し出します。

 

写真を撮ったり探検したりして部屋を楽しんでいたら、日が暮れてきました。

息子は「定点定時撮影」ができるカメラで日没の動画を撮っています。

 

空の色の移り変わりを見ているだけでこんなに楽しい場所があるとは。

二日目に初めて気がついたのですが、ここの部屋にはテレビはありません。
テレビや映画など見ず窓の外を見てください、というところでしょう。

夕日に光る海に見える瀬戸大橋のシルエット、その手前の大槌島は
地図で見てもまん丸い島で、まるで甘食みたい。  

直島での二日目の太陽が、今山の端に沈んでいきます。

 

        

 

靖国神社に初詣

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三が日も終了しましたが、みなさま、どんなお正月でしたでしょうか。

我が家は元旦を親子別々に迎えたので、二日は家族で過ごすことにして、
まずはお正月らしく歌舞伎を観に行きました。 

新春公演の初日で、お目当の演目は「大津絵道成寺」。

TOの知人がこの日三味線で出演していたことがきっかけですが、
息子が学校の歴史のクラスで歌舞伎についてのペーパーを書いたばかりなので、
やはり実際にどんなものか見せてやろうと思ったのでした。

今公演の第二演目は、市川愛之助が、息子が論文中扱った「早変わり」
(一人の役者が同一場面で素早く姿を変え,二役以上を演ずること)
を一人五役行うというのが目玉だったのです。 

歌舞伎座が新しくなって来るのは初めてです。

夜公演には吉右衛門、玉三郎、幸四郎が出るようです。

第1演目は、市川染五郎の主演で、なんと大政奉還150周年作品、

「将軍江戸を去る」

最後の将軍慶喜が明日は江戸を去るという日、幕臣の主戦論者にけしかけられて
出発延期を願い出たところ、山岡鉄太郎や高橋伊勢守に

「そんなことをすれば江戸で戦が起こり、罪もない人々が血を流す」

と言われて反省し、水戸へと出港していくまでを描いたもの。

偶然、息子はこれも歴史の宿題で戊辰戦争のテーマを選択したばかり。
聞き取りにくい歌舞伎口調のセリフながら、後で聞いたら

「まあまあ(理解できた)」

といっておりました。
 

おなじみ歌舞伎色の緞帳。

歌舞伎鑑賞というのは、昔は飲み食いしながら行ったといい、
その慣習を未だに引き継いでいることもあって、幕間には
みなさんお弁当やお菓子を席で食べます。(テーブル付きの席もあり) 

その感覚のせいか、上演中、おばちゃんがいきなりカバンの整理を始めたり、
よりによってプラスチックの飴の袋を取り出して破って舐め出したり・・。
クラシックのコンサート会場しか知らないものには軽くカルチャーショックです。 

幕間には緞帳の紹介も行われます。
スポンサー名が左、製作者名が右に入り、必ずどちらも読み上げられます。

こちら清水建設。 

こちらリキシル。製作は川島織物です。

早変わりを見るのが目的だったので、三つ目の演目はパスして、
お昼ご飯を食べにマンダリンオリエンタルに行きました。

この日の東京は晴れ渡り、三月並みの気温でした。 

マンダリンオリエンタルの「センス」で小さなコースを注文。 

TOのコースにはアワビ付き。 

「センス」の席からは東京の街が鳥の視点で見下ろせます。

ふと気づけば、鳥居があり参拝の列ができていました。
ここには福徳神社というのがあります。

オフィスビルの合間に神社が普通に存在する、これが日本です。

今日の主目的である靖国神社に到着。
わたしは無精?して本殿の近くまでタクシーで行こうとしたら、
TOが

「いや、こういう時には鳥居をくぐって歩いていくべきである」

ときっぱり言い切ったので、ここから歩いていくことにしました。
驚いたことに、参道に出店の類が全くありません。

考えられる理由としては、例の韓国人の爆破事件(ゴミ曰く爆破音事件)?
そういえば、参道いたるところに警官と私服の刑事が立っていて、
今年はかなり警戒態勢を厳しくしているなあと感じました。


息子は大晦日と元旦に友達と友達一家(アメリカ人)と連れ立って
鶴岡八幡宮に参り、

「ヤクザのやってる店(笑)で焼きそば食べた。すげー楽しかった」

と喜んでいたものです。
あの雑駁でいかがわしいとはいえ、日本人の郷愁を誘わずにはいられない
正月屋台の雰囲気が今後靖国でみられないのは残念という他ありません。
 

その代わり?参道には靖国神社の歴史を語る古い写真が
パネルのような壁に印刷?されて展示されていました。

これはタクシーを降りて撮った上の写真と全く同じ場所ですね。
季節は夏、袷を着た母親がカンカン帽を被った女の子と歩いています。 

こちらは昭和18年に行われた臨時大祭への御巡幸の車列が通り過ぎるようす。
向こう側の一般平民は地面に土下座?してまるで大名行列です。
こちら側の人々は立っているようです。
軍人は全て起立して敬礼をしています。

昔は参道からまっすぐ車が外に出る道があったんですね。 

時は下って昭和36年。
88台のトラックの安全祈願を行うなどということもできました。
トラックが全部本殿に向かって綺麗に頭を向けて停められています。
 

そして現在の靖国神社。
わざわざ付け火して、靖国神社を国際問題にしてしまった 
朝日新聞は、先日の防衛大臣の参拝を真剣に非難していましたね。

その朝日、正月早々反日全開。

「試される民主主義ー我々はどこから来てどこに向かうのか」

(勝手に絵まで掲載して・・・ゴーギャンに謝れ!)
という記事で要は安倍首相を選挙で選ばれた独裁者だと決めつけております。
彼らのいう民主主義って、自分たちの気にいる結論ではない場合、
それは「数の暴力」であり「民主主義の否定」だっていう不思議論理。

こんな独善的な考え、たとえネット時代でなくても受け入れられんと思うよ? 

 

それはともかく、靖国神社には新年の祈願を行う良民があふれていました。
この日最後の昇殿参拝を行い、祝詞では全員の名前が読み上げられましたが、
人数を数えていた近くにいた人が言うには(笑)226人だったそうです。
わたしたちのように家族で一人しか呼ばれない場合もあるはずなので、 
実際に本殿に上がったのは300人を超していたと思います。 

今回は欧米系の名前はありませんでしたが、朝鮮系の方が一人おられました。

終わって外に出ると、すっかり外は夜。
三日月の横に激しく明るい一等星が一つ光っていました。 

おみくじを引いて、お振る舞いの甘酒をいただきます。
全員に丁寧に「あけましておめでとうございます」と言いながら
甘酒を渡しておられました。 

遊就館前の特攻隊員の像の前には国旗とお供えがされていました。

例年靖国神社ともう一つ都内の神社に参るのですが、
今年は虎ノ門の金比羅宮に行きました。

港区のビル街にある金比羅宮、なんと1660年の創建です。

手前には琴平タワーという高層オフィスビルが建ち、ビルが参道の屋根になっています。
社務所や神楽殿はビルと一体化しているという融合具合。

主祭神は崇徳天皇、2001年には東京都の選定歴史的構造物に指定されました。

お参りを済ませ、歩いて虎ノ門ヒルズまでお茶を飲みに行きました。

虎ノ門はオリンピックに向けて新駅の建設中でもあります。
この白いドラえもんは「トラのもん」といい、虎ノ門のキャラクターです。 

虎ノ門ヒルズでの好きな場所、アンダーズで軽い夜食をいただきました。
大変お上手なアメリカ人男性のピアニストが

「Everytime we say goodby I die a little」(別れをいうたびにわたしは少し死ぬ)

などをセンスよく演奏していました。 

ところで、元日におせちをいただいたホテルで出された「辻占い」。
この砂糖菓子の中には小さく丸めた占いの紙が入っています。

フォーチュンクッキーみたいなものですね。 

3つづつ取るように言われたので、二人で6個取り、その結果を
苦心して並べてみました。

「ただなんとなく」が、全てを台無しにしている気がします。
「それにつけても金の欲しさよ」みたいな?

 「有は無より生じ、静は熱に勝つ」 

これをせっかくなので”今年の言葉”に採用しようと思います。


枕でアレルギー騒ぎ〜直島・ベネッセハウス

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瀬戸内海に浮かぶアートの島、直島旅行記、三日目です。

夜になりました。
「オーバル」に居ることそのものが楽しくて、わたしたちは
暗くなってからも写真を撮りまくりました。 

 

夜のオーバルは、そのプールの部分が黒々とした黒曜石のようです。
照明が水に映る様子もまた面白きかな。 

 

夕食はミュージアム棟のレストランで和食をいただきました。
こんなところを歩いてご飯を食べに行きます。 

こちら、この日のお夕食で最も印象的であった一皿、
オコゼのお造り、顔面添えでございます。

あまりにも魚身が薄すぎて見にくいですが、タイより歯ごたえがあり、
味の濃い実に美味しいお刺身でした。

しかしオコゼの顔をわざわざ飾ってあるのは、外国人客にとっては
なかなかチャレンジングというか、通過儀礼的な一品というか。

彼ら、魚の目がマジで怖いらしいですね。 

ここは文字どおりミュージアムなので普通に作品がゴロゴロしていて、
大抵それらは写真禁止ですが、これだけは禁止されてなかったので撮りました。

床に廃材の木切れを円形に置いただけのアイデア作品。
(その心は手間いらず、 材料費いらず、どこでも設置、いつでも撤去可)

 

次の日には地中美術館という、崖部分の土を掘って、本来地中だったところに
作られた美術館にも行きましたが、全作品もちろん撮影禁止。

地中美術館 

サイト先にあるウォルター・デ・マリアの作品は、教会のような空間の
階段の途中に直径2・2mの巨大な球が 置いてあって、外光を映すというもの。
鑑賞者はそこに足を踏み入れ、自由に歩き回ることができます。

現代美術といってもここの作品は理屈抜きで「くる」ものが多く、
やはりアーティストの創造を満たすだけの空間がふんだんにあるからこそ
説得力のあるものが生まれてくるんだろうなと思います。


ところで、こういうところに来ると写真を撮らないと損したように思うのか、
多くの中国人観光客は人(係員)の見ていない隙に携帯で写真を撮っていました。
いくらiPhoneのカメラが良くても、盗み撮りした画像なんかどうするんだろう、
と呆れながら横目でそれを見ていました。

地中美術館は手前に駐車場とチケット売り場の建物があり、
200mくらいの道を歩いて入館することになっていますが、
小川の道沿いには色とりどりの花が植えられていました。

「こんなところも写真に撮ることができないのかしら」

入り口で写真禁止を言い渡されていたので、歩きながら話していると、
近くを歩いていたおじさんが、

「この花は撮っていいんですよ。どうぞ撮ってください」

と声をかけてきました。
どうもこの花を手入れして居る方だったようです。

昔ガーデニングにはまった経験があるので、自分が手塩にかけた花を
写真に撮ってもらうのは嬉しいものだというのはよく分かります。

花咲く小川沿いの道の向かいには小さなお地蔵様がいました。
第三十八番金剛福寺とあります。

四国八十八箇所霊場の第三十八番札所である立派なお寺ですが、
ここにおられるのは「出張お地蔵様」なのかもしれません。

ホテル内で発見。

コンクリートの隙間から草が芽を出しています。
てっきり手が届かなくて掃除をしていないせいだと思ったのですが、
驚いたことに、これもまたアート的装飾だったのでした。 

夜、オーバル棟に帰るためにボタンを押して呼ぶと、
モノレールが真っ暗な山道を降りてくる様子も見ものです。 

部屋に戻る前に屋上の庭園に上がってみました。

明けて翌日、天候は雨でした。
オーバルに灰色の空から雨が降り注ぎ、中央のプールに
雨だれの作る輪ができる様子を見られたのはむしろラッキーでした。 

オーバルの客のためだけに(この日は3部屋に合計7人半が宿泊)
小さなラウンジがあって、コンチネンタルブレックファーストが取れます。

部屋に食べ物を持ち帰るのはご遠慮ください、ということでしたが、
隣の部屋の白人の男性は寝て居るらしい連れのために堂々と?
食べ物を持って帰っていました。

ラウンジには係の女性がいましたが、見て見ぬ振りを・・。

雨は朝のうちだけで、空が晴れてきました。
チェックアウトを1時間延ばしてもらい、最後まで部屋を堪能します。
 

いよいよオーバルともお別れです。
最後に乗るモノレールがやってきました。 

その夜はそのミュージアム棟に宿泊です。

一応コーナースイートだったりするのですが、
あのオーバルの後では全く平凡な部屋に思えてしまい、
そのことがちょっと残念でした。

部屋から見える向かいの崖の下に、廃屋がありました。
ホテルの人が

「昔人が住んでいたようですが、今は無人です」

といっていたのを聞いて、部屋から望遠レンズで撮ってみたのがこれ。 

もやいをつなぐ杭のようなものが見えるので、ヨットかボートか、
自分の船をつないで、ここから出勤でもしていたのでしょうか。

ろくな道もなさそうなここにどうやって家を建てたのかとか、
ライフラインの水やガス、電気にトイレはどうしていたんだろうとか、
誰も近寄ることができないらしい場所で朽ち果てているこの家で
どんな人がどんな暮らしをしたんだろう、などとしみじみ考えてしまいました。

 

この写真では何も運命を知らずに呑気そうにして居る息子ですが、
この部屋に泊まった最終日、夜中にアレルギーの発作を起こしました。

枕に彼がアレルギーを持つそばがらが入っていたのかと思い
次の日確かめて見たのですが、そばではなく、肌触りのために
羽毛の羽の根元の部分を表面に入れた枕だったそうです。

息子は台湾のホテルでそば粉入りのガレットを食べてしまい、
(ホテルの人がそば粉を使って居ると知らなかったらしい)
その時には全身に湿疹が出てえらい目にあったことがあります。

遡れば、新宿のレピシエ本店だったところで試食のクッキーを食べたら
どうやらそば粉が入っていたらしく、目が土偶のようになったのが
彼の人生初のアレルギー受難でした。 

その後の検査で、そば以外に動物のアレルギーもあることも知っていましたが、
まさか鳥の羽で人生3度目の発作が起きるとは夢にも思っていませんでした。

気道が腫れて咳き込み、二重まぶたの線が腫れでなくなって
別人のような人相になってしまうという大惨事だったのですが、
実はわたしはその夜、熟睡していてその騒ぎに気づきませんでした。

次の朝起きたら、息子がソファーに枕無しで寝ていたので、

「なんでソファーで寝てるの」

「MK、昨日の晩大変だったんだよ」

息子をお風呂に入れ、顔を拭いて水を飲ませ、
ソファにシーツを敷いてやったのは全て父親でした。

わたしは夢の中で誰か咳をしているなあとは思っていたのですが、
彼らは寝ているわたしを起こしても

「別に何もしてもらうことはないから」

ということで放置されていたのでした。
こんな母親ですまん息子。そしてありがとうTO。 

ホテルからフェリー乗り場までは、昨日きた方向とは反対に
ほんの数分くらい走ったところにありました。 

フェリー乗り場にも草間彌生のカボチャがいます。

ここから岡山までは通勤通学、買い物でフェリーが島民の足です。
もしかしたら島民はフェリー料金は無料なのかもしれません。

降りてくる人々を見ると、都会の通勤電車に乗って居る人たちと
何も変わらない服装雰囲気ですし、島から乗り込む人たちは
自転車に後ろカゴをつけたおばちゃんとか、学生服の子とか。
フェリーはここではバスや移動する橋みたいなものなのでしょう。

昔リゾート地だったもののその後低迷していた直島が
アートの街として再出発したのは1980年代後半のことです。

当時の町長と、福武書店の創業者との間でコンセプトが生まれ、以降
「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための
直島文化村構想」の一環として「ベネッセハウス」などが建設されました。

当初はいきなり現れた現代アートに島民も引き気味だったそうですが、
その後の島全体を「壊さず生かす」という基本理念の上に行われた改革によって、
徐々に理解が得られるようになってきたそうです。 

人口3000人の島にある飲食業や観光業、美術館などの職場に
本土から多くの人が毎日通勤してきたり、あるいは
この島での活動のために都会から若い人が移住してきたり。

特異なアイデアだったかもしれませんが、町おこしとしては
もっとも成功した例がこの直島なのかもしれません。 

 

ベネッセハウス、近代アートに興味のない皆様にも是非オススメです。

 

 

 


彼女の流転の生涯〜ミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」

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マサチューセッツはフォールウォーターにある世界最大の
戦艦展示を誇るバトルシップコーブ。
戦艦「マサチューセッツ」についてようやく全部をご紹介し終わったので、
その他の艦についてお話ししていくことにします。 

昔海軍の軍港であり「マサチューセッツ」がかつて母港であった
まさにその岸壁にに展示艦となって「マサチューセッツ」は永久展示されているのですが、
その周りにもいくつかの海軍艦が取り囲むように浮かんでいます。

さあ、それでは左奥に「マサチューセッツ」のそびえ立つ艦橋を見ながら、
潜水艦の甲板から繋げたラッタルを今から渡り、
「ヒデンゼー」に乗艦して行くことにいたしましょう。 

 

 

 

おっと、その前に。

ミサイルコルベット艦、というのはあまり耳に馴染みのない艦種です。


わたしなどコルベットと聞いても車しか思い浮かばなかったりするわけですが、
帆船時代には沿岸部のパトロールをする小型の三本マストの船をこう称していました。
「コルベット」という言葉も、もともとはフランス海軍の命名によるものなのです。

定義としては「フリゲート艦より一回り小さく、一層の砲甲板を持つ」とされ、
あの「咸臨丸」もコルベット艦にカテゴライズされます。

時代が下って第二次世界大戦以降になると、イギリス・カナダ・イタリアにおいて、
「機雷掃海や対潜水艦用の艦艇として開発された小型の艦」を
コルベットと称していました。

なかでもイギリス海軍の「フラワー」級(やっぱり英海軍の船って名前が変だ)
コルベット艦は、大西洋において30隻以上のUボートを撃沈しています。

変な名前といえば、ちょっとだけ寄り道ですが、ソ連海軍には

「ポチ型コルベット」(Poti class corvette)

なるかわいい名前のクラスが存在しました。
対潜用の武器は搭載していたものの、対空用が貧弱なため、
航空機に対してはほとんど防御力がないフネと言われていました。

それでもどういうわけか(大人の事情で?)66隻も生産されたそうです。

 

ただしソ連海軍の名誉のために言っておくと、「ポチ」はあくまでも
NATOのchord name、つまり敵側の認識のために付けられたもので、
ソ連での名称は

「204号計画型小型対潜艦」

だったそうです。
しかしソ連海軍も面白くない名前をつけるもんだね。

ここでふと興味を持って、ざっと現在のロシア艦艇の名前を見てみたところ、

941U型、タイフーン型(Typhoon)
ドミトリイ・ドンスコーイ(824 Dmitriy Donskoy、1981年)

あの「ごみ取り権助」がいつの間にか復活しているのに気づきました。
こいつはめでたい権助どん。 

もう一つ寄り道ついでに、「ドンスコーイ」は「ドン川の」という意味で、
「ドン川で武功を立てたイワン1世の孫」( 1350年- 1389年)のことです。

閑話休題。



さて、ここに来られる皆さんのほとんどはすでにご存知でしょうが、
アメリカ海軍はその歴史上コルベット艦を造ったことはありません。

なのになぜここにあるのかといいますと。

まずこの妙なシェイプの艦尾に書かれた艦名をご覧ください。

この字体を眺めていただくと、これがドイツの「亀の甲文字」であることが
わかる方にはお分かりいただけるかと思います。

この「亀の甲文字」をわたしがなぜ知ったかというと、
ヒットラーとナチスドイツについての本を読んだときに

「ドイツ人にとってヒットラーの功績は二つある。
一つはアウトバーンの建造、もうひとつは亀の甲文字の廃止だった」

という一文が強烈な印象を残したからでした。
亀の甲文字はドイツ語ではフラクトゥーアといい、1941年に
マルティン・ボルマンがユダヤ色排斥の一環として

「フラクトゥーアはユダヤの字体(ユーデンレッテン)である」

と言う理由で亀の甲を公文書から廃止するまで使われていました。

この艦名であるHIDDENSEEをそうと知るまでは何の疑いもなく
「ヒドゥンシー」と読んでいたわたしですが、これはドイツ読みせねばならず、
したがって「ヒデンゼー」と発音するのです。


亀の甲文字は、いまでは装飾用の字体として残っているだけですが、
センスと学のあるバトルシップコーブの学芸員?は、
「ヒデンゼー」の文字を彼女の出身地であるドイツにちなんだのでしょう。

実際には「ヒデンゼー」が竣工したのは1985年、しかも持ち主は東ドイツ。
つまりまったくボルマンの廃止令以前のドイツとは関係ないんですけどね。(爆)

さて、とりあえず後甲板に立ってみましょうか。
多分対空用の銃だったんだろうなー、と想像されるような
「何か」がその痕跡だけを残してあります。

 

ここにあったとされるのは、


 9К32 «Стрела-2»。

正式な読み方は

ヂェーヴャチ・カー・トリーッツァヂ・ドヴァー(ストリラー・ドヴァー)

って全然ドイツ語じゃねーし。
なんとこの通称ストレラという歩兵用のミサイル(MANPADS)、
ソ連で開発されたものだったりします。

なぜか。

それはこの船がロシア製だったからでした(再爆)

東ドイツ人民海軍は、

1241RÄ型対艦ミサイルコルベット(Flugkörperkorvetten der Projekt 1241 RÄ)

(えー、一応「ラー」型でいいんですかね?)
この2番艦を ロシア共和国ルィービンスクのヴィーンペル設計局に発注し、
そこで造られたので、このようなことになっているわけです。

しかし、ロシア人も気が利かないっていうのか、顧客がドイツ人なのに
まったく言語をわかりやすくしようとする気配りがないというね。
人民海軍の皆さんも運用にあたってはさぞ苦労されたと思われます。 

当初この船は東ドイツの英雄であった人物の名をとって、

「ルードルフ・エーゲルホーファー(Rudolf Egelhofer)」

という名前で運用されていました。
しかし、彼女が就役してわずか5年後、ベルリンの壁は崩壊し(再々爆)、
東西ドイツは統一されてしまいます。

このとき、東西ドイツ軍の装備がどうなったか興味は尽きませんが、
とにかくルードルフ(略)の同型艦はすべて除籍扱いになり、
ルードルフ(略)だけが除籍を免れて、統一したドイツ軍に籍を移しました。

しかしさすがに共産党の英雄の名前をそのまま使うわけにいかないので、
彼女は名前を「ヒデンゼー」に改称させられました。
ヒデンゼーとはバルト海に浮かぶ面積わずか19キロ平方メートルの
小さな小さな島の名前です。

ついでに「ラー」型もその際「ミサイルコルベット艦」と艦種変更しました。
 

艦橋というものはなく、構造物の上には
実に妙な形の機関砲が見て取れます。 

ここには外付けの階段を上っていくことができます。

 

 

おそらくアメリカではここでしか見ることのできない
ソ連の艦載機関砲システムAK-630。

砲口を見ていただければ分かりますが、 30mm口径
6砲身のガトリング砲を使用した全自動システムです。

CIWSシステムとしてはもっとも初期に開発されたものだとか。

こんな隣接したところに2基並んでいるというのも
奇異な感じがしますが、とりあえずは旋回角360度、
仰角は-12度〜+88度を確保してはいたようです。

独島クラスに積んだ韓国海軍のゴールキーパーは、
艦尾に積んだヘリコプターを撃つ設計仕様になっているそうですが、 
こちらは腐ってもロシア人の設計なのでそれはありえません。 

ちなみに独島はこれを直すお金がないので、とりあえず
ヘリコプターをゴールキーパーのすぐ下に置いて対策しているそうです。
艦尾にヘリを置けないヘリ搭載艦って一体。

ていうか、ブラックホーク、錆止めをしてなくて載せられないんじゃなかったのか。 

後ろの方にあるクレーンを中心に撮ってみました。
いうまでもありませんが、これはまったく「ヒデンゼー」とは関係ありません。 

この赤い二つの丸、説明がなかったのですが、
もしかしたらAK-60のレーダーかなと思ったり。

一応せっかくなので頂上を征服してみました。
艦尾にアメリカの旗をちゃっかり掲げていますが、彼女が米海軍籍だったことはありません。

「ヒデンゼー」が除籍を逃れたのは、西ドイツが調査をするためでした。
ドイツ海軍では名前まで変えておいて、運用するつもりはさらさらなかったようです。
しかも、西ドイツ海軍に籍があったのはたった半年。


半年ですべてを調査し終わったのかどうかわかりませんが、彼女は
その後ドイツ軍を除籍となり、今度はアメリカに移譲されました。
これもアメリカが敵であるソ連の武器を調査するためだったのです。

 

というわけで、彼女は1991年にドイツからここにやってきました。
その流転の果て、ここで静かに余生を送っているのです。


さて、それでは艦内に降りて行ってみましょう。
居住区も司令室も、甲板より下の階にあります。 
まるで梯子のようにほぼ垂直の階段を下りていきます。

 

続く。



テルミートミサイルの日の丸〜ミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」

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一応主体は東ドイツ海軍で運用されていた
ミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」。

アメリカでこれが見学できるというのも不思議な運命です。 

甲板から階段を下りて中に入ってみました。

まずコンパクトなスイッチ、配電盤が並ぶチャートルーム。

その前方が操舵室です。
規模としてはちょうど日本の掃海艇くらいかもしれません。

ちなみに「ひらしま」型掃海艇は全長57m、幅9.8m。
「ヒデンゼー」は全長56.9m、幅10.2mです。

巡航速度も13ノットと14ノットとほぼ同じくらいです。 

前回も説明しましたが、この艦は、ソ連の造船工場で建造されました。
運用していたのは東ドイツ人民海軍であったわけですが、そのころは
人民海軍の水兵さんたちは必死でロシア語を勉強して、
そのまま使っていたのかもしれません。 

ここにある「ヒデンゼー」にはいたるところにテプラで英語表記してありますが、
これは西ドイツからアメリカが調査のために譲渡された際、
アメリカ人が理解のために貼ったものだと思われます。 

こちらの計器類にもことごとくテプラ(笑)
ところでここで豆知識ですが、テプラを発明したのが日本人って知ってました?

1986年頃、ブラザー社員(当時)によって開発され、
現在ではキングジムが商標登録を持っています。

「ヒデンゼー」がアメリカに調査のためにやってきたのは1991年。
おそらくここに貼られたシールもテプラです。

テプラとは

Timely(いつでも)Easy(簡単に)Portable(その場で)
Rapid(すぐに)Affix(貼り付けられる) 

からきていますが、このネーミングもメイドインジャパンぽいですね。

電気のスイッチ盤。
まあこれではアメリカ人には想像もつきますまい。

一番上の段に左にAK-176とありますが、これが主砲を意味します。

                                                               

鍵がかけられた「セキュリティステーション」。
調査のためにアメリカが身柄を引き取ってから後は、
ここに歩哨が立って船への出入りする人間をチェックしたそうです。 

艦長室だと思われます。
他の船に比べて圧倒的に広いスペースをもらえたようです。
なんと専用冷蔵庫まで部屋に備えてあります。 

この帽子はもしやと思って調べたらビンゴでした。
東ドイツ海軍の士官の帽子です。 

左はドイツ海軍、右が人民海軍のバナー(だと思う)。
真ん中の帆船の絵はおそらくこれが帆船時代の「コルベット艦」です。 

人民海軍の制服など、どこで手に入れてきたのか・・・。

その近くにシャワールームがありました。
おそらくですがこれは艦長専用だったのだと思います。 

もしかしたらドイツ発祥だということでわざわざウェラのボトルを置いてる?

キッチンも船の規模の割には広いものでした。

オーブンの上に鍋類、そして鍋つかみが。

冷蔵庫にはレードルがかけてあります。
調理員の制服とコック帽も。

さらにもう一段下の階に続いていました。

おそらくこの階には兵員の居住区があったはず。

狭いといっても潜水艦ほどのことはありません。
乗員は42名だったそうですが、ここにはせいぜい8人くらいしか寝られませんから 
おそらく下の階にも居室があったのに違いありません。 

ここも小さな船の兵員室にしては意外なくらいの広さです。
艦首にあたる部分の居室。 

再び甲板に出てきました。
艦首に立って後ろを見たところです。
主砲はAK176、76mm単装速射砲 (AK-176 76 mm gun) 。

現在もロシア海軍のミサイル艇や警備艦を中心に多くの艦艇に搭載されており、
アメリカが当時わざわざドイツから譲り受けて研究したかったのはこれかなと。


ソ連製とはいえ(なんていっちゃいけないか。ロケットあげてた国だし)
単装砲ながら従来の連装砲以上の発射速度(最大毎分120発)を誇り、
オトー・メララ 76 mm 砲に匹敵する高い速射力と追尾能力をもち、
対空・対水上に使用できる高性能な両用砲です。

ちなみに英語のwikiのAK-176のページには「ヒデンゼー」の
この砲の写真が掲載されています。
配備されているのがことごとくロシア、中国といった共産圏なので
資料となる写真はこれくらいしか撮れなかったのかもしれません。

主砲の前、舳先の部分。
キャプスタンがあります。 

となりは潜水艦「ライオンフィッシュ」。
また後日お話ししますが、対日戦で投入されたので、
塔に日章旗と旭日旗がペイントされています。(ここ伏線) 

舳先から右舷を歩いて行くと、もう一つの兵装がありました。
P15テルミートです。

東西冷戦に入った頃、ソ連がアメリカに対抗するために作った
対艦ミサイルで、 固体燃料ロケットで射出した後、
液体燃料ロケットに点火してマッハ0.9の速さで飛行しました。

射程距離は80キロ。
「大和」型の戦艦の射程距離は42キロでしたがそのほぼ倍です。
しかも当時において目的を追尾するという機能を備えていました。

ゆえにアメリカ軍はソ連軍のミサイル艇を脅威とみなしていたのです。
つまりアメリカが研究したかったのはこっちだったということか・・。

ソ連は中国にこの強力な武器のライセンス生産を認めたため、
これによって世界の軍事的情勢が変わったとも言われています。 

で、そのテルミートの発射体がここにあるんですが、
なぜかこの尾翼に日の丸がついてるのよ。

ロシアで建造され、東ドイツで運用されて西ドイツに転籍し、
そのあとアメリカに移譲されて現在に至る。

日本まったく関係ないんですけど?



 

映画「勝利への潜行」 前半

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新春第一弾にお送りする映画のご紹介は、ロナルド・レーガン主演
「勝利への潜行」。

何かを検索していて知ったので取り敢えずCDを買ってみて、
もし面白かったらここでお話しする、 と予告しておいた、
レーガンとナンシー夫人の共演映画です。

 

年末、コーレルの絵画ソフトをアップデートしたので
初めてこれで冒頭の絵を製作してみました。


もっと言うと、本当は陸自降下始めに行く予定をしていたのが、
前日の雨の予報と、同行者が病に倒れたため参加を取りやめて、
その日一日が暇になったということもあります。

今年はグリーンベレーが参戦すると聞いていたので、
直前までは行くつもりしてたんですけどね。

 

さて、この映画、わたしにとっては最近見学したこともあり、
潜水艦の艦内シーンが見られて面白かったのですが、巷には
 
「潜水艦映画にハズレなしというジンクスを打ち破った」

(つまり面白くない)という評価すらあるようです。

 

 


もしそうだとしたらおそらくですが、それは俳優のせいだと思います。

たまたまこの顔がいいだけで、あまり表情筋の動かない主人公役と、
その俳優と5年前に結婚した比較的花のない女優が、
アメリカ大統領とファーストレディになるという未来がなければ、
おそらくこの映画も今以上に有名になることはなかったでしょう。

しかも、あのチェスター・ニミッツ本人が登場しているというのに、
「レーガン夫妻の共演映画」としてしか
映画史に名前を残していないというあたりが、
この映画の実際の評価と言えないこともありません。

 

さて、とっとと始めましょう。

驚いたことに、これがこの映画の冒頭シーンです。
ニミッツがカリフォルニアに住んでいたのは知っていましたが、
なぜかそのポストを映し出すという謎演出。

そしてポストに続き、予想に違わずご本人が出てきて、

「1944年にまだ日本列島が強固な要塞であったころ、わたしが指揮した作戦
(機雷で守られた日本海に侵入し、日本への物資の輸送を断ち戦意を喪失させる)
には優秀な潜水艦長たちがいた。アボット艦長もその一人である」

てなことを言います。

元帥位には引退がないので、このころのニミッツはすでに72歳ですが、
郵便ポストにもある通り(笑)フリートアドミラルであり、軍服を着用しています。

その時にニミッツの口から紹介される潜水艦隊司令、ロックウッド中将。
この映画は、中将が1955年に著したノンフィクション、

「HELLCATS OF THE SEA」(海の暴れん坊)

をベースにしていて、映画には海軍が深く関与しています。

舞台はケイシー・アボット(レーガン)中佐が艦長を務める潜水艦、
「スターフィッシュ」。 

実際にありそうな名前ですが、仮名の潜水艦です。
イギリス海軍にはS級潜水艦にこの名前のものがあったそうですが。

まず登場するのはドン・ランドン副長。
真面目で一途な軍人として描かれていますが、

「(本州に入ったら)ゲイシャガールでも拾いましょうや」

という部下の冗談に、

「ツノの生えたゲイシャ(機雷のこと)をな」 

と答えるような男(つまり面白くないギャグを真面目にいうような)
でもあります。 

「スターフィッシュ」は潜水隊を使って日本の機雷を採取しようとしていました。



時間になっても起きてこない潜水隊員、ウェスを副長が起こしに行くと、
女性の写真を抱いてまだ寝ていました。

その写真というのが・・いやいやいやいや(笑)

レーガン夫人、じゃなくって、この映画の上でもレーガンの彼女、
ヘレン・ブレア中尉。
実はウェス、艦長の彼女と知った上で ヘレンを好きになり、
彼女とデートまでしておったのです。
しかもウェス本人によると、

「She practically sat down in my lap and demanded attention.」
( 彼女俺の膝の上に座って気を引いたんだぜ。ちなみに字幕は
『デートするように俺に命令したんだぜ』となっていて間違い) 

二股かける魔性の女、ヘレン。恐ろしい子・・・!

・・・・にしては、いやなんでもない。

 

そう、この映画をつまらないものにしている原因の一つは、
ヒロインのイメージと女優のそれが一致しないこと。
後のレーガン夫人、ナンシー・デイビスはそこそこ評価された女優でしたが、
そのイメージ通り、役どころは大体良妻賢母的な人物がほとんど。

とても彼氏の部下の膝に乗って誘惑するような女には見えません。 

後の大統領夫人ナンシーは小綺麗で洗練され、若々しく、
絵になるファーストレディに見えましたが、この頃の彼女は
どういうわけか、36歳にして既に姥桜の風格すら出ております。

まあ要するに、俳優としては夫婦共々大したことなかった、
ということなんだろうと思います。 

ちなみに彼女が政治家に転身した夫がカリフォルニア州知事になり、
初めて「ファーストレディ」となったのはこの10年も後のことです。



出撃前、自慢げに「足ヒレ(フリッパー)だけで日本軍と戦った話」
を披露するウェス。 
仲間から途端に

「ヘイ、シンデレラ、お前の魔法のスリッパー(ガラスの靴のこと)だぜ!」

と足ヒレが投げつけられます。
字幕には全くこういうのが翻訳されていないので、面白くないともいえます。
(つまり評価が低いのは日本限定かも)

潜水艦から潜航中水中処分員を出すときのやり方。
人が内側ハッチの外に出たら、中から紐で引っ張って扉を引き下げ、
海中に出る者は二重扉の外側のハッチから出ます。

あ、そういえばこの間見学した潜水艦も二重ハッチになってたっけ。

ところが、機雷採取の任務中浮上していて敵駆逐艦に発見されてしまいます。
しかも、まだウェスが戻ってきていません。

彼が海上に浮かんでいるにもかかわらず、一刻を争う事態と判断し、
潜行を命じるレーガン艦長。

ちなみに日本で「潜航!」というところを、アメリカでは

「Clear the bridge!」

と言っています。 

エンジンを止めて彼を助けようという副長の進言も拒否されます。

容赦無く魚雷戦を命じる艦長。
ちなみにこの時の命令は

艦長「ベアリング」「マーク」

副長「ベアリング2−5−0」

艦長「ファイア セブン(7番発射筒)

で発射、です。

「ファイア ワン」「ファイア ツー」

というたびに金属がはじかれたような発射音が聞こえるのが
「ライオンフィッシュ」を見学してきたわたしにはツボでした。

「スターフィッシュ」は駆逐艦に魚雷を当てることはできましたが、
高速艇は狙いを外し、逆襲されて命からがら逃げます。

戦い済んで日が暮れて。
副長が死んだウェスのベッドに残されたナンシーの写真を見ながら
しんみりしていると、レーガン艦長がやってきます。

「 一人のために85人の命を犠牲にするわけにはいかない。
君もいずれその選択を迫られる立場になればわかる」

とレーガンは言うのですが、副長はついついナンシーの写真を手に

「その時、その男があなたの彼女とワルツを踊ったということが
ベースにあったのではないですか」

と女性ネタで責めてしまいます。
恋敵だったから見捨てたんだろう、と暗に言っておるわけです。

艦内にも微妙な空気が流れます。
19歳になったばかりの多感な青年、フレディは、
艦長が乗組員を見捨てたことが許せません。

 

さて、「スターフィッシュ」はグアムに帰還しました。
ここで艦隊司令のロックウッド中将と会ったレーガン艦長は、

「日本の輸送船を追跡して安全な航路を発見する」

という作戦を具申します。 

そこでガールフレンド、ヘレン中尉(ナンシー)と再会する艦長。
この時すでに彼らは結婚して5年経っていました。
そのせいか二人のシーンは熟年夫婦のそれみたいです。

この時に彼女が説明したところによると、ヘレンは

●バツイチであり、前の結婚は「最悪」だった

●まだ離婚していない時に二人は知り合った

●戦争中ということであなた(レーガン)は踏み込んできてくれない

●あなたが出撃中、自分が現役であることを確かめたかった 

そこでレーガンが

「だからそれをバートン大尉(ウェス)で証明したかったのか」

と問いかけると、

「彼は女の子にモテモテで今まで見た中で一番イケてる男だったけど、
あれは愛ではなかったの。
お互い、どうしてもこの人でなければダメってわけじゃなかったわ」

と浮気がバレた奥さんのようなことを言います。
要は、

「愛してるのはあなただけ。あれは遊びだったの」

というわけですねわかります。
しかし二人にとっての目下の問題は、ウェスが死んだことで
ランドン副長が二人を責めていることかもしれません。

次の任務は済州島の日本軍基地を爆破することでした。

「爆発性危険物」という怪しげな横書きの看板を倉庫にかけた
日本軍基地に「スターフィッシュ」は上陸部隊を送り、
金網を乗り越えているのに音に気づきもしない間抜けな日本軍歩哨のおかげで
基地に忍び込んで爆破に成功しました。

ところがここで日本の商船を見つけたアボット艦長、
先ほどの日本軍の反撃で魚雷発射室が浸水しているというのに、

「機雷のない安全な航路を突き止めるためについていく」

と言いだし、案の定浮上したところを日本の潜水艦に見つかります。

何度リピートしても何を言っているのかさっぱりわからない
帝国海軍潜水艦艦長の命令のお言葉。

ていうかこれどう見ても日本人の顔じゃないだろう。

とにかく、この潜水艦の魚雷が命中し、「スターフィッシュ」は
あっさりと沈没してしまいます。 

これってやっぱり艦長の判断が悪かったってことなんじゃ・・・。

85人のうち艦を脱出できたのは60名、そのうち助かったのは
艦長と副長の乗った救命ボート一隻だけ。

ほとんどの部下を自分の采配ミスで失った艦長は、

「60名も死んだのにわたしは脳震盪か。
こいつはとんだ勲章ものだ」

と自嘲するのでした。

「彼らの家族も、彼らの人生設計も知っていたのに・・・
わかるか」

という問いかけに

「わかるわ。
わたしもあなたが任務中はもう二度と帰ってこないんじゃないかと
毎分毎秒そればかり考えているの」 

って、なんかこの答えピントが合ってなくね?

さて、命令に反して勝手なことをした結果、今度は艦と
貴重な60名の部下の命を失った艦長の運命(処分)やいかに。

 

後半に続く。 

 

 

映画「勝利への潜行」 後半

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本日冒頭画像ですが、ある事情があって、丸一日費やしてしまいました。

バックの潜水艦内をかなり細かく書き込んだ画像を製作し、
あとはアボット艦長の左側の潜望鏡を描けば出来上がり、
というところで、なんの前触れもなくペインターがクラッシュし、
一瞬にして何時間かかけた絵が消えてしまったのです。 

前回同じようなことが起こって「戦火の馬」のために描いた大作が
消えた時には、PCが古くて調子が悪かったせいだと思っていたので、
まさか真新しいPCでダウンロードしたばかりのソフトがクラッシュするなんて
予測もせず、セーブもしていませんでした。 

 

調べてみると、コーレルペインターには「得てして起こりうる事故」で、
(”秋になると落ち葉が落ちるようにペインターが落ちるのは自然なこと”
という名言さえあり) しかもこのシステムは自動セーブ機能がないので、
何人もの人々がこの不条理に泣かされていることを知りました。

 

脱力感と無念の涙にまみれながらも、自然の摂理なら仕方ない、
と0から作画し直したのが冒頭画像です。

2回目というのは手順が慣れているのでできるのも早いのですが、
何しろ気力がかなり削がれ、やる気が30%くらいになってしまい、
したがってバックの描き込みも前作の30%くらいの手抜きです。

実は、この作画中にも”秋の落ち葉のように”ペインターは落ちたのですが、
(しかも3回)さすがのわたしもこまめにセーブしておいたので、
大きなロスもなく、なんとか最後までたどり着いた次第です。

 

消えてしまったバージョンより背景を手抜きして人物中心の構図なので、
いっそのことセピアの思い出写真風にしてみました。

1945年6月9日というのは、この映画によると、作戦決行された日です。

 

さて、前半のエントリを自分で読み返してみて気がついたことがあります。 

水中処分員のウェスが、出撃前に「フリッパー」と「スリッパー」をかけて

「へい、シンデレラ、お前の魔法のスリッパーだぜ」

とフリッパー(足ヒレ)を仲間に投げつけられていたシーンは、実は

「ウェスはこのあと潜行に間に合わず、海に取り残される」 

つまり、彼がこのあと、シンデレラのように、時間が来れば魔法が解けてしまう
運命にあることを予感させる伏線だったことです。

 

あと、前回魚雷発射のアメリカ海軍の掛け声をご紹介しましたが、
裏コメで教えていただいたところによると、自衛隊の戦後の潜水艦隊は、
掃海艇として継続していた水上艦と違って一旦歴史が途切れ、
アメリカから供与された潜水艦でリスタートしたという関係で、
掛け声は例えば1番発射筒であれば

「1番管、ファイアー!」

なんだそうです。
これってアメリカ式の「Fire One!」そのままですよね。

もちろん水上艦では帝国海軍時代からの掛け声

「1番管用意。撃てぃ(テー)」

となるわけですが、水上艦の人たちはこれでないと力が入らないので、
潜水艦の「ファイアー」、あれは違うだろ、と内心思っているそうです。
(一部情報です)

 

さて、続きと参りましょう。
自艦と60名の部下を死に追いやった艦長のアボット(レーガン)。

副長のランドンは、ウェスを見捨てた件でも艦長を許していません。
こんな艦長の下にはいられない、と副長から艦長にしてくれるよう
上に頼みに行きますが、彼が艦長として乗るはずだった「シーレイ」は
なんとアボットが艦長、ランドンは又しても副長になる予定である、
と聞かされ、ショックを受けます。

しかも、アボットは彼を「艦長として不適任だ」と上に報告していました。

 

病院に文句を言うために押しかけていったランドン副長に
艦長は、

「君は緊急時に非情な命令を下すことができない。
だから艦長にはなれない」

その時、18歳の水兵フレディが目覚めたと言う知らせが。

彼はウェスの件で艦長に反発していましたが、その後
艦内で頭を打ってずっと意識不明となり、入院していたのです。

「仲間は・・・帰ってきますか」

「ああ・・皆君に会いに来る」

ついつい嘘をついてしまうアボット艦長。
フレディは艦長に自分の暴言を謝罪します。

「私の誤解でした。艦長は私を助けてくれた」

ランドンもフレディも、所詮艦長の命令を人間的な感情に基づくものだとして、
責めたり感謝したりしている、と知り、アボットは複雑な気持ちになります。

艦長の判断は部下が思っているような贖罪とか、
ましてや個人的好悪などとは無関係であるはずなのに・・・。

今日は楽しい公聴会。

公聴委員はアボット艦長に

「レーダーも探知機も故障したあと、命令にない行動をとって
日本の商船を見つけ独断で追跡したわけ」

を問いただします。

「 日本海への安全な航路を見つけることは作戦上重要です。
艦のダメージは作戦に支障ないと判断しました」

部屋の隅で怖い顔をしてメモを取っている副長のランドン。

「君は反対したそうだが、 艦長の命令は義務の無視あるいは放棄だったと思うか」

聴聞委員に意見を聞かれますが、彼は言明を避けます。

 

結局アボット艦長は不問に処されました。
潜水艦隊司令の意見によると、

「積極性や英雄的行為は無謀や命令無視と紙一重だからおk」

日本だとそれより艦長と副長が死ななかったことを問題にしそうですが。 

日本海出撃への命令発令と激励が行われ、アボット艦長は
「シーレイ」艦長として出席することになりました。

海軍の錨マークがついたカップに、黒人のボーイが注ぐコーヒーを
楽しみながら皆が歓談していると、ニミッツ提督がご入来。

冒頭のニミッツは本物ですが、劇中のニミッツ(昨日の冒頭画像に描いた人)
は、セルマー・ジャクソンという無声時代の俳優が演じます。

この人は晩年のニミッツに似ていて、2年後の映画「ザ・ギャラント・アワー」
でもニミッツ提督役で出演しています。

作戦はヘルキャッツ隊が3グループに分かれて日本海に侵入し、
対馬海峡で児童疎開の船を通商船を攻撃し輸送物資を断つというもの。

ちなみに字幕では「H・P・B」のグループとなっていますが、
英語では「ヘップキャッツ・ポールキャッツ、ボブキャッツ」と言っています。

ここでニミッツ提督からのありがたい一言。

「勝利を得るには物資を止めることだ。
諸君は日本国民に日本海ですら米海軍のものだと示せ」

生きて帰れないかもしれない任務。
恋人たち(ナンシーとレーガン)の最後の語らいですが、この時にレーガンが言う、

「戦後は武器を納入する仕事について、機雷を買い占め、
月の人間(The man in the moon )に売る」

の意味がいまいちわかりません。
月面に現れる顔(マンインザムーン)は「雨の海」「晴れの海」
が目、「雲の海」が口に見えることから、

「海軍相手に商売をする」

と言っているのでしょうか。 
これに対しブレア中尉は

「月には水はないわ。いつも一人で見ていたからよく知ってるの」

 

さて、出撃したものの、まだ乗員と馴染がないところに持ってきて、
副長のランドンが、艦長抜きで「スターフィッシュ」の沈没について
皆に説明したり、微妙に反抗的な態度を取り続けたりで雰囲気悪し。

ちなみにこのカップも錨マーク入り。
肉厚で大きくて、このカップ欲しいなあー。

対馬海峡付近、機雷のうようよする海中を進んでいく「シーレイ」。
機雷ケーブルに引っかかった艦体を艦長はうまく操作して切り抜け、
これで乗員の心をがっちり掴みました(たぶん)

しかしこの大海も敵の海、この海原も敵の陣。(by空の神兵)
すぐさま敵の駆逐艦が出現。 

(細かいことですが、日本の船が現れるシーンには一瞬音楽が
東洋調に変わります。相変わらず日本というより中国風ですが)

鎮座してやり過ごすも、容赦なく爆弾が投下され・・

えと、これたぶん実写だと思うんですが、魚雷を落としているのは
日本軍の駆逐艦でよろしいんでしょうかね。

駆逐艦の攻撃を逃れ、機雷原の下を航行して潜んでいた「シーレイ」は
日本の輸送船を見つけ容赦無く沈めにかかります。

魚雷発射がどんなスイッチで行われるのかこれを見て知りました。

ところで今更ですが、この作戦は、「オペレーション・バーニー」と言い、
作戦に参加した戦隊は「ヘルキャッツ」といいました。

「海軍のヘルキャッツ」はあだ名ではなく実際の作戦部隊名だったのです。

日本の輸送船はこの作戦で大打撃を受けました。
記録によると、米海軍の被害、潜水艦1隻沈没に対し、 
日本側は 

沈没   潜水艦1 特設敷設艦1 商船・輸送船 26以上

損傷   海防艦 1

というものです。



魚雷が当たり、「バンザイ!」と歓声をあげる魚雷発射係。
あのなあ、お前ら(略)

「シーレイ」のモデルは、ピアースズ・ポールキャッツ隊の
「スケート」(ガンギエイ)であろうかと思われます。

この作戦による「スケート」の攻撃で、
「謙譲丸」「陽山丸」「瑞興丸」などが沈没しました。

 

このシーンで魚雷戦を見ていると、「ファイア9」「ファイア10」
と発令するなり司令はスルスルと潜望鏡を下げてしまいます。 
その後、時計を見て、爆発音が時間通りにしなければ「ミス」と判断。

このころの潜水艦戦は随分アナログなものだなと思いました。



魚雷を外した駆逐艦が真上にやってきて今度はこちらが攻撃を受けることに。
爆発の衝撃で頭を打ったりして、けが人続出しながらもなんとか切り抜けます。

 

戦い済んで日が暮れて、戦果を和気藹々と話し合う士官たち。

「サンドフィッシュからの連絡がまだない」

とも言っております。
実際にこの作戦で戦没したのは「ボーンフィッシュ」でした。

 

そのとき防御網をくぐり抜けようとしてネットをスクリューに絡ませてしまいます。
脱出はできましたが、ネットをはずさねば艦は動けません。

そこで指揮官先頭、なんと艦長自らが船外に出て、
スクリューに絡まったネットを外すことになりました。

 

ネットを外せたのはいいものの、なぜかそれを自分の体に絡めてしまい(笑)
アボットがもがいているうちに、案の定敵の駆逐艦に発見されてしまいます。

「わたしは動けないから潜航しろ!」

叫ぶ艦長。

「ノー、サー!」

言い張る副長。
ランドンはここにきて初めて

「一人の命と艦と81名の命を天秤にかける」 

辛い選択を迫られたのです。
アボット艦長本人に諭され、潜航を命じたランドン副長は、
泣きながら潜水服の命綱を切り、駆逐艦との戦いに身を投じていくのでした。

見事駆逐艦を撃破し、艦長が生きている可能性を求めて
探査を命じる副長ですが、帰ってきた答えは

「ケーブルの音は聞こえません」

しかし、念のために(笑)のぞいて見た潜望鏡で、
奇跡的に海面にぷかぷか浮かんでいる艦長を発見したのでした。

「ありがとうランドン。
グアムまで泳がなくてすんだよ」

 

そして無事グアムに帰還。
作戦は成功裏に終わりました。

「君がシーレイの艦長になるならわたしは次の艦と副長を探さないとな。
もちろん、わたしには最高の男が必要でもある。
これは極めて個人的なことだが、ドン」

「いい考えです、ケイス」

最後の二人の会話は、艦長と副長だった二人の男が、これからは
ファーストネームで呼び合う友人になることを示唆しているのですが、
日本語字幕では

「君が艦長になると後任を探す必要がある。
君に匹敵する副長はおらんだろう」

「おそれいります」

テキトーに雰囲気で翻訳してんじゃねーよ字幕翻訳者。 
だいたい、いくらランドンが優秀だったとしても、

「君に匹敵する人材は海軍にはいない」

って、海軍が全面協力した映画のセリフでこれはないわ〜。


これじゃ日本では駄作と言われても仕方ないかもなあ・・・。

 

終わり。

 

 

 


 

甲板とユニオンジャック〜潜水艦「ライオンフィッシュ」

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さて、場つなぎで取り上げた映画「ヘルキャット・オブ・ザ・ネイビー」
は、これから取り上げるシリーズのいわば前座となりました。
(そういうつもりはなかったのですが、気づけばそうなっていたという感じ)

 

シリーズ前回お話ししたミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」と、
これからお話しするつもりの「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」の間に
係留してあるこの潜水艦SS-298「ライオンフィッシュ」についてです。


ところでこの潜水艦について調べていて、「USSライオンフィッシュ」
という映画があることを知り、なにっ!と検索してみたら、

「2013年、ニューヨーク大学で歴史を教える、アル中男ウィリアムズは(笑)
世界大戦で活躍したUSSライオンフィッシュの研究に憑りつかれていた。
1943年に何故か強制引退となり、ハッチは溶接・密封され、桟橋に固定されていた
この潜水艦の引退の謎を解くべく、アル中男はその他大勢と艦に乗り込んだ。

すると、昔この艦に起きたように、艦が突如ロックされ、
調査チームは中に閉じ込められてしまったのである」

で、潜水艦はそのまま時空を超えて1943年に行くというストーリーですが、
映画評がどれも散々なので、多分しょうもない映画なんだと思います。
でも、そんな映画ほど、このブログ的には突っ込みどころが盛りだくさんの
ネタ映画となりうるので、機会があったら観てみようと思います。

というわけで、映画はまったくここにあるバラオ級潜水艦とは関係ない
(バラお灸潜水艦という誤変換に少しウケた)らしいことが、
ハッチが溶接・密封されていなかったことで明らかになりました。

こちらが艦首部分。
水圧で取れてしまいそうな鉄板がぶら下がっていますが、
これはバウプレーンといって、潜水艦には艦尾のスターンプレーンと
前後の2対が装備されて、潜水をコントロールするものです、

 

バラオ級潜水艦という名称は、大東亜戦争中の当方の艦艇の
被害を調べていてやたら目につくのですが、これもよく見る
「ガトー級」(GATO=正確にはゲイトー。『グリーンホーネット』
のKATOをケイトーと発音するようなもの)を改良したもので、
当時アメリカの潜水艦の中では最も出来の良い潜水艦と言われ、
計120隻と大量生産されたからなのです。

ちなみに先日お話しした「勝利への潜行」で扱われた潜水艦は
「ガトー級」であり、実写の部分にも本物のガトー級が使われていました。 


アメリカ海軍の潜水艦には魚の名がつけられますが、 
一度ここでもお話ししたバラオ級である「パンパニト」はアジ科のパンパニト、
「ライオンフィッシュ」はミノカサゴのことです。

1942年12月に起工し、1944年に就役した「ライオンフィッシュ」最初の艦長は
スプルーアンス提督の息子、エドモンド・スプルーアンス少佐でした。 

建造されたのはフィラデルフィアのクランプ造船所。
バラオ級潜水艦のほとんどはカリフォルニアのメア・アイランド、
(今回ここも見学してきました。いつお話しできるか全くわかりませんが)
あるいはエレクトリック・ボート社などで建造されましたが、
大量生産で工場が間に合わなくなってクランプに製作を任せたところ、
納期は伸びるし不具合が多く、何隻かは注文を取り消されているのです。

 「CRAMP」には「痙攣」という意味があるので、きっと海軍では

「あいつらボルトを打つときに痙攣起こしてんじゃないのか」

などという悪口が叩かれたんじゃないでしょうか(想像) 


それがこの「ライオンフィッシュ」、その評判の悪かった
クランプ造船所の出身なのです。

そう言われて工期を見てみると、

起工から進水まで11ヶ月
さらにそれから就役まで12ヶ月

何が遅いのかと言われそうですが、例えば前述の「パンパニト」は

起工から進水まで4ヶ月弱
進水から就役まで3ヶ月3週間


であり、これがバラオ級の平均建造日数だったといいますから、
この「ライオンフィッシュ」は、海軍がクランプ社の
納期の遅さに見切りをつける前になんとか完成した
最後の発注分だったということになりますね。

さあ、それではその評判の悪いクランプ社で、時間をかけて
ゆっくりと作られた潜水艦に乗り込んでみます。

このころの潜水艦というのは今と違って「沈む船」みたいな感じで、
甲板も狭いながら全部を歩き回れたりします。

名前こそ魚類ですが、形態は最近の潜水艦の方が圧倒的に魚類です。
艦腹に、海水を流入させる小さな窓がいっぱい空いているなんて、
さぞ航行していてもうるさかったんだろうなという気がしますし、
こんな風に甲板に砲があったりするんですね。

潜水艦は沈みますから(そらそーだ)砲口に蓋つき。
スペックには5インチ砲とありますが、5インチ25口径単装砲のことのようです。

写真で検索したら、何年か前見学した人の写真では砲が
全く別の砲口を向いていました。
どうもまだ動かすことくらいはできるようです。 

コニングタワーの下から見あげてみると、左から

1番潜望鏡

2番潜望鏡

レーダーSDアンテナ(棒の先のコの字型アンテナ)

が確認できます。 



また詳しくお話ししますが、昭和19年の11月に就役した当艦は
終戦までを対日本戦にのみ投入されました。

つまり、この潜望鏡から、ある時は日本近海で、ある時は東シナ海で、
虎視眈々と日本の船を屠るべく監視をしていたのです。

本体ごと海に沈んでしまう対空見張り用の双眼鏡。
レンズが片方破損してしまっていますね。

こんなところからアメリカ人男性が出入りできるのか?

と思うくらい小さなハッチ。
まあ、脱出用のトランクとハッチであると思われます。


ところで、今現在も潜水艦乗りになるのは身体条件が厳しく、
航空よりもはねられる志望者が多いと聞いたことがありますが、
(聴力とか耳鼻咽喉に問題があるとまずダメだとか) 
アメリカの場合はこれに「ハッチを潜れること」という条件が加わります。
今ほどデブの多くなかった当時のアメリカでも結構狭き門だったでしょう。

そういえば、サンディエゴでも幾つか潜水艦見学をしましたが、
見学の前に地上に丸い穴を穿ったボードが置いてあり、

「これを潜れない人は見学をご遠慮ください」

と警告してあるのには笑いました。
中でつっかえると、後ろの人が全部外に出ないと
後戻りすることができないからですが、これ、過去何度か
中でつっかえて動けなくなる人がいたんだろうな・・。

昔の潜水艦はこんな上部構造物を乗っけていたんですね。
これはいかにも水の抵抗が大きそうだ。
階段があって制止されていないので上に登ってみました。

 

これがいわゆる甲板の2階部分。
架台だけが残っていますが、機関砲があったのでしょう。

潜望鏡などが立っている部分。
謎の装備が据え付けてあります。

向こう側に説明があって、

TBT(Target Bearing Transmitter)

大戦前半頃まで潜水艦に装備された魚雷統制システムとあるので、
これがそうなのかもしれません。
(ライオンフィッシュが配備されたのは1944年ですが・・・)

戦争後半(つまり43年以降?)のほとんどの潜水艦の魚雷攻撃は
夜間浮上して行われました。

TBTにはトルピードデータコンピュータ、つまりTDCと呼ばれる
アナログコンピュータの魚雷管制装置から情報が送られました。

TDCは標的と自分の艦の現在位置、速度、進路などのデータを
入力すると、標的の将来の位置が割り出され、
計算によって魚雷の発射角などを導き出すことができました。


目標に肉薄すると、オペレーターはグリップを握るだけ。
TDCの情報をもとに目的に対する発射角はもう決められています。 


最小限の双眼鏡を使ったトレーニングでの習得が可能で、
さらに光源の弱いところでも使用することができたので、
ほとんどの潜水艦は当初TBTを搭載していました。
 

 

もう一度下に降りて臨む艦首部分。
ここにも前方の脱出用ハッチが見えます。

というわけであんがい甲板がだだっ広かったりするわけですが、
バラオ級の全長は95mと、そうりゅう型よりも11mも長いのです。
ただし幅はそうりゅう型は1m近く広く、昔より丸っこくなっています。

ちなみに原潜バージニア級は全長約115m、最大幅10.4mだとか。

なお、見学用に安全柵が取り付けられていますが、
戦闘時の写真をみると、手すりは全くありません。

酔っ払った伊潜水艦の艦長が小用を足していて落っこち、
気がついたら甲板でマグロのように転がされていた、という話を
昔漫画にしたことがありますが、

記念漫画ギャラリー

手すりが甲板にあるならこんなことにはならないよねってことで。

さらに艦首部分。
柵がなかったころにはこのキャプスタンが使われていたのでしょうか。
今回見たほとんどの艦首旗は「私を踏みつけるな」でおなじみ?
紅白のストライプに蛇がいるファーストネイビージャックというものでしたが、
ここのは珍しくブルーに白い星の「ユニオンジャック」です。

星の数はアメリカの州の数によって変わりましたが、
右端に星が5つ縦に並んでいることから考えて、これは
2002年9月11日以降、海軍艦艇が「私を踏むな」の旗を揚げているのに対し、
非海軍艦艇が揚げているユニオンジャックであろうと思われます。

かつての海軍艦ですが、もう海軍に籍がないので一般艦艇と
同じ扱いになっているわけですね。
 

甲板に2本立っている黒い柱はデリックだったりします?

 

同じバラオ級の「パンパニート」も、艦首と艦尾に入り口と階段を作り、
一方通行で客を誘導するようになっており、ドアの部分には屋根をつけるなど、
改造してありましたが、これも見学用の改造である可能性高し。

いくら昔の潜水艦でも、悠長に階段をおりて入るなんてありえませんし、
ガトー級の図面を見ても、階段などどこをさがしてもありませんから。


扉の上には目立つ青い看板があり、そこに

「天井が低いので頭上に気をつけてください」

とあります。
さあ、それでは艦内に入っていきましょう。
頭上に気をつけながらね。 

続く。


対日戦の戦果(の真実)〜潜水艦「ライオンフィッシュ」

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前回今回共に、「ライオンフィッシュ」の写真を撮ったのは
戦艦「マサチューセッツ」の甲板からです。

あらためてみると「バラオ」級潜水艦の艦尾に妙なものが。
名前はなんというか知りませんが、減揺装置の一種ではないでしょうか。

ここでいきなり余談です。

現代の潜水艦の塔から突き出している羽のような減揺装置を
フィン・スタビライザーといいますが、これを発明したのは
なんと日本人であったということをご存知でしょうか。

1920年代に、三菱造船の元良信太郎博士が揺動を軽減する装置を発明し、
1923年に対馬商船「睦丸」に取り付けられたのが世界で最初でした。

しかし、制御技術の未熟だった当時では十分な効果を発揮することができず、
特許はそのままイギリス企業に売却されてしまいました。
これの技術を実用化したイギリスやアメリカは、駆逐艦などに取り入れましたが、
日本では敗戦まで全く研究されることもありませんでした。

戦後になってこの技術は海外から取り入れられましたが、
日本人はこのときこれが同胞の発明であることを知って驚いたのです。

なんだかあの八木&宇田アンテナと同じような話があったんですね。

階段を下りていくとそこは前部発射管室。
バラオ級の魚雷発射管は全部で10門あり、ここには
1、2、4と書かれた21インチ発射管が3門見られます。
(おそらく3は右下にあるのかと)

そのうち1には日章旗が、そして2には旭日の線の数もいい加減な
(これは強いて言えば旧海軍の大将旗ですね)海軍旗が小さく書いてあり、
サンフランシスコで見た同じバラオ級の「パンパニト」と全く同じです。

全く対日戦と関係ないミサイルコルベット艦のミサイルに
なぜか日の丸をペイントしていたのを見てから、こういうのは
当時からあったのではなく、展示の際に誰かが「気を利かせて」
雰囲気を出すためにわざわざペイントしたのではないか、
とわたしは実は疑っているのですが、まあこの「ライオンフィッシュ」は
現に日本海近郊でうろうろしていたという戦歴があるので、
全くの捏造ではないでしょう。

そのミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」甲板から見た「ライオンフィッシュ」
ですが、艦橋には当時からあったらしい両日本旗が見えます。

ちなみに砲塔正面に据えてあるのは20ミリ機関銃と思われます。

バラオ級潜水艦は対日戦に多数投入されており、たとえば「パンパニト」も、
開戦当日の12月8日に日本が拿捕した米国の「プレジデント・ハリソン」こと
改名して「勝鬨丸」となった輸送船を撃沈しています。

ここで、バラオ級潜水艦によって沈められた我が方の艦船を、
ウィキからの転載になりますが、挙げておきます。 

ボーフィン(SS-287):学童疎開船(輸送船)「対馬丸スケート(SS-305):軽巡洋艦阿賀野」、駆逐艦薄雲アスプロ(SS-309):陸軍特種船神州丸バットフィッシュ(SS-310):駆逐艦「五月雨」、潜水艦「呂112」、「呂113」 アーチャーフィッシュ(SS-311):空母信濃シーライオン(SS-315):戦艦金剛」、駆逐艦「浦風」、敷設艦「白鷹」、給糧艦「間宮チャー(SS-328):軽巡「五十鈴」(ガビラン(SS-252)との共同戦果) ハードヘッド(SS-365):軽巡「名取ジャラオ(SS-368):軽巡「多摩サンドランス(SS-381):軽巡「龍田パンパニト(SS-383):輸送船「勝鬨丸」(元米船プレジデント・ハリソン) クイーンフィッシュ(SS-393):緑十字船「阿波丸」、陸軍特種船「あきつ丸レッドフィッシュ(SS-395):空母「雲龍アトゥル(SS-403):輸送船「浅間丸」、哨戒艇「第38号哨戒艇」、輸送船「さんとす丸スペードフィッシュ(SS-411):空母「神鷹

いやもうとんでもないですね。
ちなみにここに書かれている戦果はこれらが沈めた全てではないのです。 

それにしても「シーライオン」の戦果がものすごすぎ。
よっぽど腕利きが乗り込んでいたか、というか強運だったのでしょう。

もちろん伊潜が撃沈した敵艦船も決して少なくないので、
双方にとって潜水艦というのは大変な脅威となったことがわかります。


ちなみに、学童疎開船を撃沈した「ボーフィン」は、船団を執拗に追い詰め、
その監視過程で「対馬丸」に子供が乗っているのを確認していたはずですが、
戦後、生存中の元乗組員が

「夜間だったので艦長も子供たちの乗船を知らなかった」

と見え見えの言い訳をしています。
米軍は日本近海を哨戒潜水艦に対し「無制限攻撃作戦」を布いており、
知っていてもおそらく攻撃したであろうといわれていますが、
やはり知らなかったことにしておこうということになったのでしょう。

それだけでなく「ボーフィン」は、「対馬丸」を沈めた第6次哨戒に対し、

「戦闘において比類ない英雄的行為をしたもの」

としてネイビークロス(海軍十字章)を授与されており、
真珠湾が母港であり、たくさんの日本船を(ヨット、漁船を含む民間船ばかりで
軍艦は海防艦1隻の計24隻)を沈めたことから、

「真珠湾の復讐者」

と言われて未だにアメリカ人にとっては英雄的存在なんだそうです。 

そこでこの表に「ライオンフィッシュ」の名前がないことに、
現地で実際にこの艦体を見たわたしとしてはホッとしているわけですが、
彼女の対日戦における実績がどんなものであったかを、
これも日英双方のwikiから抜粋してみますと。

 

1945年1月15日 キーウェストを出港
太平洋戦線に移動し真珠湾に回航され、哨戒に備えてサイパン島に進出

1945年4月2日、最初の哨戒で東シナ海および黄海に向かう

4月10日 最初の戦闘を行い、日本海軍の潜水艦による2本の魚雷をかわす

5月1日 艦砲により3本マストのスクーナーを破壊
    僚艦が救助したB-29乗員を移乗させてサイパンへ送り届ける

5月22日 51日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投
    艦長がスプルーアンスからブリッカー・M・ガンヤードに交代

6月20日 2回目の哨戒で日本近海に向かう

7月10日 早朝、足摺岬沖で浮上航行中の伊168型潜水艦と思しき潜水艦を発見
     魚雷を2本発射し、爆発音と煙を潜望鏡から確認
     続いてもう2隻の潜水艦に対して砲撃を行うも、失敗に終わる

7月10日の戦闘で、「ライオンフィッシュ」は3隻と戦ったと思っていたようですが、
相手は燃料輸送に従事していたしかも伊162の1隻だけでした。

ちなみに英語のwikiでは「爆発音と煙を確認したが伊162はダメージを受けていない」
とだけひっそりと書かれております。 

当時相手を撃沈したと思い込んだ「ライオンフィッシュ」は喜びに包まれ、
戦時日誌にもこのことが " Very happy!! " と記されているそうですが、
これも英語wikiには記述されていません。 

7月11日  潜水艦を発見して魚雷を発射したが外す

8月15日  終戦。哨戒の終わりには航空機乗員の救助任務に従事していた

8月22日  58日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投
      その後、サンフランシスコに向かった

本人たちにとっては戦果をあげてベリーハッピー!!な帰還となったようで何よりです。
いや別に皮肉ではなく。 

ところで、魚雷発射室に、かつてここを職場としていたヴェテランが
当時の思い出を語っているビデオが流されていました。

時間がなかったので全部聴いたわけではないですが、写真を撮っているとき、

「日本の潜水艦に向けて魚雷を放つ時は夢中だったが、
その潜水艦が沈んだとき、彼らにも家族があり愛する人がいるのだと
じつに複雑な気持ちになった」

というようなことを話しているのを耳に挟みました。

そのときにはわたしはまだ「ライオンフィッシュ」の勘違いについて
全く知らなかったので、ふーんと思いつつ聞いていたのですが、
こうして史実を知った今となっては、彼らは未だに本当の戦果を知らず、
(アメリカのwikiでも曖昧な書き方しかされていないように)
今のようにインターネットで調べるという習慣もない時代に晩年を送った
元乗員たちは、死ぬまで自分たちが3隻の潜水艦と戦い、
そのうち1隻を撃沈したと信じてこの世を去ったのではないかと思っています。

 

続く。

スプルーアンスの息子〜潜水艦「ライオンフィッシュ」

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バラオ級潜水艦「ライオンフィッシュ」。
前部発射管を見ただけで前回終わってしまったので
次に行きたいと思います。

発射管室はこのように檻状の扉で仕切られていたので、
魚雷発射管の写真は、間からカメラを入れて撮りました。

信管と火薬を抜かれて不発処理された魚雷の上には
カンバスのバンク(兵員寝床)があるのは皆同じ。
魚雷の上に寝るこの配置は開放感があって兵には人気があったそうです。

「ライオンフィッシュ」のバラオ級潜水艦が搭載していたのは
21インチ、すなわち533mmの魚雷です。

前部には(3つしか見えませんが)6基、後部に4基、
計10基の発射管を装備していた「ライオンフィッシュ」、
魚雷は前部で24本搭載していました。

天井近くに見えているのはダクト?それとも2門の発射管?

前回話が出たTDC(魚雷管制装置)があるとしたら
こういうところではないかと思われます。

潜水艦では前部魚雷発射室に続いて必ずオフィサーズ・クォーター、
士官居住区があるようです。 

というわけで、いきなり士官食堂が現れました。
銀器にマリーゴールド色のテーブルクロス、
そして錨のマークの付いた食器にカトラリー。

こんなテーブルセッティングをしていても食べるのはアメリカの食べ物ですが、
それでも閉塞感のある艦内において食事は何よりもの楽しみですから、
腕利きの調理員が心を込めて用意したものを、せめてこうやって
ちゃんとしたテーブルで食べることを大事な習慣にしていたのでしょう。

士官用のキッチンも兵員用とは別です。
こんなに狭いんだから一緒にすれば場所の節約にもなると思うのですが、
軍というところは必ずこういうところをきっちりと分けます。
 

パンケーキにハムエッグ、といった朝食が用意されていますが、
ちゃんと陶器の食器に盛り付けてありますね。

 

二人、あるいは三人寝ることができる個室の壁に掛けられた
軍服はルテナント・ジュニア・グレイド、中尉のもの。

この部屋は「チャプレンズ・ルーム」、つまり従軍牧師の部屋で、
潜水艦にすら牧師を乗せていたということになります。
乗員総数66名で、士官は6名、そのうち1名が牧師だったということで、
アメリカ海軍にとっての従軍牧師というのは、日本海軍の艦艇に
必ず神棚があるのと同じであるとわたしは位置付けたのですが、
この説、どうでしょうか。

ベッドの上に演出として置かれたギターと雑誌「ライフ」。

バラオ級の定員は85名ですが、それよりかなり少ない当艦は、
居住スペースにかなり余裕があって、もしかしたら
従軍牧師は専用の個室を(告解室兼用で)もらえたのかもしれません。

右側の壁にある丸いものは折りたたみ式の洗面台。
・・・・・じゃないよね多分。

カトリックでは司祭が額に水をかけて、

「父と子と聖霊の御名によって、あなたを洗う」 

という儀式を行うということなのでその専用台が、
まさかこれ・・・・?

誰も見たことはありませんが、従軍牧師の乗艦していた潜水艦が
魚雷にやられてもうだめだという時には、乗員たちは牧師の元に
集まり、牧師は彼らと自分自身のために祈りを捧げたのでしょうか。

沈没前のタイタニック号で群がる船客たちに告解を与えた牧師が、
彼自身もまた今から神に召されることを覚悟していたように。 

ベッドの上にある金属のプレートは、造船会社がつけたもの。
例の、仕事が遅くて不確実で、これ以降の発注を取り消された
クランプ造船会社の名前と起工日、進水日が刻まれています。 

ベッド上右側の写真はもちろんFDR。
左はレイモンド・スプルーアンス海軍大将でしょうね。

何しろ「ライオンフィッシュ」の艤装&初代艦長は元帥の息子、
スプルーアンス少佐だったということなので。

エドワード・D・スプルーアンス

シャープで冷徹でいかにもインテリそうな父親の風貌に比べて、息子は
どちらかというとやんちゃで闊達な面影を残しているように見えます。
終戦後は、一時的に降伏した伊号潜水艦の艦長をしていたこともありました。

このスプルーアンスの息子がその後どうなったのかというと、
なんと1969年、54歳の若さで交通事故により死亡してしまったのです。

スプルーアンスは元帥にはなれなかったものの、終生海軍大将として
現役のまま、つまり俸給も得ていたということです。
晩年には椎間板ヘルニアと白内障を患い、動脈硬化症を併発して
カリフォルニアのペブルビーチで闘病生活を送っていました。

そんなおり、長男の事故死の知らせを受けたスプルーアンスは、
精神に異常をきたして認知症のようになってしまったといいます。
そして同じ年の12月に息子の後を追うように亡くなりました。

死後はニミッツ元帥とともにサンフランシスコのゴールデンゲートにある
国立墓地に眠っているということです。

旧式のタイプライターに封書、卓上のカレンダーは
1945年5月になっています。

区画同士を区切る扉は他の潜水艦に比しても小さい気がしました。
扉の右下にあるのはクランプ造船所ではなくポーツマスの
海軍工廠で作られた非常用操舵室バッテリー。

黒いパネルは開くと各区画のボルトメータースイッチがあります。

煌々と明かりのついた機械室。

コントロールルームに差し掛かってきました。

 

下階から続いていそうな方向度目盛りのついたバー。
「ペリスコープ・ウェル」と言われるものでしょうか。 

操舵室。
展示にあたっては直接手で触れられないようにアクリルでカバーしてあります。

手前の大きな車輪が"helm"、舵のようです。

こちらはバウプレーン(前方の安定舵)を操作するためのホイール。
右と左を別々に操作したようです。

操舵席と機器の間には甲板に出るための垂直梯子がみえます。

ドアやハッチが潜航時空いているかどうかが、
このインジケーターで一覧できることになっています。

これによると外とつながりハッチ等で開け閉めする出入り口は前方に2、
後方に2、中央に1と全部で5つあるらしいことがわかります。 

"DEAD RECKONING TRACER"

「死んだ推測の追跡」ってなんですかって感じですが、
デッドレコニングで「推測航法」を意味します。

わかっている艦位を記していくことによってその情報から
これからの航路を決定していくというのが「航法」の定義です。

航法は

天則航法(方位磁針や六分儀、クロノメーター、海図などを用いる)

山アテ航法(陸地の特徴的な地形を目印にする)

スターナビゲーション(天体の位置や動き、風向、海流や波浪、生物相などから総合的に判断)

などがありますが、いずれも船から目視するもので、
このころの潜水艦は、浮上して行うことが基本でした。

これはどういうことかというと、索敵されていたり、悪天候の際には
航法を行うことができず、したがって自分がどこにいるのか見失い、
誤差が生じることがあったということなのです。

天測が出来ない時や、潜航中は、速力と針路、時間の経過から、
計算で自艦の位置を推定しますが、これが推測航法といいます。

ジャイロコンパスで針路、速力計で速さはわかりますから、
それらの情報がこのトレーサー、航跡自画器に推測艦位を出していきます。

ちなみに潜水艦の速度を知るには、ピトースウォード(ロッドメーター)
と呼ばれる金属のブレードが船殻から海中に突き出しており、
これが船速を感知してピトーメーターログにデータとして取り込まれます。

(日本語では情報を見つけられなかったため、英語のままですが、
おそらく何か適正な名称があるのだと思います)

ギャレーです。
「パンパニト」にもあった、ミキサーがここにも。
この狭いキッチンでおそらくパンも粉から作ったのでしょう。

左手にはガラスをはめた引き戸式の小窓があり、兵員には
ここから食事を出していたらしいことがわかります。 

そういえば、先日お話した映画「勝利への潜行」で、
アイドルの写真を取り上げられた水兵が、ここから手を突っ込んで

「返してくれ!」

と懇願するも、写真を見ているキッチンの主に
跳ね上げ式の窓でパチンと挟まれ、からかわれるというシーンがありました。 

その窓がこの写真の左に見えています。
なぜかここに「コレヒドールからの脱出」という題で
マッカーサーが脱出した時のことが書いてあるので、何かと思えば

「マッカーサーがそのときに乗り込んだPTボートの船長、
シューマッハー中尉はその後、ライオンフィッシュの副長になった」

というそれがどうした情報でした。
ちなみにこのときには3隻の敵駆逐艦に追われ、砲火を受けつつも、
勇敢なPTボートの船長はそれをかいくぐって脱出を成功させたそうです。 

ちなみにこんなに短い文章なのに、一番最初に

「マッカーサー将軍が万が一捕虜になっては士気に関わる、
という判断がなされたため、ルーズベルト大統領の脱出命令が出された」

とちゃんと言い訳っぽく書いてあるのには少しウケました。
アメリカでもこのときの脱出を良く言わない人がいるみたいです。

まあ、部下を置き去りに敵前逃亡、というのはどう言い訳しても事実だし(ゲス顔)

ここがクルーズ・メス、兵員食堂。
ぎゅうぎゅうに座っても一度に食事ができるのは20人くらいです。 

テーブルの端は1センチくらいのガードが取り付けられ、
艦が揺れても滑り落ちないようになっています。

窓ガラスに貼ってあるお知らせは、元サブマリナーで、
「ライオンフィッシュ」の展示に際してボランティアとして
様々な協力をしてくれたベテランたちの名前と、
彼らに対する感謝の言葉が書かれていました。

 

続く。 

 


F-M社の対向ピストンエンジン〜潜水艦「ライオンフィッシュ」

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さて、潜水艦「ライオンフィッシュ」見学、最終回です。
いままで見た潜水艦の内部は、前後に魚雷発射管、コニングタワー下に
ジャイロコンパスや操舵のあるコントロールルームがあって、士官用の区画は前方、
下士官兵の食堂はタワーよりも後方、にあるというのが共通していました。

狭い潜水艦内ならどこが上も下もなさそうなものですが、これが決まっているのは
おそらくですが、

「士官の居住区は少しでもエンジンから遠いところに置く」

という理由によるものではないかと思いました。
下士官兵はクルーズ・メスという食堂以外には居住区はなく、
バンクというベッドがまとめられている区画で寝起きするか、
あるいは魚雷発射管室の棚のベッドがもらえるかなのですが、
その場所は必ずエンジンと隣接しているようです。

メスの次の部屋は何もありませんでした。
もともとはここにバンクが所狭しと吊られ、ほとんどの兵が
寝起きしていたはずの場所ですが、現在はご覧のように、
例えば元サブマリナーの同窓会があったり、レクチャーが行われたり、
そういう場所として利用されているように見えます。

しかし、そこに唯一当時のままに残されている装備がありました。

はい、アイスクリームマシンです。

一瞬ウォータークーラーかと思いました。
おそらく当時は上部にサーバーが設置されていたのでしょう。

アメリカ人のアイスクリーム好きについてはこのブログでも
何度となく取り上げてきましたが、「パンパニト」にも別のタイプの
マシンがあり、ここにも・・・。

前回「アメリカ海軍の艦艇にとってのチャプレン(従軍牧師)は
日本海軍艦艇にとっての神棚と同じかもしれない」と仮定しましたが、
もしかしたら神棚に相当するのはアイスクリームマシンではないか?
という気がしてきました。

敵の艦船を沈めて興奮のアイス。
魚雷を躱されて悔しさをぶつけ合うアイス。
パイロットを救出して、あるいは捕虜を生け捕りにしてご褒美のアイス。
敵の攻撃により友を失い、彼を偲んでアイス。
故郷のパーラーを思い出して、恋人とのデートを思い出してアイス。
良きにつけ悪しきにつけ、嬉しい時も悲しい時も、暑い時にはもちろん
もしかしたら寒い時にも、おそらく彼らは何かと理由をつけては
アイスクリームマシンの前に列を作ったのではないかと思われます。

ね?ここまでくれば宗教みたいなものでしょ? 

続いては洗面所。
といっても、潜水艦の乗員が哨戒中ここで毎日髭を剃れたか、
というとそれはとんでもない話でした。
人間の尊厳としてせめて毎日歯は磨くことができたのだと思いたいですが、
とにかくこのころの潜水艦は、水を作ることができなかったので、
特に男性ばかりの空間ではものすごいことになったと思われます。

後ろに洗濯機もありますが、果たして哨戒中にこんなものが使えたのか。


ところで昔から潜水艦に女性を乗せないことになっている理由は

 

「狭くて浴室やトイレを分けられない」

「同じく狭くて居住区を分けられずプライバシーが確保できない」

「水が制限されるので衛生面で女性には過酷であるから」

だと言われてきたのですが、原子力潜水艦を持つアメリカ海軍では
かなり昔からフェミ団体に後押しされた政治家が圧力をかけてきて、
潜水艦に女性将兵を乗せるという試みが検討されてきました。

現場からはかなりの反発があったと言いますが、そこはアメリカ、
勢いとノリで押し切って、女性サブマリナーが誕生しました。

いろいろを乗り越えて、潜水艦が女性に門戸じゃなくてハッチを解放したのは
2010年で、この時に43名の女性士官が潜水艦配置されています。
彼女らは専門の「潜水艦勤務士官」のコースを修了した後、
バージニア級の潜水艦にそれぞれ着任しました。

さらにはUSS「ミシガン」SSGN-727は、2016年(ということはもうすでに?)
女性下士官を乗せる最初の潜水艦になることが決まっています。

英国海軍にもこんなニュースも。

ロイヤルネイビーに最初の女性サブマリナー

2年前のニュースですね。
フランス海軍にも女性サブマリナーはいるようです。

各国がこうやって一見悪条件で現場からの反発も大きく、
さらにトラブルとなりやすそうな女性の配置を進めるかというと、
人権問題よりもむしろ「人材確保」(優秀な)という面が大きいとか。

昔と違って潜水艦勤務の環境がましになり、危険も力仕事もなければ、
女性を乗せることはむしろいいことだと考えられているようです。 

 

いずれにしても、このころの潜水艦と我が海上自衛隊では全く考えられません。

水兵たちのバンクの隣がエンジンルームです。
通路を挟んで両側にあるのがエンジンそのもの。

フェアバンクス-モース社が1943年から米海軍の
潜水艦専用に供給しており、当時の潜水艦ほとんどすべてが
同社のエンジンを搭載していたと言われています。

同社はもともと風車を作っていましたが、回るものつながりで
そのうちエンジン製造にも進出し、メジャーになり、潜水艦用に開発された
ディーゼルエンジンはことに評価されています。

現在も同社のエンジンはホイッドビー・アイランド級ドック型揚陸艦や
サン・アントニオ級ドック型輸送揚陸艦の水陸両用の船に使用されているほか、
アメリカ沿岸警備隊のカッターでも使用されています。

F-M社のこのタイプを「対向ピストンエンジン」といいます。
英語ではそのままopposed-piston engineで、
1気筒に対して2個のピストンが対向して備えられ、燃焼室を共有するものです。

エンジンの一部がスケルトン仕様になって展示されています。

なのに急いでいたのと暑さでぼーっとしていて、詳しく写真を撮りそこないました。

対向ピストン機関とはこのようなものです。

 

上で回転している車輪の吸入口から空気と燃料を混ぜます。
上の写真で見えているのはクランクの部分ではないかと思いますが、
詳しく写真を撮らなかったのでわかりません。

しかも今気づいたのですが、この展示にはボタンがついていて、
そこをぽちっとすると説明が聞けたというのに・・・。



ちなみにこちらもF-M社の対向ピストンエンジンを搭載した
潜水艦「パンパニト」のエンジンルーム。 

いわゆる「マニューバリング・ルーム」。
エンジンルームに隣接していて、各種操作機械や、あるいは
メイン・プロピュルージョン・コントロールシステムがあります。 

写真上部のドラムには「バルブ」と記されています。 
メインエンジンの排気バルブではないかと思われます。 

エンジンルームは「メイン」と「アフター」とが続いてありますが、
メインの方がエンジン、ジェネレーター2基ずつなのに対し、こちらは
それに加えて排気バルブ、補助エンジンなどもあります。

ちなみにゴミ箱は現役の模様。

アフターエンジンルームのメインエンジン。

メインモーターはここにあります。
「バラオ」級のモーターは4基搭載されていました。 

トイレは狭いですが、左側にいざ!というときにつかまれるような
安全用の手すりが配置されています。
用足し中に転がり落ちるなんてシャレになりません。 

マニューバリングルームのマニューバリングスタンド。
潜水艦の2つのプロペラを動かすのは4つのモーターで、
ここと直結しています。

潜水艦が水上を航走するときにはその電力は4つのジェネレーターを通じて
4つのディーゼルエンジンから生み出されますが、潜航のときにはそれは
蓄電されたものを使うしかないのです。

電池は浮上しているときに充電されます。 

ジェネレータの出力をコントロールするパネル下部のレバー。
このパーツはGEの製品でした。  

というわけで、最後尾の後部魚雷発射室までやってきました。

前部と同じく、魚雷発射管に近づくことができないように柵があるので、
間からカメラを入れて撮りました。

やり方を知っているとハッチを開けることもできるので、
ツィッターやインスタグラムに、魚雷発射管に入って顔だけ出している
写真をあげるような不埒ものが出てきかねないってことでしょうか。

 

あまり事例はないですが、潜水艦内で死者が出た場合には
魚雷発射管から外に放出して水葬したときいたことがあります。

そこで思い出すのが、ドイツからU-boatで日本に帰国する途中
ドイツが降伏してしまったため、艦内で自決した二人の技術中佐の話です。

1945年、アウシュビッツとキールのトロイメライ

このエントリで語った二人の海軍軍人は、いずれも
Uボートが連合軍の手に落ちる前に、魚雷発射管から海中へと、
ドイツ海軍の手によってその遺体を水葬に付されました。

24本ストアしてあったという魚雷が、ローディングするためのラックに乗せられて
展示されています。

今でもNATOでは魚雷は21インチつまり533mmが規格となっていますが、
それはもともとこのころの魚雷の規格が21インチだったからです。

「ライオンフィッシュ」に搭載されたのは同じバラオ級の「パンパニト」が
搭載していたMk14ではないかと思われます・ 

こちらにMk14とは明らかに形の違う魚雷が2本ありますが、
こちらは1945年には主流となっていたMk16だと思われます。

魚雷は推進のために内部に内燃機関を持ちますが、このタイプは
機関への酸素供給にあたって、従来の空気室を用いる方法ではなく、
液体の過酸化水素水を化学反応させ発生した酸素を用いています。

このとき同時に水蒸気も発生することから、これらを利用し、
燃焼及びタービンへの蒸気供給を行雨という仕組みです。

この仕組みのおかげで酸素携行量が増え、Mk14より航続距離が倍以上に伸び、
空気を用いた場合と異なり窒素排出も無いため航跡が薄く、
発見されにくくなりました。

また、ジグザグ航行などのパターン航行もできるようになりました。

昔はこの上部が魚雷を積み込むためのハッチだったと思われます。
今は階段をつけてここから出入りができるようになっています。 

上の写真を改めて見て、魚雷の中身を見せるために
わざわざ外側を外して展示してあったのに気付きました。

この時もちろんこれらが見えていたはずなのに、どうして至近距離で
写真を撮っておかなかったのか・・・・。

さらには魚雷の上に魚雷の爆発の仕組みなどの説明があります。

今にして思うと、この時には時間がないのと暑いのでモノを考える
力がかなり低下していたからだと思うのですが、
潜水艦内で酸素不足っていうのも関係していたんじゃないかな。(嘘)

 

でも、こうやって外に出てきた時に少しほっとしたのも事実。
きっと酸素供給システムなんて作動させていないでしょうしね。

さて、これで潜水艦「ライオンフィッシュ」の見学は終わりましたが、
バトルシップコーブにはもう一つの記念艦があります。

 

 

 

サンフランシスコの対日防衛要塞 砲台跡

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シリコンバレーに滞在中、TOの知人が当地に来ることになり、
サンフランシスコは初めてだという彼を案内していわゆる
お上りさんコースをドライブしたときの話です。

やはり最初はゴールデンゲートブリッジであろう、と
いつも車を停めるクリッシーフィールドの海岸沿いから、
ブリッジを渡った観光用の展望台に行ってみました。

週末なので予想はしていましたが、パーキングに車が溢れていたので
無駄な待ち時間を費やすことをすっぱりやめて、
わたしはそのままブリッジを渡り、対岸からブリッジを眺めるという
「地元民コース」を選択しました。



「ライムポイント」とあるのが橋のたもとです。

ブリッジを渡ったところ全体を「ゴールデンゲート保養所」というのですが、
そのサンフランシスコの対岸に当たるところには見た目通り馬てい形をした
「ホースシュー・ベイ」というのがあり、そこには観光客はまず来ません。

ここはフォートベイカーという地名で、本日お話するつもりの
サンフランシスコ防衛のための要地でもあった一角。
現在はヨットハーバーとベイエリアの歴史博物館、そして
沿岸警備隊の基地が置かれています。



当てずっぽうで車を走らせ、数台しか車が停まっていない空き地に
車を停め降り立ったとき、わたしたちは思わず感嘆の声をあげました。



「すごい」

「こんな風にブリッジが見えるところに初めて来た」

「おまけにここまったく観光客がいない・・・」




ブリッジの写真は数多くありますが、こちらから見た角度の方が美しい。
わたしたちは冷たい風の吹きすさぶ岸壁から行き交う船を見ていました。

ふと後ろを見ると、全く整備されていない小高い丘があり、
そこが展望台のようになっているのに気づいて登って行きますと・・・・、



全く整地されていない(つまり柵とか舗装した道がない)
踏み分け道のような階段でずっと上に登っていくことができました。




わたしたちの停めた車が下に見えています。
ここからはさらにヨットハーバーも一望できます。



さらに左に首をめぐらせば、アルカトラズ島が。
向こうにベイブリッジが見えているアルカトラズなんて初めてです。
普通には見られない建物の後ろ側と巨大な給水塔が認められます。



ブリッジの下に、ここに来なければ絶対に見ることのできない建築物発見。
フォート時代の監視所かもしれません。
廃屋になっているのかと思ったら、敷地になんとソーラーパネルが見えます。
岸壁に衝突しないように夜間照らすライトの電源をソーラーで取っているようです。




ブリッジの下は日本なら「銀座」と呼ばれるであろうくらい交通の激しいところです。
船好きであればここで1日でも行き交う船を見て過ごせるでしょう。(寒くなければ)

このとき、わたしのセンサーにひっかかった一隻のボート、いやカッター。
なんと沿岸警備隊の巡視船ではないですか。

この直前、ニューロンドンでコーストガードアカデミーの見学を
したばかりなので、このご縁に少し驚いてしまいました。



ここホースシューベイにコーストガードの基地があることは
後で地図を見て知ったことですが、このときにも
コーストガード専用のポンツーンがあるのをわたしは
目ざとく見つけて注目していたのです。



実はこの前、写真に写っている崖沿いの道路に車を止めていたとき、
コーストガードの隊員がみんなでだーっと走ってきて、
いかにも緊急事態!な騒然とした空気のままカッターに乗り込み、
わずか1分以内に出動してしていく様子を目の当たりにしたのです。


そのときわたしは自分のカメラを息子に貸していたため、
iPadで撮ったのがこれ。


ブリッジの上から人が飛び込んだときの捜索などに対応するためにも
ここにコーストガードの基地があり、非常時に出動しているのです。
しかしこのときになんのために出動したのかはわからずじまいでした。

こちらの写真は、その後帰ってきたカッターから隊員が降りているところです。
大事に至らなかったようですね。 



日本ならこんなところにはあっという間に柵ができてしまうところです。
ここに登ってくるのも勝手なら、落ちるのも自己責任。
こういう部分に関してはこれが世界のスタンダードであり、
日本というのは本当に甘やかされた優しい社会だと思います。

この花を供えられている人は、ここから飛び込んだのか、滑落したのか。
あるいはここから望むブリッジから飛び降りたのでしょうか。

ちなみに「世界で2番目に自殺者の多い建造物」(1位は南京)
であるGGブリッジでは2014年現在でわかっているだけで1,653名が
ここから飛び降りて自ら命を絶っています。



さてところで、ここから帰ってきた日、わたしはこの場所を
確かめるためにグーグルアースを見て気づきました。



これ・・・・砲台跡ですよね?

なんと、写真を撮っていたところをさらに登っていくと
そこにはこんなフォートレスの遺跡があったのです。

そう、先ほども言いましたが、ここはサンフランシスコ沿岸防衛のために
かつては全てが軍用地であった一帯です。
有名なブリッジ下のフォートレス(またお話しします)のように、
ここにもフォート・ベイカーという基地がありました。
現在博物館になっている建物の多くは当時の兵舎だったりします。



このあと、ブリッジに乗ってサンフランシスコに帰ろうとしたのですが、
ブリッジの入り口わきの道に、せっかくの機会なので入ってみました。



完全に観光道路となった山の上の2車線道路は、深い霧の中
どんどんと高度を上げていき、ついにはブリッジが下に見えてきました。



車を停めて降り、写真を撮ったところからは、一車線一方通行の
細い急な坂道がどこかにつながっており、車が降りていきます。



ここにあった案内板を見てびっくり。
この辺りは、要塞だったころの砲台の遺跡がいまでもごろごろあるのです。
この地図の丸いのが二つの砲台跡。
火薬庫や弾薬庫、コンプレッサーなどが示されています。



砲が2門据えてあった砲台。

「バッテリー」という名の砲台は「バッテリー・メンデル」、
『バッテリー・ウォラース」「バッテリー・スペンサー」、
「バッテリー・タウンズリー」、「バッテリー・カービー」などと
名前が付いていて、この一帯をまるでハリネズミのように防御します。



現地の看板には当時の写真もありました。
「最後の要塞砲台跡」と説明があったので、それを訳しておきます。

史上最も巨大で最も強力であったアメリカ陸軍の16インチ砲。
2,100パウンドの砲弾を26マイル外洋まで撃つことができました。
1942年に着工が始まり、1943年には完成したこれらの砲台。
第2次世界大戦は、この湾岸を日本軍の攻撃から防衛するために
この一帯を軍用地に変えました。

第2次世界大戦勃発までサンフランシスコ湾は西海岸でも
最も需要な防衛拠点と認識されてはいましたが、真珠湾攻撃における
日本軍の航空攻撃が、それまでの防衛の概念を永遠に変えたのです。

あとにご紹介するビデオの中でも言っていますが、真珠湾のあと、
日本軍が次にどこを狙ってくるかということは彼らに想像もつかず、
可能性としてはサンフランシスコが最も濃いとされていたことがわかります。



未だに残る「リング」。
これは砲台にある砲身を操作するためのワイヤが繋がれていました。



砲台に続くトンネルの入り口。
これらの現地にある写真を見てふと気付いたのですが、
最新の「ターミネーター」って、この辺でてきたよね?



この説明のあった部分は「バッテリーナンバー129」という場所でした。
フォートそのものは米西戦争の30年も前の1861年には完成していました。



1943年、マリーン・ヘッドランドに運搬される砲身。

129番の砲台が活動をやめたあとは、砲身などはトンネルの中に置かれ、
1948年に裁断してスクラップになるまで放置されていたそうです。



なぜここに砲台が集中しているかというと、サンフランシスコに攻めてこようと思ったら、
この狭い海峡とブリッジの下をくぐらないといけないからです。

これは、別のところ(朝鮮戦争のメモリアルゾーン)で見つけた写真ですが、
朝鮮戦争のとき、(1953年)、  「ジェネラル・ネルソン・M・ウォーカー」
(輸送艦)がブリッジの下を航行していくところです。

搭載しているのは戦争捕虜で、これから朝鮮に送還するところだったとか。

World of Warships - San-Francisco Artillery Corps


英語ですが、当時の映像とCGによって分かりやすく
サンフランシスコの防衛について説明してくれています。

これによると、砲台勤務の兵は砲台のコンクリートに付けられた
簡易ベッドで寝ていたようですね。
タバコも吸えず大変過酷な任務だったようです。


10年以上前から数え切れないくらいなんども来ていながら、
こんな軍事遺産があったことをわたしは今まで知りませんでした。


怪我をしたアシカなどを保護して治療し、また海に返してやる

海洋哺乳類センター

もあって、見学できるそうですし、来年はカメラを持って
1日ここで過ごしてみることにしましょう。
 

 

ファイロリガーデン〜加州富豪の豪邸と庭園

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住んでいた時期も含めると、13年以上訪れるカリフォルニアですが、
今年の夏までまったく知らなかったスポットがありました。
まあ、カリフォルニアだけで面積は日本と同じくらいあるので、
それも無理はないとは思いますが、意外だったのはそれが
車でしょっちゅう走るフリーウェイの脇にあったということです。

それはファイロリ・ガーデン。

1906年のサンフランシスコ大地震のあと、多くの富裕層が
市内から外れたところに居を移しました。
彼らは鉄道、炭鉱、金融など、アメリカの「ギルデッド・エイジ」 
(金メッキの時代、1870〜80年代)を築いた人たちです。

富豪ウィリアム・ボウワーズ ボーン二世夫妻が
住んでいたファイロリは、その時代の最後の遺産といってもいいでしょう。

ファイロリガーデンは1915年から1917 年にかけて建てた邸宅と
1917年から1929年にかけて造られた庭園によって成り立っています、
1936年に夫妻が亡くなった時、ウィリアム・ロス夫妻に売却されました。

現在は文化遺産として2月から10月までの間だけ公開されており、
1000人以上のボランティアが運営に携わっています。



カリフォルニアは気候が植物の育成に適しているので
庭園は「その気になれば」造成が可能ですが、文化的に
ヨーロッパのようなガーデニングは浸透していないので、
こんなところにヨーロッパ風庭園があるとはまったく意外でした。

インターネットでホームページからツァーを申し込むこともできますが、
わたしたちはセルフツァーを選択しました。

このエントランスを入っていくと受付があります。

まず見学は庭園から。
変わった植物だなと思ったら、赤いのはガラスのオブジェでした。
彩りのつもりか池にビーチボールを浮かべていて、
イギリス人ガーデナーが見たら怒り狂いそうな眺めです。
 
フランスの庭園はベルサイユを始めいくつか見ましたが、
こういう手の加え方はアメリカ人ならではという気がしました。

庭園のそこここにあずまやのような建物があります。
テニスコートあり、プールありで、かつてのアメリカ人の
富裕層の生活が偲ばれます。

植木鉢が置いてあるあたりが庭園としては如何なものか、
と言う気もしますが、それはさておき。

日時計のある庭。

ラベンダーが花の盛りでした。 

分厚い生垣のトンネル。

歩いていくとテニスコートの近くにトイレがありました。
立ち寄ってみると中はこんな。
ロッカールームとして使われていたのかもしれません。 

トイレの窓の外にあった「盆栽」のようなもの。

盆栽といえばところどころ「盆栽風植栽」にしていて、例えばこれ。 
はっきりいってこれじゃない感がハンパありません。 

向こうで謎の剪定に励んでいる庭師。
プールの前にはアクリルガラスのハリセンに
本物のテニスボールをあしらったオブジェがありました。

こういうのもアールデコ風っていうんでしょうか。 

 

この庭は、ボーン夫妻の死後、家と広大な敷地を購入した
ロス家の夫人によって1975年に歴史保存のためのナショナルトラストに
寄贈され、それ以降公開されて今日に至ります。

 

しかし、ただの庭見学だけがここの楽しみではありません。
ウィリアム夫妻のためにサンフランシスコの建築家、ウィリアム・ポークが
設計したこの豪奢な邸宅の中を見ることができるのです。

不動産と一緒に寄付された家具やドレスなど、
当時の富豪の生活ぶりを垣間見ることのできる展示。

タキシードはボーン2世の甥の着用したもの、
ドレスはボーン夫人のもので、いずれも1915年頃のものです。

 

「シップルーム」と名付けられた、もともとは朝食用の食堂。
ここには帆船の模型や夫妻が旅行で使ったトランクなど、
「海関係」のグッズが飾られている部屋です。

で、この大きなトランクなんですが、分かる人にはわかる、
これフランスのゴヤールの製品なんですね。
日本ではあまり有名ではありませんが、サントノーレ通りにあって
格としてはルイ・ヴィトンより上と言う説もあるくらいです。

がラス戸の中には世界各地で買ってきた記念品とともに、
当時の最新式であったらしい小型カメラが。

さらに廊下を進んでいくと厨房にたどりつきました。
まるで漫画に出てくる大富豪の家のように、キッチンには
ユニフォームを着たコックとメイドがいたようです。

何十人分もの料理を作るキッチンですから、ホテルの厨房並みの広さですが、
個人宅なのでインテリアには温かみがあります。

ダイヤルロック式の分厚い扉の中には
来客用の銀器が収納されていました。

ジャンバルジャンは燭台を盗んで人生を誤りましたが、
それを売れば食べていけるくらい価値のあるものだったのですね。

今は食卓を飾ることもなく、扉の中でひっそりと輝きを放つだけです。

厨房はバトラーの控え室も兼ねていたようです。
各部屋からここにブザーが通じていてコールすると光る仕組み。
それにしてもなんたる部屋の多さ・・。

 

コーヒーを入れたり朝食のパンを焼いたりする棚。

オーブンとコンロは換気扇付きで今でも使えそうです。
というか、消火栓が置いてあるところを見るとときどき
ここで何かイベントが行われることもあるのかもしれません。

お菓子などを作る大きな台。
暇そうに天井を見ている人はボランティアの解説員。

40年にわたってシェフを務めたのは中国系アメリカ人のロウさん。
ネクタイを締めた紳士は当家の執事です。 

さて、そんなキッチンで生み出される料理は、このダイニングに運ばれます。

キッチンには来客をマネージメントするための表が貼ってありましたが、
年齢性別はもちろん、何語を喋るかまで個人のデータが書き込まれていました。
英語が一番多いのは当然ですが、独仏伊、そしてスェーデン語と、
あらゆる国の言葉を喋る客が一堂に会するような晩餐会も多々あったようです。

ボーン夫妻の時代、彼らが亡くなる少し前に行われた
最後の正式な「晩餐会」を再現しているテーブルです。

その時ボーン夫人が着たドレスも飾られています。

晩餐会が行なわれた1933年11月24日の写真。



次の間は居間というかプレイルームとでもいうのでしょうか。

卓ではスクラブルのゲーム中。



銀の糸を織り込んだ贅沢なコートは1920年台のもの。



ハープシコードのようですが、これはスピネットといって、
弦が斜めに貼られそれを引っ掻いて音を出す鍵盤楽器です。
これはベントサイド・スピネットで、18世紀にイギリスで流行しました。

こちらにはスクエア・ピアノがあります。
箱の中の弦は鍵盤に対してこちらも斜めに張られています。
アップライトピアノの前身というところで、これも18世紀後半のもの。



大きな東洋製の壺、右側の壁にあるのは中国製の螺鈿絵。
ガラスのビーズをふんだんにあしらったパーティドレスは1910年のもの。

壺の反対側には1964年にここで「デビュタント」を行った
ロス家の親戚の娘さんのきたデビュタントドレスがありました。



手縫いの総刺繍のドレスはフランス製です。



書斎にきて思わずわたしがおおっ、と盛り上がった海軍の軍服。
スウェーデン領事だった海軍軍人、ウィリアム(この人もウィリアムか・・)
マトソン大尉が着用していたものです。

これはサンマテオの博物館からの貸与で、当家とは関係ありません。

本棚に目ざとく海軍マークを見つけて写真を撮るわたしであった。
海軍関係の絵や版画を集めた本のようです。 

こちらの写真は状況から言ってウィリアム・ロス氏ではないかと思われます。
右側は戦時中に撮られたらしく陸軍の軍服ですね。

こちらロス夫人。(さっきの絵の人だと思われ)
お若い時にはまるで女優さんみたい。

ロス氏も若い時は超イケメンだったみたいです。 



ロス夫人と愛馬。
やはり上流階級は乗馬を嗜まれるのですね。
右側はロス夫人と彼女の兄弟。

なんと家の中にコンサートホールが。
このファイロリガーデン、周りはほとんど原生林みたいな木々に囲まれた山間地で、
土地はふんだんにあるからとはいえ、これには唖然としました。
ピアノは見てませんが多分スタンウェイでしょう。

 

ここで行われた舞踏会やその他パーティで着用されたドレスが幾つか
マネキンに着せて飾ってありました。

いわゆるバッスルスタイルのドレスですね。
日本では鹿鳴館でこのスタイルのドレスが着用されました。

大きな暖炉は大理石製。

ホールを出たところにあった一人用のトイレ。
無駄に広い。

少し小さな(といっても軽く30畳くらい)居間には、お酒を収納しておく
隠し戸棚と(閉めると壁になる)ワインセラー(右)がついています。
暖炉の上にある絵はロス夫人ですが、これははっきり言って絵としてはイマイチ。

ワインセラーのドアの上には鹿の首が飾ってあります。
おそらく当主は狩猟も楽しんだのでしょう。



見学を終え、ランチを食べるために中庭に席を取りました。
右側は主婦四人組。
おしゃべりに夢中になっている様子は日本と変わりません。

キッシュとサラダにスープという取り合わせ。

帰りにお土産店に寄ってみました。
ここでラベンダーの香りのハンドクリームを購入。

買いませんでしたが、スリッパの足裏のところが
草(grass)になっている商品を発見。
これが気持ちいいのかどうかは謎ですが、商品名が

「Grass Slipper」orz

ちなみにシンデレラのガラスの靴を英語では「glass slipper」といいます。 


この売店でずっとオペラのアリアが流れていました。
「ファイロリ」という名前とこういうBGMのセレクトから、わたしは
ここに来るまでは、この豪邸を所有していたのは
イタリアからの富豪の移民だと思っていました。

「みなさんはファイロリはイタリア系の名前だと思われるかもしれませんが」

ここの解説にもありますが、この名称は初代オーナーのボーン氏の命名で、

「FIght for just cause;LOve your fellow man; LIve a good life」

(戦う理由はただ、あなたに続く人間を愛し、良き人生を歩むため)

というボーン氏の会社(金を掘る会社と地下水を売る会社)
のクレドから2文字ずつ抜粋した造語だということです。


カリフォルニアでありながらヨーロッパに迷い込んだような空間。
アメリカの古き良き時代の豪奢な生活を垣間見た1日でした。




朝鮮戦争慰霊碑〜旧プレシディオ軍用地 サンフランシスコ

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サンフランシスコに夫の知人を案内したときのことをもう少し。
どこに客を案内するかということは、車を運転するわたしに
完全に任されていたので、わたしはゴールデンゲートブリッジのあとは
半島の北西角に当たる太平洋に面した海岸に車を向けました。



何度かこのブログでもこの海岸の写真をご紹介していますが。
なんどもこれもいうように、いつ来てもここはこんな風です。

この写真を撮ったのは8月の中旬ですが、この一帯には雲が垂れ込め、
海流の関係で常に強い風が海から吹き上がってくるおかげで、
霧が立ち込めることはありませんが震え上がるほど寒いのです。
わたしはここに来るときには必ずこちらで買った冬物を着ます。
寒さに鈍感なアメリカ人も、ここでだけはあの「スターターパック」な人は
ほとんど姿を見ることもありません。 







これも前にご紹介したことがありますが、ここには昔、

サットロ・バスズ

という温水プール施設がありました。
これはかつての海水プールの遺構です。
サットロというのはオーナーであったアドルフ・サットロの名前です。
1896年に建てられ、1966年に不審火で焼失するまでここにありました。



上の写真に見えている部分にあったプールの内部。
右手窓の外に海が見えているのがお分かりでしょうか。



部分拡大。
ノーダイビングの看板の横で落ちるふりをして飛び込む若者。



当時の水着を復刻してマネキンに着せていました。


冬はもちろん夏でも海水浴などとんでもない気候のサンフランシスコで、
年中プールに入れるとあって市民の人気を集めましたが、何しろ
維持費が大変すぎて、経営はいつも赤字だったといいます。

1966年に廃業してすぐ、なぜか不審火が起きて建物は失われました。
サットロはサンフランシスコを離れ、保険金を主張したそうです。

お荷物だった店などがある火突然不審火によって焼けてしまう。
なんかこういう話、世の中にはよくありますよね(棒)



遺構には自由に立ち入ることができます。
3組ともハネムーン?



わざわざこんなものを落書きしに来る人がいます。



この遺構に隣接したところに、レストラン棟ががあります。
これからいく「クリフハウス」がここにあります。
カフェはいつ来ても混んでいますが、レストランの方はお値段が高く、
(一皿20ドル台)そのためいつも席がなかったことはありません。

この斜面に人がいるので写真を撮ってみました。



みんなで寝転んで楽しんでますね。

このあたりに分布する植物もご覧のように独特です。
まるでコケのような柔らかい草がみっしりと生えて、
まるで絨毯のようになっているのです。



かつてのクリフハウス部分。
プールなどの入り口でもあり、ここから皆入場しました。



年中吹く強風を利用して、この建物は風力発電を取り入れています。
そういえば、この周りにはかつて稼働していた風車が2基あります。



あまり満席になることはないとはいえ、一応予約して一番乗りしました。



ここのパンは絶品です。
「ラタトウィユ」(レミーのおいしいレストラン)ではありませんが、
パンをちぎるときにパリパリと香ばしい「音」がします。



家族が取った鴨のロースト。
少しもらいましたが大変滋味溢れる肉でした。



わたしはホタテと海老がクスクスのサラダに乗ったもの。



ところで一番乗りだったので窓際の席に案内され、
そこからはこんな風に外が見えるのですが・・、



なんと、カップルがこの極寒の海で青春ごっこを始めました。



男の子が何かを言って逃げ、女が追いかけて転び、全身びしょ濡れ(お約束)
サンディエゴならともかく、ここでこんなことをやっていたら、
まず間違いなく呆れた目で皆に見られることは間違いありません。

この後、日本の、12月くらいの寒さの中、濡れた服で
この後どうやって過ごしたのか少しだけ気になるところですが、
いずれにせよ若いって無謀と同義なのね。



砲台が張り巡らされ、サンフランシスコ湾入り口には機雷が撒かれていた、
という前回のエントリで貼ったYouTubeを見た方ならお分かりのように、
ゴールデンゲートブリッジを中心としたこの一帯は、1994年まで
軍による運用が行われていた「軍用地」でした。

対日戦のため日系二世兵士を集めて情報部隊を作り、
教育していたのもここでしたし、複葉機の時代には滑走路もありました。
クリッシーフィールドの皆がキャンプを行う芝生の一隅には防空壕があり、
それらは皆現在歴史建造物として保存されています。

1776年に最初にここを軍用地として使い出したのはスペイン軍でした。
1821年、メキシコがスペインから独立し、ここはメキシコの一部になります。
プレシディオもそうですが、サンフランシスコにヒスパニック系の名前の
通りや街が多いのはそういうことからです。

米墨戦争でアメリカがここの所有を宣言してからのち、
ゴールドラッシュによってアメリカ人がつめかけ、
アルカトラズに要塞を築いたりして、街は発展していきます。

わたしがここでいまだに口座を持っているウェルズファーゴという銀行は
1800年代にできていますし、チョコレートのギラデリ、衣料会社の
リーヴァイ・ストラウスも同じ頃に創業しています。

観光地として世界中の人々を惹きつけるこの一帯には、ユーカリとアメリカンパインが
森林を形成し、ここに来るとわたしは車の窓をあけて独特の芳香を吸い込みます。

そんな森の一角に、戦没兵士が眠るサンフランシスコ国立墓地があります。
わたしは去年初めてこの中に入り、写真を撮ったのですが、
なぜか入り口の写真を残して全てが消えていました。

もちろん単なる事故か、どうせわたしのことだから何か気付かないうちに
データが消えるようなことをやったのだとは思いますが、
それを何かの啓示ととらえることもまた吝かではなく、この中で
写真を撮ることをわたしはそれ以来きっぱり諦めることにしました。

そのかわり、と言ってはなんですが、去年来た時に建設予定となっていた
朝鮮戦争のメモリアルコーナーが完成していたので、立ち寄ってみました。




Pusan Perimeter(June-September 1950)
とあります。
釜山の石ででもあるのでしょうか。



ここで現地にあったこの戦線の移動の様子をみてみましょう。


●一番左 1945年、日本が降伏し、北半分をソ連が、南半分を
アメリカが占領していたときの様子です。

元シールズの奥田という人が最近熱唱したという「イムジン河」という歌には

「誰が祖国を二つに分けてしまったの」

という歌詞がありますが、誰も何も、アメリカとソ連なんですよね。
ところでついでにこのひと、参院選の時投票用紙に◯をつけた、
とかツィートしていたそうですが、
(指摘されてツィート削除)なんかもう隠す気なさそうですね。

何って、ほら、選挙に行ったことがないってことを。


●左から2番目 北朝鮮が1950年6月25日に北緯38度線で砲撃をいきなり始め、
奇襲してきたときです。
ソウルは占領され、韓国軍は敗退して釜山に追い詰められました。

ちなみに、奇襲の2日後の6月27日、李承晩は南朝鮮労働党の党員を
共産主義者として処刑を命じ、裁判なしで20〜120万人の民間人が
虐殺されるという「保導連盟事件」が起こっています。


●真ん中 そこで、我らが?マッカーサーがバターン号で日本から駆けつけ、
東京を起点にそこから毎日専用機で戦場に通い、アメリカ軍を指揮。
9月15日から10月24日で戦線を大きく押し戻しました。

ちなみにこのとき最初に韓国軍の参謀総長になったのは(すぐ解任されましたが)
陸軍士官学校49期卒で砲兵科少佐であったチェ・ビンドク(蔡 秉徳)でした。



Inchon Landing(1950 September 15)

マッカーサーが9月15日に行った仁川上陸作戦、「クロマイト作戦」の日が
ここに記されています。
それまで苦戦していた国連軍ですが、この作戦以降、 米英軍と
韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変しました。



仁川で、上陸作戦でレッドビーチの防波堤を越えていく海兵隊員たち。
このときにバルドロメオ・ロペスという海兵隊員は、壕に投げられた
手榴弾を自分の体の下に引き入れて戦友を爆発から守ったという話があります。

●右から2番目 
11月25日になんと中国人民軍が参戦してきます。
人海戦術の前に国連軍もアメリカ軍も疲弊を強め、
戦線はまたも大きく南下することになりました。 



1950年8月に撮られた戦場での一コマ。



1952年、ハートブレーク・リッジというところの塹壕で
40フィート向こうにいる敵と対峙している第27砲兵師団。




上の写真で傷ついた兵士に手を貸している左の人物と、
上の写真で自分のジープを祭壇にミサを行っている従軍牧師は
同一人物で、エミール・ケイパーン大尉といいます。

彼はこのあと戦線で捕虜となりましたが、収容所で従軍牧師としての務めを果たし、
それだけでなく皆に食べ物を分け与えて勇気付けました。
1951年に結核を罹患し収容所で亡くなっています。

朝鮮戦争には4人の従軍牧師が参加していますが、その全員が
捕虜になり、朝鮮半島で没しました。




雪の中休息を取るハンナム貯水池の海兵隊員たち。
1950年12月撮影。



M-26戦車(パーシング)の前に立つ子供。1951年6月撮影。



ハンナムの戦士の墓にたたずむオリバー・P・スミス海兵隊少将



北と南の国境、DMZ(非武装地帯)で向かい合う両軍の兵士。



このメモリアルゾーンに出資したパトロンの名前が刻まれています。
サンフランシスコ市、韓国政府を始め個人名も。



国立墓地を見学していた連れと入り口で合流しました。



さて、というところでサンフランシスコ案内は終わり。
これは知人と別れた後、買いものしたオークストリートのジャズカフェ外壁。
サッチモと右はニーナ・シモン。



ロスアルトスに帰ってきました。
これなんだと思います?



答え;自転車スタンド。



おまけです。
2015年の夏、スタンフォードで節約したつもりで安いホテルに泊まったら、
2日目に火事になった、という話をしたかと思いますが、今年、
近くを通った時にどうなっているか見てみました。



全く直してません(笑)
窓の隙間から真っ黒焦げの部屋の中がそのまま見えていました。
ホテルは営業しているみたいでしたが。

多分保険金も受け取ったんでしょうにねえ・・。(呆)

終わり。 

”ライブ・オークの呪い”〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

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ボストンの歴史的遺産であり、観光資源。
それだけでなく「ナショナル・シップ」として永久にその保存が
議会によって決められている帆船「コンスティチューション」。

その保存に至るまでのことを少し話しておきます。



1800年代終わりには蒸気船の時代となり、帆船は一線を退くことになり、
「コンスティチューション」も解体処分が検討されたのですが、
1905年、艦体を残すことが多くの国民の請願によって決まります。

1917年には「レキシントン型」巡洋戦艦(巡洋艦ではない)の
「コンスティチューション」に名前を譲るため、彼女はいったん
「オールド・コンスティチューション」と改名させられますが、軍縮条約で
レキシントン型の巡洋戦艦を造る計画そのものが中止になったため、
1925年には元の名前に戻されました。

そして熱心な支持者の寄付した資金で修復が行われ、アメリカの象徴として
全土の沿岸の都市を曳き船に引かれて訪問しています。

この後の修復でマストや艤装など全てが取り替えられ、砲はダミーに変わりました。
ただしこの写真は1907年に撮影された修復前のものなので、
写真に写っているカロネード砲は稼働可能なものだと思われます。

 

 1927年6月16日、「コンスティチューション」はドライドックに入りました。
修復に必要な942,500ドルのためにファンドが立ち上げられました。
写真は修復後上部構造物が元に戻された「コンスティチューション」の姿。
1931年の7月1日の写真です。



1992年から1996年にかけても大規模な修復が行われました。
この改装では、前の改装の際に時間と金を節約するために
取り除かれていた最小の構造材料の多くが再び使われました。
これは実際に海を帆走することを念頭に行われた措置です。

一つの波頭が船体の中央を押し上げて、船首および船尾が下がり、
船体が曲がることを「ホッギング」といいますが、
このホッギングに抵抗するため斜補強材を組み込むことも再現されました。



2度目の訪問時は天気が良かったので、甲板の
内側の綺麗なブルーグリーンがよくわかっていただけるでしょうか。
冒頭写真は甲板の船首部分に立ち、バウスプリット方向を真っ直ぐ見たところ。



さて、前回「コンスティチューション・グッズ」でご紹介に漏れた
幾つかの製品をここであげておきます。

7番は「ビレイング・ピン」です。
お節介船屋さんに「ビレイピン」という言葉を教えていただいていたので
たちどころにこれが何かを理解しました。ありがとうございました。

甲板のロープを結びつけるための可動式のピンで、これは
1873年から1877年の間に行われた全面改修のさい外されました。
全部が木でできているので、昔の船は改修ごとに頻繁に部品を変え、
それ自体を記念品として販売していたようですね。

8番の銅メダルも同じ改修の時に「コンスティチューション」から
取り外された銅で作った記念品です。

9番のレターオープナーは1906年〜1907年の改修の際、
船体に使われていた釘をはずしてそれから作られたものです。

10番は「カービル」(Carvil) といって、大きなビレイピンです。
1855年にポーツマスの海軍工廠で取り外されたものに銘板を打ち、
そこには

これはUSS「コンスティチューション」のカーヴィルであり、
ポーツマスのヘンリー・ザクスターがマサチューセッツの
スーザン・ウィラードに贈ったものである

ということが書かれています。 
男性から女性に贈るロマンチックなプレゼントには如何なものか、
という気もしますが、まあなんか事情があったのでしょう。 



さて、コンスティチューション博物館には「コンスティチューション」が
建造されるにあたって、木材の選定の経緯から説明があります。

「船の外殻はすなわち骨組みでもある。
内部に使う木材は、腐食に強いものでなくてはならず、
荒れ狂う波にも耐え、大砲発射の衝撃に耐えるものでなくては・・。
どの木が一番良いだろうか?」

右側の「メイドインアメリカ」の地図の上には、

「我が国の戦艦は我が国にある素材から作られるべきだ」

というベンジャミン・ストッダードという、ジョン・アダムス大統領に
初代海軍長官に任命された政治家の言葉が書かれています。



そこで1795年から、ジョージア・シー・アイランドで、ライブオークの木の
伐採が造船工と「アックスマン」という名の黒人奴隷によって行われたのでした。

しかしジョージアの潮を帯びた沼地で硬くて重いオークの木を
手仕事で伐採する重労働に彼らは大変苦しんだと言います。



「こんな仕事うんざりだ。
ご主人は俺がひでえ思いをして働いた賃金をまるまる懐にいれるが、
おれにはびた一文よこしやしねえ。
ほとんどのヤンキーアックスマンは見てるだけでここに住みもしねえで、
しかも病気になったらすぐに帰されてしまいやがる。

おれには選択肢はねえ。
逃げたくたってもどこにも行く場所はねえがな」 



「こんな仕事、うんざりだ!
24時間働きづめでいつお迎えが来てもおかしくないんだ。
蛇に噛まれるか、熱でやられるかで死ななかったとしても、
すぐに倒れてきた木に押しつぶされるか、さもなければ
巨大な車輪の下に潰される大勢のうちの一人になるだろうさ」

みなさん、うんざりしておられるのはよーくわかりました。



さて、こんな苦労をして現地から切り出してきたライブオークの木。
この人物はジャン・バプティスト・ル・コートワという船大工です。

「ボストンで一番大きな船であるコンスティチューションを作るため、
巨大なオークの木を裁断したり組み立てるのは大変な仕事だ。
この船を作るためにはたくさんの人出が必要なんだ」

その下には「手伝いますか?」とありますが、これは右側の
船の外殻に合わせて木材を切り組み立てるコンピュータゲームへの
お誘いとなっています。



これはフリゲート艦「フィラデルフィア」の建造のようす。
ドライドックもない頃なので、地面にコロをしき、その上に
船を作って行っているような感じですね。

会談ではなくスロープ式の通路を作っていたようですが、
これではおそらく事故もしょっちゅうだったと思われます。



さて、二回目に「コンスティチューション」に乗った時のことです。
「コンスティチューション」乗員がいきなり一段高いところに登り、
ろうろうとその歴史、建造から彼女が「オールドアイアンサイズ」と
言われるに至ったイギリス軍艦との戦闘に至るまでを説明し始めました。



彼もまた先ほどの水兵のように、2週間のブートキャンプを終えたところで
いきなり「コンスティチューション」への着任を指示され、
ここでの仕事は国民にこの「アメリカの船」を宣伝すること、といわれて
こういうパフォーマンスも任務の一環として淡々とこなしているのでありましょう。

演説のような説明が終わった後は、見学客が盛大な拍手で
彼をねぎらいました。



あとで甲板下を見ていたらうろうろしていた先ほどの人。
見張りも彼らの大事な任務の一つなのでしょう。



こちらの写真は最初の訪問のとき。
甲板に人が少なく、天気が悪かったので画面が暗いです。

この二人の女性はおそらく姉妹でしょう(確信)



絵に描いたような「アメリカ人観光客スターターパック」な人が・・・・。

こちらは船尾。
船尾にはこのように下を覗き込むためのスリットが3つ穿たれています。
しゃがみこんで転落防止のネット越しに熱心に外を眺める家族がいました。



ちなみに先ほどのライブオーク伐採の話に戻りますが、
当時の先任船大工のトーマス・モーガンという人は、80人からなる
ニューイングランド在住のアックスメンと(エックスメンじゃないよ)
船でジョージアに渡りました。
 
一口で言ってそれは「バックエイキングワーク」(背中の痛くなる仕事)
だった、とかれは述懐しています。

現地は始終雨が降り、高温多湿でマラリアに罹る者が続出しました。
ニューイングランドの気候で生まれ育った彼らには、全く順応できない
厳しい現地の気候だったため、病気で送り返されなければ現地で
死んでしまうため、中には帰るために仲間を殺した人もいました。

結局、ニューイングランドからきた白人の船大工の中で
最後までここで仕事を続けることができたのは、モーガンを含む
たった4人だけであったと伝えられます。 
もちろん、帰ることを許されない黒人奴隷たちは別です。

彼はこんな言葉を残しています。


「もし、木を全部切るまでここに残っていたなら、必ず死ぬ。
ここにきた者には、等しく”樫の木の呪い”が待っているんだ」



続く。

 

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