Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all 2815 articles
Browse latest View live

食生活と”ドッグワッチ”〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

$
0
0

今日は「コンスティチューション」の船員生活についてです。



二階に上がると、「コンスティチューション」についてのいろいろを
学びましょう、という士官がお出迎えしてくれます。

「ここは1812年、コンスティチューションの世界です。
水兵になって国を守るために船に乗るチャンスですよ」

とまあ、やってくる客を水兵にリクルートしているわけですね。



ここではどんな船内生活が行われていたかを知ることができます。
チェストの中には「コンスティチューション」船員の荷物が収められています。



こちら実際に現在の「コンスティチューション」に積んであるチェスト。
わかりませんが、乗組員の貴重品かなんかが入っているのでしょうか。




ところでイギリス海軍といえば無敵艦隊に勝利後、
世界最強の海軍としてもうブイブイ言わせて来続けたわけで、
イメージは決して悪くないわけですが、(英国そのものがそうですね)
実態はえらいブラック組織でもありました。
なんと、軍艦に乗せる水兵を港で男を拉致してきていたというのです。

ときとして港の入り口に軍艦が隠れていて、商船が入港してくると
襲って船員を強制拉致していたと言うんですから、こりゃ酷い。
抵抗する商船との間に戦闘行為が起こることすらあったそうです。

男手を取られた彼の家族もそうなると悲惨な道を辿りました。
給料は出ますがが安くて家族を養うどころではなく、そうなると家族は
犯罪でもなんでもして生きていかなければなりませんでした。

当時はいわゆる「新造艦ラッシュ」でどんどん船を作っていたため、
それに見合うだけの頭数をそろえるのは志願者だけでは無理だったのですが、
だからってねえ・・・。 



それではアメリカではどうだったかというと、

長い間の緊張のあと、この船の栄えあるクルーに自分が加えられ、
我が国の船、しかもすでに大変な権威のある船を守ることが
できるのだと思うと、まるで奴隷生活から解き放たれた気がした。
(パードン・モーヴェイ・ウィップル 1813年)

まあこの1813年というのは、米英戦争で「コンスティチューション」が
HMS「ゲリエール」と戦い、これに勝利を収めて
その「オールド・アイアンサイズ」ぶりを称えられた次の年ですから、
これはアメリカ人にとっては願ってもない名誉ということだったのでしょう。

うがった見方をすれば、こういう水兵のいる船と、拉致されてきて仕方なく
そこにいる水兵の船とでは、戦いの結果も自ずと決まってくる気もしますね。



さて、そうやって栄光の「コンスティチューション」の乗員になれる、
ということが決まってから娑婆に別れを告げるわけですが、

二年間のお別れ

船の上というのは極限の狭さなんだ。
持ち込める手荷物はこのバッグひとつだけさ。
着るものを詰めたら、故郷を偲ぶものを入れる場所なんてほとんどない。
長い間家族や友人と別れて暮らすのに慰めになるものって、
何を持っていったらいいのかな?

彼のバッグの中にはパイプとトランプも見えています。



1812年、アフリカ系の水兵はいたのでしょうか?
それがいたんですよ。

「歴史家によると、船員の7〜12%が”色的にフリー”だった」

ってことなので(笑)黒人もいたということのようです。
しかも、船の上では彼らは取り立てて差別されることもなく、
同じところに寝起きし、白人のカウンターパートとして勤務していました。
ここの解説にも、

「海の上の仕事は、おそらく当時のアメリカで唯一、黒人に対しても
そのキャリアが尊重され、同等に給料も払われた仕事だった」

とあります。

この理由は明瞭で、沖にでれば完全に孤立する船という組織の中で
そういう人種によるヒエラルキーを作ることは、対立を生み、
最悪の場合反乱・謀反といった事態につながることが予想されたからです。

ここで予想されるのは白人船員たちの「不満」が出ることですが、
万が一それが事件化したとしても、せいぜい起こり得るのは下へのリンチで、
特権階級である士官への造反につながりにくかったからに違いありません。

一貫して海軍でのアフリカ系アメリカ人の扱いが他と比べて公平だったのも、
遡ってみればこのころからの伝統だったということができましょう。



天測儀と望遠鏡、そして・・・聖書?



左の士官はこれを用いて天測を行っています。

”数学が好きでよかった!”

僕が艦上で学ぶことはコンスティチューションの艦位を
調べることになるだろう。
しかし全く陸地が見えない状態でどうやってそれを知るのかな?
そう、毎日正午にミシップマンはこのセクスタント(六分儀)で
太陽の位置が水平線からどのくらいあるか調べるんだ。
そのあと、計算台でその数字から現在位を割り出すのさ。

これを行うとき、いつも期待することがある。
水平線上にテレスコープで敵の帆を見つけて、栄光の頂点を極めることさ!

六分儀はゲドニー・キングとその息子によって発明されました。

そして右のイケメンのミシップマンが何を言っているかというと・・・

”他より一段上さ!” A CUT ABOVE REST

「僕の軍服は最新の規定にしたがってカットされたもので、
仕立て屋によってぴったりに作られているんだ。
士官候補生としての新しい生活における最初の贅沢さ。
どう贅沢って、何しろ給料の5ヶ月分だからね!」


ちなみに「a cut above rest」(他より優れている)の「カット」と
洋服の仕立ての「カット」をかけているんですね。誰うま。



船の中ではこんなところで寝ていましたの巻。

高さが三様ですが、これは実際にここで寝心地を試すために
小さい子供でも一人で上がることができるようになっているのです。

「あなたが1812年の水兵でなかったら、ここで4時間以上寝られますか?」

などという挑発的な文句が書いてあります。
試しませんでしたが、よっぽどひどい寝心地なのでしょう。
でも帝国海軍の水兵さんたちは普通にハンモックで寝てましたが。



こちら基本ブラック職場だったイギリス軍の水兵さん。

「ハンモックで寝られるか?

俺たちみたいな水兵はハンモックで寝るんだ。
暗くて激混みで狭く、時々潮を被るような場所に
互い違いに床を吊るしてね。
睡眠時間は4時間で、万が一寝過ごしたらハンモックのロープを
いきなり外されて叩き起こされるんだ」

それはひどい・・・。
やっぱりイギリス海軍の方が待遇悪いみたいです。

それにしてもハンモックって劣悪な待遇の象徴みたいに言われてますが、
帝国海軍の水兵さんたちは(略)



さて、続いては食生活。
ここには食べ物の模型をてにとって、1日の食事を
再現する学習をすることができます。



こちらを参考にね。


月 パン400g 酒半パイント 肉450g 豆半パイント

週一回モラセス(甘味)酢、チーズ、バター。
単位が1日、というところに注目してください。
しかし、冷蔵庫のない時代、どうやって食べ物を保存していたのでしょう。
十分過酷と思われるアメリカ海軍の食事ですが、それでは
イギリス海軍ではどうだったかというと、 主食はカンパンと塩漬けの肉と
チーズといった風でこのあたりはアメリカ海軍と同じです。


 

木の船なので船底はいつも湿気の多い状態ゆえ、食べ物にはすぐに
コクゾウムシが涌いてしまい、食べ物に付きました。
大量のコクゾウムシが立てる音はいつも聞こえており、
カンパンは虫だらけですぐにボロボロに崩れてしまいます。

腐らないように大量の塩につけておいた肉もすぐにウジが湧きました。
肉の代わりに生魚を置いておき、そちらにウジがたかったら肉を出す、
という方法で少しでも防ごうとしましたがあまり効果はありませんでした。

また湿気のこもった船倉ではチーズもすぐに腐ってウジが湧きます。
たくさんの蛆が涌くと、まるでチーズに足が生えて
浮き上がって動いているように見えたといわれています。
(しかもそれを食べるんだ・・・・)

しかしこんな食生活であっても水兵のなり手はある程度いました。
足りない分はさらってきましたが、全部が全部というわけではなかったのです。 

なぜなら、こんな食事でも当時の農民の貧困層からしたら、
質はともかく、まだまだ量的にたくさん食べることができたからです。



えー、今まで話してきたのはイギリス海軍での食事事情ですが、おそらく
アメリカだって冷蔵庫があったわけではないから、きっと
これと大差なかったと思うんですよ。

水兵の身分は肌の色を問わず公平であったわけですが、
そのかわり、水兵と士官たちの身分には天と地くらいの違いがありました。
このあたりも海軍での士官とその他の身分の違いに受け継がれているようですね。

で、これが士官室での食事を再現したもの。



まあはっきりいって大したものを食べていないのは今と一緒ですが(笑)
テーブルにシルバーを並べ、ワインとともに食事をするという具合に、
やはり水兵とは全く違う待遇だったわけです。



さて、これが実際の「コンスティチューション」の士官が食事をした場所。
まるで民家のダイニングテーブルですが
後になってから備えられたもので当時のではありません。 



一人分のベッドがありました。
艦尾のこの部屋はおそらく艦長の寝室だったのでしょう。



昔はろうそく立てだったに違いないランプ。
壁に掛けてあるのも天測儀・・・・・・?



さて、ここでとっておきの情報を。
コンスティチューション博物館の洗面所にいったところ、壁にこのような
蘊蓄話が貼ってありました。

コンスティチューションでトイレはどうしていたのか?

構造上海にすることなど不可能だし・・・・と思っていたら、
やはり専用のスペースが艦首部分に置かれていたようです。

この部分だとまっすぐ下が海なので、落下させられたんですね。
現在でも海軍ではbathroomのことを"head"と称しますが、
むかしここにあったことが由来です。
この絵の下にはこんなことが書いてありました。

「考えてみてください。
座った時に下から飛沫がこないなんて。
ここが博物館でよかったって思いませんか?」

ええ思いますとも。



博物館は観覧料無料ですが、入り口に人がいて、
寄付金を払わねば入りにくい空気を色濃く作り出しております。
そこで皆、いくつもあるアクリルの募金箱に10ドルくらいを入れるのですが、
その下に犬がいるのにわたしは最初に気づきました。



と思ったら二階にもいたよ。(床には犬の足跡付き)
マークによるとこれはイギリス海軍のの犬。

「ドッグワッチといっても僕を見ていることじゃないよ。
海軍で16時から20時までのあいだの見張りのことなんだ。
この時間は二つに分けられ(ツーハーフワッチ)、
「ファーストドッグ」は16:00〜18:00、
「ラストドッグ」は18:00〜20:00。
これらの時間は通常の見張り時間の半分なんだ。

この変則シフトが存在する理由は、順番に見張りをローテーションするときに
ここを二つに分けることでシフトが奇数になるからと言われています。
また、どちらのシフトの者も、食事を夕方に食べることができます、

また、わんちゃんこうも言ってますよ。

「僕はみながこの勤務を気に入ってるってこと知ってるよ。
なぜならこれで毎日同じ時間に見張りすることを避けられるから」


むむう、この犬・・・・・何者。


続く。


 


ナショナル・シップ〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

$
0
0

アメリカのナショナルシップ、「コンスティチューション」の話も
そろそろ終わりに近づいてきました。

昔、人類初のスペースシャトルは「コンスティチューション 」
と名付けられる予定だったのに、アメリカ人たちが

「そんな名前より、テレビドラマ”スタートレック”の宇宙船である
”エンタープライズ”がええ」

と騒いでそうなってしまったということを話したことがありますが、
これ、どうしてこんな圧力に負けちゃったかね。
「国の船」であるこの船の名前をつける方が、ずっとアメリカの事業として
格調らしきものが保たれたのに・・・。



さて、それではこのネイビーシップヤードのいたるところにある、
「コンスティチューション」にまつわる資料写真を紹介していきます。



まず、1851年にドック入りしている「コンスティチューション」。
1850年代はアフリカ沿岸を奴隷貿易船を探して警戒航海し、
南北戦争の間は海軍士官候補生の訓練艦となっていました。



1927年、チャールズタウンネイビーシップヤードにて。

「コンスティチューション」の修理が始まるところです。
前回も説明しましたが、1905年に2度目の解体の危機を逃れ、
その後ずっとどこかに係留されたまま放置されていた状態なので、
白黒写真でも明らかなくらい船体が傷んでいるのがわかります。

1917年には、巡洋戦艦「コンスティチューション」を建造する
計画が立ち上がったので、こちらの名前は

「オールド・コンスティチューション」

に変えられましたが、軍縮条約でその案が潰えたため、
8年後、彼女の名は1925年に元どおりにされました。


この写真によると、修復工事はそれから2年後に始まったようです。



1928年の写真です。
木材の切り出しがすべて手で行われています。



こちらは1963年の写真。
マストの切り出しは電動鋸で行われています。

この時期に「コンスティチューション」が修復をしたという記録はなく、
1973年に大々的な修復が行われたとあります。



そしてこれが1992年に行われている修復の様子。
船殻の外壁を支えるつっかえ棒を設置しているところでしょうね。

この時の修復には進歩した科学の恩恵が大いに寄与しています。
一例ですが、内部構造が腐食しているかどうかを、
超音波による検査で調べ、対処したというように。

このスキャンによって使用に耐えない部分だけを取り替える措置が取られました。


44ヶ月かけた大修復によって、彼女は帆走が可能になり、
1997年には、生誕200周年を祝って記念的な航行が行われました。
最後に航行してから実に117年ぶりでした。



ブルーエンジェルスの祝賀飛行を受ける「コンスティチューション」。
彼女は風速約12ノット (22 km/h)の風を受けて自力で40分間南南東に帆走し、
最高速度は6.5ノット (12km/h)にまで達したということです。



いきなり時間が思いっきり巻き戻りますが、ドックの脇にあった
説明板に、昔ドックがなかったころの船の修理法であった
「ヒービング」をしている絵がありました。

船を倒しておくのに、いちおう機械を使ったんですね。
しかしこんなことをしたら船の中に海水が入ると思うがどうか。



「コンスティチューション博物館」館内の様子。
1階には売店とレクチャールーム、映像室、そして
「コンスティチューション」建造までの資料が展示されており、
二階には艦内生活と1812年の戦いについての資料が主に展示されています。



二階にも映像室があります。
ここでは数分間の「コンスティチューション」と「ゲリエール」の戦いを
当時の絵画などを映し出しながら、英米双方の乗組員のセリフに沿って
説明する内容となっています。



HMS「ゲリエール」は、「コンスティチューション」との戦いで
マストをすべて折られてしまったんですね。



スクリーンはこのような横長のカーブのある壁で、
この形状を効果的に使って戦闘の経緯を追っていく仕組みです。



前回この写真について説明しなかったのですが、これは展望鏡でしょうか。



ジョージ・シリアン(1818〜1891)はギリシャの生まれで、6歳の時に
オスマントルコの虐殺によって家族を失い孤児になりました。
母親が襲い来るオスマントルコ兵から彼を救うために船に乗せて
海に押し出したため、彼は助かり、アメリカ海軍によって救出されました。

当時の大統領、モンローの計らいで「コンスティチューション」の
キャビンボーイとなったシリアンは、その後正式に海軍軍人となります。
南北戦争が始まる頃には、彼は海軍兵学校の砲術科の教官として
大変尊敬を集めていました。

その技術的な専門知識と献身、リーダーシップは今日の海軍下士官の
インスピレーションモデルともなっており、「ジョージ・シリウス功労賞」という
下士官に与えられる賞にその名前をとどめています。



さてこれはだれでしょうか。



第7代アメリカ合衆国大統領、アンドリュー・ジャクソン。

なぜか、このジャクソンの全身をかたどった像を
「コンスティチューション」の艦首に取り付けることになったとき、
ボストン中の人はゾッとしたと言われています。

”この戦争においては、ジャクソン大佐は徹底的な大量虐殺を行った。
男も女も、子供であってもジャクソンは容赦せず皆殺しにした。
児童も含む約800名のクリーク族を殺し、
殺したインディアンの死体から鼻を削ぎとらせて戦利品とさせた。
インディアンの死体からは肉が剥ぎ取られ、それは細く切られ、
天日で干して彼らの軍馬の手綱として再利用された。
また、「女を生き残らせるとまた部族が増える」との考えから、
特に女(乳幼児、女児を含む)を徹底的に殺すよう全軍に命じた。
これらはすべてジャクソンの指揮によって行われたものである”

といった彼の悪行の噂がひろまっていたので、ボストンの人々は
この人物に好意的なものを感じてられなかったのかもしれません。


像の設置を決めたのは海軍工廠の責任者だったのですが、これには
不人気を挽回したいというジャクソンの政治的な下心から来た根回しがあり、
彼が米英戦争の英雄だったからという無茶な理屈をごり押しして、
この無粋な像を「コンスティチューション」につけてしまったのでした。



で、これなんですが、首の部分をのこぎりで切って、
下で待ち受けている人に渡してますね。

「コンスティチューション」に乗って戦ったわけでもない大統領の像など
艦首につけられて一番憤っていたのはほかでもない、船乗りたちでした。

この絵はその一人、地元の船の船長、28歳のサミュエル・デューイが
ある嵐の日に船外に漕ぎ出して、頭の部分をのこで切り落として、
友達(下にいる人)に渡しているところです。

その友達はアマチュア彫刻家だったので、この木片の部分から
石膏の鼻から上のジャクソンを作り、デューイあろうことかそれを
ワシントンのジャクソン自身に送りつけたというのです。

そこから先いろいろあって、ここにその頭が残っていると言うわけ。

Off With His Head




ハーバード大学1802年クラス卒の「コンスティチューション」の
従軍神父、ジェームズ・エバーレットの所有だったと思われる
「コンスティチューション、クラス・オブ1802」と記されたマデラ酒。
大学同期の飲み会のために作られた名前入りのお酒だったようです。

まだ中には酒が入っているらしく、アクリルガラスの中のボトルは
盗難防止用のセンサーがつけられています。




「戦争の人的被害」と題されたコーナーにあったこの絵は、

「トッテンハム・コート街の老いた准将」

と題されたもので、軍艦に乗り込み、脚を失って、
今では路上で物乞いをするしかない元軍人の姿を描いています。

1812年の戦いで勝利を収めましたが、「コンスティチューション」乗員は
9名が死亡し、27名が重傷を負いました。
乗り込んだ医官は、鋸やナイフで手足を切り落とし同僚の命を救う、
そんな時代でした。



イギリス軍の砲撃を受け、水兵、リチャード・ダンの脚は粉砕されました。
医官は彼の脚をひざ下から切り落とし、義足生活となりましたが、
彼はその後も海軍を辞めることなく、二本足の船員と同じ仕事をこなしたそうです。



右のメダルは、戦死したジョン・アイウィン中尉の戦功を讃えるメダル。
ただしそれが家族に授与されたのは、死後7年経ってからでした。


左は、戦友の死んだ時の様子を彼の弟に知らせるために書かれた手紙。
ブッシュというこの中尉の子孫は、その後第二次世界大戦に出征したとき、
この手紙を軍服のポケットにお守りのように入れていたということです。



真正面から撮らなかったので一部しか見えていませんが、上は
「ゲリエール」の水兵の顎の骨。
戦闘から2週間後、医官は彼の顎を切り取らざるを得なかった、とあります。

下の大腿骨は、「コンスティチューション」水兵の脚だったもの。
戦闘から8ヶ月も経った後に手術で切断されたものです。





わたしが最初に「コンスティチューション」という帆船が海軍の現役艦であり、
海軍軍人の乗組員が乗務していると聞いた時の驚きは大変なものでした。

我が日本で例えて言えば、咸臨丸が海自の現役艦で、2佐が
艦長を務めているようなもので、イベントの際にはその艦長始め
乗組員全員が勝海舟とその船員のコスプレ(プレイじゃない)
をするようなものです。

博物館館内には、2015年冬現在の乗組員の写真が飾ってありました。
HPを見れば、修復中の今現在の乗組員の写真もみられます。

さて、そこで、この写真を見る限り普通に女性軍人が乗り組んでいるわけですが、



最初に女性士官が「コンスティチューション」の乗組員になったのは
1996年のことでした。
この軍服は、「コンスティチューション」勤務に必要不可欠な、
1812年当時の士官のスタイルで、実際に当時のものですが、
このスタイルの軍服を女性が着たのも
彼女、クレール・V・ブルーム少佐が初めてだったのです。

ガラスケースの中にショルダーバッグがありますね。
もちろん1813年当時にはこんなものを誰も使っていませんでしたが、
彼女は

「女性だからいろいろ持って歩きたいものもあるのに、
この制服はあまりにもポケットが少ないから」

という理由で、靴と合わせたデザインのバッグを持っていました。

「女性はバッグがないとだめなのよ。
たとえ1813年のスタイルをしている時でもね」



売店には様々な「コンスティチューション」グッズだけでなく、
なぜかコーストガードの飛行機模型もあったりします。



最後に、現在の「コンスティチューション」内部の写真を。
これはなんでしょうか。
全く想像がつかないのですが、もしかしたらストーブ?



そして、乗員がいつでも目を洗うことができる機械が
わざわざ備え付けてあるのが印象的でした。
イージス艦には全く必要のない設備ですね。








というわけで、長らく語ってきた「コンスティチューション」。
アメリカの船であり、それにまつわる歴史を調べることで、
また少しだけアメリカ海軍について詳しくなったような気がします。

終わり。



 

龍崎先生の殉職〜横須賀歴史ウォーク

$
0
0

もう去年の夏前のことなので自分でも記憶が薄れているくらいですが、
横須賀市の観光協会のようなところがボランティアのガイドによる
歴史ツァーを行なっておりまして、わたしはコースに含まれている

「料亭小松」

という言葉に激しく反応し、参加をしたということがありました。
わたしがこのツァーに参加し、それについて調べているまさにそのときに、
料亭小松は不審火によって全焼してしまったというショッキングな
結末?を迎えたという話を覚えておられる方もおられるでしょうか。

ツァーについて、その後一つだけアップしていない記事があったので、
今更、という気もしますがお話しておきたいと思います。

まずはお昼休憩をした横須賀自然博物館と文化会館の周辺から。



横須賀文化会館の正面に立つブロンズの日本にしては巨大な像。

「この感じ、どこかでみたような気がしませんか」

ガイドに言われてもはて、と皆が首をかしげるだけだったのですが、
これは長崎の平和祈念像の作者でもある北村西望(せいぼう)の作品なのだそうです。

そう思ってみるとそう見えないこともないけど・・・って感じですね。
長崎の像にもあのポーズにはいちいち意味があるそうなので、
(垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、
横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命を表し
軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている)
この自由の女神にもそのポーズに何か意味があるのかもしれません。



ちなみにこの女神、アップにすると口を開けており、
いかにも何か雄叫びをあげている風です。

この像隣には説明のためにわざわざ立派な黒曜石の碑があり、それによると

● この像は西村西望先生の作で名作である
● 昭和52年市制施行施行70周年祈念に所有者が寄付した
● 台座は広島産の御影石で30トンである

ということですが、自由の女神そのものについては全く書かれていませんでした。
長崎の祈念像ですら税金の無駄遣いだといってわーわー騒ぐ人がいたくらいなので、
きっとこれにも文句をつける人がいたかもしれません。

まあ、中央公園の核兵器廃絶の碑なんかよりはまともな使い道だと思いますが。



次に歩いて到着したのは通称「赤門」。
ここは、先日訪れた旧横須賀鎮守府、田戸台庁舎の近くです。
鎮守府の見学の帰りに写真を撮った古いつくりの八百屋を右手に見ながら
京急のガードを一旦くぐってもういちどガード手前に戻ったところにあります。

赤門の由来はこの門が昔はもっと鮮やかな朱色で塗られていたからです。
それにしても、こういった文化財(ぽいもの)の前に民家風のフェンスはいったい・・・。
と思って調べてみたら、この門に変える前にもブロック塀の上に金網を立てた、
ごく普通の「当時の民家の塀」でした。

ここは代々永島家の家屋であり、今でもつまり「民家」なのです。

「自由の女神」設置の市制70周年のとき、この古くから伝わる
(江戸時代に作られたと言われる)民家の門が横須賀市の
「風物百選」に選ばれたので、ローカルツァーにも組み込まれているんですね。

今でもこの後ろ側には永島家の子孫が住んでいて、ガイドさん(自称後期高齢者)は

「ここの人が幼稚園の先生で私の子供が教えてもらっていた」

というような話をしていました。
江戸時代にこういう門を作るだけのことはあって、永島家は名主であり、
浜代官であり、(このあたりは昔海岸だった)庄屋でもあったという地元の名家です。

こういう、門でありながら住居部分を持っている形式の建築を「長屋門」といいます。
昔の武家屋敷では、外郭に家来のための長屋があり、警備を兼ねてそこに住んでいました。
門の脇の格子の窓からは入る人をチェックしていたのかもしれません。

ちなみに、赤門そのものは江戸時代のものですが、その他の部分は
長年の間に幾度となく手が入れられているということでした。

冒頭の苔むした墓石などは、このあたりにあった供養塔や墓を
整地する時にまとめてここに祀ることにしたもののようです。
まだ比較的新しくはっきり刻字が読めるものもありますが、
経年の剥落により全くなんのためのものかわからなくなってしまったものも。



そこから少し歩いたところに、横須賀市立田戸小学校があります。
その校門の一角に、こんな石碑がありました。

「噫龍崎訓導の碑」

くんどう、を変換しても教師を表す「訓導」という漢字は出てきませんでした。
ガイドの人も、

「先生のことを”訓導”なんて言ったんですね」

などと全く聞いたこともないような口ぶりで言っていましたが、 
昔親の本棚にあった石坂洋次郎とか有島武郎とか、山本有三あたりの
昭和の学校ものを読んだことのあるわたしには珍しい言葉ではありません。

龍崎ヒサ先生は戦前、ここにあった田戸国民小学校の「訓導」でした。
昭和17年11月19日、4年の生徒202名が校外学習のために学校を出発したのですが、
龍崎先生の組が東京急行電鉄(今の京浜急行電鉄)の踏切にさしかかったとき、
右手のトンネル内から浦賀行きの下り電車が来たので一同はその通過を待ちました。

悲劇はその次の瞬間起こりました。
下電車が通過したあと、反対側の線路に上りの特急がやってきているのに
一人の生徒が飛び出して踏切を渡ろうとしたのです。

「危ない!」

先生は叫びながら線路に飛び込み、生徒をを向こう側に突き飛ばしましたが、
自分自身はやってきた上り電車に接触し、死亡しました。 

先生の殉職は大きく報じられ、その学校葬には、文部大臣をはじめとして、
神奈川県知事、横須賀市長、帝国教育会長、 神奈川県女子師範学校長、
横須賀教育会長、市会議長から追悼文が寄せられました。

中には横須賀鎮守府司令長官海軍大将古賀峯一からのものもあったそうです。
近隣を歩いて知りましたが、横須賀鎮守府とこの田戸国民学校、
そして事故現場となった線路は大変近いところにあります。

龍崎先生は享年30歳。
兄は陸軍士官学校を経て当時少尉として戦線にあり、母を前年度亡くしており、
さらに弟は病床にあったため、彼女が家の働き手であったということです。


「今の先生にも立派な方はおられるんでしょうけどね」

ガイドさんは彼女の殉職の様子を説明した後、こんな風に言いました。
かつて教師は「聖職」と呼ばれ、教師は矜持と使命感なしでは務まらない、
というのが一般的な認識だったのですが、確かにいまでは
先生が「聖職」なんて、なにやらタチの悪い冗談のような気すらしてきます。

確かに志の高い先生も世の中にはたくさんおられるでしょう。
誰だって夢と使命感を持って教師になるのですし、わたし自身、
ごくわずかですが、あの先生は人間的にも尊敬できた、
と思える先生に出会ったこともなかったわけではありません。

しかし、いざとなった時に身を呈して生徒の命を守るような行動が
とっさに取れる先生がどれだけいるかというと、
それは残念ながら限りなくゼロに近いのではないでしょうか。

わたしはこのことを嘆いたり非難するつもりで書いているのではありません。
龍崎先生が亡くなった昭和17年頃の、もっと言えば戦前の日本人と今の日本人は、
政治家から末端の庶民まで、全く人間の「質」というものが
違ってしまっているのではないか、そしてその原因とは、
「個」というものが「公」あってのことであるという考え方を
失うような戦後の価値観の変化に実は原因があるのではないか、
ということを龍崎先生の死から感じ、かすかに絶望しこそすれ・・。



龍崎先生は即死ではなく、その後病院に運ばれて夕方に亡くなったそうですが、
最後の瞬間までうわごとで救った児童の安否を案じていたそうです。



このあと、お龍さん終焉の地を案内してもらい、横須賀中央駅に向かって
最後のガイド地に向かう途中にあった小さな祠。
三浦帝釈天だそうです。

ガイドさんが、「この祠を立てるのに私費を投じた人がいて」
(だったかな)という説明をしたとき、一人の参加者が

「その人は県会議員にでも立候補するつもりだったの」

と揶揄するように聞きました。
このおじさんは何かとこういう目立つ「決め台詞」を言いたがる人で、砲台では

「B29が来ても一つも落とせなかったんだろう」

とバカにしたように言ったり、古い建物などを見ても

「これ、どこかから補助出ているの?出てない?じゃあダメだな。もう持たないね」

といってみたりって感じでした。
一味違う穿ったことを言っちゃう俺、ただ者じゃねーんだぜ?みたいな?
現役時代、会社ではさぞウザがられ・・・・おっと。



ごちゃごちゃと飲み屋が連なるところの隙間に、
「米浜」と台座にある日蓮上人霊場の碑がありました。
これももともとここにあったのを動かせずに、このようなところに設置した模様。



最後の見学地、諏訪神社に到着。この時午後2時です。
朝の9時半から、50分の休憩を挟んでずっと歩いていたことになります。

全国の諏訪神社というのは、信濃の国、長野県にある諏訪神社から
ご祭神を頂いてきて創建したものですが、ここもまた1573年に
「諏訪明神の御分霊を勧請す」と伝わっているそうです。
享和元(1801)年本殿・拝殿の造替があり、現在の社殿は大正12年造営のものです。



本殿脇の倉庫のような建物も、大正時代の建築なのかもしれません。



同行者がまたまた「小泉」という名前を見つけてきて
あの小泉家の親類だろうか、とかわいわいやっていました。

大正時代のご造営のときに寄進した名前が刻まれています。

「尾張屋」「大工 小林弥助」「八百秀」「理髪店 加地勇」

「待合 千代田」「待合 三河亭」・・・・・。

 ガイドは

「ほら、ここに待合もあるんですよ!」

とワケありげにいうのですが、どうもその口ぶりから、
「待合」というのを娼館かなにかと勘違いしているように見えました。

一言で待合といっても、政治家も出入りするような格式の高い店もあれば、
小待合、安待合と呼ばれ、連れ込み宿同様に使われる店もあり、
その格にも相当な違いがあった(wiki)わけですが、どうも最近の人たちは
待合を「下の方」だというようなイメージで捉えている人が多いようです。

格式ある待合・料亭は「一見さんお断り」が当然であったそうで、
まるで京都の店のような格を保っていましたが、少なくともこの時代
名前を刻むほど神社の造営に寄進するからには、よほど流行った、
しかも格式の高い方の待合であったことは確かだと思います。


余談ですが、海軍士官は海軍兵学校を卒業し少尉候補生となって
遠洋航海に出発する前、皇居遥拝や明治神宮参拝などの行事をこなすため
しばらくの間東京近辺に宿泊します。

関東にある候補生の実家に彼の仲のいい級友を泊めることが普通に行われ、
昼間の行事をこなせば夜は皆で連れ立って銀座などに繰り出したのだそうですが、
そのときに少尉候補生では禁じられている待合に行った、という話を
戦後に書かれた追想記で読んだことがあります。

海軍さんの隠語では待合のことを「チング」(待つ=ウェイチングから)
といったそうですが、このときも地方出身の候補生が

「かねてから(つまり卒業前から)約束していたチングに案内しろ」

と言い出し、皆でこわごわと「初めてのS(芸者)プレイ(遊び)」を
してみたものの、もし見つかったらえらいことになるので、(芸者さんと)泊まる、
と言い張る一人を引きずって連れて帰った、という話でした。

当時の海軍士官は、遊ぶならブラック(玄人)と一流のレス(料亭、レストラン)
でさっぱりと遊べ、ただし一人前になってから、と教育されていたので、
待合は待合でも怪しげな方に、しかも候補生がいるのが見つかったら大事だったのです。




横須賀界隈の飲み屋さんでは、ブランデーとジンジャーエールをミックスした
「横浜ブラジャー」という目眩のしそうな名前のドリンクをやたら推していて、
今やどこにいってもこれが飲めるそうですが、美味しいかどうかという以前に、
このネーミングセンスと、シンボルとなっている絵があまりに酷いと思います。

そこで焼きそばとご飯を化学調味料で味付けし、ソースでマゼマゼして食す
「そばめし」なる下品な食べものを、わたしの郷里神戸で広めようとする
動きが(知る人ぞ知る長田地区辺りに)あったのを思い出しました。

こんな志の低いもの勝手に神戸名物にするな!

と、わたしは神戸出身の一人として糾弾しこれを阻止しようとするものですが、
きっと横須賀にもこの飲み物推しを快く思っていない人もいるに違いありません。


 

ちなみに駅周辺の小道にはこのようなスナックとカバーとかが林立しており、
どれもこれも築年数の古そうな、地震に耐えられるのかと心配になるような
建物にギュウギュウという感じで立ち並んでしました。

その並びで発見した「赤レンガ」と「錨」という店の並びに何かを感じたので、
カメラに収めておきました。


これをもちまして、横須賀歴史ウォークシリーズ、思い出したように
最終回とさせていただきたく存じます。

またこのような企画があったら参加してみることにしましょう。

 


 

ショアラインパークのペリカン天国

$
0
0

西海岸はシリコンバレーに滞在している時、
スタンフォード・ディッシュとともにわたしが散歩コースにしているのが
マウンテンビューのショアラインパークです。

バードサンクチュアリという自然保護区に隣接している公園で、
広大な敷地には池とボートハウスがあり、さらにゴルフ場もあります。
ゴルフ場と公園は特に仕切られていないので、最初の年間違って
コースに入ってしまったということがありました。

わたしのお目当ては主にペリカンの生態を写真に撮ること。
まるで滑走路に滑り込むように川に着水するここのペリカンの姿を
少しでも綺麗に撮りたいと、先代のマウント式望遠レンズを
わざわざこのために持ってきたりしました。(結果は失敗)

その後望遠を純正のものに変え、いざ今年こそ、と来てみた去年の夏、
なんとペリカン滑走路は水不足でペリカンの頻繁な飛来は捉えられず。

今年も水不足は深刻で、なにしろ水がないため水辺の鳥であるサギが
山の中のスタンフォードディッシュに餌を求めてやってくるくらいですから
ここがその後どうなっているのか、恐々という気持ちで行ってみました。



ショアラインパークの近くにはグーグル本社があります。
この辺り一帯にグーグルの建物が散らばっているため、社員はこの
「グーグルカラー」の自転車であたりをうろうろしています。

この日ショアラインパークにグーグル社員が遊びに来ていたようでした。
もしかしたらポケモンGOをしに来ていたのかもしれません。



ここにもジリスが生息しています。
ここはディッシュトレイルと違い、木々が豊富なのであまり猛禽類が来ず、
蛇以外の天敵はいないのではないかと思われます。 



なんかこんなお菓子がありそうな・・・。
赤い丸が写っていますがなんだったのかわかりません。



太って立派なリスが口をもぐもぐさせているのでアップにしてみたら・・・、



口の端に何か咥えていました。



巣穴の周りで和んでいるリス家族。



「うわっ・・・・わたしの年収、低すぎ?」



喧嘩上等なリスは片耳に戦闘負傷あり。



巣穴の周りが一番落ち着くのか、顔だけ出してじっとしているリスを
ここではよく見かけます。
育った環境によって、同じリスでも全く行動や性質すら違って見えます。



全般的にショアラインのリスはディッシュトレイルよりおっとりしているというか。
彼らはディッシュトレイルのリスより人間を怖がります。



かなり遠く(50mくらい)を望遠で狙ってみました。
手持ちでしたが、わたしの腕でこれだけ撮れれば大したものだと思います。
(彼らが置物のようにじっとしていたので撮れたのですが)
Nikon1の望遠、優秀なんじゃないでしょうか。



池のほとりにある美味しいクロワッサンのあるカフェで朝食をとることがあります。
食べていると、パンくずのおこぼれを狙う鳥に取り囲まれます。

これはオスが黒いBrewer’s blackbird、照りムクドリもどきのメス。



バターたっぷりのクロワッサンのかけらなど、鳥は食べないほうがいいと思うのですが。

鳥「くれ」

ここには「エサやり禁止」の張り紙があります。



羽を広げると、その時だけ赤い模様が大きく見える鳥。
Red-winged Blackbird、ハゴロモガラスです。



鶯のような色をした鳥。
Orange crowen warbler、サメズアカアメリカムシクイという
あまり情緒的でない名前が付いています。 

 

グースは普通にいます。



飛ぶ時は傘型の編隊飛行をするグースですが、水上滑走の時には単縦陣。



カモメの幼鳥だと思う。

 

池の端の浅いところを餌場にしているサギは相変わらずです。
ここなら水不足で魚がいなくなることはないでしょう。
ここには大サギと小サギが3〜4羽生息しています。



こんな広いのに「縄張り」があるらしく、他のサギが来たら追っ払います。
大サギと小サギはバッティングしなければ共存できるようです。



鳴きながら威張って歩いていた大サギ。



おお、美しい。
まるで日本画にあるようなポーズを決めてくれた大サギ。
長い首はねじって収納?するんですね。



去年も見た川鵜がいました。
水の上に顔を出しているのは一瞬で、一旦潜ると水中をすごい速さで泳ぎ、
次には全く違うところに顔を出すので、写真が撮りにくい鳥です。



「鵜の目鷹の目」といいますが、それくらい鵜はハンターとして優秀。
鷹が上空から地上の小さな獲物を見逃さないように、鵜は水中で
驚くべき視力と素早い潜水を行って狩りを行います。

捕獲する際には時に1分以上、水深10m近くまで潜水することもあり、
1羽で1日500gの魚を食べるといいますから、起きている間はほぼ全部の時間
こうやって過ごしているみたいですね。

ところで、この写真で、鵜の羽がびっしょり濡れた感じがするでしょ?
ウ類の翼羽は油分が少なくあまり水をはじかないらしいです。

だから、狩りが終わったら、長時間同じ姿勢で濡れた翼を広げ、
小刻みに震わせ翼を乾かしているのだそうです。



池の周りを通り過ぎると、水辺の鳥の群生地が現れます。
ここはいつ来ても独特の「水辺くさい」臭があるのですが、
今年は特にそれがひどくなっているような気がしました。

 

それもそのはず、目に見えてわかるくらい、去年より水かさが減ってしまっています。



この一帯が全部干上がってしまっており、鳥たちは水のある部分に
全部の種類が移動してしまって、そのため一部が混雑しているのでした。



干上がっていない部分もおそらくは随分水深が浅くなったのでしょう。
それを計測する杭のうえにはアジサシが一羽。



それではペリカンの生息地はどうなっているのか・・。
うーん、確かに水の量は最初の年と比べると激減です。



しかしとりあえずはペリカンは生息できるくらいにはなっていました。
この写真は夕方来て撮ったもの。(5時くらい)
もうこの時間には就寝モードで、羽繕いに専念しています。



こちらは朝。
最初の年には1分おきに戻ってくるペリカンの着水が見られたのですが、
数も減ったせいか、それとも時間が遅く食事がもう終わっていたのか、
飛来してくるペリカンはずっと立っていても全くいませんでした。



ペリカンも水浴びをした後は岸で羽を乾かすようです。



ペリカンが飛んでこないので仕方なくカモメを撮っていたら・・・、



やっと一羽、飛んできました。



シャッタースピードは1/2000です。
画面の色が朝なのに黄色っぽいのは、ホワイトバランスをうっかりして
日陰モードにしたままで撮っていたからですorz



飛んでいるときのペリカンは邪魔なもの(くちばしの袋とか首とか)
をすっきりと収納して実に優雅な姿です。


 

よく見ると羽の先を一枚一枚エルロンのように動かしてコントロールしています。



さて、こちらペリカン生息地にいた小サギくん。
ここで水中の小さな生物を食べるようです。



何か見つけて走っている状態。
やっぱりそういうとき脚はいちいち水上に出すんですね。



夕方来たときに見たおそらく同一サギ。



ところで、飛来するペリカンは夕方にきても1羽もいなかったわけですが、
そのかわり、彼らの豪快な水浴びの姿はふんだんに撮れました。

ペリカンの水浴びは、その大きな翼をなんども水に打ちつけるように振り下ろし、
主に翼を洗うことが主目的のように見えます。



ペリカンの群生地に近づくと、この独特な水音が遠くから聞こえてきます。
それくらいこの水浴びの音は独特で、音も豪快なのです。



バタバタが終わって一仕事終えた風のペリカンさん。



その後はくちばしや首を使って丹念に羽をつくろいます。
くちばしでガジガジ噛むようにすることも。



水浴び正面から。
向こうではカモメも水浴び中。





ペリカンが翼を広げるとこんなに大きくなるのかと驚きます。



水を蹴って飛び立った瞬間。



シャッタースピードを上げて撮ると水浴びがこんな風に。



岸に上がると、羽を広げながら歩いて落ち着く場所を探します。



羽に赤いタグをつけているペリカンを遠目に発見しました。
やはり生態を研究するチームがあるようですね。



狭い地域に何種類もの鳥類が生息していますが、彼らも
なんとなくその中で住み分けをしているようです。

水不足の原因が何かわかりませんが、状況が一向に改善していないのは
異邦人であるわたしもこころが痛みました。
日本に帰ってきていきなり空港で大雨を見たとき、

「この雨をカリフォルニアに分けてあげたい・・」

と不条理なことを考えたものです。


 

さすがのアメリカ人も天候をどうにかすることはできないようですが、
とにかく来年はなんとか状況がましになっているのを祈るばかりです。

バーズサンクチュアリの鳥たちのためにも。


 

シャムロックはケネディ家の印〜駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」

$
0
0

バトルシップコーブについて説明したとき、この

「ジョセフ・P・ケネディJr.」

について少し触れたのですが、それをもう一度書いておきます。

JFKの兄、ジョセフはハーバード在学中に海軍パイロットに応募、
1942年に海軍予備少尉となって対潜哨戒任務に就いていましたが、
1944年に欧州戦線で極秘作戦に参加し、戦死しました。
そしてその1年後、彼の名前を付けられた駆逐艦が誕生しました。
それがこの「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」です。


ここで思うのが、ジョセフが事故死する2ヶ月前に、
弟のジョンはまだ同じようにハーバードを卒業して海軍におり、
前にここでもお話ししたPTボートの艇長として日本軍と戦い、
危ういところで生還するという経験をしていたことです。

弟が九死に一生を得たその2ヶ月後、父親が期待をかけていた
兄の方が死んでしまったという運命の不思議さ。

さらに不思議なのは、海軍がこの無名の予備士官の名前を駆逐艦に与えた時、
後の合衆国大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは
まだ政治家ですらなかったという事実です。

「ケネディ家の人々とケネディ」

という説明ボードには、まず左上のロバート(JFKの弟)が

「僕は海軍の幹部候補生学校を辞めてすぐ
レーダーマンとしてJPKに配置されたのさ」

1945年の12月15日にJPKは就役し、ロバートは海軍士官としての訓練を切り上げ、
2月1日からカリブ海への「シェイクダウン・クルーズ」、つまり慣らし航海に
見習いとして乗務を始めました。

5月1日には名誉除隊をしてメダルも授与されています。

青い星の中には、ケネディ夫人ジャッキーのことが書かれています。
次回詳しくお話ししますが、彼女は夫とともにJPKから
アメリカズカップを観戦し、また70年には息子のジョンと
娘のキャロラインを伴って乗艦しています。

キャロラインは先日日本での大使職を離任しましたが、
やはり民主党の大使だけあって、空気読まないリベラル的発言が
時として痛々しかったというように感じました。

本国アメリカでも、日本の大使になるには実力不足では?
という声が実のところ相次いでいたとか。

さて、そして最後にJFKが何を言っているかというと・・・、

「私はJPKをキューバに送って、ソ連に”ビジネスであることを”見せたのだ」

「ビジネス」の意味ががイマイチよくわからないのですが・・・。
1962年のキューバ危機において、米政府はキューバでのソ連の弾道ミサイル配置に対応し、
海上封鎖のため艦隊をカリブ海に配置しましたが、JPKはその任務に参加し、
ソ連がミサイルをキューバから撤去した後も、哨戒を続けています。

 

ついでに、ジャッキー夫人は、この時、

『もし事態が変化したら、私はキャロラインとジョンJRの手をつなぎ、
ホワイトハウスの南庭に行きます。
そして勇敢な兵士のようにそこに立ち、
全てのアメリカ人と同じく運命に立ち向かいます。』

と、大統領の家族だけが核シェルターに避難することを拒否したそうです。
男前だねえ。
しかし、これ本当にそうなっていたら、大統領の家族を差し置いて
自分たちが避難するわけにいかなくなったホワイトハウスの関係者に
かなり恨まれたかもしれませんね(笑) 

キューバ危機は脅しや北のしょぼいミサイル威嚇と違って、本当にそうなる
可能性がかなり高かったと言われていますから、彼女のこの発言は
それだけで評価されるべきだとわたしは個人的に思っています。 



さて、ここでアメリカ海軍の駆逐艦の命名基準についてお話ししておくと、
第二次世界大戦中、対潜哨戒、護衛任務のために大量に建造された
「ギアリング」型駆逐艦には、

戦死した海軍軍人の名前

が、彼らの栄誉を称えてつけられることになっていました。
ですから、DDの700番代から890番までの駆逐艦には
「ハロルド・J・エリソン」とか「フレッド・T・ベリー」とか、
あるいは個人ではなく海軍の家系を顕彰して、ファミリーネームだけの
「ストライブリング」「ヴォーゲルゲサング」なんてのがあります。

いずれも世界的には無名の戦死者ですが、つまり海軍はこの駆逐艦に
名を残すということを若い海軍軍人たちへの「戦死特典」?
として士気鼓舞に利用していたと思われます。


日本では、現在に至るまで人の名前は船につけないことになっています。
(『しらせ』は”そういう地名があるから”というウルトラ解釈による)
たとえば大戦末期に大量に建造された「松型駆逐艦」にはえらく苦労して
木の名前をつけていたわけですが、「松」「杉」といったメジャーな木は
あっというまになくなり、次第に小さな木になっていって最後には
「雑木林」と呼ばれていたことは、ここでも一度書いたことがあります。

最後にはもう同じ桜でも「若櫻」「山桜」などをひねり出し、
建造中止になったものの、「夏草」「秋草」「薄」「野菊」とその範囲は
野に咲く草に突入していったわけで、あと11隻名前を考えなければいけなかった
当時の海軍工廠の命名係は、終戦になってさぞホッとしたことであろう、
と前回も結びました。 

その点、アメリカ海軍の駆逐艦の命名基準であれば、
「付ける名前が枯渇する」ということだけはありません。
戦争が続く限りそれは無尽蔵に・・・・・。

そういう意味ではこの「ギアリング」型駆逐艦は日本の「松型」と似ていて、
戦争が終わったので途中で生産打ち止めになったというのも、
(156隻建造予定だったが96隻で打ち止め)一緒です。

ただしこちらは大量生産の割にはできがよかったようで、
終戦後は国内や西側諸国の他国の軍隊で運用され、
最後の型が退役したのがなんと2014年だったということです。
(これにはある事情があるのだけどそれはまたいずれ) 


ともかく、「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」もまた、そういう駆逐艦の
一つとしていわば機械的に?その名を付けられたにすぎず、
本来ならばその他と同じ「戦死者の名前をつけた船」として、
戦後は海外の海軍で余生を終えていたのかと思われます。

ところが、この戦死したジョセフ・ケネディの父という人が野心家で、
なんとしてでも自分の息子を政治家にする気満々だったため、
長男の死後は次男を政界に送り込むことにあらゆる手を打ち、
長男の名前をつけた駆逐艦も、次男のPTボートが撃沈され、
生還したことも全て、次男が政界にでるための宣伝に利用して頑張りました。

なにより本人も長男が生きていたときの劣等感を克服してその気になり、
その後あれよあれよと大統領にまで上り詰めてしまったのはご存知の通り。


「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」(以下「JPK」)と同時期に建造された
「ギアリング」型駆逐艦のうち、戦後標的艦にならなかったものは、
台湾やトルコ海軍などにほとんどが譲渡されていったのですが、
JPKはケネディが政治活動に入った頃から「特別扱い」されており、
(そうさせたのはもちろんケネディ父)現役を退いたあとも
他の船のような廃棄処分をされることもなく、展示艦となったわけです。 

バトルシップコーブの海上展示が一望できる場所。
手前にJPK、ライオンフィッシュ、そして向こうにマサチューセッツが。
ミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」はライオンフィッシュと
マサチューセッツに挟まれていて少し確認しにくいですが。

JPKを正面から見てみました。
艦首に揚がっているのは青字に白の艦首旗、信号旗は
おそらくJPKを表す固有の組み合わせであろうと思われます。 

これは最初にバトルシップコーブに来たとき。
右がJPKで、わたしはこのあと「マサチューセッツ」見学をしました。
前に海軍迷彩の軍人さんが歩いていたので後ろから撮らせてもらいました。

ここから入っていきます。
ラッタル右側には各地の都市の方向を示す矢印が。

後甲板に

「アーレイバーク提督国際駆逐艦乗り博物館」(直訳)

というお知らせがあったので、草鹿中将の話とか、海上自衛隊との
この提督とのつながりについて知っている日本人としてはすわ!と
盛り上がるも、博物館は現在改装中でした。
これを見るためだけにもう一度行きたいくらいです。 

その下の白い看板には

「ものを持ち去る、落書きをする、破損するなどの行為を
この船の上で行うことは犯罪として扱われますので、
そのような行為に対しては法律に照らして起訴します」

とバトルシップ・コーブの名前で書かれています。
誰も見ていないと思って、記念になりそうなものを持って帰るとか、
こっそりどこかに落書きするなどといった行為が
いままでないわけではなかった、ということでしょうか。

艦尾から国籍旗越しにながめる戦艦「マサチューセッツ」の図。
黄色いドラム缶は海に転がり落とせるようになっています。

キャプスタンに描かれたシャムロックの印。
これこそが「ケネディの印」なんだそうです。
JFKの曽祖父がアイルランドからの移民だったからで、
シャムロック(クローバーではない)はアイルランドの国花です。

映画「逃亡者」ではハリソン・フォードがセントパトリックデイの
行列に紛れて逃げるシーンがありましたが、あれは
聖人パトリックの命日の3月17日で、シャムロックの緑を身につけます。

ハロウィーン、最近ではブラックフライデーと、これまで
わけもなくあちらのイベントに便乗し続けてきた節操のない日本ですが、
さすがにこれだけは無理だろうと思っています。 いや思いたい。

ヘリコプターを搭載することができたのか?と少しびっくりしました。
そのわりには着地地点が狭すぎませんか?

実は、JPKが載せていたのはDASH(Dorone Anti Submarine Helicopter )、
対潜ドローンヘリでした。

これ。

ジャイロダイン社のQH-50というタイプで、このJPKのように
小さな駆逐艦上でも搭載し、潜水艦を攻撃することができました。

いまにしてびっくりしてしまうのですが、アメリカ海軍の対潜構想は

近距離=魚雷

中距離=ASROC

遠距離=DASH

というもので、遠距離に操縦して対潜攻撃を行うことのできる
無人兵器として、非常に大きな期待をかけていたようなのです。

操縦は複数チャンネルのアナログFMで行うため、 CICから操作するとき
まず「機体の位置がわからない」「高度もわからない」ことになり、
当然のことながら帰ってこない機体も多かったそうです。

アメリカでのDASHの運用は10年くらいで終了しました。

後部煙突と構造物の間にDASHの格納庫がありました。
写真を撮っていたときにはなにを載せていたか知らなかったので、
小さな格納庫だなあと思っていたんですよね。

ところで、わたしは全然知らなかったのですが、このDASH、
我が海上自衛隊でも運用していたらしいんです。
「たかつき」「みねぐも」型に搭載するために20機運用していて、
しかも現場では大変評価されていたとか。 

そのため、アメリカが運用をやめてから8年もの間、
部品の調達が難しくなるまでずっと使っていたということです。

日本人にはこの操縦や運用が肌に合っていたのかもしれません。

JPKの主砲はMk12、5インチ砲。
大型艦には対空砲として、小型艦には主砲として搭載された艦載砲です。

主砲の前に取ってつけたような電話ボックスみたいのがありますが、
これは昔ハッチだったところに展示艦となってから入口をつけたのでしょう。

艦番号である850がペイントされています。

わたしはこのペイントは基本的に航空機が着陸の認識につかうもの、
と思っていたわけですが、無人機を着陸させるのに番号の必要があるのか?
とふと思いました。
(とはいえ、おっちょこちょいのヘリが間違って降りるのを防ぐことはできる) 

あと、850のうえに麻呂の眉毛みたいな丸二つがあるのですが、
これはなんでしょうか。

無人機である DASHが見分けるためのポイントだった、に2シャムロック。

 

 

続く。

 

 

  

防衛団体総会と靖国神社参拝

$
0
0

いくつも防衛団体に名前を連ねているわたしに、今年もまた
新年の賀詞交換会出席の機会が来ましたので、参加して来ました。

いきなり関係ない写真ですが、皆さん、お堀前のパレスホテル、行ったことあります?
年明けてすぐ、近くで用事があったのでここのカフェに行って見ました。


なんと、お堀端にウォーターフロントの(笑)カフェがありまして、
こんな風景を見ながら外でお茶ができるようになっておりました。

その昔「宮様も外人様もお越しになるホテル」がキャッチフレーズだった
パレスホテル、改装してかつてのオーセンティックな雰囲気はそのままに、
洗練されたインテリアと地の利を生かしてすっかりオッシャレーになっております。 

蒸し野菜も、ストウブの鍋で直出しすることでボリュームたっぷりに(見えます)。

そういえば今年は酉年でしたね。

お堀端の松の木からしょっちゅうスズメがやってくるカフェ。
可愛いけど落し物をしていくので、カフェのテーブルには

「僕たちに餌をやらないでください」

と鳥が言っている絵が置いてありました。
でもパンくずとか落とすと来ちゃうんだよ・・。

わたしは別にわざとやってませんよ?

さて、というわけで本題、市ヶ谷の某ホテルで行われた賀詞交換会、
例によって政治家の先生方が壇上に上がって1分以内の挨拶中。

こういう会合には、とりあえず国会議員は手当たり次第に呼ぶらしく、
出席名簿を見る限り28名が招待されていましたが、本人の出席はいつも
だいたいこんなものです。

佐藤正久議員は皆勤なのですが、この日は姿は見ませんでした、
 

今年は民進党の最後の良心(笑)とも世間では言われているかもしれない、
長島昭久先生が出席です。
この団体の総会には必ず民進党からあのクイズ王小西が招待されるのですが、
なぜかご本人がご来臨されたことはありません。

衆参議員28名のうち民進党の招待者は5名。
(青柳陽一郎、大野元裕、中西哲、長島、小西)

ほとんどが自民で、安全保障法案成立前は、こういった会合でもその経過が
議員の口から語られ、

「必ず成立を!」

などと皆に約束するような場所ですから、招待されたからといって、
白い目で見られかねないこの場におめおめと出てくることは、
長島議員のように改憲についてもその手意見をしっかりと持ち、
(会報誌で長島議員の改憲についての論文を読んだことがある)
自分は保守であると冗談抜きで(笑)言えるような信念がない限り 
メンタル的にも無理ではないかという気がします。

 

まあ、もっとも、去年、小川とかいう民進党のブーメラン議員が

「民主党(当時)だからといって国を思う気持ちに変わりはありません」

と自虐ギャグをかまして笑われていましたし、田中真紀夫も
落選前の最後の姿を見せて来れていましたから、
(わたしはこの人、いい人なんだろうなーと思いました。
政治家には向いていないけど) 
あまりこだわらずに出てくる議員もいないわけではないようですが。 

 

この日は欠席でしたが、ヒゲの隊長佐藤議員や、宇土議員と並んで、
クイズ王が談笑しているところなどを一度見てみたいものです。

自民の山田宏議員。

後ろ、宇都隆史議員。
珍しく奥様とお二人での出席でした。

貼りついたような笑顔がトレードマーク、公明党の防衛大臣政務官、
石川博崇先生。(つい先生付け)
 

寺田稔先生。
両手で相手の握手に答えに行くのは政治家の基本スタイル。 

今回初めてご挨拶させていただいた岡部俊彦陸幕長。
今wikiで見たら、ヘアスタイルが今と違っていました。

空挺レンジャー出身で初級幹部の時に日航機墜落事故の災害派遣で
現場を指揮したという経歴をお持ちです。 

「わたし、帽子をかぶると10歳若返るんです」

 

今回、新しく海幕長になられた村川豊氏にご挨拶したかったのですが、
お忙しかったようで乾杯の後すぐに退席してしまわれました。

その時に、わたしは去年の総会ですでに村川さんにご挨拶していたのみならず、
一緒に写真まで撮っていただいていたことに気がついたのでした。
村川海幕長は経理補給出身で、海幕長に後方支援の職種出身者が就任するのは
海自の創設以来初めて・・・というか、帝国海軍が始まって以来ですよね。 

この人事について、海自内部でも色々とあったらしい、ということを
わたしは風の噂に聞きましたが、まあ前例のないことであれば
保守と革新の意見が同時に湧き上がるのは当然のこと。

それより、わたしが少し気になったのは、いつもは自衛隊の将人事など
取り上げない毎日新聞などが、「後方支援出身が海幕長」という言葉を
大きく見出しに持ってきていたことです。

防衛省ではアメリカとの二国間における後方支援の協定を公開していて、
そのガイドラインは誰でも目を通すことができるのですが、
まず支援物資には武器弾薬は含まれない、とされています。

そこで共産党始め野党は自衛のために武装することも、
兵站もまた戦闘である、という解釈から後方支援そのものが違憲である、
としてこれを否定するわけです。

そこでメディアとしては、この否定派に向かって、

「自衛隊は後方支援から始める戦争の準備のために村川海将をトップにした」

とミスリードしてその意見を後押ししているように思いました。
 

 

 

会合のあとは、団体で靖国神社での昇殿参拝を行いました。
毎年昇殿参拝の時には待合室の段階から宮司が出てこられ、
お話を伺うことに決まっています。

今回の昇殿参拝はもう一つ別の団体と一緒に行われましたが、
伺ったところ金沢にある神社の権禰宜を筆頭に職員が全員、
研修のような形で参拝に来られたということでした。
さすが全員が神職というだけあって、昇殿した後の立ち居振る舞いが
一般人とはまるで違っていました。

二礼二拍手一礼は正座のままで行うのが本職のやり方のようです。

参拝が終わると渡り廊下で神殿を臨みつつお神酒をいただくのですが、
今回はその時にも宮司のお話がうかがえました。

その時に、手前にある拝殿はずっと後にできたけれど、本殿の創建は
明治5年に遡り、それからずっとここにある、と聞いて、
わたしは古い歴史のある建物を前にするといつも覚える、
それから今日までの時の流れを瞬時に見る感覚がまた訪れるのを感じました。

 

この時宮司はこのようなことをおっしゃいました。

「このようなことを言うのは贅沢というものかもしれませんが、
初詣にあまりにたくさんの方々が参拝に来られるのを見ると、
私どもとしては実に複雑な気持ちになるのです」 

靖国の御祭神は国のために命を捧げた方々である。
ここに来ればその方々たちの尊い御霊に思いを馳せ、
その安寧と彼らが命をかけて守ろうとした国体というものを
これからもそのご遺志の元に平和に存続して行くことをお誓いするのが
参拝の本領というものであり、新年の初詣で商売繁盛や
子孫繁栄など個人的なお願いをするのは少し違うのではないか、
ということは、わたしも常々考えてはおりました。

だから、我が家の新年の初詣はいつも「二段構え」で、
金王神社や金刀比羅神社と靖国を「掛け持ち」します。

 

以前ここのコメント欄で話題になった御霊祭りでのトラブルについて、
わたしはこの機会に宮司に伺って見ました。

「御霊祭りというのは東京の夏のお祭りでは最大級と言えるものなんですよ。
参加者も多いわけですが、今の若い人は携帯で連絡を取り合って
境内に駆けつけ、そして・・・・ナンパをするんです」

(宮司ははっきり”ナンパ”といった)

「それで露店を中止にされたんですか」

「それもありますが、今参道を皆が集えるような広場に作り変えているので、
その部分に仮設の塀を作ってしまっているのです」

 

なるほど・・・。
いろんな点で世界中からの注目を受けるという意味では日本一有名な神社には
こんな「悩み」があったのですね。

わたしは崇敬会で行われた識者の講話を何度か聞き、
その過程で靖国神社の成り立ちからその歴史、存在意義に至るまで
一通りは勉強してきたつもりですが、そういう基本を抑えることなく、
一般の神社と同じようなお願い事をするつもりでやってくる善男善女を
靖国神社としてはありがたいことだと思いつつ複雑な思いで受け止めていると・・・。


この「内側からの告白」の意外さにわたしは思わずたじろぎました。

祈りの場であることはもちろん、英霊に感謝を捧げる場所であることが
蔑ろにされていると神社側では捉えられているということでしょうか。


伊勢神宮の神々は決して私利私欲を叶えるための祈りを聞き届けることはない、
というのは案外知られていない事実です。
伊勢神宮の「達人」に聞いたところ、そのような祈りを捧げる者には
逆に神罰が与えられることもあるというくらい厳格なものだということです。

靖国の祭神がそのような手厳しい罰を参拝者に与えるとは思えないのですが・・。

 

しかし、実際に新年に詣でる人びとの波の中に身を置いたわたしは
いかに晴れ着に身を包んでいようと、華やかな新春の空気の中であろうと、
本殿の鏡の前に身を置き瞑目した者の英霊への畏れと崇敬、感謝の気持ちは、
決して損なわれることがないものであるとどこかで感じています。

我々が享受しているのはこの社におわす神々の思いを礎に成り立った平和と繁栄。

日々の暮らしの中でもそのことに思いを致す瞬間があるからこそ、
我々はここにやってきて御霊に手を合わせるのであって、日本人であれば
その祈りの本質を時と場合によって曲げることは決してしない筈だと信じるからです。 

たとえその感謝のついでにちょこっと虫のいい「お願い」をするとしても(笑) 


 

 

 

彗星、桜花そして回天〜靖国神社遊就館展示

$
0
0

防衛団体で靖国神社の昇殿参拝をした後、遊就館を見学しました。
いつも昇殿参拝にはセットとして遊就館見学がついてくるのですが、
崇敬奉賛会の会員の特典としていつでも無料で入れるということもあり、
団体の皆さまとご一緒させていただいたのは初めてです。

何度も来ているので、わたしはいつも遊就館見学では
前回の見学から今回までの間にこのブログ製作を通じて深まった知識を
ここで改めて確認するというような見方をします。
展示を通り過ぎながら見ていき、ピンと来たところで立ち止まり
そこだけじっくり資料を眺める、という感じ。

でないと、あまりに展示が膨大すぎて、最初しか見ることはできなくなります。

 

さて、遊就館内部は基本撮影禁止となっていますが、最後の展示だけは
写真が許可されていたので、今日はそれをご紹介します。

遊就館の回廊展示を全部見終わって人々が最後に足を踏み入れるのは
高い天井には明かりとりの窓を設けた大展示室です。


まず入ってすぐ鎮座するのは

艦上爆撃機「彗星」。

中部太平洋西カロリン諸島ヤップ島のジャングルで発見され、
昭和56年にここに展示されてからもはや35年が経過しているので、
経年劣化が激しく、今年は修復作業に入るそうです。

6月の19日から25日まで、現場で機体を動かさず作業するそうですが、
平常の営業日にもかかるので、マニアな人はこの時に行くかも(笑) 

戦後何十年もジャングルの中に放置してあった3機の彗星の部品を継ぎ合せ、
1機にして不足部分は手作りで補っているということが他サイトでわかりました。
錆を落とし歪みのその上からペンキを塗っているので機体表面はボコボコしています。



アツタ(熱田)21型発動機。

ドイツのダイムラー・ベンツで開発・製造されたDB 600とDB 601エンジンを、
大日本帝国海軍の指示で愛知航空機がライセンス生産した航空機用エンジン。

ボコボコの彗星とこのエンジンを見て、

「作りが雑だ!∴ 武器も満足に作れない日本人は戦争に向いていない」

とそれなんて三段論法?みたいな結論を出しているサイトを検索の段階で発見しましたが、
どちらについてもその来歴を調べてから言って欲しかったかな。 

昭和20年1月、Bー29爆撃機とP-51護衛戦闘機の編隊が本土を空襲しました。

常陸教導飛行団の小林雄一軍曹及び鯉淵夏夫兵長は、「屠龍」でこれを迎撃、
体当たり攻撃を敢行して散華しました。

本土防空

機体の部分は、51年経った平成20年に千葉県八千代から発掘されたものです。 
小林少尉(戦死後)のご遺骨もそのとき初めて見つかりました。 

これも本土決戦における邀撃で戦死した命の愛機だったものです。

昭和20年4月、米軍爆撃機の編隊に五式戦で邀撃に上がった陸軍曹長平馬康雄は、
撃墜された乗機が埼玉県新方村の水田の泥中深く埋没して戦死。
その機体は長年放置されて来ましたが、27年後の昭和47年2月、
この場から機体の一部とご遺骨がご遺骨が発掘され機体の部品はここに展示されています。

機体の搭乗者が明らかになったのは、遺品にはっきりと
名前が残っていたからであろうと思われます。

ご遺骨が身につけていた右側の姓名入り被服は、27年の長きにわたり
水田の底10メートル地点に眠っていたにもかかわらず、
不思議なくらい鮮やかにその主の名前を留めています。

左は、縛帯(ばくたい)つまりシートベルトの一部。 

平馬機のプロペラ。
先が折れ曲り、衝撃のすごさを物語ります。 

平馬曹長についての詳細はこちら

 

ロケット式推進機「桜花」模型。

専門に開発され実用化された航空特攻兵器としては世界唯一の存在と言われ、
開発者の三木忠直氏は戦後

「日本の技術者全体の名誉の為にも、
桜花は我が技術史から抹殺されるべきである」

として桜花について語ることを拒んだこともありました。
ただ、実際にこの飛行機に乗ることになった要員や開発者本人はじめ、
我々日本人が自虐的にこの兵器の性能をただ貶める傾向にあるのに対し、
米軍が一定の脅威を感じていたことは間違いありません。

ちなみに「桜花」の戦果は、真っ二つになり轟沈した
駆逐艦「マナート・エーベル」 DD-733
を含む軍艦7隻(1隻撃沈 2隻大破除籍 1隻大破 3隻損傷)、
戦死者149名、負傷者197名 というものでした。

この数字以外にも米側の記録に残らない民間船を撃沈したという日本側の記録もあります。

これに対し、日本側の10回にわたる桜花出撃の結果、
桜花パイロット55名が特攻で戦死、その母機の搭乗員は365名が戦死しました。

ところで、世界で最初に音速を突破した航空機となったベル X-1は
母機B-29から発射されるそのシステムの着想を「桜花」から得たらしい、
という説があります。

X‐1号の開発が始まったのは終戦直後の1946年であったこと。

そしてもう一つはベル X-1が音速を超えた飛行時のパイロット、
チャック・イェーガーが三木氏との会談において、

「桜花も銀河も、当時、世界の最高技術でした。
アメリカ軍が、三木さんの技術を参考にした可能性があります」

と述べたことからも、かなり信憑性が高いと言われているようです。


三木氏はこのことを知った時、その技術が未知の音速突破に挑む
機体のシステムの一部となったことに救われた気持ちになった、
と語ったそうです。

 

回天4型の輪切りが展示してありました。

回天はご存知の通り搭乗員が爆弾を頭部に搭載して敵艦に突入するために
特殊潜航艇から発展して作られていますが、4型は、
戦時中に開発された「1型」の改良版で、6隻建造され、
まだ使用されないうちに終戦を迎えたので海中投棄されたものです。 

この4型は建造途中で放置されていたものだそうです。

内部の艤装などには全く至っていなかったものですが、
わかりやすいように潜望鏡だけを後付けしたようです。 

潜水艦搭載用の気蓄器。
浮上するときには、このタンクからメインタンクに空気を送り込み、
海水を放出して浮き上がります。

逆が「メインタンク・ブロー」というやつですね。

中には圧縮された空気が入っていて、非常用も加えて数個、
搭載されていました。 

大展示室の様子です。

平日にもかかわらず、見学者はかなりいました。
(他の軍事博物館と比較して)
若い人たちや白人の男性が目立ったのですが、最近の傾向でしょうか。
中韓からの観光客は境内では時々見ますが、今まで一度も
遊就館の中で騒いでいたのを見たことがありません。 
(外の売店では一度あり)

もし入館料が無料なら、この傾向も変わってくるのかもしれませんが。

回天1型改1を後ろから。
終戦後ハワイの米陸軍博物館で展示されていたものが、
1979年遊就館に「永久貸与」されて今日に至ります。 

わたしはいつも遊就館に来ると、大展示室を出たところで命の顔写真を
できるだけ多く目に留め、あるいは知っている名を求めてそこで
しばらく過ごすことを決めています。

この見学の後、その写真の中に、今まで見たことがなかった
回天の開発者、黒木博司大尉の見覚えのある姿を見つけ、思わず

「ああ、ここに・・」

と口に出して呟き手をさしのべました。 
気がつけば同じ区画のすぐ下にシドニー湾に突入して散華した
松尾敬宇大尉の写真もあります。
そのときわたしはニューロンドンで見た特殊潜航艇について
エントリを製作するために調べた直後でした。

以前黒木大尉について書いたとき、それが偶然にも大尉が回天の事故で
殉職したのと同じ日だったことに続き、少し不思議な因縁を感じたものです。 

大型潜水艦の艦上に搭載された「回天」4隻。
「特攻の島」でも出撃シーンに搭乗員が4名描かれていましたが、
このような状態から発進したということがわかります。

回天艦内には内部から続くハッチをくぐって搭乗しました。 

 

遊就館の展示、後半に続きます。

 

特攻の賛美と顕彰の違い〜靖国神社 遊就館展示

$
0
0

遊就館の唯一写真撮影可である大展示場の展示物について
お話ししております。 

大展示場には飛行機、潜水艦、戦車、艦砲などの大型展示と、
ガラスケースの中にぎっしりと収められた遺品の展示があります。 


これは全て南方や沖縄で収集された遺品の数々です。


遠目に茶色い「塊」のような遺品の一つ一つを仔細に眺めると、そこには
かつてこの塊が生きていた誰かの持ち物であった痕跡が残され、
その持ち主の運命について考えずにはいられません。

鉄かぶと、認識票(120211070の番号入り)、鍋釜。
ガスマスクはウェーク島で収集されたものです。 

朽ちて底だけになってしまった靴。万年筆。ホーローのカップ。
これらは沖縄で収集されたものです。 

薬瓶、注射器、そして大量の丸メガネ。
もしかしたら軍医やあるいは民間人のものかもしれません。 

97式中戦車(チハ車)。

サイパンで米軍の上陸部隊を阻止するため戦った
戦車第9連隊第5中隊の戦車です。

その後ご存知のようにサイパンの部隊は玉砕してしまい、
この戦車はサイパンの海岸に埋没したままになっていたのですが、
同連帯の生存者が働きかけてサイパン島民の協力を得、
昭和50年8月12日、日本に帰ってきました。

詳細な構造図がアルミのパネルで展示されています。
戦車は4人乗りだったようですね。 

ここ一帯は「戦艦大和・武蔵」のコーナー。
武蔵の主砲弾、徹甲弾などが並べて展示してあります。
 

ブロンズで作られた「武蔵」のウォーターライン模型。
昭和44年と言いますから、まだ武蔵の生存者が多く健在であった頃、
「軍艦武蔵会」の名前で製作されたものです。

戦艦「陸奥」の副砲。
「陸奥」は柱島沖で謎の爆発を起こし沈没した悲劇の戦艦です。
この副砲は昭和48年に遺骨を収集するという目的でサルベージが行われた際
一緒に引き揚げられました。 

「陸奥」副砲後ろから。
爆沈は昭和18年6月、艦とともに殉職したのは1122名。
その中には艦長の三好輝彦大佐(殉職後少将)もいましたが、
三好艦長はその直前まで同期の「扶桑」艦長の鶴岡大佐を訪ねており、
帰還した直後に爆発に巻き込まれています。

「扶桑」は「陸奥」が爆沈する様子を目撃していたということですが、
「扶桑」艦長は、後から三好艦長を引き止めていれば、
という後悔に苛まれたりしなかったでしょうか。 

「陸奥」の小錨。主錨ではありません。

ここには実物大の「震洋」の模型もあります。(これは小さいもの)

軍令部は昭和19年から劣勢を挽回するため9つの特殊兵器を計画しました。
それらには㊀から㊈までの番号が振られ、
「マルイチカナモノ」「マルキュウカナモノ」などと呼ばれていました。

特殊奇襲兵器

㊀金物 潜航艇 
㊁金物 対空攻撃用兵器 
㊂金物 可潜魚雷艇 小型特殊潜水艇「海龍」
㊃金物 船外機付き衝撃艇  水上特攻艇「震洋」
㊄金物 自走爆雷 
㊅金物 人間魚雷 「回天」
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止 
㊈金物 特攻部隊用兵器

㊅が「回天」、㊃が一人のりのボートの艦首に
250キロ爆弾を搭載し敵に体当たりしていくという「震洋」でした。

海軍兵学校卒や予備士官が艇長となり、乗員はこれもまた
空に憧れてやってきた予科練の出身者が充てられました。

「震洋」のスクリュー。

空母「翔鶴」の特大模型。
艦載機まで全て搭載した力作です。

艦尾には「くか うやし」という艦名が見られます。 

旧東洋紡渕崎工場の女子寮から見つかった「血書の壁」。

香川県・小豆島に設けられていた陸軍の水上特攻艇「まるれ」の
訓練施設の壁一面に、終戦直後、少年兵が書き付けた「血書」です。

「本土決戦 一億特攻!されど大詔一度下りて、大東亜聖戦終る」

 

戦争末期、小豆島には旧日本陸軍が極秘裏に組織した「陸軍船舶特別幹部候補生隊」
の拠点が置かれ、当時、同町にあった東洋紡績渕崎工場が宿舎となっていましたが、
血書はその押し入れ奥の壁に貼られた新聞紙の下から見つかりました。

「断じて日本は負けたるにあらず」

大きく忠義を尽くすという意味の「盡忠(じんちゅう)」という題で、
「全員特攻の命を拝し」「其の心の成らんとして果たさず」
「断じて日本は負けたるにあらず」と結んだこの文章は、つまり
敗戦の悔しさと自分がその役に立つことがなかった無念を表したものです。 

陸軍船舶特別幹部候補生隊、「若潮部隊」は15〜19歳の少年兵計約8千人で編成され、
ベニヤ板製、全長5・6メートルのモーターボートに爆雷を積み、
敵艦に体当たりする自爆攻撃の訓練を受けていました。

小型艇や輸送船が此のモーターボート型特攻で損傷を負ったそうですが、
しかし、戦果はアメリカ側の資料からの判断なので
海軍の「震洋」のものかこのマルレのものかは判別できません。 

ある資料では約1400人が実戦で戦死したとされていますが、
そのほとんどが輸送途中に輸送船ごと沈没したためであるという説もあります。 

ただ、本当に戦争末期には特攻しようにもその船がなくなっていたらしく、
こんな話も・・・・

岡部さんの戦争

 

艦船の模型でもう一つ目を引くのが駆逐艦「秋月」。

乗員による戦闘用意の様子が再現されている渾身の作です。 

空に向かって大きく手を振る士官始め4人の姿もあり。

甲板作業をしている一団と、敬礼を交わす二人。
こういった軍艦での動きが至る所で再現されており、時間があればいつまでも
見ていたいくらいでした。

皆様も遊就館にいったらこれを必ずご覧になることをお薦めしておきます。 

 

ところで、前半に少し述べた「日本人に戦争は向いてない」の人もそうですが、
よく「特攻を賛美するな」と言う人がいます。

特攻は戦法の外道であり、非人道的であり、非科学的な愚の骨頂である、
と言う観点からのことですが、それでは遊就館が
「特攻を賛美しているのか」と言うとそれも違う気がします。

わたしもこの点については

「軍による組織的な特攻を行ったことははっきりと日本の汚点である」

と思っているくらいですが、例えばこの大展示場にある、
本土迎撃のために体当たりを敢行した陸軍曹長のような「自発的な特攻」に対しても
それはただ同調圧力による強制された死であり無駄死にだったといい捨てることは
英霊に対してその魂を二度死なせるようなものではないかという気がします。

それでなくともただ不幸な時代に生まれてしまったというだけで、
死なねばならなかった戦死者をその死に方によって区別することはあってはならない、
という考えが基本にあるからです。

特攻で自分の愛するものたちがいる世界を守ることができると信じて
死んでいった人たちに対し、感謝とその魂の安寧を祈ることは決して
手段に対する「賛美」と同義ではない、とわたしは思うのですが。

 

 

 


JFKとアメリカズカップとジョーイP〜駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」

$
0
0

バトルシップコーブの展示、駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディJr.」の見学、続きです。
ところで、前回から今回までの間に、この駆逐艦の愛称が

「Joey P」

であることが分かったので、本稿から彼女をジョーイPと呼ぶことにします。 

「ジョーイP」の艦橋から隣の潜水艦「ライオンフィッシュ」、ミサイルコルベット艦
「ヒデンゼー」、そして戦艦「マサチューセッツ」を望む。

こんなに離れているように見えますが、「ライオンフィッシュ」と「ジョーイP」は
ラッタルで繋がっていて、甲板を伝って行くことになっています。

いずれにしても軍艦の展示がこんな風に(複数同時にすべて公開)
行われているのは、アメリカはもちろん世界でも多分ここだけだろうと思います。


艦橋上のデッキにも航空認識番号の「850」と書かれています。

デリックにはボートが一艘吊ってありました。

 

ボート反対側から。
こちら側のデッキはこのため通り抜けることができません。 

溺者救助用担架・・・・かと思いましたが、これではまず
海に浮くわけがないので、ハイラインでの搬送用だと思いました。

赤の半円型がモダンアートみたいですね。 

前方から艦橋の方向を撮ってみました。
皆が手すりにもたれて岩壁を見ていますが、これはちょうど
岸壁にあるスクリーンとしょぼい噴水装置を使った

「パールハーバー体験」

のショーが始まったところだったからです。

そんなことはどうでもよろしい。
艦橋の前にあるブルーと赤のミサイルは何?

魚雷であることは確かですが、型番がわかりません。
ジョーイPが搭載していた武装は

5 in (127 mm)/38 caliber twin gun mounts
Mark 37 Gun Fire Control System
Mk25 fire control radar
Mark 1A Fire Control Computer
Mk6 8,500 rpm gyro
2 × triple tubes for 12.75 in (324 mm) Mk 32 torpedoes
Antisubmarine rocket launcher (ASROC)
4 × double celled boxes housing 8 missiles
nuclear depth charge capability

これを見る限りどれでもないような・・。
そもそもこういう場所にこういう角度で魚雷を置くかなあ、
と幾つかの駆逐艦を見てきたわたしは思うわけですが、
どなたか正解をご存知の方はおられませんか。 

発射機のシステムがスケルトンで見えるようになっているのは、
展示のための仕様ではないかと思われます。 

甲板の魚雷は三連装の魚雷発射管用のものと思われます。

 

煙突とアスロックの横には登って行く階段がありましたが、
ここは立ち入り禁止になっていました。 

ジョーイPの船名符字(コールサイン)は上から「N」「B」「C」「R」。
教えていただいたところによると日本は「J」がつくそうですが、
それでは「N」は・・・?

 

上部には銃火統制システムのアンテナ(長方形)が見えます。

後部構造物全景。
 

 

どうしても写り込んでしまったピンクの巨大構造物は無視してください。

アスロック(対潜ロケット)Mk 46 8連装ランチャー後部には
ここにもシャムロックがペイントされています。

このタイプは冷戦時代のほとんどの駆逐艦と巡洋艦が搭載していました。

昔の潜水服みたいな艦橋デッキの装備。
これも何かわかりませんでした。 

この右側のドアを入っていくと艦橋があります。



艦橋デッキ。
 

甲板を歩いて行くと、こんなものがありました。
ヘリ搭載艦の甲板の駐機場所にある「不」みたいです。

艦首側から見た主砲と構造物。

四角いアンテナの下の湾曲したアンテナはSPS-10探索レーダーです。

あの鐘を鳴らす人はやっと昨年末から紅白出場をあきらめたようですが、
この鐘は鳴らないようにしてしまっているようです。


まるで外に向かって座るためのベンチのような構造物。
海自の遠洋練習航海の報告会で、訓練幹部たちが、遠洋航海中
船の上から海に飛び込むという訓練を行ったという話を聞きましたが、
もし当艦で行うならばここから飛ぶといいかもしれません。 

ところで、わたしが「ジョーイP」の上で熱心に写真を撮っていると、
横で立ち止まった影があったので撮影を中止し、

「どうぞ通ってください」

というと、その男性はいいよいいよ、先に撮んなさい、と手で合図し、

「この艦にはJFKが乗ったことがあるって知ってた?」

とわたしに話しかけてきました。
実はこのときわたしはこの艦の「ジョセフ・パトリック」という人物が
JFKのなんなのか、全く基礎知識を持っていないまま見学していたのですが、
このセリフによって、ようやくJFKの関係者であるという確信を得たくらいです。
もちろん全然知らなかった、とわたしがいうと、
続けて彼はこのように言いました。

「1962年のアメリカズカップが行われたとき、JFKはこのフネに乗ってそれを観たんだよ」

wiki

1962年、JFKとジャクリーン夫人は、ジョーイPの甲板から
『海のF1』と呼ばれるヨットレース、アメリカズカップを観戦しました。

実に絵になっているこの写真ですが、ジャクリーンの姿勢には
すごく無理があって、写真を撮られていることを意識しまくりです。

彼女がドレスを選ぶとき、夫のジャケットの色と合わせて
このスーツを選んだらしいことがこのカラー写真でわかりますね。

「駆逐艦に乗ってヨット観戦」→やっぱりイメージはネイビーブルね!

彼女がその日クローゼットの前で考えたであろうことが、
髪に巻いたスカーフの色からも窺いしれるではありませんか。 


このときJFKがスピーチをしている動画がありました。

President John F. Kennedy's America's Cup speech in 1962 and JPK DD850

このタイトルだと艦名は「JPK」となっています。
わたしにそれを教えてくれた艦上の男性はさらに続けて、 

「わたしは小さかったが、それをテレビで見てたんだよ。」

「年号まで・・よく覚えておられるんですね!」

男性は誇らしげに言いました。

「そりゃそうさ、JFKはずっとわたしのヒーローだったからね!」

 

 

続く。

 



 

 

呉の街と赤煉瓦生徒館〜第一術科学校幹部候補生卒業式

$
0
0

海軍に興味を持ち出したと同時に、海軍兵学校の伝統を
海上自衛隊幹部候補生学校が色濃く継承していることを知り、
わたしはそれを確かめるために何度も江田島に足を運んできました。


戦史で名前を知った海軍軍人たちが若かりし日に駆け上がった廊下、
海軍体操を行ったグラウンド、そこで過ごした赤煉瓦の生徒館。

奇跡のようにかつての建物がそのままの形で残され、故に、
在りし日のその空気をまざまざと思い浮かべることができる場所が
戦後の日本に存在していたことに、わたしはどれほど感謝したことか。

そして、現在の海上自衛隊幹部候補生学校が、兵学校の頃の伝統のままに
行なっているという卒業式を是非一度見てみたいものだと思っていました。

それがついにそれが叶う日が来たのです。

 

昔は兵学校で、中学校を卒業した生徒が4年(大戦末期には3年) を
過ごして卒業したここ広島県江田島。
現在では防衛大学校や一般大を卒業してきた後、
数ヶ月から1年にわたって専門訓練を受ける場所になっています。

現在の自衛隊の組織では、防大や一般大出身ではない隊員が
「部内課程」と言って、ここで訓練を受けたのち、幹部に進級するのですが、
わたしが今回出席させていただいたのはこの部内選抜の学生の卒業式です。

 

広島空港は不便なので、新幹線で行ってもほぼ時間が同じ、
という噂もありますが、今回もわたしは飛行機で前日に呉入りしました。

江田島で行事があると呉のホテルは満室になってしまうようで、
わたしも大変苦労したのですが、結局カード会社のデスクにお願いして
なんとか部屋を確保することができました。

行きのANAで軽食が出たのでいだだきました。
こうして写真に撮ると大きく見えますが、実はサンドイッチも
4センチ角くらいの可愛らしいものです。

普通席を予約したのですが、空きがあったのか、
何も言わないのにプレミアムシートにチェンジされていました。


呉在住の知人と食事をすることになったので、ホテルを出たら
道の向かいに居酒屋「利根」がありました。
もちろんここでは「とねカレー」が食べられるはずです。

帰りに中をのぞいてみたら、カウンターにスーツの男性が一人座っていました。

夜になってから呉の街を徒歩で移動したのは初めてです。
で、思ったのですが、本当に何もありません。


お店もなければ人もいない。
たまに人が歩いていますが、妙に早足なのと姿勢がいいので自衛官だとわかります。
商店街は空き家も多く、早く閉めてしまう。
活気を感じさせるのがコンビニくらいという有様で、
線路脇にあった「五十六」の看板と光がどれだけ華やいでいたか。

知人と会うことになったとき

「利根でもいいけど居酒屋はタバコがちょっと・・」

というと、ここを指定してきたのですが、ここも別に禁煙ではありません。
彼女にどんな感じの店?と聞くと

「小洒落た感じ」

いやまあ確かに二号店で新しく綺麗で居心地は良かったけど。
・・・・小洒落たの定義が多分地方によっては違うんだろうな。

東郷さんがイギリス留学の時に好きだったビーフシチューを食べたくて
海軍で無理やり再現させたものが肉じゃがの発祥らしいですが、
ここには当時海軍の賄いが頑張ってリクエストに答えようとした
そのビーフシチューもどきをオマージュする一品があります。

みりんと醤油で作るとまんま肉じゃがになってしまうので、
さすがにここではドミグラスソースを使っているようですが。
肉が固めなのも再現ポイントかも。
シチューというよりスープみたいな感じですが美味でした。

ここのメニューで気に入ったのが豆腐にクリームチーズを混入させ、
なぜかウニを乗っけたチーズどうふ。

チーズを加えた豆腐に絡むウニの味が
なんとも言えない一味を加えて大人の味でした。
甘いものの嫌いな人のデザートって感じ。 



写真を撮りそこないましたが、ここの「さざなみカレー」もいただきました。
先日たまたまカレーグランプリの話題の時に
「五十六さざなみカレー」という名前に突っ込んだのは実に奇遇です。
何も言わなくてもカレーのスタンプが出てきました。

「集めたくても全部制覇なんてよっぽどその気にならないと無理なんですよ」

と知人は言っていましたが、広島市在住の別の知人は、このスタンプラリー、
もう一巡して二巡目にかかっています。
仕事で呉に来るたびにカレーを食べるんだとか。

呉在住の人よりよその人(呉リピーター)の方が熱心かもしれません。

明けて次の日、トランクをホテルに預けてフェリーターミナルへ。
港内をクルーズして自衛艦を見て回る遊覧船のツァーも
ここから出発するようです。

いつか機会があったら参加しようと思いながら現在に至る。

フェリーのチケットは一人390円。
1時間に1本くらいの間隔で運行しています。
同じフェリーに乗り込む人のほとんどは卒業式参加の
来賓の人々で、退官した元将な人たちの姿もちらほら。

フェリーに乗った途端、港を行き交う自衛艦が気になります。
昔江田島に行くためにこの船に乗った時には何も目に入らなかったのに。

支援船のタグボートが2隻どこかに出動するようです。
このタイプは260トンあります。

「大和のふるさと」の沖に浮かんでいたポンツーンには
どう見ても船の底部分であろうと思われる部品が積んであります。
向こうにはバラックのようなものも見えますが、これはなんでしょうか。

輸送艦「おおすみ」はいつもの場所に。

「やまゆき」「あぶくま」 などの護衛艦。
「やまゆき」は今練習艦となっています。

艦番号422「とわだ」。補給艦です。

2013年のフィリピンへの災害派遣では輸送艦「おおすみ」と
護衛艦「いせ」への給油などを担当し、レイテ湾では救援物資輸送や
医療、防疫活動を実施して帰ってきました。

灯台だけがある小さな島。
まるでろうそくが一つ立ったケーキみたいです。
昔はここも灯台守が守っていたのでしょうか。

 

小用の港がすぐに近づいてきました。
出港から到着までわずか20分です。

タクシーで学校の前に到着。
門を入ってすぐのところに参列者の受付テーブルがあり、
名前の書いたリボンをWAVEさんが服につけてくれました。
そのあとは来客係に配置された自衛官がエスコートしてくれます。

あらあら、すでに何かが始まりそうな気配。
卒業生の家族の方々はすでに1本前のフェリーで到着していたようです。
音楽隊と儀仗隊が整列しているということは・・・・。

 

そのとき後ろから桜を4つつけた黒塗りの車が追い越して行きました。
同行の自衛官が立ち止まったのでわたしたちも車を見送ると、
車内では村川新海幕長が敬礼をしておられました。

車から降りた村川海幕長が式台の上で敬礼。

音楽隊が「観閲の譜」を奏楽する中、観閲を行う海幕長。
これが村川海将が初めて行う江田島での観閲に違いありません。

観閲が終了して最後に敬礼。

わたしと連れの方が立ち止まって見ているので、案内の自衛官は
一連の儀礼が終了するまでそこで待ってくれました。
そのあとは赤煉瓦の控え室に案内されました。

一般の見学ではもちろん、兵学校の卒業生と一緒に訪れた時も
赤煉瓦の中に入ることはできませんでした。
なので、一生見ることはないと諦めていたこの二階部分に案内され、
しかも控え室としてかつて教場であった部屋に入れてもらっただけで
夢でも見ているような気持ちです。

部屋のドアにはここを控え室にする来賓の名前が貼り出されています。
実は最初この隣の部屋に案内されたのですが、しばらくしてから
アテンドしてくれた自衛官がやってきて、

「すみません。お二人をご案内する部屋を間違えました」

まあそういうこともあるでしょう。 

部屋の窓から見る術科学校のグラウンド。
観閲を見ていた家族の方々は今から講堂に移動するようです。

赤煉瓦の正面から見るとちょうど裏側の廊下の天井。

天井に下がるペンダント式の照明器具のシェードには
6角のすべての面に錨のマークが入れられています。

壁面にあった謎の鋲。
この形状は間違いなく創建当時のものに違いありません。
生徒館は何年か前に耐震工事を兼ねてリニューアルしていますが、
換装する部分は最小限で、表に見えるものはできるだけ元のものを使っています。 

兵学校時代の写真には、この同じ形の帽子掛けが写っています。
もちろん全く同じものではないでしょうが、時代が移り変わっても
スチールパイプ製のものなんぞに変えないその見識が嬉しいですね。

廊下の突き当たりの窓を通して見る緑もおそらく明治以来
全く変わることはなく・・・。

ちなみに、各室のドアなどは改装の際取り替えられています。

二階の各部屋に来賓は分散して入り、海幕長や海将は
ここをまっすぐ言った正面階段の前の部屋に控えています。 

煉瓦の建物は改築しましたが、こちらはおそらく手付かず。
壁のペンキは随分剥離してしまっています。

 

さて、わたしたちが控え室で15分ほど過ごしている間に、
卒業式の行われる大講堂では卒業生を始め卒業生家族など
人入れが行われていたようです。

わたしたちは式が始まる直前に再び案内されて大講堂に入って行きました。

 

続く。

 

 

 

幹部候補生学校部内課程卒業式 於江田島・第一術科学校

$
0
0

江田島で行われた部内課程の卒業式についてお話ししています。
ところで前回アップするのを忘れたので控え室の写真を。 

何年か前の大改装の後、室内も完全に改築されてかつてを彷彿とするものは
もう何も残っていませんが、教室の中央に掲げられた

「五省」

一、至誠に悖るなかりしか

一、言行に恥ずるなかりしか

一、氣力に缺くるなかりしか

一、努力に憾みなかりしか

一、不精に亘るなかりしか

という額は昔から変わることがありません。

ところでこれを自分に問いかけた場合、後半に行くに従って
わたしは極端に自信がなくなるわけですが、それはともかく、
ご存知のように、これは海軍時代からの海軍軍人の「クレド」で、
海上自衛隊が今でも受け継いでいる隊員の精神的支柱でもあります。

 

受け継ぐといえば、わたしは先日このような冊子をいただきました。

昨年暮れに、防衛団体の会合で現幹部学校校長の海将補が
兵学校から現在の幹部候補生学校までの江田島の歴史について講話されたのが、
今回わたしが出席をするきっかけになったのですが、この写真集はまさに、
「江田島今昔」というべき海軍時代と現代の接点に焦点を当てています。

これがよくできてるんですよ。

左ページに海軍兵学校時代の写真(真継不二夫氏の作品)、
右側に現在の写真をできるだけ同じ構図で並べて
どのようにその伝統が受け継がれているかが一目瞭然。
 

皆で食事をしている写真と並べて昔と今のメニューが比べられたり、
実習訓練の測距や航空機の前での同じような構図のスナップを並べたり。

「無断転載を禁ず」

とあるので中身をご紹介できないのが残念ですが、
構成の妙で読み物として大変惹きつけられるだけでなく、現在の海自で
伝統の継承がどのように行われているかを知る絶好の資料となっています。

実はこの写真集、2013年に当時の候補生のための教育資料として
当時の幹部学校校長が作成したものなのですが、
卒業式出席に際して今回特別に数冊いただきました。

せっかくですので、是非欲しいという方、先着3名に差し上げます。
ご希望の方はコメント欄でお申し込みください。

以上事務連絡でした。

 

さて、わたしのように江田島について実際に何度も来ており、
校内の位置関係も知り尽くしていて、見たことはないけれど
どこで何が行われるかもだいたい知識の上で知っている、
というような人間ばかりではございませんので、控え室には
このようなご案内が親切にも用意されています。 

この赤煉瓦生徒間の二階で待機をしていた来客は、1045の式の開始のために
1030から大講堂に移動を始めました。 

赤煉瓦の東側出口から大講堂に移動。
一つのグループにつき自衛官一人が付き添ってくれます。
これ、一人で行ったとしたら一人がエスコートしてくれるんだろうか。 

見学ツァーでは決して立ち入ることのできない階段を上っていきます。
階段の手すりにあしらわれた模様は今の建築では決して見られないもの。

ちなみに傾斜は無茶苦茶急でした。
 

初めて上った大講堂バルコニー部分・・・。
扉のついた壁で仕切られた部分は世が世ならカメラマンなど
決して立ち入ることのできない「貴賓席」でした。
玉座にお座りにならない皇族の方々がここに座ることになっていたのです。

戦後、初めてここに来賓として座った平民は、
幹部候補生課程を修了した息子の卒業式に親として出席した 
当時自民党の小沢一郎代議士だったということです。

のちに自衛隊の海外派遣が決まった頃、その息子という人は
自衛隊を退官して、一般の会社に行ってしまいましたとさ。

東側のバルコニーにも少しだけ人がいます。
3列のひな壇式観覧席はこのためにわざわざ設えられたらしく、
一般の来賓は元将官なども含め全員がここに座ることになりました。

席の取り合いで喧嘩にならないように(笑)、席には名札が貼られています。 

我々の右側の角部分には呉音楽隊の演奏場所が。
国民儀礼の国歌斉唱は、生演奏による伴奏で行われました。

式の間、全く譜面を見ないで演奏している隊員もいました。 

船の舵輪の形をあしらった大講堂の照明をこの角度から。
大講堂の壁には和紙が塗り込まれていて、この天井の角度と合間って
大変音の反響がよく、マイクなしで声が全講堂に聞こえます。 

というところでご覧いただくと、マイクやそのためのコードの類が
全くなく、すっきりした空間が保たれているのがわかります。

先人の創意工夫の恩恵を受けて、現在でも海上自衛隊の儀式は
増幅器、音響機器一切なしで行われるのです。 

舞台中央は昔玉座があったところです。
証書を授与する時、校長が玉座に背中を向けてしまいますが、卒業式に
そもそも天皇陛下はご来臨されることはなかったということでしょう。

開始時間少し前に、舞台奥の扉から飾緒をつけた自衛官などが出て来ました。

壇上には江田島市長や陸自の代表、海保の偉い人、
どこかの武官(この方、自衛隊記念日にも来ておられました)と
その奥様(か通訳)、水交会の代表などの来賓が
左奥の控え室から出て来ました。

いよいよ式が始まります。 

まず、卒業生が全員起立。
一糸乱れぬその動きと微動だにせず姿勢を保っているのを見て、
彼らが海曹長まで務めてきたベテランであることを改めて実感します。 

壇上に立つ幹部候補生学校校長、真殿海将補。

見るからに年配な感じの卒業生たちがまず登壇しました。
最初の一人にだけ証書全文が読み上げられます。 

校長が差し出す証書をまず右手、そして左手を回すようにして受け取り、
シャキーン!と左を向いてこの後証書をたたみ、片手に持って段を降ります。

一人が進むと皆が同時にざっ!と一歩進む様子が見事。
何人かが証書を受け取り終わると、また次の列が登壇のため一斉に並び、
それがなんども繰り返されます。 

壇上右手には、村川海幕長(一番向こう)、池呉地方総監、
そして術科学校長と一佐クラスの自衛官が式を見守ります。 

証書を受け取る時の所作など、卒業生は事前にちゃんと練習を行うのだとか。
そういえば、わたしたちも卒業式の練習はかなり入念に行いましたよね。 

うちの小学校は卒業生と在校生がオラトリオ形式で歌を交わすという伝統があり、
そのため随分前からリハーサルが繰り返されたものです。
ちなみに入場の時の音楽はワーグナーの「トロヴァトーレ」の
「鍛冶屋の合唱」だったのですがこの選曲はどうも・・・・解せぬ(笑)

女性の卒業生一人め。
防衛大学校や一般大卒の女子学生は増えているようですが、
海曹長までいって任官する女性隊員は珍しいように思います。 

柱の向こうの二人は、名簿を見ながら卒業生の名前を読み上げる係。
卒業生にとっては一生に一度のことですから絶対に間違いは許されません。
二人で交互に読み上げていたのか、一人がチェック係なのかは確認しませんでした。

壇上で名前を呼ばれた卒業生はその場で「はい!」と返事をし、
そののち校長の前に進んで正面を向きます。 

女性卒業生二人め。 

つまり全部で女子は三人です。 

そして、昔ならば「恩賜の短剣」授与であったところの
成績優秀者トップ5に対する賞状授与が行われました。

わたしはこの授与で、海軍兵学校の短剣授与と全く同じように
行われている部分を発見して感動してしまいました。

これです。

賞状を授与された者は、そのまま階段を後ろ向きに降りていくのですが、
これこそが、恩賜の短剣を受け取った後短剣を捧げ持ち、
後ろに向かって歩いていくのと全く同じ作法です。

江田島の旧兵学校校舎が戦後占領軍の駐留時期を経て
日本に返還され、昭和29年に海上自衛隊が発足してから
2年後の昭和31年、術科学校が横須賀から移転して来ました。

その時にはまだ旧軍時代を知る者、兵学校を卒業した者が数多くいて、
術科学校の卒業式には海軍兵学校のやり方を再現することが
誰いうとなく決まっていったのに違いありません。 

証書授与の間中呉音楽隊が演奏を続けていたのは、昔の通り、
ゲオルグ・フレデリック・ヘンデルのオラトリオ、「マカベウスのユダ」より、

「見よ、勇者は帰る」

大講堂の落成が成った1917年(大正6年)以来、
江田島を巣立っていく幾多の若き海軍軍人の名前を乗せて
この同じ旋律がこの同じ空間で演奏されてきたのです。

窓から差し込む早春の(この日は春並みに暖かい日だった)光に満ちた
明るく、しかし厳粛さを湛えた空気のうちに繰り返される調べを聴きながら、
わたしはしばし、この場所に幾度も巡りきた季節に思いを馳せるのでした。

 

続く。

 

 

 

 

午餐会〜幹部候補生学校部内課程卒業式

$
0
0

江田島の海上自衛隊幹部候補生学校、部内課程卒業式、
卒業証書授与が滞りなく全員に行われました。 

優等賞状授与の後は、

「水交会激励賞」

が水交会専務理事である元海幕長赤星慶治氏によって渡されました。

幹部候補生学校校長の副官は、証書授与の間中横に控えて
一枚ずつ証書を校長に手渡す役目を行なっていましたが、
終了した後の壇上のお片づけも任務です。
彼の一挙一動は満場の注目を集めておりました。 

海自の副官は仕える将個人ではなく、その役職に配置されます。
つまり自分の任期中にボスが代わるということも制度上ありうるのですが、
将の任務の事務やスケジュール調整、面会する相手への連絡など、
マネージャー的な用務を一切取り仕切るという立場上、
その逆(将の任期中に副官が交代する)というのはないと思われます。 

続いて真殿海将補による校長先生式辞。
真殿校長の胸に航空徽章があるのに気がつきました。

前職は八戸の第二航空群司令でいらしたということです。 

村川海上幕僚長による訓示。

ここ呉の経理課長に始まって人事教育部、経理部長、総務課長、
補給本部長と一貫して経理補給畑を歩んできた初の幕僚長です。

呉地方総監池太郎海将。

ここからは「来賓の祝辞」ということになろうかと思います。
池地方総監の「愚直たれ」については当ブログでも取り上げましたが、
この日の壇上においても愚直に、この言葉を繰り返しておられました。

前回ご紹介した写真集「伝統の継承」の前書きには

伝統精神の真髄とするところは「真の正直」である
心に偽りのない徹底した正直者こそが真に強い自衛官であり、
真の勇者になりうる

と書かれていますが、これも池海将が好んで取り上げるもので、
草鹿仁一中将が兵学校校長時代に生徒に向かって語りかけた

軍人として職責のために絶対必要なものは何か
心に嘘偽りがあって迷いがあれば戦いに勝つことはできない
海軍の敢闘精神とは真の正直であることである
正直者こそが真のリーダーになる

という言葉からの引用です。

続いて江田島市長明岳(あきおか)周作氏。
12月に就任したばかりの新市長です。
ちなみに投票率は 68.62%で、当選票数は5976票だったとか。

グレーゾーンなどという言葉を使い、日本が置かれている防衛的現状についての
懸念を市長クラスの政治家がこのような挨拶で述べるのを初めて聞いた気がします。

江田島は、昔から兵学校とともに発展し、ともに生きてきた町です。

「今日ここを巣立っても、何度でもまた江田島の地に帰ってきてください」

市長はこんな言葉で挨拶を締めくくられました。

というところで閉式と相成りました。
来賓の方々の控え室は実は舞台裏にあったことが判明。

卒業生をコの字で囲むように家族が座っています。
家族席には小さな子供がちらほら見られましたが、式典の間、
結構長い時間、子供がぐずる泣き声が響き渡っていました(笑)

おそらく当のお母さんはその間いたたまれなかったと思いますが、
わたしと同行者はむしろ

「家族持ちの多い部内選抜の卒業式らしくていい」

と後で言い合ったくらいです。
それより、マスクせず手で覆わずに咳をしていた人の方が顰蹙だったかな。

式典が終わり、わたしたちは音楽隊が退場した階段(正面から見て右)
を降りて大講堂を後にしました。

講堂の裏階段踊り場天井の照明器具はしゃれていますが、
改装の時に取り替えられた現代の製品のようです。

おそらくこんな写真をわざわざアップするのは当ブログだけ・・
であろうと信じ、あえて撮った階段の上からの一枚。


 

大講堂を出ると、マイクロバスがお迎えに来ていました。
今から昼食会の会場まで移動です。 

大講堂をでて右側にずずーいと曲がっていく道は、
さすがのわたしもこのとき初めて知りました。

建物の入り口が近づいてくると、セーラー服も凛々しい海士たちが
護衛のように立っているのが見えて来ます。

こんなことのために(?)わざわざ正装して待機しているなんて・・(感激) 

会場の入り口から見える斜面に何か石碑があるのを発見したわたしは、
とりあえず後で読もうと写真だけ撮っておきました。

應谷山教法寺跡、とあります。

昔江田島のこの一帯は本浦と呼ばれる大きな干拓地でした。 
今でも古鷹山山麓、旧海軍兵学校を見下ろす地に、
浄土真宗本願寺派應谷山教法寺があります。

寛永12年(1635年)に開山した寺ですが、かつては現在地から
南西に400mばかり下がった位置、つまりここにあって、
当時の広大な境内には、五百人は収容できる大本堂を有していました。 

ところが、建立4年後の明治19年、突然の海軍兵学校江田島移転によって、
寺は立ち退きをせまられることになってしまったのです。

今なら考えられませんが、当時はお上の言うことには何人たりとも逆らえません。
海軍省の通知によって有無もなく、應谷寺はわずか25日の間に
すべての伽藍を解体し、更地として開け渡すことを余儀なくされたのです。

ここに石碑を作ったのは、せめてもの謝罪の気持ちからだったでしょうか。

会場入口となっている建物のロビーで目を引く立派な額。

「櫻花爛漫、か・・・・」

近くにいた男性がつぶやきました。
書道に詳しくないわたしにも、その天衣無縫な筆跡が
只者ではない書家の手によるものだと言うことだけわかります。 

風に吹かれ 空に舞い 海に散り 波に漂ふ

燃えたつ魂と さくら花を抱いた 

愛しき人と いつか会いまみえん この天地にて

白光 書

 

この内容から書いたのは女性ではないかと思ったのですが、
調べてみるとどうやらこれは

柏木白光(かしわぎ びゃっこう)

と言う女性書家の作品ではないかと思われます。
護国寺や靖国神社のためにも書を書いているそうです。

 

エントランスからわたしたちは昼食会会場の4階に移動しました。
ご存知かもしれませんが、自衛隊の建物には一般的にエレベーターはありません。
・・・まあどこかに一つくらいはあるのかもしれませんが、
4階くらいなら司令官であろうが校長であろうが、普通に歩いて登るからです。

靖国神社の本殿もこの度バリアフリー化でエレベーターをつける、
(ので寄付をお願いします)と通知がありましたが、
基本自衛隊には足腰が弱く階段も登れない人は来ない、
という前提で昔も今もやっておりますので、会場の4階まで
階段を登れと言われてびっくりした中高年もいたことでしょう。

・・・あれ?ベビーカーも見たけど、隊員が持ってくれたのかな?

広い会場(多分いつもは学生の食堂)の大体の場所にエスコートの
自衛官が連れて行ってくれますが、あとは自力で
お弁当に書かれた自分の名前を探して座ります。 

将官も来賓も、卒業生とその家族も等しく同じお弁当をいただきます。

我が子や夫の晴れ姿を見るために全国からやって来た家族と
卒業生は前日に水入らずで語らうことができたと聞きました。

卒業生が入って来ましたが、各自が自分の家族と一緒に
テーブルに着くことができるように配置されていたようです。 

国旗と海上自衛隊旗の前には海幕長や海将、向かいにも
ずらっと卒業生が並んでいましたが、この人たちは
なぜ家族と一緒ではないのでしょうか。

もしかしたら、成績優秀者とか?

ただ、上司(しかも一般の会社でいうと社長と重役たちに当たる)
と至近距離で向かい合ってご飯を食べねばならないというのも、
なかなか緊張するというか、大変なことではないかと思われます。

お弁当はお赤飯付き。
乾杯はお茶で行われましたが、向かいの方(酒飲み)は

「味が濃いのでお酒が欲しくなるなあ」

学生長が挨拶を行いました。
体力徽章バッジホルダーの・・・パイロットかな?

わたしはこの写真で初めて彼らの袖章が一般の自衛官と違い、
一本線に錨のマークがあるのに気がつきました。 

爽やかに話し始めたのは良かったのですが
だんだん言葉と言葉の間のタメが大きくなり、ついに

「失礼します!」

とペーパーを取り出して読み始めたのはギャップ萌えでした。

さて、和やかなうちに会食が終了し、卒業生の出発までの間、
元の控え室でしばし休憩ということになりました。

再びバスに乗ると、左回りで赤煉瓦まで移動していきます。
というわけで教育参考館横の特殊潜航艇前を通り過ぎているところ。

同じところで昼食を食べていた卒業生家族は看板を先頭に移動しています。
直接見送りの列に並ぶのかもしれません。

 

左回りで生徒館正面まで来ると、ここには海曹が整列していました。
各々が案内する受け持ちの来客を待っているのです。

バスは生徒館正面入り口のギリギリのところに突っ込む形で停車。
しばしの休憩ののち、いよいよ卒業生の練習艦乗艦を見送る恒例の行事が始まります。

 

続く。

行進〜幹部候補生学校 部内課程卒業式

$
0
0

皆様は海軍兵学校の卒業式で、「行進曲軍艦」の調べに乗せて
在校生と参列者、学校関係者の前を卒業していく少尉候補生たちが
敬礼しながら通り過ぎるシーンを映画などでご覧になったことがあるでしょうか。

以前ここでお話しした映画「海兵四号生徒」や「あゝ海軍」にもありましたし、
兵学校時代の白黒の写真にもその様子が残されています。

海軍の伝統を色濃く残す江田島、という言葉は、今回の卒業式の訓示や祝辞での
挨拶の中でも何度か使われた言葉ですが、江田島の旧海軍兵学校で行われる
第一術科学校の卒業式は、形式において昔のやり方そのままを踏襲しています。

大講堂での式次第に始まり、赤煉瓦から出て来る卒業生が「正面玄関」である
港まで一列になって行進していくのはまさに昔のままなのです。

式の後の午餐会が終われば、いよいよ行進、そして艀に分乗して
練習艦に乗り込むというのがこの日のクライマックスです。

それまでのわずかな時間、来賓はもう一度赤煉瓦の控え室に戻ることになりました。 


普段この入り口は使われることがなく、この日は異例だと聞いています。
ご存知かもしれませんが、ここには扉がありません。

最初に建てられた時から、 ある意図のもとにそうなっているのです。

正面玄関から入ったホールの右手。
大きな姿見があります。

この鏡は昭和の頃に海軍兵学校卒業生の会が贈呈したもので、
反対側の鏡には74期の期数が金文字で刻まれていました。 

ホール左側。
ここにも、廊下の突き当たりにも扉なし。


正面玄関も廊下の出入り口も、開けっ放しのまま。
風が吹けば風が、雨が降れば雨が吹き込んできます。

これには理由があります。

生徒館の建物は横に長いですが、これは兵学校がこれを
フネ(艦)に見立てているからであり、

「どんな気候状態にあっても常に対処できる」つまり、
「海の上でどんな気候にあっても心身が翻弄されない」
対処と心構えを教育機関の段階から身体に叩き込むためです。

なるほど、たとえ入り口から風が吹き込んでも、埃や塵が舞うことなど
床が常日頃からピカピカに磨き上げられていれば、ありえません。

というのは当ブログの過去ログからのコピーです(笑)

普段なら正面玄関から階段を登っていくということはあり得ませんが、
今日は特別なので、バスの到着が一緒になってしまった
自衛隊の偉い人と一緒に階段まで上ってしまったり・・・。

最初の踊り場で右と左の二手に分かれるという昔の形式の階段。
手すりは昔のままで、かつて海軍軍人たちがここで身だしなみを
チェックした鏡は、今でも自衛官たちの点検に使われています。

控え室の前の廊下から中庭に何かの記念樹があるので撮ってみました。
説明の看板足元にまで目立てをしたばかりの箒の跡があります。

拡大して読んで見たら、

日米安全保障条約改定50周年記念

〈平成22年度日米候補生交換見学行事〉

 2010・6・11

とありました。

安保条約改定からもう58年になるんですね・・。
当時安保で戦争になるとか言っていた人って、今息してる?

さて、時間になったので、担当の自衛官が迎えにきてくれ、
マイクロバスに乗り込んで埠頭に向かいました。
実質煉瓦館から歩いても大した距離ではないのですが、
来賓を歩かせるわけにはいかない!という自衛隊の気遣いでしょう。

兵学校の同期会の時に陸奥の砲塔などを見学した時と同じコースで
グラウンドの南側を回っていくようです。

江田内の海に面した古い校舎。
同期会で来た時もすでに使用されなくなって随分経っているようでしたが、
未だに放置されているようです。

わたしは古い建物ならなんでも保存してほしいと思いますが、
歴史的な価値がないと判断されたものは維持費も出ないので、
取り壊しを待っている状態なのかもしれません。

アメリカ人なら、そういう価値とは関係なく、一旦建てたものは
手を加えてずっと使い続けるものですが、日本はねえ・・。

修復するより立て替えた方が安くて早い、とかいう理由なんだったら嫌だなあ。

バスは陸奥の砲塔の前を通り過ぎ、ストップしました。

よく見ると、地面に名札が置かれ、立つ位置が指定されています。
おそるべし自衛隊。
来賓がここに並ぶのに混乱をきたさないように、立つ位置まで・・。

画面右のほうに飾緒をつけた何人かがいますが、
彼らは車でやって来る偉い人たちの副官です。

まさかと思ったら、わたしの立つところにも名札が置かれ、
位置についたらいつの間にか取り除けてありました。

立つ人の邪魔にならないように。
なんどもいうけど、おそるべし自衛隊。 

隊員家族の方々はこのラインの一番左、その右に見送りの自衛官、
来賓、そして自衛隊高級幹部などの順番に並びます。 

わたしはこの場所からお見送りをすることになりました。

軍楽隊・・・じゃなくって、呉音楽隊の位置も、おそらく
昔からここと決まっているのに違いありません。

指揮者はタクトを振り下ろす瞬間を逃すまいと、
ずっとこの姿勢で後ろをうかがっていました。

あー、なんかこの構図、見覚えがあるなあ。
イメージが白黒ではないので、映画のシーンだったかも・・・。

卒業生を見送る立ち位置には、向こうまで足元にラインが引かれていて、
自衛官の立っているところは特にぴしりと美しい直線になっています。 

儀仗隊の服装に身を固めた隊員が持つ海将旗を従えて、
村川海幕長が車から降りてこられました。

カッターのデリックの向こうには練習艦のシルエットが見えます。 

そして、いよいよ行進曲「軍艦」の演奏が始まりました。
それにしてもこの日の天気の良かったこと。

ネタで取り上げましたが、「呉とわたし」の取り合わせには雨が多く、
もし今回わたしのせいでこの晴れの日に雨が降ったらどうしよう、
と内心気にしていたのですが、さすがにこの旅立ちの日には、
人々の希望とあつい思いが雨雲を遠ざけるようです。 

卒業生が出て来たのは赤煉瓦と白い術科学校校舎の間からでした。
てっきり赤煉瓦から出て来るものと思っていたのですが・・・。 

グラウンドと術科学校の間の砂の道。
ここはまっすぐ船着場へと歩いていけるように、芝がカットされています。
海軍兵学校時代から卒業生たちが行進し、海へと旅立って行った同じ道です。

ふと気づくと、グラウンドの南側を、四人の自衛官が歩いていました。
卒業行進とは全く関係なく移動しているだけなのですが、
四人の足取りは完璧に行進曲と合っていました(笑)

自衛官が何人かで歩くと行進のテンポでいつのまにか歩調が揃っている、
という噂は本当なのだろうなとこれを見て確信しました。

卒業生の列は国旗の前を通り過ぎていきます。

敬礼しつつ、まず家族の前を行く卒業生たち。 

全く列に並んでいない一般人もいるのですが、どういう人たちでしょうか。

左手にはネイビーブルーの卒業証書の筒を持ち、右手で敬礼。

在校生の前をゆく卒業生。
敬礼で見送る列の中に知り合いを見つけて思わず頬が緩みます。

今見送っている在校生は、来月には同じようにここを旅立ってゆく
防衛大卒の候補生たちのはずです。
 

一人一人の目を見ながら通り過ぎることを、卒業生は義務付けられているようです。
ところで、この写真を見てわたしはあることに気がつきました。

制服が違う在校生がいます。(左から二人目も?)
三月には防大と一般大を卒業した候補生の卒業式が行われるのですが、

「その時には留学生もいるので来賓の数は今日より多い」

と聞いたばかりでした。
なるほど、彼がその留学生の一人なのかもしれません。 

卒業生の隊列がいよいよ近づいて来ました。
わたしはこの写真を最後に撮影するのをやめ、カメラを下ろして
拍手でお見送りに専念することにしました。

そしてできるだけ皆の顔をしっかりと見て、激励の気持ちを込めました。

敬礼をしながら歩く卒業生の何人かはほんのりと眼を赤くしています。
ただでさえ「行進する海軍軍人」に滅法弱いわたし、これを見て
ついつい涙腺が決壊しそうになりました。

 

列の最後に歩いて来たのは、三人の女子候補生たちでした。
彼女たちの眼も潤んでいます。

「がんばって」

思わず口をついて出た言葉に、最後尾の候補生は
小さな声で、しかしはっきりと

「はい」

と返事をして前を往き過ぎました。

 

続く。

 

帽振れ〜海上自衛隊幹部候補生学校 部内課程卒業式

$
0
0

表桟橋。

この特別な言葉を毫も思い出さず、「埠頭」「船着場」
などと書いてしまったことを深くおわびします。

海軍兵学校時代から、ここで学んだ者は士官となるために
表桟橋を船出していくものである、つまり兵学校の門は
「裏門」であり、正門があるとすればそれは表桟橋である。

というようなことまで過去書いておきながら・・・。

 

さて、卒業生が敬礼しながら前を通り過ぎて行きました。
彼らは一番最後に、海自組織のトップである海幕長の敬礼を受けます。
そして内火艇(って今は言わないのかな)に乗り込み、そのまま
練習艦に乗り込んで江田島を後にするのです。

ところで、わたしのいた位置は比較的海幕長や海将、
その他ゲストなどに比較的近かったので、列が通り過ぎ、
岸壁まで移動した時にはすでに彼らは乗り込んだ後でした。


卒業生家族は最初に前を通り過ぎると、我が子の乗船を間近で見るために
一目散に我々が立っている後ろを通り抜けていきます。 

前にいた紳士は自分の後ろに小さい子供のいる家族がいるのに気づくと、
その家族を前に行かせ、最前列に変わってあげていました。
やっぱりこういうシーンはご家族の方にちゃんと見せてあげたいものですよね。

場所を代わってもらった家族はこの人物が元海幕長だったことに気づいたかな?

 

内火艇が動き出しました。
波のない江田内ですが、直立している候補生達がよろめかないように
内火艇の操舵は細心の注意を払って行われるに違いありません。

岸壁の家族たちは早々と手を振りだしました。

「帽振れ!」

ここで掛け声がかかりました。

彼らを乗せた内火艇が向かうのはこれから乗り込む

「あさゆき」 JS Asayuki, DD-132

です。
「あさゆき」甲板にはSHヘリが搭載されていますね。
ヘリパイロットの候補生が乗艦するのでしょう。

表桟橋は自衛隊関係者以外立ち入り禁止になります。
帝国海軍の兵学校時代以来、この表桟橋で帽振れを行うのは
海軍大将と中将たる兵学校校長と決まっているのです。

 

呉地方総監の祝辞にも名前がでた、草鹿任一中将が在任中の
(昭和16年4月〜17年10月)卒業式において、
草鹿校長が表桟橋で70期の生徒を見送る動画が残されています。
(映画「勝利の礎」)

「帽振れ」を行う草鹿校長の眼は涙で潤んでいました。

70期の生徒たちは遠洋航海実習ではなく、各配置の軍艦等に
そのまま乗り込んだと言われています。


余談ですが、この時のクラスヘッドで恩賜の短剣を受けた
「伝説の天才」平柳育郎生徒は、その後砲雷長として乗り組んだ
「文月」で被弾し、その後戦死しました。

当時ラバウルにいた草鹿中将は病院に駆けつけています。

文月砲術長平柳育郎中尉、胸部及腹部貫通銃創ニテ重症
入院後間モナク戦死シ 見舞二行キタル時ニハ
方二火葬場二送ラムトスル間際ナリシガ
拝礼ノ後副官ヲ九三九空二派シ 級友二通知セシム 
佐々木中尉直チニ病院二行キ 他ハ火葬場二集ル可ク信号セシ由ナリ 
彼レ七十期ノ首席トシテ晴レノ卒業式ノ光景 尚ホ記憶二新ナリ 
駆逐隊二於テモ 大ニ司令以下ノ信頼親愛ヲ受ケ居リシ由ナルニ惜ム可シ

 

ちなみに海幕長旗の横の人は江田島市長のようです。
きっとこの方も江田島で生まれ育ったと思うのですが、
小さい頃から憧れであったに違いないこの行事に、市長となって
参加することは感無量だったのではないでしょうか。

 
今まで見てきた「帽振れ」はいずれも船の出港の時でしたが、
明らかにそれより長い時間行われています。

海保の帽子も、陸自の帽子も海自の白い帽子に混じって振られています。
練習艦は沖に三隻おり、候補生は表桟橋の両側から内火艇に乗って
それぞれ乗艦して行きます。 

昔もこうやって練習艦「八雲」などに乗り込んで行ったんですねえ・・・。


 

よく見ると、彼らを受け入れる艦の舷に人が整列しています。
午餐会に参加していた練習艦の艦長たちは準備のために
こう言って一足先に退出していきました。

「候補生諸君、船で待ってます」

「帽戻せ」

さて、表桟橋の一番前には、お立ち台があって、ここには
海上幕僚長と幹部学校校長が並んで立つことになっています。

桟橋の街灯の下に赤と緑のランプがあるのにご注目。
ご両人、いずれも黄色いストラップの双眼鏡を首にかけての観閲です。

海幕長「おー、こりゃよく見える・・・ん?」

校長「(あ、海幕長が使い出したから私も)」

校長「おーこれはよく見えますなあ」

海幕長「(・・ピントの調整どうやってするんだっけ)」

ちなみに海幕長も校長も艦艇出身ではありませんので、
今までのお仕事柄、双眼鏡を日常で使うことはあまりなかったはず。 

ということでこの瞬間を見ていたわたしの勝手な妄想です。 

続いて祝賀飛行が行われました。
まずはヘリSHー60K。

練習機 TC-90。

徳島航空基地にある202教育航空隊から飛来しています。

そしてPー3C対潜哨戒機。
こちらは鹿屋からでしょうか。
海自所有の各祝賀部隊には、江田島を候補生として卒業したパイロットが
乗り組んでいるということでした。

「まきなみ」の艦橋を見てください。
発光信号によるメッセージが送られてきています。

表桟橋に立っている海自の人って全員この信号を解読できるものなの?
(絶対にそうではないとわたしは予想) 

信号の発信時間は大変長く、長文でした。
終わったあと、アナウンスで信号で送られたメッセージを読み上げていましたが、
これは前もって知っていたのか、それともその場で信号を解読したのか
果たしてどちらだったのでしょうか。

そして、再び帽振れが始まりました。
「まきなみ」「あさゆき」「しまゆき」が出航です。
彼女らは候補生を乗せて、これから練習航海に出ます。

詳しい寄港先は忘れましたが、確かインドネシアまで行くということでした。

わたしの前にいた男の子はお母さんに言われて手を振っていました。
お父さんの乗った船が帰ってくるのは3月だということです。

 

呉での自衛隊行事でお見かけするアフリカ系の国の軍人さん。
卒業式典で名前を呼ばれた時には、日本語で

「はい、よろしくお願いします」

と返事をしていました。

江田内からは「まきなみ」先頭で出て行くようです。

続いて「あさゆき」。
村川海幕長、熱心に双眼鏡を覗いておられます。

現在舷側に整列しているのは幹部候補生でしょう。

内火艇が出発した時の「帽振れ」の時には、伝統に倣って

「蛍の光」

が奏楽されました。
海軍兵学校では「ロングサイン」と呼んでいたスコットランド民謡です。
正確には

「ラングサイン」( Auld Lang Syne)=久しき昔

で、Wikipediaの項には

大日本帝国海軍では「告別行進曲」もしくは
「ロングサイン」という題で海軍兵学校の卒業式典曲として使われた。

とあります。
そして、二度目の帽振れ、練習艦隊の出港に演奏された曲は

「錨を上げて 」“Anchors Aweigh”

でした。
アメリカ海軍の公式行進曲にもなっていて、
これだけは海軍兵学校時代にはあり得なかった選曲です。
平和って素晴らしいですね。

他には自衛隊の公式歌、「海をゆく」も演奏されました。 

まず旗艦の「まきなみ」が我々の前で艦首の方向を湾口に変えます。
 

続いて「あさゆき」が運動一旒とでもいうんでしょうか、
「まきなみ」の航跡に続いて行きます。 

続いて「しまゆき」。
こうして見ていると江田内は狭く感じますが、三隻の艦が
このように一列に並ぶのですから、見かけより大きいことがわかります。
海軍時代からこの湾は「江田内」と呼ばれていたようですが、
正式には「江田島湾」で、島をくりぬいたような湾内では
牡蠣の養殖などが行われ、カッターの練習などには絶好で、かつて
海軍が何が何でも兵学校をここに開校したかった理由がよくわかります。 

「しまゆき」は1999年に練習艦に転籍した元護衛艦で、wikiに

 2013年6月11日夜、関門海峡(下関市六連島沖)で対向してきた
自動車運搬船(2万6,651トン)に接近して衝突の危険があったと報道された。

とあったので、何!とその時の艦長の名前を見ると、昨年女性としては初めて
戦闘艦である「やまぎり」艦長となった防大40期の大谷美穂二佐でした。
大谷二佐の経歴にはこのことは書かれていないようです。 

こういうミスを起こした艦長は普通昇進が止まるものではないか、
などと素人は思うのですが、事故の件も昇進の件も、
所詮外野にはわからない事情があったのかもしれません。

 「しまゆき」が向きを変えてもうすぐ航跡が一直線になります。

わたしとしては、彼女らが江田内を出て行くまで見送りたいところですが、
ここで来賓に対しバス乗車するようにと声がかかりました。 

続く。(ええまだ続くのよ)

 

 

 

 

 

同期の桜〜海上自衛隊幹部候補生学校 部内課程卒業式

$
0
0

最初にここ江田島に来た時には、憧れの聖地を踏んでいること
そのものに胸が潰れるくらいの感動を覚えたものです。

その後なんだかんだで数回もやってくると、当初ほどの感激は
もう感じなくなってきていたのですが、今回は特別です。

写真や映画でしか知らなかった卒業式が、ほぼ昔のままに
行われているのを目の当たりにしたわけですから。

現地でお会いした旧知の元将に、卒業式は初めてだと申し上げると

「江田島の卒業式は本当にいいものですよ。一度は見る価値があります」


ここ江田島を巣立ったそのご本人がこのようにおっしゃるということは、
海自幹部にとってそれは特別なものであり続けているということなのでしょう。

 

最近の海上自衛官の傾向として、海曹は士官になりたがらないと言われます。

給料はそう上がらないし、転勤が増え、引越しと単身赴任ばかり。
責任も同時に増えて下からの突き上げもある等々の理由だそうです。

この前日、五十六でご一緒した女性は自衛官とお付き合いしているのですが、
その点についての彼女とその彼氏の意見は

「准尉というのが自衛官として最も幸せな人生が送れる配置かもしれない」

ということでした。
んー、わたしにはイマイチわからないのですが、その心は、
幹部のメリットと(士官である)海曹のメリット(転勤がない)
をどちらも持っている、ってことなのかしら。


まあ、ということで、いわゆるB幹部になろうとする海曹は
滅多にいない、などという風評を耳にすることになるわけですが、
実際にそのB幹部、部内選抜の幹部候補生卒業式をこうして見る限り
言われているほどこれが忌避されているようには思えないんですよね。
実際に一定数部内選抜の卒業生がこれだけいるわけですし。 

 

国を守る仕事がしたくて自衛隊に入ったとはいえ、
彼ら一人一人にとってはそれも職業選択の結果です。
彼らがそれぞれ仕事に何を求めるかは千差万別であるのは当然。

海曹から幹部になることを「損」と考える人もいれば、自分の仕事に
損得以外の何か(これは人によって違う)を求める人だっているわけです。

某知恵袋で、海上自衛官の夫がB幹を目指すと言い出したので応援したいが
周りからはデメリットしか聞かない、という妻の相談を見ました。

それに対して、元自衛官であるという回答者の一人が

「そんなことは自衛官であるご主人は当然知っているはず。
幹部を目指す理由はお金の問題だけではないだろう」

と答えていました。

それをやりがいとか挑戦などという陳腐な言葉に当てはめたくはありませんが、
少なくともこの日卒業式に臨む幹部候補生の顔を見た限りでは、彼らが
楽と肩書き(≒お金)を秤にかけた結果ここにいるようには思えませんでした。

海上自衛隊もまた軍隊で階級社会ですから、防大・一般大卒のA幹部と
B幹部の間には厳然たる格差があるのが現実です。


しかし、海上自衛隊は、彼らが士官になるためにここを巣立って行くにあたり、
その門出としての卒業の儀式で彼らを遇する事において
A幹部との間に全く差異を設けていないことにわたしは改めて気づきました。

このことは、海曹の幹部候補生の卒業式というものに失礼ながら
一抹の物足りなさを(兵学校時代の再現という意味で)感じながら
今回江田島にやってきたわたしの考えを変えたと言っていいでしょう。


部内選抜を受けた海曹長たちは、1年間の(ですか?)
厳しい幹部候補生学校での日々を過ごし、晴れて卒業するその日、
ここ江田島で、かつての兵学校と同じで、かつA幹部と寸分変わらぬ、
大講堂での証書授与や表桟橋からの船出という伝統のもとに旅立ちます。

そのことが彼らの士気をどれほど軒昂たらしめることでしょうか。


もし、この卒業式がなければ、一般的に「割りが合わない」と言われる
部内選抜幹部を志す海曹の人数も今より少なかったかもしれない、
とすら全てを見届けたわたしは今思っています。 

さて、前回練習艦隊の写真が大変好評だったので、
「しまゆき」が単縦陣の最後尾にピタリと並ぶ寸前のシーン
(つまりわたしが表桟橋で撮った最後の写真)を上げておきます。

コメントにもありましたが、本当に美しい光景だと思います。

「まきなみ」「あさゆき」「しまゆき」

わたしも旧海軍に思い入れる立場から、(というか戦後の”配慮的変更”に
感情的に反発する気持ちから)艦名は漢字でないと!という派でしたが、
こういうのを見ると、ひらかなの艦名っていいものだと無条件で思いますね。

まあ、帝国海軍も艦体に「くか うやし」とか「アキヅキ」とか書いていたしな。

練習艦隊がまっすぐ一列になるかならないかの頃、わたしどもは
担当の自衛官に車に戻るように促されました。

本当のところ、もう少し表桟橋に居たかったのですが、

「混雑するのでその他(家族)の方々はその場にいてください」

というアナウンスを聞いてしまうと、デレデレしていて
彼らを待たせるわけにはいかないという気になり、
急いでマイクロバスまで戻りました。

海将クラスの車だと思いますが、副官が隣に乗り込んでいます。
もし間違いがなければ、これは海軍時代からの慣習のはず。
*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・* 

かつて陸軍の副官は絶対にボスと並んで座ることはしなかったそうですが、
今の陸空はきっと海軍式リベラルでやってるんだろうな。

早々にバスに乗り込んだわたしたちですが、同乗のグループが
なかなか帰ってきやしねえ。

カッターのデリックのあたりも家族の方々は自由に歩き回れるようです。

海曹のグループが整列していました。
ここでも帽振れしていたんですね。

内火艇に乗って出航する候補生たちにすれば、
岸壁一帯からたくさんの帽子が振られるのを見ることになります。 

 

前の車が行ってしまったので、次はこのバスが動きます。
なんども言いますが、ここから赤煉瓦まで歩いても大した距離ではありません。

しかしバスに向かって自衛官が敬礼してくれるという超特典付き。 
これだけとっても来賓扱いは堪えられません。

というわけで、赤煉瓦の正面玄関到着〜。

わたしの同行者は、この後小用の港まで送ってくれと交渉しています。

「わたしは全然構わないのですが、上に聞いてみないと」

と運転手の海曹さん。
わたしは当初の予定通り駐車場まで乗せてもらってタクシーでもよかったのですが。

この人が上にお伺いしてくれている間、少し時間があったので
わたしはここぞと玄関周りの写真を撮り始めました。

お天気が良く、絶好の赤煉瓦日和です。

中央玄関のホール。

 

ホール中央から右手、大講堂がわの廊下を望む。
ため息が出るほど美しい佇まいです。

かつてここを錨のバッジを詰襟につけた海軍兵学校の生徒が
往き交う様子がありありと想起されます。

わたしが熱心に写真を撮っていると、比較的年配の海曹が
建物によほど興味のある来客だと思ったのか(その通りなんですけど)
話しかけて来て説明をしてくれました。

なん年前かに行われた大改装の時に、内部の壁や扉などは全て新しく
取り替えられましたが、もちろん全てではないのだと。
例えば、この部分、正面ホールから木の床部分に上がっていく「たたき」
というべき部分の上のしきりなのですが、

「ガラスをみてください。明治時代にはめられたものが残っています」

いくつかのガラスは透かして見る向こうの物体が歪んで見えます。 

「じゃ、海軍兵学校の生徒は全員このガラスを通して外を見ていたんですね!」

説明してくれた人はなんだか妙なことを言う人だみたいな顔をしましたが、
わたしにとってはそのことがどれほどの感慨を呼び起こすか・・・。 

左から2枚目以外はオリジナルのガラスだったと思います。
変える必要のない部分はできるだけそのままにしてあります。

改装もできるならば全く内装に手を加えずに行いたいところでしたが、
耐震構造を施す必要があったので、多くの部分を取り替えざるを得ませんでした。 

 

しかし、床は昔のままです。
昔の軍艦の甲板の床がそのまま使われていると何かで読んだことがあります。
この床もかつての海軍軍人たちが(以下略)

 

正面玄関に立って左を見たところ。
ライトアップのための照明がありますね。

窓にも注目。
窓の木の桟は取り替えられたものです。

窓の下部分をアップしてみます。
花崗岩の窓枠の下部に、切り込みの筋があるのがお分かりでしょうか。
雨が降ったとき、雨水が窓枠からレンガに雨染みをつけないように、
ここを伝うようにする工夫なんですよ。 

床下の空気抜きも多分昔のまま。
動物が入り込まないように?網戸のようなネットが張ってあります。

 

さて、わたしが前回江田島に来たのは、兵学校同期会に同行したときでした。
一般には見せない宮様の宿舎や建築物をみて、ホールで呉音楽隊の演奏を聴き、
いよいよ出発直前、バスは教育参考館と赤煉瓦の間に停まり、
トイレを利用する方はどうぞ、という計らいがありました。

その時、わたしに

「トイレからずっと奥に行ったら『同期の桜』がありますよ」

と教えてくれた人がいて、わたしはカメラだけ持って飛び出し、
トイレに向かって全力疾走して切羽詰まった人と勘違いされた
(に違いない)ということを、ここでもお話ししたかと思います。 

結局その時「同期の桜」かどうかわからないままに撮った木は
あとで調べたら違っていたという残念な結末だったのですが、
今回は、もう余裕で(勿論走らずに)中庭を見にいくことができました。

ここまでやって来た(いろんな意味で)ことに感無量です。 

もっともわたしも最初からこの写真を撮ろうと思っていたわけではなく、
卒業式が始まるのを待っている時に、ふと思い出して、
去年卒業した幹部の母(知人)に

「今江田島なう」

と「頭痛が痛い」みたいな舞い上がったCメールを送ったところ、

「同期の桜見ました?」

と返事が来たので思い出しただけなんですけどね。

中央ホールから左手の廊下に出て真ん前にあったのがこの桜木。
写真で見たように周りを石で囲んであったのでこれだろうと思い、
母に確かめたらそうだというお返事。

さらに念のため説明してくれた海曹さんにも聞いて見たところ

「そうだと言われていますね」

とのことで、これがあの「同期の桜」決定です。 

これが咲いているところを是非見たいものだが、
果たしてA幹部の卒業式の日には咲くのだろうか。 
(独り言です)

海曹に小用の港までバスで送っていただき、わたしたちは
呉行きのフェリーに乗り込むことができました。

帰りのフェリーにはある元将の方(前の方々とは別将)が
現在お勤めの会社の社員を多数引率してこられたらしく、
フェリーのデッキから見送りの自衛官に全員で手を振っておられましたが、
後ろで見ていたら元将の方だけは「見えない帽振れ」でした。

親指とその他の指を合わせ、ゆっくり円を描くように・・。

 

さて、というわけで、江田島で体験した特別な時間、
幹部候補生学校の卒業式の見学記を終了します。

来訪に当たってお世話になりました関係者の皆様方には
この場をお借りしてお礼を申し上げる次第です。

どうもありがとうございました。 

 

 

 


気の毒なオーウェンズ艦長〜駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディJr.」

$
0
0

 

バトルシップコーブの「ジョーイP」ことギアリング型駆逐艦、
「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」続きです。
アメリカズカップをケネディ夫妻がこの甲板から見たということを
教えてくれたアメリカ人男性に

「いい写真たくさん撮ってね」

と言われて別れ、艦内に入っていくことにしました。

ドローンを収納する格納庫より艦首側の舷側はご覧の通り。
第二次世界大戦のために大量生産が続くはずだったのですが、
戦争が終わったため建造が中止された「ギアリング」型駆逐艦。
同じように終戦前大量生産されて中止になった帝国海軍の「松型」よりは
よくできていて、戦後も長生きした、と前にもお話ししました。

 

JFKの兄ジョセフが29歳で亡くなったのが1944年の8月12日、
彼の名前をとった「ジョーイP」が起工したのは翌45年4月2日、
そしてわずか3ヶ月後の7月26日に進水式。

ここまでは猛スピードで建造が進んでいたのですが、
「ジョーイP」が艤装中に戦争は終わってしまいました。
戦争遂行のために大量建造していた駆逐艦なので、以降新たな建造は
ストップされましたが、とりあえず終戦までに進水を終えていた艦だけは
最後まで完成させる、ということになったようです。

まあ、戦死者(大物ではなく戦死状況によっては一兵卒のことも)
の名前が命名基準のフネですから、戦争が終わったらもう必要もなくなり、
生産はストップされるのは当然ですが、作りかけの船を中止するわけにはいきませんし。

というわけで「ジョーイP」が就役したのは同じ年の12月15日。
戦争が終わったので急ぐ必要もなくなったということで、
艤装には5ヶ月「も」かけたことになります。 

 

艦橋はガラスで遮られていて中に入ることができませんでした。
今まで見てきたアメリカの軍艦で最も護衛艦に似ているかもしれません。

正面にはモニターがあって、かつてここで操舵を行なっていた
人がその時の思い出を語っています。
音声は、この部屋のドアの前に立っていると聞くことができました。

検索していたら中に入ることもたまにはできるらしく、
動画で中の映像をyoutubeにアップされたものがありました。

Bridge of the USS Joseph P. Kennedy Jr DD850

モニターの元乗員が話している音声も少し聞こえ、
今回撮れなかった部屋の反対側も見ることができます。 

「マサチューセッツ」の時に知ったことによると、これは
タクティカルステイタスを状況ごとに書き込んでいくボード。 

「スカンク」「ボギーズ」などという謎の言葉が見えます。

 

 


CICは基本外が見えない部屋にあったりしますが、ここもそうです。
理由はモニターが見やすいからです。
しかも照明が赤でした。

なぜ潜水艦はもちろん軍艦護衛艦の照明が赤なのかは、
人間の視力は赤い照明の中にいたら暗闇でも視力が失われない、
という理由によるもののようです。

「パワフル・エレクトリック・スイート」強力な電子機器によって収集されたデータは
ここ、コンバットインフォメーションセンターに集まってきます。

乗員はここでラジオ、レーダー、ナビゲーションなどをモニタリングし、
敵艦や敵機の位置、搭載武器の種類、そしてその威力を特定します。

ジョーイPの搭載していた対空レーダーは、また敵のガイダンスシステムを
混乱させることもできました。

 

さあ、それではラッタルを降りていくことにします。

チャートルームです。
製図のためのテーブル、ストップウォッチ、椅子の背にかけられたのは
ペティオフィサー、一等兵曹(Petty Officer First Class(PO1)  
の制服の上着。
ちょっと仕事中に席を外したという演出ですね。

 

ファイルケースの前とロッカーに

ADVANCE CLOCK ONE HOUR(時計を1時間進めよ)

と書かれたボードが一枚ずつあります。
アメリカではサマータイムになると時間が1時間進みます。
その際、あまねく広報が行き渡るので、勘違いする人は
よほどのうっかりさんか世捨て人みたいな世間と関わらないで
生きている人ぐらいででしょうが、こと軍艦ではサマータイムの
時間の修正はワッチの時間などに関わってくるので重要な問題。

というわけで、サマータイム用にわざわざこんなプレートが
皆の集まるところにかけられたのでしょう。

ちなみにわたしたち家族は、ちょうどフランス旅行中にサマータイムになり、
全くそれを認識しないままホテルのチェックアウト時間を過ぎて
フロントの人から電話がかかってきたということがあります。

こういう時に教えてくれないのがフランス人・・・・。 



ヘルメットには「ナビゲーション」を表す『NAV』のステンシル。
ケースの六分儀がわざわざ出しておいてあります。

後ろの表には

「WATCH, QUARTER AND STATION BILL」

とあります。
ワッチは自衛隊でもそう言っているところの「見張り」ですね。 

DIVISION COMMANDER'S STATEROOM

ディビジョン・コマンダーで調べると「師団長」となるのですが、
それだと陸軍になってしまうので、海軍だと隊司令でしょうか。

こちらに吊ってある軍服の袖は大佐(キャプテン)です。

もちろん艦長が使うこともあったようです。
アメリカの駆逐艦は一般的に隊ごとに4隻で構成され、
そのうちの1隻は旗艦として設計されていて、
司令官が座乗することになっていました。

この際、司令官は隊を指揮し、艦長は船を指揮します。

なんと、ラジオの上にタバコと灰皿があります。
今はアメリカは完璧なスモークフリー社会なので、
室内でタバコを吸うことは何人たりとも許されていません。

自衛艦でも基本禁煙ですが、甲板の後ろに灰皿があるのを
見たことがありますし、結構いろんなところにスペースがあるようです。

自衛官(特に船乗り)には喫煙者が案外多いようですね。 

 

通常この部屋は艦長室として使われていましたが、旗艦として
司令官が乗ってくると艦長はここを追い出されてしまい、
いちいち別の部屋に移動することになっていました。


で、そうなるとその下も全てがベッドを移動せねばならず、
結局は全員が階級に従ってランクを一つづつ下げることになりました。

ジョーイPは頻繁に隊司令が座乗したので、大移動を避けるため、
艦長の部屋はワードルーム、上級士官室の正面にありました。

司令官用の予備の部屋を置いておくという考えはなかったのね(笑)

急いで写真を撮ったので文字が読めません。(涙)
なんとか左のキャプションだけ苦心して(目を細めて)読んだところ、
艦隊司令だった大佐が任務を終えて艦を降りるところだそうです。

大佐の敬礼の仕方がいかにも!というか絵に描いたごとき海軍風。

この時、ジョーイPの艦長は内心また引越しか・・と憂鬱になっている。
に10シャムロック。 

その「艦長が頻繁に移動することになったキャプテンズ・シーキャビン」。
艦橋の極近いところに位置していました。

一人用のベッドもデスクも持ち上げて収納できるタイプ。
椅子は簡易ながら肘掛付きで革張りです。

帝国海軍でも、士官の椅子はたとえ戦地のキャンバス製であろうと、
差異化をはかるために肘掛がついているものでした。

それではまた移動。
リノリウムの床はケネディ家を意味するシャムロックのグリーンです。

 

 

このギアリング型駆逐艦は完成度が高く、第二次世界大戦で

「究極のステージに達した究極のデザイン」 

という評価を得たタイプです。
「アレン・M・サムナー」級の航続性能を改良により強化し、
「フレッチャー」級の最終発展型でもあったこの駆逐艦は、
戦後も余剰の(笑)分を世界各国の海軍で再就役し、そのどれもが 
1970年代を通して元気に稼働していたことからも、
優秀な艦であったことがなんとなくわかります。

ところで冒頭、このギアリング型の建造について、

「戦争が終わって大量に建造する必要がなくなったとはいえ、
”戦死した海軍軍人の名前”という命名基準であることを考えると、
一旦建造する計画になったものを無下に中止するのはなんだから、
とりあえず進水まで済ませたものは最後まで造ったのではないか」

という意図で書いてみましたが、調べてみたところ、なんと艤装中に
建造中止になってしまったのが厳密には3隻あったことがわかりました。

まずその1隻はホーエル (USS Hoel DD-768) 。
サンフランシスコのベスレヘム・スチールで1944年4月に起工しました。
これはジョーイPと同じ時期であったことに留意してください。

その頃にはアメリカは硫黄島を奪取し勝利を確信していたので、
駆逐艦の整備計画も大幅に縮小されることとなり、「ホーエル」は
建造を中断して進水前の状態のまま終戦を迎えました。
結局終戦から1年を経た1946年9月、ようやく正式に建造中止になったのですが、
造船会社の建造のペースの関係で放置されていたのではないかと言われています。

もう一隻の「アブナー・リード」 (USS Abner Read, DD-769) も
1945年5月起工したまま作業中止となり、同じベスレヘム社の船台に
置きっぱにされていたのですが、同時に中止が決まり、2隻とも
レイドダウンした船台の上で解体されて、その短い生涯を終えました。 

・・・いや、進水する前だから生まれてもないか。

 

同じ時期に起工したものであってもジョーイPやいくつかの同型艦は
ちゃんと完成してもらっているのですが、なぜ彼女らが
こんな目にあったかというと、それは艦名に理由があります。(たぶんね) 

「ホーエル」の艦名は南北戦争中のビックスバーグの包囲戦で戦功を挙げた
ウィリアム・R・ホーエル中佐にちなんでおり、その名を持つ艦としては、
レイテ沖海戦で戦没したホーエル (DD-533)に続いて2隻目でした。

さらに「アブナー・リード」も艦名は南北戦争で活躍し戦死した
アブナー・リード中佐にちなみ、やはりこれも2隻目となります。

おわかりいただけただろうか。

つまり、この戦争の戦死者の名前をつけることに決まっていた艦と違い、
南北戦争の英雄でしかも2隻目ならどこからも文句が出ないからですね。

 

たった一つ、戦死した本人もきっと不満に思っているに違いない
建造中止となったギアリング型の駆逐艦で、

「USS シーモア・D・オーウェンズ(DD-767)」

というのがあります。
オーウェンズという人は駆逐艦「ノーマン・スコット」 DD-690の艦長で、
テニアンで日本軍と交戦中、艦橋で被弾して戦死しています。

その名に因んだ駆逐艦の起工は1944年の4月には既に始まっていたのですが、
どういうわけか終戦時にもまだ完成していなかったので、
そのままその艦体は他の駆逐艦の補修などに流用され、1958年になって
ようやくその名前が海軍籍から抹消されるという扱いを受けています。

てかこれ、いくらオーウェンズ大佐がそんな’大物’でなかったとしても、
一旦名前をつけておいて・・・英霊に対してあまりに失礼じゃないか?

 

 

続く。

「カーキーズ」下士官たちの不満〜駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」

$
0
0

駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディ」見学、続きです。

19世紀後半自走魚雷が発明された途端、それを搭載するための
小型艇を当時の世界の海軍が作り出しました。
小型ならではの高速性で戦艦や巡洋艦を沈めることも可能、
という新兵器だったのですが、それに対するカウンターの兵器として、
魚雷艇よりは大きく、しかし高速性はそのままに、魚雷だけでなく
重武装した戦闘艦が生まれます。

それが駆逐艦=デストロイヤーで、第一次世界大戦において
この名称はすでに定着していました。

第二次世界大戦では、駆逐艦は空、陸、海上からの攻撃に
太刀打ちできる「万能艦」としてその役割を担うようになります。
艦隊においては砲撃の支援をするだけでなく物資や人員を運搬し、
海面から撃墜された飛行機のパイロットを救出し、そして
早期警戒、哨戒を行うといったように。

戦艦や空母には圧倒的な存在感とその戦闘力がありますが、
その実どちらも特に敵の潜水艦に対しては全く無力です。

かつて駆逐艦の護衛無くして敵の海域に飛行機や戦艦が進入したことはありません。

進水してからのジョーイPの三年間を簡単にご紹介しておきましょう。

1945年7月、マサチューセッツ州クィンシーで進水
 
この時シャンペンの瓶を割ったのは、ジョセフ・ケネディの妹
(8番目の娘)ジーン・ケネディ。
彼女はのちに駐アイルランド大使として名誉国民にまでなりました。

1946年2月 捕鯨ボートと接触?乗員が海に投げ出され行方不明

   4月 ロバート・ケネディが任務で乗り込む

1947年2月 地中海に航海、帰国後第8艦隊の旗艦になる


さて、前回の内部に続き、
甲板階で見られるものをご紹介していきましょう。

主砲を見ながらその横に回ってみると、後ろはこんな風になっていました。

 

Interior of MT51 on USS Joseph P. Kennedy Jr DD850

外からガラス越しに見えているのは、このyoutubeによると
MT51なんだそうですが、これで調べてもほぼ何も出てきません。

おそらく5インチ38といわれた砲のことで間違いないと思います。
上のyoutubeでは、同じギアリング型駆逐艦の「マッキーン」 USS784
に乗っていたベテランがかつてのようにローディングをやって見せています。 

youtubeではこの反対側にローディングするスライドがあって、
そこに弾薬を投げ入れておりますね。
昔のようにスライドが動かないので、じいちゃんちょっと焦ってて可愛い(笑)

スライドという弾薬をロードするところがわかりやすいです。

さて再び室内展示です。
大きな赤十字は医務室の印・・・・と思ったら違った。

DISBURSING OFFICE

つまり「出納事務所」です。
もしかしたらいざという時にはバトルドレッシングになるのかもしれません。

みなさんここにきて毎月2回のペイデイにはお給料をもらったんですね。

タイプライター、印刷機、キャビネットの上には穴あけ機。
こちらは「サプライ・デパートメント」、つまり補給部事務所。 

ウェブスターの特大辞書(もちろん英英辞典)もあります。
実際にここでずっと使われてきたのでしょう。 

こちらもオフィス。
それにしてもスチールのロッカーとか、全く固定してませんが、
時化の時に倒れたりしなかったのか心配です。

出納事務所と隣り合ったこの部屋は、補給部の事務所。
アメリカ海軍「サプライ・コーア」所属の士官が詰める事務所です。

サプライコーアは、日本海軍の主計と同義で、

供給管理、遠征物流、在庫管理、支出、財務管理、
契約、情報システム、業務分析、材料と運用、
物流、燃料管理、フードサービス、物流 

などを所掌する部隊です。
先ほどの出納事務所もここの管轄です。

その隣は火災の時に必要な装備装具だけを集めた倉庫。

 

 

 

食堂の脇にはここにも居住区につながるラッタルが。


階段の下には行けませんが、兵員のバンクが見えました。
ブルーの作業着が見えるように広げて置いてあります。 

奥はシャワーブースがあるようです。
この階にあるということは士官用だと思うのですが、なんだかなあ・・・。

CPOとはチーフ・ペティ・オフィサーのこと。
士官、准士官、そして下士官兵という米海軍の階級で、
下士官の上等兵曹以上には CPOが付きます。

上からマスターチーフオブザネイビー(海軍最先任)、マスターチーフ(最先任)
シニアチーフ(上級上等)そしてチーフ・ペティオフィサーの上等海曹。

わたしは未だに下士官のこの階級についてよく理解していないのですが、
この部屋は「チーフ」のつくペティオフィサーの部屋ってことでよろしいでしょうか。

つまりマスターとかシニアとかチーフが全部とりあえずここにいるってことでおK?


 

ところで自衛艦の先任海曹室も、何やら特別な看板によって
その存在を目立たせているものが多いような気がしますが、
この傾向は案外アメリカ海軍発祥なのかもしれません。 

扉には他の部屋にはない意匠を凝らした絵が書かれています。

 

ちなみに、先ほど下の階のベッドに置いてあった制服はブルーでしたが、
CPOの制服はカーキ色だったため、彼らのことを

「カーキス」(KHAKIS)

と呼んでいました。
2009年に軍服が改正になって、ブルーの海上迷彩が制定されてからは
徐々に置き換えられているものの、下士官と CPOは
未だにカーキのものを着用する傾向があります。
しかし、新しくなった一等兵曹以下( E-6以下)のサービスユニフォームに
カーキシャツと黒のズボンというものがあり、このことがどうやら
CPOなど E-7以上の下士官の不満となっているという話です。

なまじかつて「カーキス」と呼ばれていたため、その色が
下の者に使われるのが感情的に面白くないって話でしょうか。

ちなみに沿岸警備隊ではコミッションド・オフィサー(士官)から
ペティ・オフィサー(三等兵曹)まで同じ制服を着ています。 

階級による差異化が誇りだけでなく特権意識を伴った場合、
えてしてその変化においてこのような不満が起こってくるものですが、
米海軍もややこしいことをせず全員青迷彩に決めてしまえばよかったのに・・。 

 

ドアに書かれた「ORDNANCE SHOP」の文字。
いよいよ武器庫か?と色めき立ったのですが、実はここが武器庫でした(爆)
かつてはこのスペースに小銃などの武器が収納されていたのだけれど、
展示艦になると同時に取り払われて、今は単なる空室状態です。


ただ、下に続く階段があって、機関室に行けることがわかりました。
実はなんだかんだ言って駆逐艦の機関室を見るのは初めてです。
それでは張り切っていくぜ!

 

続く。

 

 

”フラム缶”ジョーイP〜駆逐艦 ジョセフ・P・ケネディJr.

$
0
0

FRAMという言葉をご存知でしょうか。

普通に検索すると富士通のメモリ、「フラム」だとイギリスのサッカーチームとか
子供服のお店なんかがでてくるのでそう一般的に知られているわけでもないですが、
FRAM NAVYで検索すると、

 Fleet Rehabilitation and Modernization(艦隊リハビリ&近代化)

という英語の項目が出てきます。

ところで、皆さんは冷戦というものが米ソ両国にとって
「史上最も高くついた戦争」だったと聞いたことがあるでしょうか。

アメリカ側はシップトゥーシップの思想のもと空母を大量建造し
経済が傾くほどでしたし、ソ連はそれに対抗して原子力潜水艦の建造を
エスカレートさせていきました。

この見えない脅威に備えて、米海軍は「あるものを有効活用」して
少しでも安く備えようと、フラム計画が実行されることになったのです。

そして、この計画を推進したのは!
そう、我らが(って言っちゃう)アーレイ・バーク提督その人でした。

1957年、ソ連が300隻の高速最新型原潜を導入したのに対抗するには
とにかく新しい船を作るのが最優先ではあるけれど、
その空白は、第二次世界大戦中に作られた艦のリハビリと近代化でなんとかする

という「THE AGING FLEET」(加齢艦隊)計画という勧告書を
上院下院の予算委員会に提出したのもバーク提督です。 

そして、このフラム計画の筆頭に上がって改築を施されたのが、
この「ジョセフ・P・ケネディJr.」を含む「ギアリング」級の駆逐艦、
そして「アレン・サムナー」級駆逐艦でした。

初回のエントリにギアリング級駆逐艦の多くは海外に譲渡され長生きした、
と書きましたが、この理由は彼女らがフラム改装が施され若返ったからで、
元々は戦争投入のための大量生産品である彼女らの出来が良かったからでは
なかったということが、この事実によって判明しました

アメリカ海軍の俗語で駆逐艦のことを「The Tin Can」(錫の缶)と呼ぶそうですが、
フラム改修を施された駆逐艦は「THE FRAM CAN」と呼ばれたそうです。

それではフラム改修によって、ジョーイPはどのように変わったのでしょうか。

まず、以前もお話しした「DASH」、無人ヘリ型ドローンの装備です。
そのために後部甲板もかつての形状から大幅に変えられました。
この写真は現地にあったもので、ドローンのパイロットが

「もっと昔から”フラム”してくれてればなあ〜。
ロボットヘリコプター発進だ!」

などと言っております。
左上のロゴは、「缶」とかけて、

第二次大戦時代の”缶”からもっとジュースを搾り取れ!

つまりフラム改修によっていい結果を出すことを
こんな風に言っているわけです。
(翻訳すると全く面白くないのが困りもんですが)

 

ギアリング級は、他のフラム缶より大幅な改装を施され、それは
ほとんど昔の構造を取り払うくらい徹底的なものでした。

一言で言うと「抗堪性」がアップしたということになります。
抗堪性とは英語で言うと「サバイバビリティ」(こっちの方がわかりますね)

基地や施設が敵の攻撃を受けた場合に、被害を局限して生残り、
その機能を維持する性能をいう
●航空基地やレーダサイトなどの防空能力を高めるために対空機関砲、
携帯 SAM (地対空ミサイル) 、短 SAMの配備を進める
●指揮管制など主要施設を地下に埋設して保護する
●飛行場に対する攻撃に備え、戦闘機のシェルターや滑走路を復旧する資材を整備

というのが一般的な抗堪性の解釈ですが、これでいうとジョーイPは
エンジンも取り替え、CICは一層広く充実した最新式のタイプになり、
対潜のためにレーダーやソナーも最新鋭の機種が装備されました。

さて、それでは今日はそのレーダー・ソナー関係の写真を見ていきます。


レディオルーム。
ここには通信機械と暗号機械なども装備されています。

同じ形のアンプにはテプラで「MATE1」「 MATE2」と印付けされています。
郵便物などが乱雑に積まれているあたりがリアル。 

 

ロッカーのようなもの、金庫のようなもの、
全て説明がなく何かわからない上、ことごとく写真を失敗して
細部がわかりませんorz

 

艦内の電気系統のインジケーター。

アンテナのチューナーです。

改装に当たって、ジョーイPはキールに独特な形のドームがつけられました。
そこには敵潜を見つけるための「もっとも効果的な」ソナー類が収納されていました。

7の番号が打たれた部分がそのドーム。
今ではそれらの機器は全てバウソナーに変わっています。

「ソナーがあれば潜水艦は我々の手の中に入ってしまうよ!」

と文字通り潜水艦を手に乗せて?乗員が言っております。
アメリカでも「お釈迦様の手のひら」 みたいな言い方あったんですね。

 

1958年、ジョーイPがニューヨークでフラム改修された際に導入された
ソナー AN/SQSー23はロングレンジで、
捜索と攻撃用精密追尾の両機能を有するマルチモード・ソナーです。
 

同時にフラム改修を施された「アレン・サムナー」級も同じソナーを搭載しました。
我が海上自衛隊でも「あまつかぜ」「やまぐも」「たかつき」などが
一時搭載していたようですが、のちに66式探信儀OQS-3

に切り替えられ、アメリカでも5年後には、より大型でより低周波を使用できる
AN/SQS-26が開発され、新造艦への搭載はこちらに切り替えられています。

 ALOFT 、というのは海事用語でマストの頂上のことです。
この電源はマスト上に人がいる時には切っておくように、と
わざわざ大きなプレートで警告しています。

艦内各所のスピーカーのアンプのようです。

C-4621/SRというのは軍用機、軍艦などに搭載するラジオセットコントロールです。
無線機の動作モードを決定する単一のコンポーネントで、
現在でも型番を変えて使われているらしく、これを検索していたら
「注文ページ」にたどり着きました。

これ、普通の人でも注文できるんだろうか・・。



「NBCR」というのがジョーイPの固有信号。

奥に通信室がありますが、ドアが開いています。
他のジョーイPの写真で知ったのですが、もしこれが閉じていたら、
そこには雷のマークが描かれているのが見えたはずです。

1984年当時の艦内写真

 

ここでまた、ジョーイPの年表を上げておきましょう。

1951年 佐世保に入港し、朝鮮戦争に参戦
    写真は元山で砲撃するジョーイP

1961年 1月 ケネディが大統領就任したのでお祝い 
    4月  FRAM改修を施される

1962年 9月 アメリカズカップ観戦のためケネディ夫妻乗艦
    10月 キューバ危機でカリブ海に出動

1964年 10月 ドミニカ共和国に海兵隊とともに上陸する
        オペレーションスチールパイクに参加 
       1945年の沖縄上陸作戦以来の大々的な上陸作戦だった 

 

ちなみに1964年、ドミニカの内戦に、アメリカは直接関係ないのにもかかわらず、

「合衆国市民を保護し、ドミニカを共産主義から保護するために」

介入を決めたのはリンドン・ジョンソンで、スチールパイク作戦を指揮したのは
「ミスター・シーパワー」と呼ばれたジョン・マケインJr.でした。

 

続く。 


メス・デッキとソフトクリームマシン〜駆逐艦ジョセフ・P・ケネディJr.

$
0
0

駆逐艦ジョーイP、ことジョセフ・P・ケネディJr.続きです。

甲板階から上部構造物に入っていくと、すぐにポストオフィスがあります。
ドアがそのまま窓口となっていて、係はドアを開けずに対応できる仕組み。
ドアの下から手紙も投函していたのでしょう。

業務時間は月金の午前と午後3時間ずつ。
お金の取り扱いは水曜日とペイデイだけとなっています。

オフィス内部。
タイプライターと郵便物を入れる袋などが所狭しと置いてあって、
おそらくは一人か、せいぜい二人しか入れなさそうです。 

ヘアカットが50セントでできるのはわかった(笑)
安かろう悪かろうってやつですか。

 

英語で「キャピタルシップ」というところの主力艦、例えば
「マサチューセッツ」などでは、何千人も乗員がいるので、
全く顔も見たことがないという人がいて普通です。

しかし、駆逐艦の乗組員は潜水艦ほどではないものの、
その規模からいって「ファミリー」でもありました。
「クロッシング・ライン」、赤道祭りのような海軍の儀式は、
その交遊をを築く上で重要な役割を果たします。

この儀式では、赤道を最初に通過した士官や下士官兵は
女装したり変なものに扮し、ばかげた騒動に参加するよう強制されます。

これらの無害な通過儀礼を経た時、彼らは "Shellback"(赤道を越えた人)
に昇進し、「シニアシェルバック」である "キングネプチューン"(誰だよ)
から証明書を受け取ったりするのだそうです。

 

さて、そんな一体感は、小さな駆逐艦にひしめき合う
200名の乗員が「同じ釜の飯」を食べることによって
より強いものになっていくのです。

・・・と繋がったところで、今回はメス(食堂)のあるメス・デッキ。 

メスmessというのは普通に「散らかっている」「乱雑である」
という言葉ですが、どういうわけか軍隊の食堂という意味でもあります。

messがどう見てもネガティブなワードであるにもかかわらず、
「メス・ジャケット」 は普通に略礼服のことでもありますし、
どうもこの語源がよくわかりません。

しかし悩んでいても埒があかないので進みます。 

まずはメインギャレー(キッチン)にやってきました。
ジョーイPことジョセフ・P・ケネディ・Jr.のメインギャラリーは
ベトナム戦争の時代から現在まで稼働しています。

今でもリユニオンや集まりがあるとキッチンが活躍するからで、
鍋も什器も、大型の生ゴミ入れも現役のかほりが・・・。

ここにあるのは野菜用意機械(どういうものかまでは分からず)、
ミートスライサー、大型のミキサー、三台のスチームケトル、
そしてオーブンとグリドルなどの設備です。 

肉叩き、チェリージャム、そして一度に4枚焼けるトースター。
手前の本は「ベーカーズ・ハンドブック」。
コーヒーカップは先日ご紹介した映画「勝利への潜行」で見た
同じ錨のマークと金線の入ったものです。

ジョーイPの乗員は275人から345人(戦時)と、
マサチューセッツの1800名から比べると微々たる数ですが、それでも
このそう広くない艦内で一度に食事をとることは不可能だったでしょう。 

ここはまず手前で食器を取り、黄色い線に従って1列に並んで
ホットプレートから食べ物を取っていくコーナー。

食べ物をとるための列はラッタルのところからスチームライン
(どこにあるのか知りませんが)まで伸びた、と説明にあります。

下士官兵用の例の食器兼用シルバートレイが立てて並べてあります。
コーヒーカップ、 カトラリーも乗せてしまえる便利もの。
戦後の自衛隊はアメリカ海軍のこのシステムを輸入したんですね。

塩胡椒、紙ナプキンに砂糖・・・。
ちゃんとロックしてあるのは笑いどころ? 

 

手前にトレイを乗せて食べ物を乗せていくシステム。
キッチンなので消火ホースもちゃんと近くに備えてあります。

 トレイを持ってきてここでいただきます。
テーブルに長椅子が最初から作り付けになっています。
休憩時間にもここで過ごすらしく、テーブルにはバックギャモンなど
ゲーム盤がプリントされています。

下には兵の居住区があるはずですが、立ち入り禁止でした。

 

そして食べ終わったらここで食器を洗います。

キッチンは1日3回の食事を2〜300人のために作るわけですから、
朝ごはんが終わった途端片付けて昼ごはんの用意、昼が終わった途端・・、
と、一日寸時も止まることなく稼働し続けていました。

説明はありませんでしたが、給水器だと思われます。

水は機関室にあったこのエバポレーターから作られます。
一日に4,000ガロン(1,500リットル)のフレッシュな水が作られます。

潜水艦でも「新鮮な空気はまずエンジンの稼働のために必要であり、
人間が呼吸に必要なのは二の次」と言われているように、
海上における水のファーストプライオリティは、なんとボイラーでした。

その次に、人間の生活用水、料理に使う水です。

このエバポレーターはメインではなく、前部エンジン室にあるものは
一日に12,000ガロン、4,500リットルの水を作っていました。

ここでエバポレーターと蒸気発生プラントについて。
艦の飲み水は海水を蒸留して真水にすることで得られます。

という、小学生の理科の教科書のような絵が描かれていてわろた。


 

乗員のブルースくんは、この装置をワッチする係です。
艦船のワッチはどれも重要な役目ですが、特に水を作り出す機会に異常があれば
先ほども言ったように人間よりもボイラーが動かなくなってしまうので、
責任重大です。 

メスにはこんな本棚もありました。
こちらはほぼ空っぽですが・・・・、

こちらには当時から乗員が読んでいたのではないかと思われる蔵書が。

エンサイクロペディアに通信関係の教科書のようなもの、
エドウィン・レイトン中将という人が書いた「そして私はそこにいた」。

そこってどこ?
と思って調べて見たら、パールハーバーとミッドウェーのようです。
そりゃまあそこにいたなら戦後本を書きたくもなろう。 

あとは「第二次世界大戦で失われた軍艦」「海戦」
1969年の潮の満ち欠けなんて本もあります。

 

赤くペイントされているので消火栓だと思われます。

どんな時でも熱いコーヒーが飲みたいアメリカ人のために、
壁に作り付けられた「コーヒー・メス」。

コンセントがついて保温が可能です。
棚の右側には砂糖とカップが置いてあります。
アメリカ人はミルクは入れない派?

赤い縁の大きなボードは「エマージェンシー・ステータス・ボード」。
メスの間取り図が描かれていて、どうも避難用だと思いますが、
こんなものを見て「えーと」とか探しているより、とっとと
甲板に出るのがいいと思います。

メスに飾ってあったのは USS メルヴィンDD-680の模型。
ギアリング級の前級であるフレッチャー級駆逐艦ですが、
なぜここにこれがあるのかはわかりません。

「メルヴィン」はサイパン、テニアン、ウルシー、スリガオ海峡で
日本軍と戦った駆逐艦。
スリガオでは戦艦「扶桑」を沈めています。

戦後すぐに引退して1970年代にスクラップにされているので、
もしかしたら乗員の誰かが関係者だったとかかもしれません。

またしてもキッチン付近で発見した謎のシート。
各所の名称、ナンバリングされた数字、ロケーション。
いずれにせよ、軍艦では「あそこ」とか「どこ」という呼び方で
場所を指定しないちうことなんだと思います。

ところで、これ何かしら。

「SANI SERVE」で検索してみると、どうやらこれ、
大型のソフトクリームマシンであるらしいことが判明しました!

アメリカの軍艦の「神棚」はここにも健在です。
サニサーブという会社は1931年から「フローズン・カスタード・マシン」
を作っていた会社だそうですから、当然戦時中も同社による
アイスクリームマシンは軍艦に提供されていたのでしょうけれど、
 第二次世界大戦中の駆逐艦は、全部が全部アイスクリームマシンを
搭載していたわけではなかったようです。

そこで、例えば海に落ちたパイロットを助けたら、
そのパイロットの体重のアイスクリームが戦艦や空母から
ご褒美にもらえた、というようなことも起こりました。
 

これ、例えば70キロのパイロットだったなら、戦時で350人乗っている駆逐艦に
一人当たり200グラムのアイスクリームが与えられたってことです。
アメリカ人はアイスクリームを子供でも200グラムくらいペロリと食べますから
これくらいは悪くないディールです。

まあしかし、戦後の駆逐艦であるジョーイPには、ごく普通に
アイスクリームマシンが装備されてるってことですね。

自衛艦ではアイスクリーム購入するので、「アイじゃん」
などというシステムが生まれるわけですが、アメリカではもしかしたら
水や空気のようにアイスクリームはタダが当たり前・・だったりして。

 Messdecks on the USS Joseph P. Kennedy Jr DD850
 


続く。 

 

 

 

 

 

 

 


佐世保入り〜護衛艦「あきづき」体験航海

$
0
0

「あきづき」DD-115 は2012年3月14日に就役した
現在のところ最新型の汎用護衛艦です。

2年後には「あきづき」4番艦である「ふゆづき」が就役し、
その引き渡し式に(ちなみに大雨)出席させていただいたわたしは
当ブログにその記事を上げるに当たってすでに就役中の「あきづき」を
随分諸元ディティールを含めてずいぶ参考にしたため、
全く乗ったことがないにもかかわらず結構詳しかったりするわけですが、
今回初めて実際に乗艦してまいりました。

と言いますのも、佐世保から長崎の三菱造船所に入渠する前に
主に隊員の家族のために一般体験航海を行うことになり、それを
当ブログコメント欄でおなじみ鉄火お嬢さんのお誘いにより、
光栄にも同行させていただく運びとなったのです。 

時節柄か、一般募集せず、身内と乗員の招待客だけでアットホームに?
行うという趣旨の体験航海であったようですが、鉄火お嬢さんは
2週間前に艦長直々のご招待を受けたということでした。

 

その後、護衛艦の乗艦名簿の作成のため、わたしたちは
官姓名ならぬ本名と生年月日の提出を余儀なくされました。
鉄火お嬢さんが苦衷の思いで両名の生年月日をメールしたところ、
艦長からのお返事は、 

 「防衛秘密以上に保全を要する事項を知り得てしまい緊張しております。
徹底した保全対策をとり、私の脳細胞から消去しますのでご安心ください(笑)」

緊張してると言いながら、なぜ(笑)をつける、艦長・・・・・・。

さて、バレンタインデー前後の日程だったため、鉄火お嬢さんに
艦長とみなさんにプレゼントするチョコレートの調達をお願いし、
(こういう時、このような贈答習慣はなんだかんだ言ってありがたい)
前日に佐世保入りすることにしました。

佐世保に飛行機で行くには長崎か福岡のどちらかから、となるわけですが、
どちらからもそこそこ遠いので、今回は今まで使ったことのない
長崎空港から入ることにしました。 

 

羽田からの使用機は新型の電子カーテン搭載でした。
ボタンを押すと中間層のエレクトロミックジェルが電気化学作用を起こし、
電圧を加えるとジェルが暗転、電荷を取り除くと元の透明な状態に戻る仕組み。

反応が遅いので、慣れるまでは一挙に3段階くらい押してしまい、
暗くなりすぎたり明るくなりすぎたりします。

この写真は1段階シェードをかけているので青みがかって見えます。 

予約しておいた乗合タクシーで長崎空港から約50分、佐世保駅前に到着。

バスを降りたら道のすぐ向かいに自衛艦がいてびっくりしました。

艦番号4303というのに全く心当たりがなく調べてみたら、
多用途支援艦「あまくさ」だったことが判明しました。

この多用途支援艦って何か?と言いますと、
標的の曳航含む訓練の支援、自走不可能になった艦の航行の支援(つまり曳航)、
消火、救難、物資輸送など多用途の支援を行う役目の艦です。

大きな1本煙突がありますが、例えば「ましゅう」クラスの大きな艦艇も
曳航できるだけの馬力を持っていることと関係ありそうですね。
(ってことは、『大和』も引っ張れる?)

「あまくさ」は「天草四郎」ではなく、「天草灘」から取られています。
「ひうち」型は、「燧灘」「周防灘」「玄界灘」と「灘」が命名基準です。

どうして「あまくさ」が道路脇にいたのかはわかりませんが、
遠目に舷門には女性自衛官が立って見張りをしていました。

佐世保って、こんなに自衛艦が近くで見られるんですね。

さて、佐世保といえば佐世保バーガー。

他のバーガーと何が違うのかはわからないままに、
すっかり有名になってしまったご当地グルメです。

佐世保駅前に到着したので、ホテルにチェックインする前に
ログキットという前回佐世保バーガー初体験をしたお店で
お昼がわりに食べてみることにしました。

この看板から顔を出せるのは多分3歳以下の子供だけだな。

驚いたことに、この普通より大きなバーガーがハーフサイズ。
レギュラーはこんなんアメリカ人でも食べんわ!というくらいの巨大サイズです。 

巨大バーガーのエキスパート食べ方モデルは米海軍のかた?

基本はとにかく「押さえつける」ことみたいですが、
わたしはそれをたった今知りました。

5、お皿に残ったソースや具は指ですくって味わう これが本場アメリカ流!

これも今初めて知ったような気がするな。
おまけに海軍軍人お皿舐めさせられてるけど、
いくらアメリカ人でもこんなことしないっちゅーの。 

まあ、押さえつけなくても普通に美味しかったです。 

ちなみに息子は前回ここで食べたバーガーがよっぽど気に入ったらしく、
わたしが佐世保に行くというと買って来て!と言い出しました。
当初わたしは三菱造船所の場所を全く把握しておらず、佐世保から出航して
佐世保に帰って来ると思い込んでいたので、鉄火お嬢さんに

「艦から降りたら佐世保バーガー買って帰れるかな」

などと言って

「大丈夫ですか?佐世保出たらもう帰って来ませんよ?」

と呆れられたわけですが、なんと帰りの長崎空港のレストランで
こんなわたしのために佐世保バーガーをテイクアウトできることが判明。

その日の夕食後に息子は空輸したバーガーをペロリと食べて曰く

「美味しかった。前に食べたのほどじゃないけど」

それからホテルにチェックイン。
前回の佐世保訪問の際、小高い丘の上にホテルらしきものを見つけ、
このブログで書いたところ、「弓張の丘ホテル」だと教えていただき、
今度来た時には是非、と思っていたのですが実現しました。

佐世保駅前からはタクシーで1800円。
地図で見る距離は大したことはありませんが、山道を上がっていったところです。 

「佐世保では一番いいホテル」

だとタクシーの運転手さん。
ここで結婚式を挙げるのが佐世保の恋人たちの憧れだったり?

鐘といえば長崎。
その鐘がなんとプールの前にあります。
ガーデンプールウェディングが売りなのね。

飾りではなく、実際に夏場には泳げるようで、シーズンオフで
閉めていましたがプールバーらしき窓もありました。 

ティールーム兼バーからの眺めもこの通り。
こんな絶景のホテルはどこにもそうそうないでしょう。

平日のオフシーズンなのでホテルズドットコムでも安く取れたのですが、
そのせいで客の割合が半分以上中韓からの観光客となっていました。

このティールームでは、iPadの映像を音声付きで
ガンガン流して見ている韓国人男性が二人いて、
しかも声がうるさいため、わたしは早々に部屋に引き上げました。

冒頭写真は部屋から「模型風モード」で撮った佐世保の街ですが、
このモードでホテル近辺の山を撮るとこの通り。

 

普通に撮るとこんな感じです。
宿泊客が少ないせいか、「夜景コース」を選んだら、
一番端の部屋にしてもらえました。

地上を首を振りながら歩いていた鳥さん。

わたしが「夜景コース」を選択したのは、こちらにすれば
こんな景色が見えると確信したからです。

まずこちら。
艦番号48・・・・?
はて、しかも面妖な形の・・・。
あ、ということはこれはアメリカ海軍のフネか。 

どうやらこれ、ミサイル巡洋艦

ヨークタウン(USS Yorktown, DDG-48/CG-48)

みたいです。
タイコンデロガ級、というと昔は空母だったわけですが、今は
ミサイル巡洋艦のクラスになっているんですね。 

「ヨークタウン」と聞くと、わたしなどつい我が瑞鶴航空隊が・・
などと胸を熱くしてしまうんですが、今はそれが巡洋艦なのか・・・。 

ミサイル巡洋艦、というとなんかとにかく強いぜ!みたいな
(一般的素人の感想です)響きですが、自衛艦でいうと「あたご」型が
これに相当するそうです。

「あたご」よりは随分ドンガラがでかい気がしますが、これでも
8mしか(8mも?)違わないようですね。 

ちなみに「ヨークタウン」を拡大して見ると、錨が金色でした。
金色の錨は生まれて初めて見たような気がします。 

空母にしては甲板が狭い気もするぞ?
正解は、

強襲揚陸艦「ボノム・リシャール」(USS Bonhomme Richard, LHD-6)

いやいやいや、これ強襲揚陸艦なの?
「いずも」よりどう見てもでかいんですけど。

昨年の夏、ロングアイランドで元強襲揚陸艦を改造したフェリーに乗りましたが、
フェリーになるくらいで結構単純な作りでした。
今アメリカさんはこんなもので揚陸しちゃうわけか。

ここからはハッチが少し見えていますが、ここからエアクッション艇など、
舟艇がダーっと降りてきて、人員を揚陸してしまいます。
しかも甲板には昔と違って航空機がてんこ盛りできるというね。

ちなみにてんこ盛れるのは次の通り。

セット1

AH-1W スーパーコブラ攻撃ヘリコプター、UH-1N ツインヒューイ汎用ヘリコプター、
CH-46 シーナイト・CH-53E スーパースタリオンなど大型輸送ヘリコプターを最大42機

セット2

ヘリコプター最大30機およびAV-8B ハリアーIIV/STOL攻撃機6-8機


アメリカがここに「ボノム(いい人)リシャール」を配したのは、
はっきりと尖閣対策で中国に対する威嚇だと言われていますね。
佐世保にやってきたのは2016年の夏ということですが、これは
安倍政権になってオバマ政権との間で日米同盟が強化されてから
もっとも直接的な同盟の「証」だったかもしれません。 

 

ところで、アラメダでなんども見学した「ホーネット」の
見学ツァーのガイドをしていたイケメンおじいさんは元パイロットで、

「ボノムリシャールに乗っていた時日本に行ったよ」

って言ってましたっけ。
先代の空母だった「ボノム・リシャール」のことなのですが、
その後継は尖閣を守るため(って言っちゃう)今佐世保にいるわけ。

このイケメンおじいさんと話をしたのが2016年の8月。
そう、偶然「ボノム・リシャール」が佐世保に来た時だったということになります。



この2隻は疑いようもなく我が自衛隊の艦艇。
なぜわかるかは自分でもわからないけど、わかってしまう。
門前の小僧習わぬ経を読むとはよく言ったものです。

手前は

補給艦「はまな」 JS Hamana、AOE-424

向こうは

護衛艦「はるさめ」 JS Harusame, DD-102 

というわけで、一つの岸壁を仲良く日米で使用していることを初めて知り、
改めて高いところにホテルを取った甲斐があったと思いました。

赤レンガ倉庫が夕日に照らされています。
これらは全て佐世保に鎮守府があった頃建てられたもの。 

全て米軍基地の敷地内にあるそうで、彼らは建物の物持ちがいいため、
この煉瓦倉庫もちゃんと補修して現役で使い続けているそうです。

まあわたしは日本の手に渡った途端、建築基準法や耐震強度、何より
維持管理費の問題から手に負えなくなって解体してしまうことが目に見えているので、
このままアメリカ軍に持っていてもらいたいと思っていますが。 

それにしても米軍基地の一般解放があったらいつかは行ってみたいなあ。

望遠レンズであちこち覗いていて、遠くに護衛艦を見つけました。
お?これはもしかして・・・

倉島岸壁に繋留されている「あきづき」さんではないか!

艦長からのメールに「岸壁を間違えないように」とあり、
佐世保をよく知らないわたしとしては結構緊張していたのですが、
部屋から簡単に位置確認ができてしまったぜ。

「あきづき」さん、明日はよろしくね。


続く。



 

 

Viewing all 2815 articles
Browse latest View live